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(\n。また幕末期においてすでに、攘夷論の象徴としての像が築かれたことも指摘されている\n( ( (\n。\nところで、上記の明治以後の松陰像は、徳富に代表されるような著作等に表された像を中心に検討が進められて\nきた\n( ( (\n。しかし、人物や史跡の顕彰という視点においては、中央政府と地域の関係性が指摘されている\n( ( (\n。そこでは例\nえば、帝国議会開会前に、政府が「民心統合」に宗教を利用して、歴史と「共感の構造」・公共性を創出しようと\n44\nしたとの主張がある。また、議会開会後には、政府は維新後の内乱の和解を呼びかけ、日清戦争、日露戦争を経て\n「郷土愛」と「愛国心」とのつながりが地域社会へ拡大していくとされる。\nこのような中央政府と顕彰や地域とのかