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{"_buckets": {"deposit": "efdf99ac-48b6-4ef8-89e3-d0a0512edcff"}, "_deposit": {"created_by": 17, "id": "2000268", "owners": [17], "pid": {"revision_id": 0, "type": "depid", "value": "2000268"}, "status": "published"}, "_oai": {"id": "oai:kokushikan.repo.nii.ac.jp:02000268", "sets": ["1712198684662"]}, "author_link": ["23215"], "control_number": "2000268", "item_1697174179131": {"attribute_name": "注記", "attribute_value_mlt": [{"subitem_description": "本研究は、公益財団法人三菱財団人文科学助成(二〇二二年度・「西山本(承空本)紙背文書の基礎的研究―中世における西山往生院・承空を取り巻く人的ネットワークの解明―」)による研究成果の一部である。西山本(承空本を含む)紙背文書の整理とデータ化を実施した。この文書は、京都冷泉家の時雨亭蔵書であるため、整理、データ化にあたっては、朝日新聞出版『時雨亭叢書』に収められている『冷泉家歌書紙背文書上・下』(朝日出版社)を使用した。", "subitem_description_type": "Other"}]}, "item_1697176174603": {"attribute_name": "NCID", "attribute_value_mlt": [{"subitem_source_identifier": "AN10466645", "subitem_source_identifier_type": "NCID"}]}, "item_1697176701944": {"attribute_name": "内部メモ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_textarea_value": "仁藤智子 にとうさとこ\n77\n京都西山・往生院の承空と藤原資経\n ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n仁藤 智子\nキーワード:西山本・紙背文書・承空・西山往生院・藤原資経・宇都宮頼綱\nはじめに\n西山本とは、鎌倉時代に、京都西山の往生院で筆写さ\nれた歌書(和歌集や歌物語、歌合など)の総称である。\n西山は京都府京都市西京区にある大枝山から、小塩山、\n釈迦岳を背景とする山間地を指し、特に、平安時代後期\n以降、西方浄土を意識した僧侶によって寺院が建立され\nた。現在の善峯寺と三鈷寺の周辺は、早くから西山と称\nされた三つの尾根に沿って、寺院が建てられた。尾根\nは、南尾、中尾、北尾の三尾と呼ばれたが、善峯寺本堂\n【写真1】 京都西山・三鈷寺(筆者撮影)\n78\n(観音堂)のあるあたりが南尾の法華院、同薬師堂のある中尾に蓮華寿院、三鈷寺のある北尾には往生院があった\nとされる\n( ( (\n。現在、善峯寺は天台宗単立、三鈷寺は西山宗総本山となっている(【写真1】)。\nこの地は、十一世紀に、浄土教の源信の高弟の一人であった源算上人が、善峯寺(当初は良峯寺)を開山したこ\nとに始まる。源算上人が隠棲所として尾根続きの北尾に往生院と称する庵を結んだ。ここには、鎌倉初期に数度も\n天台宗座主を務めた慈鎮和尚(慈円・父は摂政関白を務めた九条忠通、同母兄弟に九条兼実)が入山しており、天\n台宗に属する寺院となっていたことがわかる。天台宗では、法然房源空の「専修念仏」を軸とする教学に反発を覚\nえるものが少なくなかったが、慈円はその弾圧には距離をおいていたようである\n( ( (\n。\nその後、法然房源空の弟子である善恵(善慧)房証空が入山し、西山派の拠点とした\n( ( (\n。その経済的基盤を支えた\nのが、法然房源空と善恵(善慧)房証空に師事した東国御家人の宇都宮頼綱であった\n( ( (\n。三鈷寺の伝えによれば、\n一祖 源算上人\n二祖 観性法橋\n三祖 慈鎮和尚(慈円)\n四祖 善恵(善慧)房証空(西山上人・西山国師)\nが、寺門を率いた\n( ( (\nという。証空の示寂後に、浄土宗はいくつかの宗派に分立する。\n ①法興房浄音(西谷派)\n ②立信房円空(深草派)\n ③観鏡房証入(東山派)\n ④道鏡房証慧(嵯峨派)\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n79\n ⑤それ以外、遊観房栖空(西山残留、のち西山派)\nどの宗派に属しない遊観房栖空は、西山に残って教学を求めた。のちにこの一派は、改めて西山派と呼ばれるよ\nうになった。その栖空が示寂した跡を継いだと考えられるのが、「往生院五代長老」承空である。\n冒頭で触れた、西山本(承空本を含む)歌書の筆写活動の中心となったのは、承空である。彼は、関東御家人宇\n都宮頼綱を祖父にもつ人物で、父親は宇都宮泰綱である。祖父頼綱は、鎌倉をめぐる政変に巻き込まれたことにも\nよるが、拠点の下野国宇都宮やその周辺だけでなく、京都の公家との婚姻関係\n( ( (\nや文化社会活動、宗教活動などに\nよって、京都にも拠点を持つようになった\n( ( (\n。頼綱は、元久二(一二〇五)年の牧氏事件後、出家して実信房蓮生と\n名乗った。実弟の塩谷朝業も三代将軍源実朝に出仕したが、建保七(一二一九)年に実朝が暗殺されると、出家し\nて信生と名乗り、在京する兄の蓮生と行動を主にすることが多かった。晩年に、鎌倉はじめ東国へ旅した折の歌物\n語として『信生法師日記』が残されている\n( ( (\n。\n彼らの師は、法然の弟子の一人である証空であった。嘉禄三(一二二七)年のいわゆる「嘉禄の法難\n( ( (\n」の際に\nは、蓮生・信生兄弟も、法然の遺骸を守るため、奔走したことでも知られる。後年、蓮生は師である証空につい\nて、西山往生院に入寺し、信仰生活を送った。その後も、往生院と善峯寺は宇都宮氏の援助を受けた\n(\n(1\n(\n。承空が、京\n都西山で宗教生活を送るようになったのも、祖父以来の縁が影響していたと考えられる。彼の出自や西山往生院で\nの生活の一端、あるいは西山本の伝来過程については、既に発表しているので、参照していただければ幸いであ\nる\n( (\n1 (\n。\n西山本とは、承空本に限らず、西山往生院に鎌倉期に伝来した歌書五十一種を指し、その中で、承空が直接筆写\n活動にかかわった四十一種四十三冊を承空本と呼ぶ(【図1】)。\n80\n本稿では、西山本(承空本を含む)の歌書ではなく、その紙背\n文書を考察の対象としたい。紙背文書とは、もともと何らかの用\n途で使用された紙(一次利用)の紙背を再利用(二次利用)した\n時に生ずる、一次利用の文書を指す。西山本、特に承空本の特徴\nとして、紙背を二次利用して、歌書が筆写されていることが挙げ\nられる。承空を、凄まじいまでに歌書の筆写にかきたてたものは\n何であったのだろうか。そして、それを支えた人的なネットワー\nクとはどのようなものであったのだろうか。承空が居住した西\n山・往生院とはどのような場所であったのか。本稿では、紙背文\n書から、鎌倉後期―永仁年間(一二九三~一二九九)―の西\n山往生院の生活の一端と歌書をめぐる交流を明らかにする。特に、承空と歌書のやり取りがあったと考えられる藤\n原資経との関係を、両者の間で交わされた書状を手掛かりに再検討していきたい。なお、本稿において対象となる\n文書は、冷泉家時雨亭叢書『冷泉家歌書紙背文書 下』(朝日新聞社、二〇〇七年)を用いた。西山本紙背文書だ\nけでなく、時雨亭蔵書の調査、翻刻にあたられた藤本孝一氏と田中倫子氏の成果に導かれながら行論していきたい\nが、本稿で引用した文書の文責は筆者にある。\n一 紙背文書からみた西山往生院\n西山本\n承空本\n【図1】 西山本と承空本の関係について\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n81\n1\n 西山本(承空本)紙背文書の特色\n西山本(承空本を含む)は、使用した文書を裏返して、二つの方法で冊子としている\n(\n(1\n(\n。\n①文書を横長に半切し、それぞれをさらに折って、端を綴じこんで冊子本とする。\n②四つに折り、その一箇所に切り込みを入れて袋状の冊子として綴じ込む。\n承空本に限定してみると、先述した二つの製本の仕方があるようであるが、①の場合は、開いた二紙で一つの文\n書に、②の場合は、開くと概ね歌書四頁で一枚の紙背文書をなすことになる。その紙背文書も、元の大きさ、長さ\nを切断して揃えてあるので、紙背文書原形からは、いくつかに分断されていることになる。そのため、紙背文書の\n原形を完全に復原するためには、紙背文書同士の接合を考慮しなければならないということになる。そこには地道\nで根気強い作業を必要とするが、今までの分析からいくつかのヒントは得られている\n(\n(1\n(\n。\n承空はこのように普段から反故紙を切断して、手元に置いていたと考えられる。そして、寸時を惜しんで、借用\nした歌書を筆写したようであるから、同時期に筆写された歌書付近に、切断された紙背文書同士が存在することは\n想定できるのである\n(\n(1\n(\n。そのように考えると、歌書が「いつ、どこで」筆写されたのかが、重要な意味を持つように\nなる。西山往生院で書き写された歌書の紙背文書は、概ねそこに来た書状やそこで使用された文書であると考えて\n良いと思われる。\nまた、「室町宿所」などと京中で行なわれた筆写は、西山から持参した紙類と京中で交わされた文書類の二種が\nあったことを想定しておかないとならない。この点は、留意しておくべきであろう。西山往生院は西山の奥深くに\n位置し、そこまでの行程は険しい山路となるから、西山から京中への下山には紙類を携帯することはままあるとし\nても、京中から西山に帰山する際には、筆写し終えた歌書が最も大切であり、使用しなかった紙類を持ち帰るメ\n82\nリットはなかったものと考えられる。このような「紙類の移動」も考慮して検討していく必要があるのではないだ\nろうか。\nさらに、他の歌書のように、他人に見せることを前提とするなら、筆写の親本の記載方法のまま、漢字ひらがな\n混じりで筆写すべきである。藤原資経本と呼ばれる一連の歌書群はまさにこの例として挙げることができる。とこ\nろが承空本の場合、僧侶社会で多用されていたカタカナを主とする筆記手法をとっている。つまり、承空は漢字ひ\nらがな混じりの親本を、脳内でカタカナに変換して、漢字カタカナ混じりの表記を用いていたことになる。カタカ\nナを使い慣れていたとはいえ、このような表記は承空本の最大の特色となっている\n(\n(1\n(\n。\nまた、承空本は筆写された時期が、鎌倉後期の永仁から正応年間(一二八八~一二九九)とほぼ限定されてい\nる。一方で、テキストとしては、それほど優れたものではなかったという研究成果\n(\n(1\n(\nと結び付けるならば、短時間に\nあわただしく書写した状況が浮かび上がってくる。すなわち、一般的に歌書の筆写という行為の多くが、他人を意\n識したものであるのに対して、他者を意識せず、自分のためにできるだけ多くの歌書を短時間に筆写しようとした\n承空の姿勢が、承空本の二つ目の特色として指摘できるのである。\n承空本の四十一種のうち、文書を再利用する形で筆写が行われたもの(紙背文書を有するもの)は、三十七種\n三十九帖にわたり、紙背文書は二百十六通を数える。このたび、承空本の紙背文書についてデータを作成した。そ\nの一部を【表1】として提示する。\n西山本全体で年月日が判明するうち一番古い紙背文書は、文書番号\n309\n「利□勘文」で文永六(一二六九)年十二\n月 日付のもので、『貫之集 上』(素寂本)のものである。次のものは、文書番号\n302\n「賢算・貞算連署勘文案」\nで、文永八(一二七一)年十二月 日付のもので、同じく『貫之集 上』(素寂本)のものである。これらは、歌\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n83\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n1 赤人集表紙オ1 栖空書状案(1)\n1 赤人集表紙ウ1 栖空書状案(1)\n1 赤人集1 オ1 栖空書状案(1)\n1 赤人集1 ウ1 栖空書状案(1)\n1 赤人集4 オ1 栖空書状案(2)\n1 赤人集4 ウ1 栖空書状案(2)\n1 赤人集5 オ1 栖空書状案(2)\n1 赤人集5 ウ1 栖空書状案(2)\n1 赤人集3 オ2 栖空書状案\n1 赤人集3 ウ2 栖空書状案\n1 赤人集2 オ2 栖空書状案\n1 赤人集2 ウ2 栖空書状案\n1 赤人集10 オ3 栖空書状案(1)\n1 赤人集10 ウ3 栖空書状案(1)\n1 赤人集9 オ3 栖空書状案(1)\n1 赤人集9 ウ3 栖空書状案(1)\n1 赤人集6 オ3 栖空書状案(2)\n1 赤人集6 ウ3 栖空書状案(2)\n1 赤人集14 オ4 栖空書状案(1)\n1 赤人集14 ウ4 栖空書状案(1)\n1 赤人集13 オ4 栖空書状案(1)\n1 赤人集13 ウ4 栖空書状案(1)\n1 赤人集11 オ4 栖空書状案(2)\n1 赤人集11 ウ4 栖空書状案(2)\n1 赤人集12 オ4 栖空書状案(2)\n1 赤人集12 ウ4 栖空書状案(2)\n2 家持卿集2 オ5 観書状(1)\n2 家持卿集2 ウ5 観書状(1)\n2 家持卿集3 オ5 観書状(1)\n2 家持卿集3 ウ5 観書状(1)\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n2 家持卿集表紙オ5 観書状(2)\n2 家持卿集表紙ウ5 観書状(2)\n2 家持卿集1 オ5 観書状(2)\n2 家持卿集1 ウ5 観書状(2)\n2 家持卿集5 オ6 五七日仏事布施注文(折紙)\n2 家持卿集5 ウ6 五七日仏事布施注文(折紙)\n2 家持卿集7 オ7 五七日仏事記(折紙)\n2 家持卿集7 ウ7 五七日仏事記(折紙)\n2 家持卿集6 オ7 五七日仏事記(折紙)\n2 家持卿集6 ウ7 五七日仏事記(折紙)\n2 家持卿集8 オ8 蓮覚書状\n2 家持卿集8 ウ8 蓮覚書状\n2 家持卿集9 オ8 蓮覚書状\n2 家持卿集9 ウ8 蓮覚書状\n2 家持卿集10 オ9 定昭書状\n2 家持卿集10 ウ9 定昭書状\n2 家持卿集11 オ9 定昭書状\n2 家持卿集11 ウ9 定昭書状\n2 家持卿集12 オ10 蓮覚書状\n2 家持卿集12 ウ10 蓮覚書状\n2 家持卿集13 オ10 蓮覚書状\n2 家持卿集13 ウ10 蓮覚書状\n2 家持卿集14 オ11 某書状\n2 家持卿集14 ウ11 某書状\n2 家持卿集15 オ11 某書状\n2 家持卿集15 ウ11 某書状\n2 家持卿集16 オ12 某書状\n2 家持卿集16 ウ12 某書状\n2 家持卿集17 オ12 某書状\n2 家持卿集17 ウ12 某書状\n2 家持卿集18 オ13 道蓮書状\n【表1】 承空本・紙背文書対応表\n84\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n5 業平朝臣集表紙オ21 道蓮書状\n5 業平朝臣集表紙ウ21 道蓮書状\n5 業平朝臣集1 オ22 某消息(堅折紙)\n5 業平朝臣集1 ウ22 某消息(堅折紙)\n5 業平朝臣集3 オ23 蓮覚書状\n5 業平朝臣集3 ウ23 蓮覚書状\n5 業平朝臣集4 オ23 蓮覚書状\n5 業平朝臣集4 ウ23 蓮覚書状\n5 業平朝臣集5 オ24 弁雅書状\n5 業平朝臣集5 ウ24 弁雅書状\n5 業平朝臣集6 オ24 弁雅書状\n5 業平朝臣集6 ウ24 弁雅書状\n5 業平朝臣集裏表紙オ25 某書状\n5 業平朝臣集裏表紙ウ25 某書状\n8 忠岑集表紙オ26 某消息(堅折紙)\n8 忠岑集表紙ウ26 某消息(堅折紙)\n8 忠岑集裏表紙オ26 某消息(堅折紙)\n8 忠岑集裏表紙ウ26 某消息(堅折紙)\n8 忠岑集9 オ27 盛房書状\n8 忠岑集9 ウ27 盛房書状\n8 忠岑集12 オ28 頼□書状(1)\n8 忠岑集12 ウ28 頼□書状(1)\n8 忠岑集13 オ28 頼□書状(1)\n8 忠岑集13 ウ28 頼□書状(1)\n8 忠岑集10 オ28 頼□書状(2)\n8 忠岑集10 ウ28 頼□書状(2)\n8 忠岑集11 オ28 頼□書状(2)\n8 忠岑集11 ウ28 頼□書状(2)\n8 忠岑集表14 ウ29 某書状封紙\n9 是則集表紙オ30 賦何木連歌懐紙\n9 是則集表紙ウ30 賦何木連歌懐紙\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n2 家持卿集18 ウ13 道蓮書状\n2 家持卿集裏表紙オ13 道蓮書状\n2 家持卿集裏表紙ウ13 道蓮書状\n3 小野篁集表紙オ14 盛徳書状\n3 小野篁集表紙ウ14 盛徳書状\n3 小野篁集1 オ14 盛徳書状\n3 小野篁集1 ウ14 盛徳書状\n3 小野篁集2 オ15 承空書状并蓮恵勘返状\n3 小野篁集2 ウ15 承空書状并蓮恵勘返状\n3 小野篁集3 オ15 承空書状并蓮恵勘返状\n3 小野篁集3 ウ15 承空書状并蓮恵勘返状\n3 小野篁集4 オ16 忠円書状\n3 小野篁集4 ウ16 忠円書状\n3 小野篁集5 オ16 忠円書状\n3 小野篁集5 ウ16 忠円書状\n3 小野篁集6 オ17 某書状後欠(同一文書)\n3 小野篁集6 ウ17 某書状後欠(同一文書)\n3 小野篁集7 オ17 某書状後欠(同一文書)\n3 小野篁集7 ウ17 某書状後欠(同一文書)\n3 小野篁集8 オ18 某書状前欠(同一文書)\n3 小野篁集8 ウ18 某書状前欠(同一文書)\n3 小野篁集9 オ18 某書状前欠(同一文書)\n3 小野篁集9 ウ18 某書状前欠(同一文書)\n3 小野篁集10 オ19 某書状後欠\n3 小野篁集10 ウ19 某書状後欠\n3 小野篁集11 オ19 某書状後欠\n3 小野篁集11 ウ19 某書状後欠\n3 小野篁集12 オ20 承空書状并照空勘返状\n3 小野篁集12 ウ20 承空書状并照空勘返状\n3 小野篁集裏表紙ウ20 承空書状并照空勘返状\n3 小野篁集裏表紙オ20 承空書状并照空勘返状\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n85\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n9 是則集1 オ31 某書状\n9 是則集1 ウ31 某書状\n9 是則集2 オ32 某書状(堅折紙)\n9 是則集2 ウ32 某書状(堅折紙)\n9 是則集3 オ33 賦何船連歌懐紙\n9 是則集3 ウ33 賦何船連歌懐紙\n9 是則集4 オ33 賦何船連歌懐紙\n9 是則集4 ウ33 賦何船連歌懐紙\n9 是則集裏表紙オ34 弁雅書状\n9 是則集裏表紙ウ34 弁雅書状\n10 伊勢集前見返し35 蓮証書状\n10 伊勢集表1 ウ35 蓮証書状\n10 伊勢集前表紙35 蓮証書状\n10 伊勢集表2 オ35 蓮証書状\n10 伊勢集表3 ウ36 某書状封紙\n10 伊勢集表4 オ36 某書状封紙\n10 伊勢集表5 ウ37 某消息\n10 伊勢集7 オ38 某書状\n10 伊勢集7 ウ38 某書状\n10 伊勢集表10 ウ39 祐甚書状\n10 伊勢集表11 オ39 祐甚書状\n10 伊勢集12 ウ40 祐甚書状\n10 伊勢集12 オ40 祐甚書状\n10 伊勢集表13 ウ41 某書状封紙\n10 伊勢集表14 オ41 某書状封紙\n10 伊勢集15 オ42 承空書状幷頼□勘返状\n10 伊勢集15 ウ42 承空書状幷頼□勘返状\n10 伊勢集表17 ウ43 祐□書状\n10 伊勢集16 ウ43 祐□書状\n10 伊勢集表18 オ43 祐□書状\n10 伊勢集16 オ43 祐□書状\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n10 伊勢集表19 ウ44 承空書状封紙\n10 伊勢集表20 オ44 承空書状封紙\n10 伊勢集表25 オ45 尊空書状\n10 伊勢集26 ウ45 尊空書状\n10 伊勢集表28 ウ45 尊空書状\n10 伊勢集27 オ45 尊空書状\n10 伊勢集表28 ウ46 某書状包紙\n10 伊勢集表29 オ46 某書状包紙\n10 伊勢集表33 オ47 某書状包紙\n10 伊勢集42 オ48 承空書状幷藤原資経勘返状(1)\n10 伊勢集42 ウ48 承空書状幷藤原資経勘返状(1)\n10 伊勢集43 オ48 承空書状幷藤原資経勘返状(1)\n10 伊勢集43 ウ48 承空書状幷藤原資経勘返状(1)\n10 伊勢集37 オ48 承空書状幷藤原資経勘返状(2)\n10 伊勢集37 ウ48 承空書状幷藤原資経勘返状(2)\n10 伊勢集38 オ49 某書状礼紙\n10 伊勢集38 ウ49 某書状礼紙\n10 伊勢集39 オ49 某書状礼紙\n10 伊勢集39 ウ49 某書状礼紙\n10 伊勢集40 オ50 某消息\n10 伊勢集40 ウ50 某消息\n10 伊勢集41 オ50 某消息\n10 伊勢集41 ウ50 某消息\n10 伊勢集裏表紙オ51 某書状\n10 伊勢集裏表紙ウ51 某書状\n11 貫之集 上表紙オ52 観秀書状\n11 貫之集 上表紙ウ52 観秀書状\n11 貫之集 上1 オ52 観秀書状\n11 貫之集 上1 ウ52 観秀書状\n11 貫之集 上2 オ53 良証書状\n11 貫之集 上2 ウ53 良証書状\n86\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n11 貫之集 上3 オ53 良証書状\n11 貫之集 上3 ウ53 良証書状\n11 貫之集 上6 オ54 某書状(1)\n11 貫之集 上6 ウ54 某書状(1)\n11 貫之集 上7 オ54 某書状(1)\n11 貫之集 上7 ウ54 某書状(1)\n11 貫之集 上4 オ54 某書状(2)\n11 貫之集 上4 ウ54 某書状(2)\n11 貫之集 上5 オ54 某書状(2)\n11 貫之集 上5 ウ54 某書状(2)\n11 貫之集 上10 オ55 某書状(1)\n11 貫之集 上10 ウ55 某書状(1)\n11 貫之集 上11 オ55 某書状(1)\n11 貫之集 上11 ウ55 某書状(1)\n11 貫之集 上8 オ55 某書状(2)\n11 貫之集 上8 ウ55 某書状(2)\n11 貫之集 上9 オ55 某書状(2)\n11 貫之集 上9 ウ55 某書状(2)\n11 貫之集 上12 オ56 閏月月行事次第\n11 貫之集 上12 ウ56 閏月月行事次第\n11 貫之集 上13 オ56 閏月月行事次第\n11 貫之集 上13 ウ56 閏月月行事次第\n11 貫之集 上16 オ57 照空書状(1)\n11 貫之集 上16 ウ57 照空書状(1)\n11 貫之集 上14 オ57 照空書状(2)\n11 貫之集 上14 ウ57 照空書状(2)\n11 貫之集 上15 オ57 照空書状(2)\n11 貫之集 上15 ウ57 照空書状(2)\n11 貫之集 上裏表紙オ58 近江国野洲庄名主百姓等言上状\n11 貫之集 上裏表紙ウ58 近江国野洲庄名主百姓等言上状\n12 貫之集 中1 オ57 照空書状(1)\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n12 貫之集 中1 ウ57 照空書状(1)\n12 貫之集 中表紙オ58 近江国野洲庄名主百姓等言上状\n12 貫之集 中表紙ウ58 近江国野洲庄名主百姓等言上状\n12 貫之集 中5 オ59 静縁書状(1)\n12 貫之集 中5 ウ59 静縁書状(1)\n12 貫之集 中6 オ59 静縁書状(1)\n12 貫之集 中6 ウ59 静縁書状(1)\n12 貫之集 中表3 ウ59 静縁書状(2)\n12 貫之集 中表4 オ59 静縁書状(2)\n12 貫之集 中2 オ59 静縁書状(2)\n12 貫之集 中2 ウ59 静縁書状(2)\n12 貫之集 中7 オ60 年行事書状包紙・某言上状土代\n12 貫之集 中7 ウ60 年行事書状包紙・某言上状土代\n12 貫之集 中8 オ60 年行事書状包紙・某言上状土代\n12 貫之集 中8 ウ60 年行事書状包紙・某言上状土代\n12 貫之集 中9 オ61 静坊一時念仏幷分経注文\n12 貫之集 中9 ウ61 静坊一時念仏幷分経注文\n12 貫之集 中10 オ61 静坊一時念仏幷分経注文\n12 貫之集 中10 ウ61 静坊一時念仏幷分経注文\n12 貫之集 中11 オ62 某書状\n12 貫之集 中11 ウ62 某書状\n12 貫之集 中12 オ62 某書状\n12 貫之集 中12 ウ62 某書状\n12 貫之集 中13 オ63 某書状\n12 貫之集 中13 ウ63 某書状\n12 貫之集 中14 オ63 某書状\n12 貫之集 中14 ウ63 某書状\n12 貫之集 中15 オ64 猷□書状(1)\n12 貫之集 中15 ウ64 猷□書状(1)\n12 貫之集 中16 オ64 猷□書状(1)\n12 貫之集 中16 ウ64 猷□書状(1)\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n87\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n12 貫之集 中28 オ64 猷□書状(2)\n12 貫之集 中28 ウ64 猷□書状(2)\n12 貫之集 中29 オ64 猷□書状(2)\n12 貫之集 中29 ウ64 猷□書状(2)\n12 貫之集 中19 オ65 某書状\n12 貫之集 中19 ウ65 某書状\n12 貫之集 中22 オ66 某書状\n12 貫之集 中19 ウ66 某書状\n12 貫之集 中表23 ウ67 某書状礼紙\n12 貫之集 中25 ウ67 某書状礼紙\n12 貫之集 中表24 オ67 某書状礼紙\n12 貫之集 中25 オ67 某書状礼紙\n12 貫之集 中26 オ68 某書状\n12 貫之集 中26 ウ68 某書状\n12 貫之集 中27 オ68 某書状\n12 貫之集 中27 ウ68 某書状\n12 貫之集 中30 オ69 某書状\n12 貫之集 中30 ウ69 某書状\n12 貫之集 中裏表紙オ69 某書状\n12 貫之集 中裏表紙ウ69 某書状\n13 貫之集 下表紙オ70 某書状\n13 貫之集 下表紙ウ70 某書状\n13 貫之集 下1 オ70 某書状\n13 貫之集 下1 ウ70 某書状\n13 貫之集 下5 オ71 実弁書状(1)\n13 貫之集 下5 ウ71 実弁書状(1)\n13 貫之集 下4 オ71 実弁書状(1)\n13 貫之集 下4 ウ71 実弁書状(1)\n13 貫之集 下2 オ71 実弁書状(2)\n13 貫之集 下2 ウ71 実弁書状(2)\n13 貫之集 下3 オ71 実弁書状(2)\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n13 貫之集 下3 ウ71 実弁書状(2)\n13 貫之集 下6 オ72 承空書状幷覚証勘返状(1)\n13 貫之集 下6 ウ72 承空書状幷覚証勘返状(1)\n13 貫之集 下7 オ72 承空書状幷覚証勘返状(1)\n13 貫之集 下7 ウ72 承空書状幷覚証勘返状(1)\n13 貫之集 下10 オ72 承空書状幷覚証勘返状(2)\n13 貫之集 下10 ウ72 承空書状幷覚証勘返状(2)\n13 貫之集 下表8 ウ73 承空書状封紙\n13 貫之集 下表9 オ73 承空書状封紙\n13 貫之集 下11 オ74 道蓮書状(1)\n13 貫之集 下11 ウ74 道蓮書状(1)\n13 貫之集 下12 オ74 道蓮書状(1)\n13 貫之集 下12 ウ74 道蓮書状(1)\n13 貫之集 下13 オ74 道蓮書状(2)\n13 貫之集 下13 ウ74 道蓮書状(2)\n13 貫之集 下14 オ74 道蓮書状(2)\n13 貫之集 下14 ウ74 道蓮書状(2)\n13 貫之集 下15 オ75 承空書状幷照空勘返状(1)\n13 貫之集 下15 ウ75 承空書状幷照空勘返状(1)\n13 貫之集 下16 オ75 承空書状幷照空勘返状(1)\n13 貫之集 下16 ウ75 承空書状幷照空勘返状(1)\n13 貫之集 下17 オ75 承空書状幷照空勘返状(2)\n13 貫之集 下17 ウ75 承空書状幷照空勘返状(2)\n13 貫之集 下18 オ75 承空書状幷照空勘返状(2)\n13 貫之集 下18 ウ75 承空書状幷照空勘返状(2)\n13 貫之集 下18 ウ75 承空書状幷照空勘返状(3)\n13 貫之集 下18 ウ75 承空書状幷照空勘返状(4)\n13 貫之集 下21 オ76 道蓮書状(1)\n13 貫之集 下21 ウ76 道蓮書状(1)\n13 貫之集 下22 オ76 道蓮書状(1)\n13 貫之集 下22 ウ76 道蓮書状(1)\n88\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n13 貫之集 下19 オ76 道蓮書状(2)\n13 貫之集 下19 ウ76 道蓮書状(2)\n13 貫之集 下20 オ76 道蓮書状(2)\n13 貫之集 下20 ウ76 道蓮書状(2)\n13 貫之集 下23 オ77 蓮空書状\n13 貫之集 下23 ウ77 蓮空書状\n13 貫之集 下24 オ77 蓮空書状\n13 貫之集 下24 ウ77 蓮空書状\n13 貫之集 下裏表紙オ78 某書状\n13 貫之集 下裏表紙ウ78 某書状\n14 増基法師集表5 オ79 照空書状\n14 増基法師集3 オ79 照空書状\n14 増基法師集表4 ウ79 照空書状\n14 増基法師集3 ウ79 照空書状\n14 増基法師集表8 オ80 昌快書状\n14 増基法師集6 オ80 昌快書状\n14 増基法師集表7 ウ80 昌快書状\n14 増基法師集6 ウ80 昌快書状\n14 増基法師集表11 オ81 某書状\n14 増基法師集9 オ81 某書状\n14 増基法師集表10 ウ81 某書状\n14 増基法師集9 ウ81 某書状\n14 増基法師集表14 オ82 道昭書状\n14 増基法師集12 オ82 道昭書状\n14 増基法師集表13 ウ82 道昭書状\n14 増基法師集12 ウ82 道昭書状\n15 清正集表紙オ83 藤原資経書状\n15 清正集表紙ウ83 藤原資経書状\n15 清正集1 オ83 藤原資経書状\n15 清正集1 ウ83 藤原資経書状\n15 清正集2 オ84 某消息\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n15 清正集2 ウ84 某消息\n15 清正集3 オ84 某消息\n15 清正集3 ウ84 某消息\n15 清正集4 オ85 某消息\n15 清正集4 ウ85 某消息\n15 清正集5 オ85 某消息\n15 清正集5 ウ85 某消息\n15 清正集6 オ86 某書状\n15 清正集6 ウ86 某書状\n15 清正集7 オ86 某書状\n15 清正集7 ウ86 某書状\n15 清正集表8 オ87 成忍書状封紙\n15 清正集表8 ウ87 成忍書状封紙\n15 清正集裏表紙オ88 清空書状\n15 清正集裏表紙ウ88 清空書状\n16 大中臣頼基集表紙オ89 某書状\n16 大中臣頼基集表紙ウ89 某書状\n16 大中臣頼基集6 オ90 如覚諷誦文\n16 大中臣頼基集1 ウ90 如覚諷誦文\n16 大中臣頼基集6 ウ90 如覚諷誦文\n16 大中臣頼基集1 オ90 如覚諷誦文\n16 大中臣頼基集3 オ91 定昭諷誦文\n16 大中臣頼基集2 ウ91 定昭諷誦文\n16 大中臣頼基集3 ウ91 定昭諷誦文\n16 大中臣頼基集2 オ91 定昭諷誦文\n16 大中臣頼基集4 オ92 蓮□諷誦文\n16 大中臣頼基集5 ウ92 蓮□諷誦文\n16 大中臣頼基集4 ウ92 蓮□諷誦文\n16 大中臣頼基集5 オ92 蓮□諷誦文\n16 大中臣頼基集裏表紙オ93 信季書状\n16 大中臣頼基集裏表紙ウ93 信季書状\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n89\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n17 安法法師集表紙オ94 某三首和歌懐紙\n17 安法法師集表紙ウ94 某三首和歌懐紙\n17 安法法師集1 オ94 某三首和歌懐紙\n17 安法法師集1 ウ94 某三首和歌懐紙\n17 安法法師集2 オ95 某書状\n17 安法法師集2 ウ95 某書状\n17 安法法師集3 オ96 某書状\n17 安法法師集3 ウ96 某書状\n17 安法法師集表4 オ97 □明請文包紙\n17 安法法師集6 オ98 某消息\n17 安法法師集6 ウ98 某消息\n17 安法法師集7 オ99 某書状\n17 安法法師集7 ウ99 某書状\n17 安法法師集8 オ100 某書状\n17 安法法師集8 ウ100 某書状\n17 安法法師集9 オ100 某書状\n17 安法法師集9 ウ100 某書状\n17 安法法師集10 オ101 昭空書状\n17 安法法師集10 ウ101 昭空書状\n17 安法法師集裏表紙オ101 昭空書状\n17 安法法師集裏表紙ウ101 昭空書状\n18 山田集表紙オ102 某消息\n18 山田集表紙ウ102 某消息\n18 山田集1 オ103 某書状\n18 山田集1 ウ103 某書状\n18 山田集2 オ104 某書状\n18 山田集2 ウ104 某書状\n18 山田集3 オ104 某書状\n18 山田集3 ウ104 某書状\n18 山田集4 オ105 某書状\n18 山田集4 ウ105 某書状\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n18 山田集裏表紙オ106 某消息\n18 山田集裏表紙ウ106 某消息\n19 藤原元真集表紙オ107 覚性書状\n19 藤原元真集表紙ウ107 覚性書状\n19 藤原元真集1 オ107 覚性書状\n19 藤原元真集1 ウ107 覚性書状\n19 藤原元真集2 オ108 某書状\n19 藤原元真集2 ウ108 某書状\n19 藤原元真集3 オ108 某書状\n19 藤原元真集3 ウ108 某書状\n19 藤原元真集4 オ109 某書状\n19 藤原元真集4 ウ109 某書状\n19 藤原元真集5 オ109 某書状\n19 藤原元真集5 ウ109 某書状\n19 藤原元真集6 オ110 某書状\n19 藤原元真集6 ウ110 某書状\n19 藤原元真集表8 オ110 某書状\n19 藤原元真集表7 ウ110 某書状\n19 藤原元真集9 オ111 蓮覚書送進状(折紙)\n19 藤原元真集9 ウ111 蓮覚書送進状(折紙)\n19 藤原元真集10 オ111 蓮覚書送進状(折紙)\n19 藤原元真集10 ウ111 蓮覚書送進状(折紙)\n19 藤原元真集11 オ112 定昭書状\n19 藤原元真集11 ウ112 定昭書状\n19 藤原元真集12 オ112 定昭書状\n19 藤原元真集12 ウ112 定昭書状\n19 藤原元真集13 オ113 某書状\n19 藤原元真集13 ウ113 某書状\n19 藤原元真集14 オ113 某書状\n19 藤原元真集14 ウ113 某書状\n19 藤原元真集15 オ114 祐為書状\n90\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n19 藤原元真集15 ウ114 祐為書状\n19 藤原元真集16 オ115 某書状\n19 藤原元真集16 ウ115 某書状\n19 藤原元真集裏表紙オ116 念仏由緒事書(折紙)\n19 藤原元真集裏表紙ウ116 念仏由緒事書(折紙)\n19 藤原元真集25 オ116 念仏由緒事書(折紙)\n19 藤原元真集25 ウ116 念仏由緒事書(折紙)\n20 義孝朝臣集表紙オ117 高□書状\n20 義孝朝臣集表紙ウ117 高□書状\n20 義孝朝臣集表2 オ118 某書状\n20 義孝朝臣集表1 ウ118 某書状\n20 義孝朝臣集3 オ119 某書状\n20 義孝朝臣集3 ウ119 某書状\n20 義孝朝臣集5 オ120 清空書状\n20 義孝朝臣集5 ウ120 清空書状\n20 義孝朝臣集4 オ120 清空書状\n20 義孝朝臣集4 ウ120 清空書状\n20 義孝朝臣集7 オ121 定昭書状\n20 義孝朝臣集7 ウ121 定昭書状\n20 義孝朝臣集6 オ121 定昭書状\n20 義孝朝臣集6 ウ121 定昭書状\n20 義孝朝臣集9 オ122 頼□書状\n20 義孝朝臣集9 ウ122 頼□書状\n20 義孝朝臣集8 オ122 頼□書状\n20 義孝朝臣集8 ウ122 頼□書状\n20 義孝朝臣集裏表紙オ123 美作国打穴保雑掌言上状\n20 義孝朝臣集裏表紙ウ123 美作国打穴保雑掌言上状\n20 義孝朝臣集10 オ123 美作国打穴保雑掌言上状\n20 義孝朝臣集10 ウ123 美作国打穴保雑掌言上状\n20 義孝朝臣集11 オ124 某消息\n20 義孝朝臣集11 ウ124 某消息\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n21 為信集表紙オ125 某書状\n21 為信集表紙ウ125 某書状\n21 為信集1 オ126 祐□書状(1)\n21 為信集1 ウ126 祐□書状(1)\n21 為信集12 オ127 某書状(1)\n21 為信集12 ウ127 某書状(1)\n21 為信集13 オ127 某書状(1)\n21 為信集13 ウ127 某書状(1)\n21 為信集2 オ127 某書状(2)\n21 為信集2 ウ127 某書状(2)\n21 為信集3 オ128 覚証書状\n21 為信集3 ウ128 覚証書状\n21 為信集4 オ129 承空書状\n21 為信集4 ウ129 承空書状\n21 為信集表6 オ130 某書状封紙\n21 為信集表7 ウ130 某書状封紙\n21 為信集表8 オ131 某書状封紙\n21 為信集表10 オ132 栖空書状\n21 為信集表9 ウ132 栖空書状\n21 為信集11 オ133 栖空書状\n21 為信集11 ウ133 栖空書状\n21 為信集表14 ウ134 頼□書状\n21 為信集表15 オ134 頼□書状\n21 為信集16 オ134 頼□書状\n21 為信集16 オ134 頼□書状\n21 為信集17 オ135 某書状\n21 為信集17 ウ135 某書状\n21 為信集裏表紙オ135 某書状\n21 為信集裏表紙ウ135 某書状\n22 御形宣旨集裏表紙オ136 賊何人連歌懐紙(1)\n22 御形宣旨集裏表紙ウ136 賊何人連歌懐紙(1)\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n91\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n22 御形宣旨集1 オ136 賊何人連歌懐紙(1)\n22 御形宣旨集1 ウ136 賊何人連歌懐紙(1)\n22 御形宣旨集表紙オ188 賊何木連歌懐紙(4)\n22 御形宣旨集表紙ウ188 賊何木連歌懐紙(4)\n23 元輔集表紙オ137 承空書状幷蓮空勘返状\n23 元輔集表紙ウ137 承空書状幷蓮空勘返状\n23 元輔集28 オ138 承空書状\n23 元輔集28 ウ138 承空書状\n23 元輔集29 オ139 承空書状\n23 元輔集29 ウ139 承空書状\n23 元輔集裏表紙オ140 照空書状\n23 元輔集裏表紙ウ140 照空書状\n25 時明朝臣集表紙オ141 某書状(1)\n25 時明朝臣集表紙ウ141 某書状(1)\n25 時明朝臣集1 オ141 某書状(1)\n25 時明朝臣集1 ウ141 某書状(1)\n25 時明朝臣集2 オ142 道蓮書状\n25 時明朝臣集2 ウ142 道蓮書状\n25 時明朝臣集3 オ142 道蓮書状\n25 時明朝臣集3 ウ142 道蓮書状\n25 時明朝臣集4 オ143 本慶書状(1)\n25 時明朝臣集4 ウ143 本慶書状(1)\n25 時明朝臣集5 オ143 本慶書状(1)\n25 時明朝臣集5 ウ143 本慶書状(1)\n25 時明朝臣集7 オ143 本慶書状(2)\n25 時明朝臣集7 ウ143 本慶書状(2)\n25 時明朝臣集6 オ143 本慶書状(2)\n25 時明朝臣集6 ウ143 本慶書状(2)\n25 時明朝臣集裏表紙オ144 某書状\n25 時明朝臣集裏表紙ウ144 某書状\n27 清少納言集表3 ウ145 某書状\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n27 清少納言集4 オ145 某書状\n27 清少納言集裏表紙ウ145 某書状\n27 清少納言集5 ウ145 某書状\n28 重之女集表紙オ146 雑具注文\n28 重之女集表紙ウ146 雑具注文\n28 重之女集1 オ147 照空書状\n28 重之女集1 ウ147 照空書状\n28 重之女集2 オ147 照空書状\n28 重之女集2 ウ147 照空書状\n28 重之女集3 オ148 蓮□書状\n28 重之女集3 ウ148 蓮□書状\n28 重之女集4 オ148 蓮□書状\n28 重之女集4 ウ148 蓮□書状\n28 重之女集5 オ149 某書状\n28 重之女集5 ウ149 某書状\n28 重之女集6 オ149 某書状\n28 重之女集6 ウ149 某書状\n28 重之女集裏表紙オ150 某書状\n28 重之女集裏表紙ウ150 某書状\n29 道命阿闍梨集表紙オ151 某消息\n29 道命阿闍梨集表紙ウ151 某消息\n29 道命阿闍梨集1 オ151 某消息\n29 道命阿闍梨集1 ウ151 某消息\n29 道命阿闍梨集2 オ152 某書状\n29 道命阿闍梨集2 ウ152 某書状\n29 道命阿闍梨集3 オ152 某書状\n29 道命阿闍梨集3 ウ152 某書状\n29 道命阿闍梨集4 オ153 承空書状(1)\n29 道命阿闍梨集4 ウ153 承空書状(1)\n29 道命阿闍梨集5 オ153 承空書状(1)\n29 道命阿闍梨集5 ウ153 承空書状(1)\n92\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n29 道命阿闍梨集6 オ153 承空書状(2)\n29 道命阿闍梨集6 ウ153 承空書状(2)\n29 道命阿闍梨集7 オ153 承空書状(2)\n29 道命阿闍梨集7 ウ153 承空書状(2)\n29 道命阿闍梨集8 オ154 承空書状幷藤原資経勘返状\n29 道命阿闍梨集8 ウ154 承空書状幷藤原資経勘返状\n29 道命阿闍梨集9 オ154 承空書状幷藤原資経勘返状\n29 道命阿闍梨集9 ウ154 承空書状幷藤原資経勘返状\n29 道命阿闍梨集10 オ155 定□書状\n29 道命阿闍梨集10 ウ155 定□書状\n29 道命阿闍梨集11 オ155 定□書状\n29 道命阿闍梨集11 ウ155 定□書状\n29 道命阿闍梨集12 オ156 某書状\n29 道命阿闍梨集12 ウ156 某書状\n29 道命阿闍梨集13 オ156 某書状\n29 道命阿闍梨集13 ウ156 某書状\n29 道命阿闍梨集14 オ157 承空書状幷照空勘返状\n29 道命阿闍梨集14 ウ157 承空書状幷照空勘返状\n29 道命阿闍梨集15 オ157 承空書状幷照空勘返状\n29 道命阿闍梨集15 ウ157 承空書状幷照空勘返状\n29 道命阿闍梨集表17 ウ158 某書状封紙\n29 道命阿闍梨集表18 オ158 某書状封紙\n29 道命阿闍梨集表21 ウ159 承空書状幷照空勘返状封紙\n29 道命阿闍梨集表22 オ159 承空書状幷照空勘返状封紙\n29 道命阿闍梨集表23 オ159 承空書状幷照空勘返状封紙\n29 道命阿闍梨集24 オ160 某書状\n29 道命阿闍梨集24 ウ160 某書状\n29 道命阿闍梨集25 オ160 某書状\n29 道命阿闍梨集25 ウ160 某書状\n29 道命阿闍梨集26 オ161 某書状\n29 道命阿闍梨集26 ウ161 某書状\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n29 道命阿闍梨集27 オ161 某書状\n29 道命阿闍梨集27 ウ161 某書状\n29 道命阿闍梨集28 オ162 導蓮書状(1)\n29 道命阿闍梨集28 ウ162 導蓮書状(1)\n29 道命阿闍梨集29 オ162 導蓮書状(1)\n29 道命阿闍梨集29 ウ162 導蓮書状(1)\n29 道命阿闍梨集30 オ162 導蓮書状(2)\n29 道命阿闍梨集30 ウ162 導蓮書状(2)\n29 道命阿闍梨集裏表紙オ162 導蓮書状(2)\n29 道命阿闍梨集裏表紙ウ162 導蓮書状(2)\n30 大中臣輔親集表紙オ163 定昭書状\n30 大中臣輔親集表紙ウ163 定昭書状\n30 大中臣輔親集1 オ163 定昭書状\n30 大中臣輔親集1 ウ163 定昭書状\n30 大中臣輔親集2 オ164 □俊書状\n30 大中臣輔親集2 ウ164 □俊書状\n30 大中臣輔親集3 オ164 □俊書状\n30 大中臣輔親集3 ウ164 □俊書状\n30 大中臣輔親集4 オ165 某消息\n30 大中臣輔親集4 ウ165 某消息\n30 大中臣輔親集5 オ165 某消息\n30 大中臣輔親集5 ウ165 某消息\n30 大中臣輔親集6 オ166 □蓮書状\n30 大中臣輔親集6 ウ166 □蓮書状\n30 大中臣輔親集7 オ166 □蓮書状\n30 大中臣輔親集7 ウ166 □蓮書状\n30 大中臣輔親集8 オ167 某書状(堅折紙)\n30 大中臣輔親集8 ウ167 某書状(堅折紙)\n30 大中臣輔親集9 オ167 某書状(堅折紙)\n30 大中臣輔親集9 ウ167 某書状(堅折紙)\n30 大中臣輔親集10 オ168 某書状\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n93\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n30 大中臣輔親集10 ウ168 某書状\n30 大中臣輔親集11 オ168 某書状\n30 大中臣輔親集11 ウ168 某書状\n30 大中臣輔親集12 オ169 覚蓮書状\n30 大中臣輔親集12 ウ169 覚蓮書状\n30 大中臣輔親集裏表紙オ169 覚蓮書状\n30 大中臣輔親集裏表紙ウ169 覚蓮書状\n31 師大納言母集1 オ188 賊何木連歌懐紙(3)\n31 師大納言母集1 ウ188 賊何木連歌懐紙(3)\n31 師大納言母集表紙オ188 賊何木連歌懐紙(3)\n31 師大納言母集表紙ウ188 賊何木連歌懐紙(3)\n31 師大納言母集裏表紙オ188 賊何木連歌懐紙(4)\n31 師大納言母集裏表紙ウ188 賊何木連歌懐紙(4)\n32 家経朝臣集表紙オ170 某書状礼紙\n32 家経朝臣集表紙ウ170 某書状礼紙\n32 家経朝臣集1 オ170 某書状礼紙\n32 家経朝臣集1 ウ170 某書状礼紙\n32 家経朝臣集2 オ171 摂津国生嶋庄庄官書状\n32 家経朝臣集2 ウ171 摂津国生嶋庄庄官書状\n32 家経朝臣集3 オ171 摂津国生嶋庄庄官書状\n32 家経朝臣集3 ウ171 摂津国生嶋庄庄官書状\n32 家経朝臣集4 オ172 某書状\n32 家経朝臣集4 ウ172 某書状\n32 家経朝臣集5 オ172 某書状\n32 家経朝臣集5 ウ172 某書状\n32 家経朝臣集6 オ173 成忍結解状\n32 家経朝臣集6 ウ173 成忍結解状\n32 家経朝臣集7 オ173 成忍結解状\n32 家経朝臣集7 ウ173 成忍結解状\n32 家経朝臣集8 オ174 成□書状\n32 家経朝臣集8 ウ174 成□書状\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n32 家経朝臣集9 オ174 成□書状\n32 家経朝臣集9 ウ174 成□書状\n32 家経朝臣集10 オ175 念阿諷誦文\n32 家経朝臣集10 ウ175 念阿諷誦文\n32 家経朝臣集11 オ175 念阿諷誦文\n32 家経朝臣集11 ウ175 念阿諷誦文\n32 家経朝臣集12 オ176 経阿諷誦文\n32 家経朝臣集12 ウ176 経阿諷誦文\n32 家経朝臣集裏表紙オ176 経阿諷誦文\n32 家経朝臣集裏表紙ウ176 経阿諷誦文\n33 範永朝臣集表紙オ177 某書状(1)\n33 範永朝臣集表紙ウ177 某書状(1)\n33 範永朝臣集1 オ177 某書状(1)\n33 範永朝臣集1 ウ177 某書状(1)\n33 範永朝臣集5 オ177 某書状(2)\n33 範永朝臣集5 ウ177 某書状(2)\n33 範永朝臣集6 オ177 某書状(2)\n33 範永朝臣集6 ウ177 某書状(2)\n33 範永朝臣集表2 ウ178 某書状封紙\n33 範永朝臣集表3 オ178 某書状封紙\n33 範永朝臣集7 ウ179 某書状(1)\n33 範永朝臣集7 オ179 某書状(1)\n33 範永朝臣集裏表紙ウ179 某書状(1)\n33 範永朝臣集裏表紙オ179 某書状(1)\n33 範永朝臣集4 ウ179 某書状(2)\n33 範永朝臣集4 オ179 某書状(2)\n34 藤三位集1 オ136 賊何人連歌懐紙(2)\n34 藤三位集1 ウ136 賊何人連歌懐紙(2)\n34 藤三位集表紙オ136 賊何人連歌懐紙(2)\n34 藤三位集表紙ウ136 賊何人連歌懐紙(2)\n34 藤三位集4 オ188 賊何木連歌懐紙(1)\n94\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n34 藤三位集4 ウ188 賊何木連歌懐紙(1)\n34 藤三位集表紙オ188 賊何木連歌懐紙(1)\n34 藤三位集表紙ウ188 賊何木連歌懐紙(1)\n34 藤三位集表紙ウ188 賊何木連歌懐紙(1)\n34 藤三位集2 オ188 賊何木連歌懐紙(2)\n34 藤三位集2 ウ188 賊何木連歌懐紙(2)\n34 藤三位集3 オ188 賊何木連歌懐紙(2)\n34 藤三位集3 ウ188 賊何木連歌懐紙(2)\n35 京極大殿御集1 オ189 某書状(1)\n35 京極大殿御集1 ウ189 某書状(1)\n35 京極大殿御集2 オ189 某書状(1)\n35 京極大殿御集2 ウ189 某書状(1)\n35 京極大殿御集表紙オ189 某書状(2)\n35 京極大殿御集表紙ウ189 某書状(2)\n35 京極大殿御集3 オ190 雑具注文\n35 京極大殿御集3 ウ190 雑具注文\n35 京極大殿御集4 オ191 某書状\n35 京極大殿御集4 ウ191 某書状\n35 京極大殿御集裏表紙オ191 某書状\n35 京極大殿御集裏表紙ウ191 某書状\n36 顕網朝臣集表紙オ126 祐□書状(1)\n36 顕網朝臣集表紙ウ126 祐□書状(1)\n36 顕網朝臣集12 オ126 祐□書状(2)\n36 顕網朝臣集12 ウ126 祐□書状(2)\n36 顕網朝臣集13 オ126 祐□書状(2)\n36 顕網朝臣集13 ウ126 祐□書状(2)\n36 顕網朝臣集裏表紙オ127 某書状(2)\n36 顕網朝臣集裏表紙ウ127 某書状(2)\n36 顕綱朝臣集1 オ192 円頓戒相承血脈\n36 顕綱朝臣集1 ウ192 円頓戒相承血脈\n36 顕綱朝臣集2 オ193 某書状\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n36 顕綱朝臣集2 ウ193 某書状\n36 顕綱朝臣集3 オ193 某書状\n36 顕綱朝臣集3 ウ193 某書状\n36 顕綱朝臣集4 オ193 捧物員数注文\n36 顕綱朝臣集4 ウ194 捧物員数注文\n36 顕綱朝臣集5 オ194 捧物員数注文\n36 顕綱朝臣集5 ウ194 捧物員数注文\n36 顕綱朝臣集6 オ195 導蓮書状\n36 顕綱朝臣集6 ウ195 導蓮書状\n36 顕綱朝臣集7 オ195 導蓮書状\n36 顕綱朝臣集7 ウ195 導蓮書状\n36 顕綱朝臣集8 オ196 道蓮書状\n36 顕綱朝臣集8 ウ196 道蓮書状\n36 顕綱朝臣集9 オ196 道蓮書状\n36 顕綱朝臣集9 ウ196 道蓮書状\n36 顕綱朝臣集10 オ197 祐□書状\n36 顕綱朝臣集10 ウ197 祐□書状\n36 顕綱朝臣集11 オ197 祐□書状\n36 顕綱朝臣集11 ウ197 祐□書状\n38 基俊朝臣集8 オ141 某書状(2)\n38 基俊朝臣集8 ウ141 某書状(2)\n38 基俊朝臣集裏表紙オ141 某書状(2)\n38 基俊朝臣集裏表紙ウ141 某書状(2)\n38 基俊朝臣集表紙オ198 某書状\n38 基俊朝臣集表紙ウ198 某書状\n38 基俊朝臣集1 オ199 某諷誦文\n38 基俊朝臣集1 ウ199 某諷誦文\n38 基俊朝臣集2 オ200 某諷誦文\n38 基俊朝臣集2 ウ200 某諷誦文\n38 基俊朝臣集3 オ201 専性諷誦文\n38 基俊朝臣集3 ウ201 専性諷誦文\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n95\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n38 基俊朝臣集4 オ202 某諷誦文\n38 基俊朝臣集4 ウ202 某諷誦文\n38 基俊朝臣集5 オ203 某諷誦文\n38 基俊朝臣集5 ウ203 某諷誦文\n38 基俊朝臣集6 オ204 承空書状幷照空勘返状\n38 基俊朝臣集6 ウ204 承空書状幷照空勘返状\n38 基俊朝臣集7 オ205 某書状\n38 基俊朝臣集7 ウ205 某書状\n39 信生法師集裏表紙オ参考1 某消息\n39 信生法師集裏表紙ウ参考1 某消息\n39 信生法師集表紙オ206 尭観書状(1)\n39 信生法師集表紙ウ206 尭観書状(1)\n39 信生法師集1 オ206 尭観書状(1)\n39 信生法師集1 ウ206 尭観書状(1)\n39 信生法師集2 オ206 尭観書状(2)\n39 信生法師集2 ウ206 尭観書状(2)\n39 信生法師集3 オ206 尭観書状(2)\n39 信生法師集3 ウ206 尭観書状(2)\n39 信生法師集4 オ207 歌題等書付\n39 信生法師集4 ウ207 歌題等書付\n39 信生法師集11 オ208 導蓮書状(1)\n39 信生法師集11 ウ208 導蓮書状(1)\n39 信生法師集12 オ208 導蓮書状(1)\n39 信生法師集12 ウ208 導蓮書状(1)\n39 信生法師集9 オ208 導蓮書状(2)\n39 信生法師集9 ウ208 導蓮書状(2)\n39 信生法師集10 オ208 導蓮書状(2)\n39 信生法師集10 ウ208 導蓮書状(2)\n39 信生法師集7 オ208 導蓮書状(3)\n39 信生法師集7 ウ208 導蓮書状(3)\n39 信生法師集8 オ208 導蓮書状(3)\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n39 信生法師集8 ウ208 導蓮書状(3)\n39 信生法師集13 オ208 導蓮書状(4)\n39 信生法師集13 ウ208 導蓮書状(4)\n39 信生法師集14 オ208 導蓮書状(4)\n39 信生法師集14 ウ208 導蓮書状(4)\n39 信生法師集18 オ209 寿観書状(1)\n39 信生法師集18 ウ209 寿観書状(1)\n39 信生法師集17 オ209 寿観書状(1)\n39 信生法師集17 ウ209 寿観書状(1)\n39 信生法師集15 オ209 寿観書状(2)\n39 信生法師集15 ウ209 寿観書状(2)\n39 信生法師集16 オ209 寿観書状(2)\n39 信生法師集16 ウ209 寿観書状(2)\n39 信生法師集19 オ210 某書状\n39 信生法師集19 ウ210 某書状\n39 信生法師集20 オ210 某書状\n39 信生法師集20 ウ210 某書状\n39 信生法師集21 オ211 某書状\n39 信生法師集21 ウ211 某書状\n40 城美の前司集表紙オ212 最俊書状(折紙)\n40 城美の前司集表紙ウ212 最俊書状(折紙)\n40 城美の前司集1 オ212 最俊書状(折紙)\n40 城美の前司集1 ウ212 最俊書状(折紙)\n40 城美の前司集2 オ213 最俊書状(折紙)\n40 城美の前司集2 ウ213 最俊書状(折紙)\n40 城美の前司集3 オ213 最俊書状(折紙)\n40 城美の前司集3 ウ213 最俊書状(折紙)\n40 城美の前司集4 オ214 □尭書状(1)\n40 城美の前司集4 ウ214 □尭書状(1)\n40 城美の前司集5 オ214 □尭書状(1)\n40 城美の前司集5 ウ214 □尭書状(1)\n96\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n40 城美の前司集6 オ214 □尭書状(2)\n40 城美の前司集6 ウ214 □尭書状(2)\n40 城美の前司集7 オ214 □尭書状(2)\n40 城美の前司集7 ウ214 □尭書状(2)\n40 城美の前司集8 オ214 □尭書状(3)\n40 城美の前司集8 ウ214 □尭書状(3)\n40 城美の前司集9 オ214 □尭書状(3)\n40 城美の前司集9 ウ214 □尭書状(3)\n40 城美の前司集10 オ215 道蓮書状(1)\n40 城美の前司集10 ウ215 道蓮書状(1)\n40 城美の前司集11 オ215 道蓮書状(1)\n40 城美の前司集11 ウ215 道蓮書状(1)\n40 城美の前司集12 オ215 道蓮書状(2)\n40 城美の前司集12 ウ215 道蓮書状(2)\n40 城美の前司集13 オ215 道蓮書状(2)\n40 城美の前司集13 ウ215 道蓮書状(2)\n44 朝光集断簡1 オ216 某書状\n44 朝光集断簡1 ウ216 某書状\n45 四条宮下野集1 オ180 某書状\n45 四条宮下野集1 ウ180 某書状\n45 四条宮下野集2 オ181 某書状\n45 四条宮下野集2 ウ181 某書状\n45 四条宮下野集3 オ182 某書状\n45 四条宮下野集3 ウ182 某書状\n45 四条宮下野集4 オ182 某書状\n45 四条宮下野集4 ウ182 某書状\n45 四条宮下野集5 オ183 定昭書状\n45 四条宮下野集5 ウ183 定昭書状\n45 四条宮下野集6 オ183 定昭書状\n45 四条宮下野集6 ウ183 定昭書状\n45 四条宮下野集7 オ184 □守書状\n番号歌書頁表裏文書紙背文書\n45 四条宮下野集7 ウ184 □守書状\n45 四条宮下野集8 オ184 □守書状\n45 四条宮下野集8 ウ184 □守書状\n45 四条宮下野集9 オ185 某書状\n45 四条宮下野集9 ウ185 某書状\n45 四条宮下野集10 オ185 某書状\n45 四条宮下野集10 ウ185 某書状\n45 四条宮下野集11 オ186 某申状土代\n45 四条宮下野集11 ウ186 某申状土代\n45 四条宮下野集12 オ186 某申状土代\n45 四条宮下野集12 ウ186 某申状土代\n45 四条宮下野集14 オ187 某書状幷某勘返状\n45 四条宮下野集14 ウ187 某書状幷某勘返状\n45 四条宮下野集15 オ187 某書状幷某勘返状\n45 四条宮下野集15 ウ187 某書状幷某勘返状\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n97\n書の奥書に「承空上人寄進之」と記されているので、承空のもとにあった蔵書となる\n(\n(1\n(\n。\n承空が筆写したものでは、文書番号\n188\n永仁五(一二九七)年正月十日付「賊何木連歌懐紙」の紙背を利用した歌\n書が古い。この紙背文書は、\n22\n『御形宣旨集』、31 『師大納言母集』、\n34\n『藤三位集』にも及んでいるので、連歌で\n使用された長い料紙をいくつにも切断して用いていることが知られる。このうち『師大納言母集』は、永仁五年三\n月二十六日に西山房(西山)で筆写されいることが奥書から知られる。また、『藤三位集』も、同年三月二十九日\nに西山菊房で筆写されていることがわかる。この二例から、文書番号\n188\n「賊何木連歌懐紙」は、西山で切断され\nて、歌書の筆写に再利用されたと考えることに無理はないであろう。\nそうなると、『御形宣旨集』も、同じ時期に筆写されたと考えることができるようになる。紙背文書が本来の役\n目をはたして、歌書の筆写に使われるようになるのは、時間的にあまり差異がないことを考え合わせると、筆写の\n年月日がわからない歌書の筆写時期も、再利用された状況、同じ歌書群の紙背文書の近しさから、想定することが\n可能な場合も出てくると考えられる。\n2\n 紙背文書から見える永仁年間の西山往生院\n西山という場所、往生院の概略については先に述べた。往生院について考える際に、「三鈷寺文書」は大きな手\n掛かりを与えてくれる。大山喬平氏は、京都大学文学部に伝わる「三鈷寺文書」二十九通を精査して、大山喬平編\n著『京都大学文学部 博物館の古文書9 浄土宗西山派と三鈷寺文書』(思文閣出版、一九九二年)』として公刊し\nた。それによると、京都大学に所蔵されている文書のほかに、三鈷寺に伝存するもの、東京大学法学部に伝わる一\n群の存在を確認しているという。現在、「文化遺産オンライン」で京都国立博物館に所蔵される十一通を閲覧する\n98\nことができる\n(\n(1\n(\n。これらの文書は、明治初期に、寺外に流失したとされている。三鈷寺文書からの検討は後日の課題\nとして、本稿では西山本の紙背文書から、当該期の往生院の様相を明らかにしたい。\n西山本(承空本を含む)紙背文書の多くは、書状や消息であるとされるが、大きく四つに分類できる。\n①歌書や聖教の貸し借りや筆写に関する文学・仏教関係\n②承空の師である栖空の追善供養など仏事関係\n③往生院の生活基盤である所領や生活関係\n④連歌関係\nこのうち、②に注目すると、永仁年間の往生院に住侍・奉仕していた僧侶たちの群像をとらえることができる。\n前稿で、栖空の没後後の仏事(文書番号6「五七日仏事布施注文」・文書番号7「五七日仏事記」、ともに『家持卿\n集』紙背文書)関連文書などから、永仁五(一二九七)年から同六(一二九八)年にかけて、西山往生院に住侍し\nていた僧侶が明らかになった\n(\n(1\n(\n。これらと同時期の往生院の仏事の様子を伝える文書が、文書番号\n61\n「静坊一時念仏\n並分経注文」(『貫之集 中』)である。\n■文書番号\n61\n「静坊一時念仏並分経注文」(『貫之集 中』9オ・ウ、\n10\nウ・オ)【写真2】\n 静坊一時念仏幷分経\n 梵網経 頭 本净坊\n 中 証道房\n 末 善戒房\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n99\n 大経上 頭 了緣房\n 中 玄観房\n 末 教念房\n 同経下 頭 禅智房\n 中 了教房\n 末 唯信房\n 観経上 頭 円性房\n 中 禅如房\n 末 正受房\n 阿弥陀經各一卷\n 成観房\n 誠信房\n 道智房\n 本道房\n 蓮慧房\n 蓮覚房\n 永仁五年十月廿六日【\n写\n真\n2\n】\n \n文\n書\n番\n号\n61「\n静\n坊\n一\n時\n念\n仏\n並\n分\n経\n注\n文\n」\n(『冷泉家時雨亭叢書 冷泉家歌書紙背文書 下』所収、朝日新聞社、二〇〇七年)から部分)\n100\nこれと同様の文書が、文書番号\n288\nの「净坊分経注文」(『歌合 文治二年十月廿二日』後見返・後表紙)にある。\n静坊とは、観性法橋が居住した房舎のことである。これを継承した証空も静坊を称したとされる\n( (\n2 (\n。先述した文書番\n号\n61\nとほぼ同じ構成の注文であるので、欠けた部分には、それぞれのおそらく読経(転読か)を担当した僧侶名が\n入ると考えられる。ちなみに、証空は宝治元(一二四七)年十一月二十六日に示寂しているので、文書\n61\nの日付\n「永仁五年十月廿六日」は、その月命日にあたっている。\n288\nの「浄坊御月」も同様に月命日のものと考えられるの\nではないだろうか。\n■文書番号\n288\n「浄(静)坊分経注文」(『歌合 文治二年十月廿二日』後見返・後表紙)\n 浄坊御月\n 静坊御月[ ]\n 梵網経 頭 了[ ](縁房ヵ)\n 中 明[ ](聖房ヵ)\n 末 玄[ ](観房ヵ)\n 大経上 頭 想[ ]*(想恵房ヵ)\n 中 禅[ ]*(禅如房または禅智房ヵ)\n 末 静[ ]*(静惠房または静縁房ヵ)\n 同経下 頭 観[ ]*(観意房ヵ)\n 中 如[ ]*(如覚房ヵ)\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n101\n 末 静[ ]*(静惠房または静縁房ヵ)\n 観経 頭 道[ ]*(道明房ヵ)\n 中 本[ ](蓮房ヵ)\n 末 義[ ](覚房ヵ)\n 阿弥陀経各一□[ ]\n [ ]\nこの文書から、静坊と浄坊は、「じょうぼう」と読んでいたことがわかる。この二つの文書と前稿で検討した文\n書などを合わせて、②の仏事関連文書に見える永仁五年から同六年に西山往生院に居住・奉仕した僧侶をまとめる\nと【表2】になる。この表をもとに、文書番号\n288\nの欠損部分を想定すると*のような僧侶名になると考えられる。\nまた、阿弥陀経の後には、「一巻」と六名程度の僧侶名が列記されていたと想定できる。\n当寺の往生院には、注文を記した玄観房承空を含めて三十名前後の僧侶と下級僧の「承仕」「権承仕」数名程度\nが住侍して、奉仕していたことが知られる。さらに、仏事のために、他所から来訪した僧侶もいたことがわかる。\nこれらの僧侶数から考えると、西山・往生院は、小さな山間の寺院とは言えないのではないだろうか。当該期の、\n大寺院とは異なる、京周辺の寺院の生態が判明する貴重な史料ということができる。ここに見える僧侶一人一人の\n足跡を追跡すると、往生院をめぐる人的ネットワークを捉えることができるのではないか。後日に期したい。\n以上みてきたように、西山本(承空本を含む)の紙背文書の特質と、そのうち②にあたる仏事関係の文書を検討\n102\n【表2】 永仁年間の西山往生院に居住・奉仕した僧侶\n紙背文書名\n閏月月行事\n次第\n静坊一時念仏\n並分経注文\n浄坊分経注文\n五七日仏事\n布施注文\n五七日仏事記諷誦文諷誦文\n文書番号56 61 288 6 7 90/91/92 200/2001/2002/2003\n永仁5 年\n10 月\n永仁5 年\n10/26\n欠\n永仁6 年\n5/22\n永仁6 年\n5/23\n永仁6 年\n5/22.6/6\n永仁6 年5/22.6/6\n1 玄觀房〇〇〇\n2 戒勤房〇\n3 証道房〇〇〇\n4 了緣房〇〇〇〇\n5 教証房〇\n6 明聖房〇〇\n7 專性房〇〇\n8 教念房〇〇〇\n9 想恵房▲推定〇\n10 禅智房〇〇▲推定〇\n11 観意房▲推定〇\n12 法智房〇〇\n13 了教房〇〇〇\n14 唯信房〇〇〇\n15 静惠房▲推定〇\n16 円性房〇〇〇\n17 禅如房〇〇▲推定〇\n18 如覚房〇〇〇〇\n19 禅覚房▲推定〇\n20 正受房〇〇\n21 静縁房▲推定〇\n22 成観房〇〇\n23 玄忍房〇\n24 誠信房〇〇\n25 道智房〇▲推定〇\n26 本道房〇〇\n27 蓮恵房〇〇〇\n28 道明房〇〇\n29 善戒房〇〇〇\n30 生智房●客僧\n31 修善房●客僧\n32 本蓮房〇\n33 義覚房〇\n34 本浄房〇\n35 蓮覚房〇\n36 越前律師●客\n37 定昭●不住\n〈承仕〉\n38 行忍〇\n39 如意〇\n40 禅光〇\n〈権承仕〉\n41 □文〇\n42 彥一〇\n9 名18 人12 +α人36 人4 人3 人1 人\n▲推定承空の筆\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n103\nしてきたが、明らかになったことをまとめておきたい。\n西山本の紙背文書を考える際に、廃棄された場所と再利用された場所の「紙の移動」を考慮しなければならな\nい。これは西山本に限ったことではないが、西山という市井から隔絶した場所と「室町宿所」など京内の場所を往\n来している承空という僧の行動を考えると、どのように紙を調達しているか、そしてどこで筆写しているかは意味\nを持つことになる。また、承空は漢字ひらがな混じりの祖本を、脳内でカタカナに変換して、漢字カタカナ混じり\nの表記を用いていたことや、他者を意識せず、短期間で歌書を筆写していることも西山本の特色でもある。\n紙背文書が本来の役目を果たし終えて反故とされ、歌書の筆写に使われるようになるのに、西山本では時間的に\nあまり差異がないことを考え合わせると、筆写の年月日がわからない歌書の筆写時期も、紙背文書への再利用状況\nから想定することが可能な場合も出てくる。特に、鎌倉期には、歌書の筆写活動が、文化的な活動であると同時\nに、きわめて政治的な背景を持つものであったことに留意しなければならない\n( (\n2 (\n。そのためには、紙背文書と歌書を\n切り離して考察するのではなく、表裏一体の歴史史料であると認識することが必要であろう。\nまた、②仏事関係の紙背文書を検討すると、栖空の最晩年から示寂したあたり、年号でいうと永仁五年から六年\nごろの西山往生院に住侍した僧侶や往来した僧侶の概数が判明した。当時の大寺院ではない、洛外の中規模寺院の\n僧侶たちの日常生活や承空をめぐる人たちの動き(ネットワーク)がどのような広がりを持ってくるのか、今回作\n成した紙背文書データベースのデータを更新しながら活用することで明らかになってくると思われる。また別の機\n会に譲りたい。\n104\n二 紙背文書からみた藤原資経と承空\n次に、先述した四つの部類のうち、①歌書や聖教の貸し借りや筆写に関する文学・仏教関係を検討してみたい。\nここでは、藤原資経と承空との関係を検討する。\n藤原資経という人物については、かつて甘露寺資経と混同されていたことがあった。甘露寺資経とは、藤原北家\n勧修寺流の吉田定経の息子で、祖父吉田経房の養子となって、家督を継いだ人物である。その死没は、建長三\n(一二五一)年七月のことであり、たくさんの歌書を筆写した藤原資経の活動期間と大きく隔たるため、別人であ\nることは明白である\n( (\n2 (\n。この人物について、時雨亭叢書の調査と研究、公刊に携わった藤本孝一氏は、「二条家の家\n司」であるという説を出されている\n( (\n2 (\n。大変魅力的な説であるが、まずは、紙背文書に残る藤原資経の文書を見てみ\nたい。\n西山本の紙背文書四百二十六通(承空本の紙背文書は二百十六通)の中には、承空と藤原資経との間で交わされ\nたと考えられる書状が三通ある。\n⑴文書番号\n83\n 藤原資経書状(『清正集』の紙背文書)\n⑵文書番号\n47\n・\n48\n 承空書状並藤原資経勘返状(『伊勢集』の紙背文書)\n⑶文書番号\n154\n 承空書状幷藤原資経勘返状(『道命阿闍梨集』の紙背文書)\nここでは、それぞれの文書がどの歌書の紙背であるか、その紙背文書のグループにおいて、どのようなことが推\n測できるか、ということを考えながら、それぞれの文書を読み解いていきたい。\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n105\n1\n 『清正集』の紙背文書\n『清正集』とは、藤原北家の流れをくむ平安中期の官人である藤原清正(きよただ・生年未詳~九五八年)の家\n集である。曽祖父は藤原冬嗣、祖父は良門、父は堤中納言と呼ばれた歌人の利基である\n( (\n2 (\n。清正は、天長八(九三〇)\n年に従五位下に叙されて、紀伊・備前などの地方官を歴任した。天慶九(九四六)年に村上天皇が即位すると、殿\n上を許されて、天皇に近侍した。天暦年間(九四七~九五七)に催行された歌合せなどに和歌を奏上したことが知\nられ、数々の勅撰和歌集に合わせて二十九首が入集している。『清正集』は、清正の死後、十一世紀までには成立\nしていたと考えられる\n( (\n2 (\n。\n西山本『清正集』は、紙縒でとじた袋綴じの冊子本で、右下に破損が認められる。そのため、歌集も紙背文書も\n欠損している。西山本の伝来が確認されたことにより、書陵部御所本の祖本であることが判明した\n( (\n2 (\n。表紙には承空\nの花押が記され、末には、\n 永仁六年六月八日於\n 室町宿所書写了\n 承空\n 「(別筆)承空上人/寄進之」\nとあるので、本集が永仁六(一二九八)年六月に洛中の「室町宿所」で承空の手によって筆写されたことがわか\nる。また、「(別筆)承空上人/寄進之」により、承空没後にまとめて寄進された歌書の中に本集があったことも明\n確である。\nこれらの情報のうち、紙背文書を考えるうえで重要なのは、永仁六年六月八日に洛中の室町宿所に滞在していた\n106\n承空の手元に、これらの紙背文書があったということ\nである。そのような視点で、紙背文書を整理すると\n【表3】のようになる。紙背文書は、歌書が筆写され\nた六月八日以前のものになるはずである。\nその中で注目されるのは、文書番号\n86\n「某書状」で\nある。この文書は後欠であるが、前も欠けている可能\n性がある。ここでは「うつのミやの入道こそ死なれて\n候なれ」と記されており、この「うつのミやの入道」\nは、永仁六年五月一日に没した承空の実兄・宇都宮景\n綱(僧名・蓮瑜)であったと考えられる。また、続く\n文章で、「卅五日もけふあすにて候にや」と記され、\n「四十九日などすき候なハ御くだり候へく候」といわ\nれている。法事とその後の挙動についてのべられてい\nるわけであるが、卅五日(五七日)と四十九日(七七\n日)が誰の法要なのかで理解が多少前後する。田中倫\n子氏は、承空の師で四月に亡くなった栖空の法要で\nあったとし、五月二十二日を指すと解釈される\n( (\n2 (\n。ま\nた、兄の宇都宮景綱と考えれば、その卅五日は六月五\n【表3】 西山本『清正集』(永仁6 年6 月8 日筆写・室町宿所)紙背文書\n西山本\n番号歌書名文書文書名年月日人名備考\n15\n清正集前見返しオ83 藤原資経書状\n1 △永仁6 年6 月8 日以前資経\n万葉抄\n清正集前表紙ウ83 藤原資経書状\n清正集1 ウ83 藤原資経書状\n清正集1 オ83 藤原資経書状(後欠)\n清正集2 ウ84 某消息\n2 △永仁6 年6 月8 日以前\n(前欠)\n清正集2 オ84 某消息\n清正集3 オ84 某消息\n清正集3 ウ84 某消息\n清正集4 ウ85 某消息\n3 △永仁6 年6 月8 日以前\n(中欠)\n清正集4 オ85 某消息\n清正集5 オ85 某消息\n清正集5 ウ85 某消息\n清正集6 ウ86 某書状\n4 △永仁6 年6 月8 日以前\nうつのみや入道卅五日\n清正集6 オ86 某書状四十九日\n清正集7 オ86 某書状\n清正集7 ウ86 某書状\n清正集表8 オ87 成忍書状封紙5 △永仁6 年6 月8 日以前にしやま殿\n清正集表9 ウ87 成忍書状封紙成忍\n清正集後見返しオ88 清空書状6 △永仁6 年6 月8 日以前清空\n清正集後表紙ウ88 清空書状\n△は推定される年年月日を示す。紙背文書はその性格上、歌書の筆写年月日より早い。\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n107\n日であるから、この書状は、六月五日または六日にしたためられたものであると推測できる。どちらにせよ、\n四十九日も過ぎれば東国へ下ることができるといっているが、東国へ下る人物に敬語が使われていることに留意し\nておきたい。この書状は、五月下旬もしくは六月初頭に、承空のもとに「ひなのもの」とともに届いたことは間違\nいない。承空は受領後まもなく、反故にして歌書を書き写したと考えることができる。文書番号\n84\n「書状」・同\n85\n「書状」もおそらく室町宿所で受領したものであろう。\n文書番号\n87\nは、成忍からの書状の封紙である。「にしやま殿」は承空を指すと考えられるが、この成忍に関係す\nる文書は、ほかに文書番号\n173\nに「結解状」、同\n174\n「書状」が残っている。結解状とは、算用状ともいい、荘園から\nの年貢や公事などの年間収支報告書であり、そこに署名・花押を記していることから、西山往生院の経済基盤の管\n理に携わっていたことが知られる。\n文書番号\n88\n書状をしたためた清空は、文書番号\n120\nにも見える。こちらは、「小法師」の入寺のことが記されてい\nる。また、反故紙について「反古は諷誦文等卅枚ハかがりとりあつめて候、持参候」と記し、承空が筆写活動に使\nう反故紙を、清空が院内で集約していた姿が記される。院内に承空がいれば「持参」すると書状にしたためる必要\nはないので、この書状は院外に滞在する承空に出されたものであると考えられる。\nそのように考えるならば、これら、承空の周辺に来た書状であるが、西山から持参したものではなく、京内おそ\nらく「室町宿所」で授受したものが少なくないと考えられる。\nそれをふまえた上で、藤原資経の書状を取り上げたい。本文書は(後欠)となっているが、「万葉抄二帖注尺\n範抄」が\n注目される。\n108\n■文書番号\n83\n「藤原資経書状」(『清正集』前表紙・前見返し・1オ・1ウ)\n (端裏捻封上書)\n 「(墨引) 資経」\n 一[ ]申状恐入候、\n 上人御入滅事、企㆓参上㆒可二訪申㆒之由相存候之間、\n 于㆑今不㆓申候㆒之処、将満㆑忌居候歟、仍参㆓言上㆒之間、\n 且捧㆓愚状㆒候、当時之大益還可㆓賀申㆒候歟、\n 万葉抄二帖注尺\n範抄慥返- 献㆑之、未㆓終功㆒候之間、多年\n 取籠之条、返々不㆑敵㆓次第㆒候(也ヵ)(於)今者不㆑可㆓奉忘㆒候、\n 例卒[ (取ヵ)]ニ可㆑返㆓(取)替㆒給候、[ ]\n 資経\n (後欠)\n冒頭に「上人御入滅事」とあるが、これは承空の師であった栖空を指すと考えられる\n( (\n2 (\n。栖空の示寂に際し、西山\nを訪問して弔意を示したいと思っていたが、既に「満忌\n( (\n2 (\n」を迎えられてその時期を逸してしまったと書かれている\nが、栖空は永仁六年四月十七日に没しており、その仏事が西山で行われたことは先述した通りである\n( (\n3 (\n。四十九日は\n六月五日と考えられる。なかなか筆写することができず長くお借りしてしまったが、承空から借りていた「万葉抄\n二帖」を確かにお返ししたと記されている\n( (\n3 (\n。この書状の(後欠)部分には、年月日と宛先が明記されていたと想定\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n109\nできる。すなわち、六月八日に『清正集』は筆写されているので、その直前に、「万葉抄二帖」が返却される際の\n藤原資経からの詫びを含んだ礼状あるいは添え状と解することができる。先に見た四十九日が六月五日であること\nを加味すると、文書の授受した時期は狭まり、その場所も「室町宿所」であったと想定できる。\n以上の考察から、栖空の法要を終えて忌明けした承空が、西山を下山して洛中の「室町宿所」にて、手元に来た\n書状や消息などの紙背を利用して、歌書の筆写が行われていたことを示すものであったと考えられる。「室町宿所」\nは、洛中における承空の活動拠点であり、そこにおいて藤原資経から「万葉抄」の返却を受けていたことは、ここ\nが筆写活動の前提となる歌書の受け渡し場所であったことを物語る。この場所が、どのような場所であったのかは\n重要である。\nこの時期、永仁六年六月に「室町宿所」で筆写されたことが明らかな歌書は、『清正集』のほかには、奥書から\n判明する限り、\n19\n『藤原元眞集』の、\n 永仁六年六月廿四日於/室町宿所書写了/承空\n (別筆)承空上人 寄進之\nと、2『家持卿集』の、\n 永仁六年六月廿五日/於室町宿所書写了/承空\n (別筆)承空上人/寄進之\nがある。承空は、少なくとも六月五日以降、同二十五日までは「室町宿所」に滞留して、歌書の筆写活動に従事\nしていたことが明らかである。『家持卿』の紙背文書に、文書番号6の「五七日仏事布施注文」が含まれている。\nこれは、西山往生院で使用された注文が仏事の終了とともに不要とされて、西山を下った承空の背に負わされてい\n110\nた紙類と考えられる。この「室地宿所」での歌書の筆写に費やされた紙類は、承空自身が西山から持参したもの\nや、清空などによって取りまとめられて後日配送されたもの、さらに京内で受領した書状類などであったことがわ\nかる。\n2\n 『伊勢集』の紙背文書\n『伊勢集』は、宇多中宮であった藤原温子に仕えた女房・伊勢の歌集である。和歌集というより、その構成は歌\n物語の形式をとっており、成立は十世紀中ごろと考えられている\n( (3 (\n。\n『伊勢集』の紙背文書は、【表4】の通り、十七通を数える。文書一通を四面にしているものと、半紙の書状を二\n等分しているものが混在している。その多くが欠損のため、意味が取りにくい。書状を差し出した人物の一人であ\nる蓮証は西山本の中で、ここしか出てこない。蓮という字は、宇都宮家の僧名の通字として用いられているので、\nゆかりの人物かもしれない。また、差出人として署名が残る祐甚は、祐□も同一人物だとすると、紙背文書のなか\nで数か所に見える人名である(文書番号\n39\n・\n40\n・\n43\n・\n126\n・\n197\n)。しかし、どの文書も欠損が多く、にわかに判明し\nない。尊空もここしか出てこない人物名である。そのため、月日が判明しているものも、年の判定が難しい。\n『伊勢集』は、その奥書によれば、\n 永仁五年三月廿八日於西山/菊坊令書写了\n (別筆)承空上人/寄進之\nとあるので、西山本(承空本)歌書のなかでも、永仁五(一二九七)年三月という早い段階で筆写されているこ\nとが知られる。この筆写に利用された紙背文書は、歌書の筆写より先と考えられるので、二月や三月の日付の書状\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n111\n【表4】 西山本『伊勢集』(永仁5 年3 月28 日筆写・西山)紙背文書\n西山本\n番号\n歌書名文書文書名年月日人名備考\n10\n伊勢集前見返し35 蓮証書状\n1 △永仁5 年2 月22 日\n蓮証\n(前欠)\n伊勢集表1 ウ35 蓮証書状\n伊勢集前表紙35 蓮証書状\n伊勢集表2 オ35 蓮証書状\n伊勢集表3 ウ36 某書状封紙\n2\n△永仁5 年3 月28 日\n伊勢集 表 4 オ 36 某書状封紙 以前\n伊勢集表5 ウ37 某消息3\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n(前欠)\n伊勢集7 オ38 某書状\n4\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n(前欠)\n伊勢集7 ウ38 某書状\n伊勢集表10 ウ39 祐甚書状\n5\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n祐甚\n(前欠)\n伊勢集表11 オ39 祐甚書状\n伊勢集12 ウ40 祐甚書状\n△永仁5 年3 月10 日\n祐甚\n(前欠)\n伊勢集12 オ40 祐甚書状\n伊勢集表13 ウ41 某書状封紙\n6\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n承空カ\n伊勢集表14 オ41 某書状封紙\n伊勢集15 オ42 承空書状幷頼□勘返状\n7 △永仁5 年2 月29 日\n頼□\n(前欠)\n伊勢集15 ウ42 承空書状幷頼□勘返状承空\n伊勢集表17 ウ43 祐□書状\n8 △永仁5 年2 月23 日\n祐□\n(前欠)\n伊勢集16 ウ43 祐□書状\n伊勢集表18 オ43 祐□書状\n伊勢集16 オ43 祐□書状\n伊勢集表19 ウ44 承空書状封紙\n9\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n承空\n伊勢集表20 オ44 承空書状封紙烏丸宿所\n伊勢集表25 オ45 尊空書状\n10 △永仁4 年8 月19 日\n尊空\n(前欠)\n伊勢集26 ウ45 尊空書状\n伊勢集表28 ウ45 尊空書状\n伊勢集27 オ45 尊空書状\n伊勢集表28 ウ46 某書状包紙\n11\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n(玄観御房カ)\n(前欠)\n伊勢集表29 オ46 某書状包紙□\n伊勢集表33 オ47 某書状包紙12 □\n伊勢集42 オ48 承空書状幷藤原資経勘返状(1)\n13\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n資経万葉注\n伊勢集42 ウ48 承空書状幷藤原資経勘返状(1) 承空家集\n伊勢集43 オ48 承空書状幷藤原資経勘返状(1) いかなる物\n伊勢集43 ウ48 承空書状幷藤原資経勘返状(1)\n伊勢集37 オ48 承空書状幷藤原資経勘返状(2)\n14 △永仁5 年3 月19 日\n資経\n伊勢集37 ウ48 承空書状幷藤原資経勘返状(2) 承空\n伊勢集38 オ49 某書状礼紙\n15\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n両界私記\n伊勢集38 ウ49 某書状礼紙\n伊勢集39 オ49 某書状礼紙\n伊勢集39 ウ49 某書状礼紙\n伊勢集40 オ50 某消息\n16\n△永仁5 年3 月28 日\n以前\n(後欠)\n伊勢集40 ウ50 某消息\n伊勢集41 オ50 某消息\n伊勢集41 ウ50 某消息\n伊勢集裏表紙オ51 某書状\n17 △永仁5 年3 月カ\n玄義抄\n伊勢集裏表紙ウ51 某書状\n△は推定される年年月日を示す。紙背文書はその性格上、歌書の筆写年月日より早い。\n112\n類は、永仁五年のものと考えるのが自然であ\nろう。西山本の場合、先に見た『清正本』の\n紙背文書の例によれば、書状や消息は早くに\n反故とされて、再利用される傾向が看て取れ\nるからである。\nさて、ここで承空と藤原資経とのやり取り\nを見てみよう。\n■文書番号\n47\n「承空書状並藤原資経勘返状\n(1)」(『伊勢集』\n42\nオ・ウ、\n43\nウ・オ)\n【写真3】\n(端裏切封上書)\n「『(墨引)』 『資経』」\n(異筆、以下同じ)\n「彼二帖さ候へハこそ懈怠候て猶未書\n終候、\n 必今度可進候」\n万葉注共ハあきて候ハゝ可返給候也、\n【写真3】 文書番号47「承空書状並藤原資経勘返状」\n(『冷泉家時雨亭叢書 冷泉家歌書紙背文書 下』所収、朝日新聞社、二〇〇七年)から部分)\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n113\n 「ー」「ー」 「ー返給候了」\n家集十帖と候しかとも、十一帖候ハかり慥以\n 「ー同給候了」 「ー」\n返上之、弘安年中御会一帖同返献之候、\n 又七帖欺、進之候、此家集等は頗世間難得候歟、然\n又家集何にても十帖許可給候、いかなる物も一見\n 者只為仏法興隆之助成、被御房中、不可被出在俗之\n仕たく候、御手にあたり候ハんにまかせて可\n 定候欺、恐煌謹言、 資経」\n給候、無御隔心連ゝ給候条、(★に続くか)\n■文書番号\n48\n「承空書状幷藤原資経勘返状(2)」(『伊勢集』\n35\nウ、\n37\nオ)\n(★より続くか)\n真実難有存候、此御報答にハ息災延命御祈を\nしてまいらせ候へく候、日ゝ時ゝ勤共一向可\n奉廻向候也、毎事期後信候、恐ゝ謹言\n 三月十九日 承空\n114\n勘返状とは、元の書状の余白・行間に返事を書き入れて返信した文書で、元の書状と返信が一つの文書の中に同\n居している形となっている。承空が濃墨でしたためた書状に、藤原資経は淡墨で返事を書いている。右の文書か\nら、承空から藤原資経への書状を取り出してみると次のようになる。\n[承空から藤原資経への書状]\n(端裏切封上書)「『(墨引)』 『資経』」\n万葉注共ハあきて候ハゝ可㆓返給㆒候也、家集十帖と候しかとも、十一帖候ハかり\n慥以返-上㆑之、弘安年中御会一帖同返献之候、\n又家集何にても十帖許可㆑給候、いかなる物も一見仕たく候、\n御手にあたり候ハんにまかせて可㆑給候、無㆓御隔心㆒連ゝ給候条、\n(欠あるか)\n真実難㆓有存㆒候、此御報答にハ息災延命御祈を\nしてまいらせ候へく候、日ゝ時ゝ勤共一向可\n㆑奉㆓廻向㆒候也、毎事期後信候、恐ゝ謹言\n 承空\n 三月十九日\nこの書状は、永仁五年あるいはその前年三月十九日に出されたもので、その後、資経より返書があり、承空の手\n元で役目を終えて反故とされて、永仁五年三月二十八日の『伊勢集』の筆写に使用されたものと思われる。\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n115\nまず、承空から資経に対して、「万葉注」の返却が求められた。それに対し、資経は「彼二帖さ候へハこそ懈怠\n候て、猶未書終候、必今度可進候」と、まだ二帖ほど筆写が終わっていないので、今度必ずお返しします、という\n返答が寄せられた。\n次に、承空から、(資経から)お借りした家集十帖かと思ったが、十一帖を確かにお返ししましたと伝えると、\n資経からは「ー返給候了」と返却を確認した旨が返答されている。さらに「弘安年中御会一帖」もお返ししたと承\n空が記すと、「ー同給候了」と資経が返却されたと確認している。\nそこで新たに承空が、「家集何にても十帖許」いかなるものも見てみたいので、貸していただけないかと資経に\nお願いをすると、資経からは「頗る世間でも得難き」家集七帖が承空に貸し出されたことが知られる。おそらく、\nこの書状と一緒に、資経から承空の手元に七冊の家集が渡ったと考えてよいのではないだろうか。\nこの時の資経からの返書に「ただ仏法興隆之助成のために」という文言が見えることについて、田中氏は、次の\nように述べている。\n文学関係は資経が、反対に浄土教関係は承空が先達であった様子が読み取れる。承空と資経の繫がりが、文学\n方面だけでなく宗教面にもあったことは注目される\n( (\n3 (\n。\n傾聴すべき見解である。承空は、資経の信心に感謝し、「此御報答にハ息災延命御祈をしてまいらせ候へく」と資\n経の息災と延命を祈願して仏道に勤仕していくと綴っている。\n以上みてきたように、栖空が存命中の、永仁五年三月頃に、既に承空と藤原資経が歌書のやり取りをしていたこ\nとがわかった。この文書だけでも、承空から資経へ「万葉抄」が、資経から承空へ少なくない数の歌書の貸借が\nあったことが知られる。既に、藤本氏が承空本の祖本は資経本であると述べている\n( (\n3 (\nが、その貸借が単なる書籍のや\n116\nり取りだけでなく、仏教という宗教を介在する二人の人間関係の上に成り立っていたことがこの書状から読み取れ\nる。\n3\n 『道命阿闍梨集』の紙背文書\n最後に、『道命阿闍梨集』についてみていきたい。\n道命(九七四~一〇二〇)は、藤原兼家を祖父、道綱を父に持つ。母は源近広の女であった。早くに出家して天\n台座主・良源のもとで修業した。花山上皇や和泉式部などとも親交があったと伝えられる。晩年には天王寺別当に\nも補せられた。『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に五十七首入集する歌人としても知られている。\n『道命阿闍梨集』の紙背文書は、十四通を数える(【表5】)。そのほとんどが書状で、興味深いことに、承空が出\nしたと思われる書状二通も含まれている。宛先から何らかの事情で回収されたものか、あるいは案文だったのか、\n不明である。\nまた、この紙背文書の中では、承空と照空の間で交わされた勘返状も二通あり、今回は、聖教の貸借に関するも\nのである。照空は、このほか文書番号\n20\n(『小野篁集』)、\n57\n(『貫之集 上』)、\n75\n(『同 下』)、\n79\n(『増基法師集』)、\n101\n(『安法法師集』)、\n140\n(『元輔集』)、\n147\n(『重之女集』)、\n204\n(『基俊朝臣集』)にも見えている。承空と共に往生院\nの経営にかかわった様子がうかがえるが、別の機会に検討したい。この『道命阿闍梨集』の紙背文書を、年月日の\nわかるものを中心にすると、永仁四(一二九六)年秋から冬のものが大半を占める。\nさて、この『道命阿闍梨集』は、次のような奥書・勘物を持つ。\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n117\n【表5】 西山本『道命阿闍梨集』(永仁五年正月19 日筆写・西山)紙背文書\n西山本\n番号\n歌書名文書文書名年月日人名備考\n29\n道命阿闍梨集表紙オ151 某消息\n1\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n後欠か\n道命阿闍梨集表紙ウ151 某消息\n道命阿闍梨集1 オ151 某消息\n道命阿闍梨集1 ウ151 某消息\n道命阿闍梨集2 オ152 某書状\n2\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n後欠\n道命阿闍梨集2 ウ152 某書状\n道命阿闍梨集3 オ152 某書状\n道命阿闍梨集3 ウ152 某書状\n道命阿闍梨集4 オ153 承空書状(1)\n3\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n玄義五帖\n道命阿闍梨集4 ウ153 承空書状(1)\n道命阿闍梨集5 オ153 承空書状(1) 房主\n道命阿闍梨集5 ウ153 承空書状(1)\n道命阿闍梨集6 オ153 承空書状(2)\n道命阿闍梨集 6 ウ 153 承空書状(2) 4 △永仁4年10月21日 承空\n道命阿闍梨集7 オ153 承空書状(2)\n道命阿闍梨集7 ウ153 承空書状(2)\n道命阿闍梨集8 オ154 承空書状幷藤原資経勘返状\n5 △永仁4 年11 月5 日\n資経安楽集\n道命阿闍梨集8 ウ154 承空書状幷藤原資経勘返状承空\n道命阿闍梨集9 オ154 承空書状幷藤原資経勘返状資経\n道命阿闍梨集9 ウ154 承空書状幷藤原資経勘返状承空\n道命阿闍梨集10 オ155 定□書状\n6 △永仁4 年11 月21 日\n定□(信カ)\n道命阿闍梨集10 ウ155 定□書状菊御房\n道命阿闍梨集11 オ155 定□書状\n道命阿闍梨集11 ウ155 定□書状\n道命阿闍梨集12 オ156 某書状\n7\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n道命阿闍梨集12 ウ156 某書状\n道命阿闍梨集13 オ156 某書状\n道命阿闍梨集13 ウ156 某書状\n道命阿闍梨集14 オ157 承空書状幷照空勘返状\n8 △永仁4 年11 月21 日\n照空隆寛律師抄\n道命阿闍梨集14 ウ157 承空書状幷照空勘返状承空玄義抄\n道命阿闍梨集15 オ157 承空書状幷照空勘返状序文抄\n道命阿闍梨集15 ウ157 承空書状幷照空勘返状\n道命阿闍梨集表17 ウ158 某書状封紙\n9\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n蓮□(覚カ)御房\n道命阿闍梨集表18 オ158 某書状封紙\n道命阿闍梨集表21 ウ159 承空書状幷照空勘返状封紙\n10\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n照空\n道命阿闍梨集表22 オ159 承空書状幷照空勘返状封紙清和院殿\n道命阿闍梨集表23 オ159 承空書状幷照空勘返状封紙承空\n道命阿闍梨集24 オ160 某書状\n11\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n教念房後欠\n道命阿闍梨集24 ウ160 某書状如覚房\n道命阿闍梨集25 オ160 某書状\n道命阿闍梨集25 ウ160 某書状\n道命阿闍梨集26 オ161 某書状\n12\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n後欠\n道命阿闍梨集26 ウ161 某書状\n道命阿闍梨集27 オ161 某書状\n道命阿闍梨集27 ウ161 某書状\n道命阿闍梨集28 オ162 導蓮書状(1)\n13\n△永仁5 年正月19 日\n以前\n道命阿闍梨集28 ウ162 導蓮書状(1)\n道命阿闍梨集29 オ162 導蓮書状(1)\n道命阿闍梨集29 ウ162 導蓮書状(1)\n道命阿闍梨集30 オ162 導蓮書状(2)\n14 △永仁4 年10 月6 日\n導蓮\n道命阿闍梨集30 ウ162 導蓮書状(2) 玄観御房\n道命阿闍梨集裏表紙オ162 導蓮書状(2)\n道命阿闍梨集裏表紙ウ162 導蓮書状(2)\n△は推定される年年月日を示す。紙背文書はその性格上、歌書の筆写年月日より早い。\n118\n 以他本書加异\n能々校合了\n 建仁二年四月十六日\n道命法師\n傅大納言道綱卿息\n母\n天王寺別当阿闍梨\n永仁五年正月十九日\n於西山善峯寺北尾\n往生院菊房松窓\n書留之了\n 承空\n于時残雪満山似催於\n春花薄氷結池不異\n於冬水而已\nこれによると、建仁二(一二〇二)年四月に他本との校合を終えた祖本から、永仁五(一二九七)年正月十九日\nに承空が筆写し終えたというのである。この祖本が何かということが問題となるが、残念ながら伝存する資経本に\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n119\nは『道命阿闍梨集』は見当たらないため、不明のままである。\nまた承空が往生院から見える光景を句として記している。三十葉にも及ぶ長編の歌書を筆写し終えた解放感であ\nろうか。これ以外に、このような句を残している歌書は見当たらないのでめずらしい。この時、筆写をした場所が\n「西山善峯寺北尾往生院菊房松窓」と記されている。菊坊は、\n10\n『伊勢集』、\n18\n『山田集』、\n24\n『鴨女集』、\n34\n『藤三\n位集』、\n35\n『京極大殿集』、\n37\n『行尊大僧正集』、\n46\n『曽祢好忠集』の奥書に見えている。その数、八集を数える。\n「三鈷寺文書」には、往生院は「本堂一宇」のほか、「房三宇」であったと見える。先に、「静坊」が栖空の居所で\nあったと触れたが、菊房は承空の居所であったと考えてもよさそうである。\nこの紙背文書は、筆写し終えた永仁五年正月十九日以前のものと考えられる。この二か月後の三月二十八日に、\n先に触れた『伊勢集』が筆写されているので、文書番号\n47\n・\n48\nと\n154\nの書状は、同じ時期に交わされたか、反故前に\n同じ分類に分けられていた文書であったなどが推測され、近しい関係であったと考えられる。そこで、文書\n154\nを見\nてみよう。\n■文書番号\n154\n「承空書状幷藤原資経勘返状」(『道命阿闍梨集』8オ・8ウ・9ウ・9オ)\n(前欠)\n(異筆、以下同じ)\n 「給了」\n 「ー」「ー」「ー借進之候、」\n家集令返進候、万葉十三四十九廿同一度ニ\n120\n 「道命、安法、二帖進候、」\n又申出たく候、今度許にて候へハ無心も中ゝ\n不及申候、又良暹、永源、○(道命)、能因、□□(隆源)等候\n者申請たく候、必も是等にて候ハすとも、何\nにても可給候、今年中ニ必可返進候也、又\n 「ー」「ー給預候了、但直物いか程にて候哉、可承候、」\n安楽集二帖或人放候しを取候て推進候、浄土\n 「ー猶も可給候也、」\n書籍御志之由承候之間、随分懸于意候、善導\n尺等未感得候、是も無点に候へハ点たく候へ\nとも先進候、明春心閑申出候て可点進候欺、\n 「ー」\n毎事期後信候、恐ゝ謹言、\n 「資経」\n十一月五日 承空\n承空から家集が返却されたことに対し、資経は「ー」「給了」と確認をしている。また、この時に承空から「万\n葉十三四十九廿」が貸し出されたようで、資経は「ー借進之候」と受領した旨が一筆記される。その一方で、承空\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n121\nはさらなる歌書の貸し出しを所望し、「良暹、永源、○(道命)、能因、□□(隆源)等」を具体名として挙げてい\nる。\nそれに対して、資経からは「道命、安法、二帖進候、」として、『道命集』と『安法集』が貸し出されている。こ\nの二書は、西山本(承空本)歌書に含まれており、西山本\n29\n『道命阿闍梨集』、同\n17\n『安法法師集』として伝来し\nている。西山本\n29\n『道命阿闍梨集』も、同\n17\n『安法法師集』もともに永仁五年正月に筆写されている。前者は承空\n自身の手によって、後者は右筆によって筆写されている。何らかの理由によって、承空の手が回らなかったと考え\nられるが、こちらはカタカナではなく、漢字混じりひらがなで筆写されている。しかし、右筆が筆写したのは初め\nの一丁と最後の勘物と奥書だけで、中身は承空のカタカナで写されている。この二本の祖本は、この文書で借用し\nた資経本であると考えてよい\n( (\n3 (\n。また、書状の十一月五日は、このような事情から、永仁四年十一月五日であったと\n考えられる。\nこのように、承空が藤原資経にあてた書状において、これほど多くの書名が出てくるものは例をみない。書き出\nしてみると次のようになる。\n・万葉(集抄か)\n・良暹(集\n( (\n3 (\n)\n・永源\n・道命(阿闍梨集)本紙背に筆写。\n・安法(集\n( (\n3 (\n)\n・能因(集\n( (\n3 (\n)\n122\n・隆源\n( (\n3 (\n・安楽集\nである。最後の書籍「安楽集」は、承空が藤原資経に勧めた仏教書である\n( (\n4 (\n。このほか、承空は資経に勧めるべき\n「浄土書籍」について心にとめている様子がうかがえる。歌書の貸借と浄土書籍の貸借が、二人の人間的なつなが\nりをより強固なものにしていたことがうかがえる書状である。\n 藤原資経→承空 歌書\n 承空→藤原資経 万葉抄・安楽集など浄土宗関係書\nすなわち、和歌という文学(歌書の筆写活動)を仲介としながら、資経の抱く宗教的な信心と、それに応えよう\nとする宗教者としての僧侶・承空の姿が浮かびあがってくるのである。\n以上、三通の藤原資経関係の書状を検討した。推定される書状の日付や、貸し借りしている歌書の返却・貸出状\n況から考えると、三通の書状が出された順は以下のようになる。\n⑶文書番号\n154\n 承空書状幷藤原資経勘返状(『道命阿闍梨集』)永仁四年かそれ以前の十一月五日\n⑵文書番号\n47\n・\n48\n 承空書状並藤原資経勘返状(『伊勢集』)永仁五年かそれ以前の三月\n⑴文書番号\n83\n 藤原資経書状(『清正集』)永仁六年六月\nいずれも、栖空が示寂する前後を挟んでの交信であったことや、書状のやり取りが行われた場所には、西山往生\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n123\n院のほかに「室町宿所」もあったことがわかった。\n冷泉家時雨亭には、藤原資経が筆写した歌書が伝来する。それらは、資経本と呼ばれる。現存する資経本のなか\nに、永仁六年五月十五日の奥書を持つ『万葉集抄』がある。これを見ると、藤原資経は、承空から借りた『万葉集\n抄』などをもとに、この筆写を五月十五日に終えていることがわかる\n( (\n4 (\n。現在伝存する西山本には、『万葉集』に関\nする書籍は伝わらない。西山本の伝来過程において失われたのか、それとも何らかの理由で藤原資経のもとから返\n却されなかったのか、今となっては不明である。永仁六年に出された資経の書状⑴を最後に、西山本の紙背文書の\n中から資経の姿は見えなくなる。承空と資経の関係に何らかの変化が起きていると考えられる。それを解明するに\nは、西山本と資経本の関係を見直さなければならないであろう。資経本と西山本の関係については、先に触れたこ\nともあるが、本考察で得た承空と藤原資経の人的なつながりと、彼らが有する歌書を介在とするネットワークの広\nがりについては、今後も発展的に考えていきたい。\nおわりに\n西山本(承空本)は、鎌倉後期に京都西山にて筆写された歌書として貴重\n( (\n4 (\nなだけでなく、今日に至るその伝来過\n程も重要である\n( (\n4 (\n。さらに、歌書の紙背に残る文書(紙背文書)からは、当該期に西山・往生院や承空の周辺の人々\nさまざまな息遣いを伝えてくれる。まだまだ、検討すべき課題は尽きないが、本稿で得られた乏しい成果をまとめ\nたい。\n124\n本稿では、紙背文書から、鎌倉後期―永仁年間(一二九三~一二九九)―の西山往生院の生活の一端と歌書\nをめぐる承空と藤原資経との交流を明らかにすることを課題として設定した。\n1\n 西山本紙背文書を検討する際に、「紙の移動」を考慮することは意味のあることである。紙背文書と歌書の両\n側面から検討を行うことは、歌書の筆写活動が、文化的な活動であると同時に、きわめて政治的な背景を持つも\nのであったことを解明する手掛かりとなる。\n2\n 仏事関係の紙背文書から、永仁五年から六年にかけて、西山往生院に住侍した僧侶や往来した僧侶が合わせて\n三、四十名ほどいたことが判明し、大寺院ではない、洛外の中規模寺院の生態とネットワークの一端をうかがい\n知ることができた。\n3\n 歌書の貸借関係が注目されてきた、藤原資経と承空との間で交わされた書状の検討から、貸借された歌書だけ\nではなく、歌書の貸借が媒介する両者の人間関係が鮮明になった。文学を仲介としながら、藤原資経が抱く宗教\n的な信心とそれに応えようとする宗教者としての僧侶・承空の姿が浮き彫りになった。\n鎌倉御家人宇都宮氏に出自を持つ承空が、京都の小寺院である西山・往生院に住侍していたことは、宇都宮氏の\n鎌倉と京都を結ぶ社会活動とは無縁ではない。宇都宮氏は、祖父の頼綱(蓮生)の時代から、京都の藤原定家と結\nびついて、和歌を通じた文化・政治活動を行っていた。頼綱は出家後に、浄土宗の教祖である法然、さらには証空\nに師事したので、仏教界とのつながりも深い。このため、当該期の和歌、宗教、経済活動など複層的な活動の結節\n点にいた人物の一人が、承空であったといえる。\nまた、永仁年間という時代にも留意しなければならない。当該期の前後は、勅撰和歌集の選者の地位をめぐる二\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n125\n条・京極・冷泉諸家の対立が激化している時期でもある。これは、天皇家における皇位継承の両統迭立(持明院統\nと大覚寺統)と深く結びついていることは自明である。さらに、そのような視点から、「室町宿所」という承空の\n拠点が、いかなる政治や経済活動のネットワークにあったのか、ということは今後も検討していかなければならな\nい。今回の考察対象とした紙背文書は五通に過ぎない。今後更なる紙背文書考察の積み重ねが必要である。また、\nその過程で、それまでの仮説の一部を修正せざるを得ない状況が生じると考えられる。\n両統迭立期における、勅撰和歌集の選定という文化事業をめぐる政治的駆け引きや歌書の筆写や集積に着目して\nきた文学による研究、宇都宮氏に代表される東国と京都を結ぶ政治・経済活動の実態を解明してきた歴史学による\n研究、さらには鎌倉新仏教とも称される仏教の興隆期における小寺院の意義に関する宗教学・仏教史による研究を\n結びつけるために、拙い小稿がひとつの布石となることを期しつつ、ひとまず筆を擱きたい。\n注\n(1)掃部光暢・水野克比古『京都の古寺から 十九、善峯寺』(『善峯寺』(淡交社、一九九七年))。\n(2)多賀宗隼『人物叢書 慈円』(吉川弘文館、新装版は一九八九年、初版は一九五九年)。\n(3)証空に関する研究は少なくない。菊地勇次郎「西山義の成立―西山往生院の展開―」(『源空とその門下』所収、宝蔵館、\n一九八五年、初出一九五五年)、吉田清「善慧房証空」(『源空教団成立史の研究』所収、名著出版、一九九二年)など。大山喬\n平編著『京都大学文学部 博物館の古文書9 浄土宗西山派と三鈷寺文書』(思文閣出版、一九九二年)では、三鈷寺文書か\nら、特に所領の伝領関係から往生院の創立と伝領過程を明らかにした。後述する拙稿Aも参照。\n(4)栃木県立博物館特別企画展図録『中世宇都宮氏―頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族―』(二〇一七年)を参照。本書には三鈷寺所\n蔵の「宇都宮系図」(室町期写本)一巻、「同」(江戸期写本)一巻、「蓮生像」一幅、「証空像」一幅が見える。また、兵庫県西\n126\n宮市浄橋寺蔵「善恵上人伝絵」には、法然の講義を受ける蓮生と証空に法然の書状を手渡す蓮生や、往生院に多宝等を建立す\nる蓮生の姿が描かれており、法然と証空を結ぶ存在であったことがわかる。また、多宝塔を立てたのち、八条宿所で蓮生が念\n仏を唱えながら入滅した場面も描かれている。三鈷寺の華台廟には、証空と蓮生が祀られている。本図録の冒頭の永村眞「中\n世宇都宮氏とその信仰」では、社壇「宇都宮」に設置された念仏堂と止住した念仏衆、そこで行われた行・義について述べて\nいる。「三鈷文書」天福二(一二三四)年六月九日北条重時書状案(『鎌倉遺文』四六七〇号)によれば、頼綱は五月二十八日\n付で島津忠直が記した去状(『同』四六六八号)をもとに、山背国上久世荘内六町三段の土地の所有を六波羅探題の北條重時に\n認められ、当寺に寄進している。さらに永村眞「中世宇都宮氏とその信仰」(江田郁夫編『中世宇都宮氏―一族の展開と信仰・\n文芸―』所収、戎光祥出版、二〇二〇年)では詳説している。宇都宮氏の活動については市村高男「中世宇都宮氏の成立と展\n開」(『中世宇都宮氏の世界』所収、彩流社、二〇一三年)、山本隆志「関東武士の都・鄙活動―宇都宮頼綱―」(『東国における\n武士勢力の成立と発展』所収、思文閣出版、二〇一二年、初出二〇〇六年)、木村真理子「鎌倉時代京都周辺における宇都宮氏\nの活動と人的つながり」(『栃木県立文書館研究紀要』二十一号、二〇一七年)、江田郁夫編『中世宇都宮氏(戎光祥中世史論集\n9)』(戎光祥出版、二〇二〇年)など。\n(5)三鈷寺ホームページhttps://sankoji-kyoto.com/access/(二〇二三年十月三十日閲覧)。証空の京都、特に祇園小坂での活動に\nついては、高橋慎一朗「証空の小坂住房をめぐる一考察」(『日本中世の権力と寺院』所収、吉川弘文館、二〇一六年、初出\n一九九八年)を参照。また、西山派と二条家との接点については、同「西山派と二条家の人々」(『同』所収、初出一九九七年)\nでも触れられている。大山前掲注(3)では、法系の継受とともに、観性と慈円、慈円と証空の関係を三鈷寺文書から綿密に\n分析する。特に、建保三年正月付阿闍梨寛縁・聖弘注進状は、当時の往生院の経済的基盤を考える上では重要である。それに\nよれば、往生院には「房三宇」「本堂一宇」から構成されていたことが知られる。\n(6)後述する拙稿Aを参照。\n(7)京都における拠点として、『宇都宮市史三 通史編・中世』(一九八一年)では、三つの拠点を上げている。一つ目は、錦小路\nと富小路の交差点にあった宇都宮邸(現在の京都市中京区東魚屋町・鍛冶屋町周辺)。『明月記』嘉禎元(一二三五)年閏六月\n二十日条による。山本前掲注(2)論文によれば、八条にも「宿所」を持っていた。また、頼綱妻(藤原為家の室の母)の京\n内の居所も流しておく必要があるとする。一二八頁。二つ目は、洛南にあったとされる蓮生寺(現在の京都市西京区下津林楠\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n127\n町)に蓮生塔が残る。https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8\u0026tourism_id=937(二〇二三年十二月二日閲\n覧)。三つめは、嵯峨の小倉山周辺にあった中院山荘(現在の京都市右京区嵯峨二尊院門前北中院町あたり。厭離庵周辺とも、\n二尊院周辺とも、常寂光寺周辺ともいわれる)。前掲した『宇都宮市史』では、この中院山荘は、湛空が法然の遺骨を納めた二\n尊院周辺であることに意味があるとする。一九〇~一九二頁。\n(8)『信生法師日記』(新編日本古典文学全集、小学館、一九九四年)。下野新聞社編集局編『中世の名門宇都宮氏』(下野新聞社、\n二〇一九年)も参照。前掲注(7)『宇都宮市史』、二九三~三〇五頁。\n(9)天台宗の僧定照と法然の弟子隆寛との『選択本願念仏集』をめぐる論争が激化し、延暦寺の衆徒が、専修念仏者を弾圧する行\n動に出た。さらには、天台座主が朝廷に、隆寛・幸西・空阿・証空など浄土宗僧の流罪と、東山にある法然の墓の破壊、法然\nの遺骸を鴨川へ破棄することを訴えた。先手を打った空阿たちが、法然の遺骸を掘り起こし、蓮生らと鎌倉御家人に守られて、\n嵯峨の二尊院、太秦の広隆寺、さらに西山粟生の念仏三昧院に運びこんだ。その地で荼毘に付された。念仏三昧院は、もとも\nと蓮生(熊谷直実)が開いたが、嘉禄の法難ののち、勅額を賜与されて、光明寺となった。京都市知恩院蔵『法然上人絵伝』\n巻四十二にはその様子が描かれている。\n(\n10\n)『宇都宮家弘安式条』(『宇都宮市史二 中世資料編』所載、一九八〇年、八三~九五頁)第二条には、「累祖之氏寺」として、\n神宮寺(下野国宇都宮)、尾羽寺(地蔵院阿弥陀堂、下野国芳賀郡)とともに、京都西山にある往生院、善峯堂らの堂塔庵室等\nを修理すべきことを掲げている。\n(\n11\n)拙稿A「歌僧・承空の基礎的考察―『篁物語』書写の歴史的背景―」(『国士舘人文学』九号、二〇一九年)。同B「西山本(承\n空本を含む)の基礎的考察―花押と奥書から見た筆写活動―」(『同』十一号、二〇二一年)。同C「承空本(西山本)『小野篁\n集』紙背文書に関する覚書―鎌倉末期における西山往生院と室町「周辺」―」(『同』十二号、二〇二二年)。同D「中世藤原家\nにおける歌書の伝来と西山本(承空本を含む)―御子左家の分裂と歌書群の伝来過程―」(『同』十三号、二〇二三年)。同F\n「『篁物語』の成立と篁伝承の展開―小野篁の実像と虚構をめぐって―」(『同』十四号、二〇二四年公刊予定)。\n(\n12\n)藤本孝一「解題・本巻所収紙背文書の書誌」(冷泉家時雨亭叢書『冷泉家歌書紙背文書 下』所収、朝日新聞社、二〇〇七年)。\n(\n13\n)藤本前掲(\n12\n)論文によれば、②の料紙の使い方をしているのは、『増基法師集』であるという。また、『大中臣輔親集』や本\n稿でも触れる『伊勢集』、『貫之集 下』なども特徴的な料紙の綴じ方をしているとされる。\n128\n(\n14\n)拙稿C参照。\n(\n15\n)拙稿D参照。\n(\n16\n)中村一夫「『篁物語』諸伝本の分類と古態性についての試論」(『国士舘人文学』十二号、二〇二二年)、同「『篁物語』の表現の\n古態性―音便形を中心にして―」(『同』十三号、二〇二三年)。松野彩「承空本『小野篁集』注釈の試み(1)―篁と異母妹の\n出会い―」(『同』十二号、二〇二二年)、「承空本『小野篁集』注釈の試み(2)―篁と異母妹の出会い(後半)・師走の月夜の\n場面―」(『同』十三号、二〇二三年)。\n(\n17\n)拙稿B参照。\n(\n18\n)「文化遺産オンライン」で京都国立博物館蔵「三鈷寺文書」(十一通)を閲覧することができる。https://bunka.nii.ac.jp/\nheritages/detail/134347(二〇二三年十一月九日閲覧)。それによれば、この十一通は一巻に仕立てられて、「その内容は三鈷\n寺領山城国紀伊郡石原庄、京都府乙訓郡長岡庄、富坂庄の伝領関係文書で、立券あるいは雑役免等平安時代における三鈷寺領\nの成立、運営の実状を明らかにして」いるとされる。\n(\n19\n)拙稿C参照。論文。\n(\n20\n)吉田前掲注(2)論文によると、建保四年に松尾坊一宇を証空は聖弘から譲り受けている。ここは観性の居所であった。栖空\nは北尾。\n(\n21\n)拙稿D参照。\n(\n22\n)藤平泉「正応・永仁期の歌書書写活動について―善峯寺往生院における文学活動―」(『古典論叢』十七号、一九八七年)。藤平\n氏は、時雨亭文庫所蔵承空本が公刊される以前の研究成果であるが、承空の筆写活動を取り上げた最初の専論である。\n(\n23\n)藤本孝一『本を千年つたえる』(朝日新聞出版、二〇一〇年)。\n(\n24\n)『尊卑分脈』二巻二八頁。\n(\n25\n)国際日本文化研究センター・和歌データベースによれば、「拾遺集」頃までには既に成立していたかとする。https://lapis.\nnichibun.ac.jp/waka/waka_i094.html(二〇二三年八月十八日閲覧)。\n(\n26\n)『冷泉家時雨亭叢書 承空本私家集 上』(朝日出版社、二〇〇二年)新藤協三氏による解題。\n(\n27\n)田中倫子「解題・一 承空本」(冷泉家時雨亭叢書『冷泉家歌書紙背文書 下』所収、朝日新聞社、二〇〇七年、一〇六頁)。\n京都西山・往生院の承空と藤原資経 ―西山本・紙背文書からのアプローチ―\n129\n(\n28\n)田中前掲注(\n27\n)「解題」、一〇二頁。\n(\n29\n)いわゆる満中陰のことか。四十九日が過ぎたとすると、六月五日以降に本状がしたためられたと考えることができる。\n(\n30\n)拙稿Cも合わせて参照。\n(\n31\n)承空と資経の、「万葉抄」の貸借については、解釈がわかれる。藤本孝一氏は、資経が、承空に貸したと解釈されている(前掲\n注(\n23\n)著書『千年本をつたえる』、一一〇~一一一頁)。一方で、田中倫子氏は、資経が承空から借りたものと解される(前\n掲注(\n27\n)「解題」、一〇二頁)。\n(\n32\n)平野由紀子校注「伊勢集」・解説(新日本古典文学大系『平安私家集』所収、岩波書店、一九九四年)。\n(\n33\n)田中前掲注(\n27\n)「解題」、一〇二頁。\n(\n34\n)藤本孝一前掲注(\n23\n)著書、一一〇頁。同(「冷泉家時雨亭文庫蔵本の書誌学 その十六 伝来の歴史」本叢書第五十巻月報、\n二〇〇六年、および「同 その二十 伝来の歴史」本叢書第七十一巻月報、二〇〇七年)で既に述べられている。\n(\n35\n)『安法法師集』の資経本\n20\nは、「永仁二正七書了」と見え、この日三つの歌書を藤原資経は筆写したことが記されている。『冷泉\n家時雨亭叢書 資経本私家集 二』(朝日新聞社、二〇〇一年)。\n(\n36\n)天台宗の僧侶で、晩年は雲林院に住持したという。歌人として、長暦二(一〇三八)年の「権大納言師房家歌合」など歌合せ\nに参加している。「後拾遺和歌集」以下に入集。\n(\n37\n)僧侶で歌人。嵯峨源氏の出身で、左大臣を務めた源融は曽祖父にあたる。の曾孫にあたる。父は内蔵頭・源適。母は大中臣安\n則の女。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に十二首が入集。家集に『安法法師集』がある。\n(\n38\n)僧侶で歌人。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に六十七首が入集。歌集に『能因集』があり、歌学書『能因歌枕』なども表わ\nしている。\n(\n39\n)天台宗の僧侶で歌人。父は藤原通宗。叔父にあたる藤原通俊を補佐して『後拾遺和歌集』の編集にあたった。「堀河院百首」の\n歌人のひとり。『金葉和歌集』以下の勅撰集に十首が入集。\n(\n40\n)田中前掲注(\n27\n)「解題」、一〇二頁。『安楽集』は、中国・唐僧の道綽の記した著作で、浄土宗においては重要な書籍とされて\nいた。浄土宗全書テキストデータベース・WEB版新纂浄土宗大辞典(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php 二〇二三年\n十一月三十日閲覧)。\n130\n(\n41\n)「万葉集抄」の奥書には、\n永仁六年五月十五日書写了。本不審多。定狼藉事歟。\n抑此抄範永朝臣撰之由伝聞、又奥載彼名字。\n然者雖不可有疑、今抄见手柏之尺、範永朝臣任大和国司之時、過奈良坂云々。\n件朝臣為自抄者、何可載朝臣之字哉。今案若範永以後之人撰之歟。\n以証本可尋校也。\n 藤原資経(花押)\n おそらく承空から借用していた書籍も座右にあったのではないかと考えられる。竹下豊「解題」(『冷泉家時雨亭叢書\n39\n 金\n沢文庫本萬葉集 中世万葉学』所収、朝日新聞社、一九九四年)。\n(\n42\n)拙稿F参照。\n(\n43\n)拙稿D参照。\n[付記]\n本研究は、公益財団法人三菱財団人文科学助成(二〇二二年度・「西山本(承空本)紙背文書の基礎的研究―中世における西山往\n生院・承空を取り巻く人的ネットワークの解明―」)による研究成果の一部である。西山本(承空本を含む)紙背文書の整理とデー\nタ化を実施した。この文書は、京都冷泉家の時雨亭蔵書であるため、整理、データ化にあたっては、朝日新聞出版『時雨亭叢書』に\n収められている『冷泉家歌書紙背文書上・下』(朝日出版社)を使用した。また、整理とデータ入力については、本学大学院修士課\n程の田中雄大・安原由雅両氏の尽力を得た。ここに謝意を表する。"}]}, "item_30001_alternative_title1": {"attribute_name": "その他のタイトル", "attribute_value_mlt": [{"subitem_alternative_title": "Shoku at Oujo-in Temple, Nishiyama, Kyoto and FUJIWARA Suketusne : A study based on the approach from Nishiyama-hon and Paperback Documents", "subitem_alternative_title_language": "en"}]}, "item_30001_bibliographic_information17": {"attribute_name": "書誌情報", "attribute_value_mlt": [{"bibliographicIssueDates": {"bibliographicIssueDate": "2024-03-20", "bibliographicIssueDateType": "Issued"}, "bibliographicPageEnd": "130", "bibliographicPageStart": "77", "bibliographicVolumeNumber": "28", "bibliographic_titles": [{"bibliographic_title": 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京都西山・往生院の承空と藤原資経 : 西山本・紙背文書からのアプローチ
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文
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Item type | 雑誌記事(1) | |||||||||||
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公開日 | 2024-04-13 | |||||||||||
タイトル | ||||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
タイトル | 京都西山・往生院の承空と藤原資経 : 西山本・紙背文書からのアプローチ | |||||||||||
その他のタイトル | ||||||||||||
その他のタイトル | Shoku at Oujo-in Temple, Nishiyama, Kyoto and FUJIWARA Suketusne : A study based on the approach from Nishiyama-hon and Paperback Documents | |||||||||||
言語 | en | |||||||||||
見出し | ||||||||||||
大見出し | 論文 | |||||||||||
言語 | ||||||||||||
jpn | ||||||||||||
作成者 |
仁藤, 智子
× 仁藤, 智子
WEKO
23215
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キーワード | ||||||||||||
西山本, 紙背文書, 承空, 西山往生院, 藤原資経, 宇都宮頼綱 | ||||||||||||
書誌情報 |
ja : 国士舘史学 en : Kokushikan shigaku 巻 28, p. 77-130, 発行日 2024-03-20 |
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出版者 | ||||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
出版者 | 国士舘大学史学会 | |||||||||||
NCID | ||||||||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||||||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||||||||
注記 | ||||||||||||
内容記述タイプ | Other | |||||||||||
内容記述 | 本研究は、公益財団法人三菱財団人文科学助成(二〇二二年度・「西山本(承空本)紙背文書の基礎的研究―中世における西山往生院・承空を取り巻く人的ネットワークの解明―」)による研究成果の一部である。西山本(承空本を含む)紙背文書の整理とデータ化を実施した。この文書は、京都冷泉家の時雨亭蔵書であるため、整理、データ化にあたっては、朝日新聞出版『時雨亭叢書』に収められている『冷泉家歌書紙背文書上・下』(朝日出版社)を使用した。 | |||||||||||
資源タイプ | ||||||||||||
資源タイプ識別子(シンプル) | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||||||||
資源タイプ(シンプル) | departmental bulletin paper | |||||||||||
出版タイプ | ||||||||||||
出版タイプ | VoR | |||||||||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 |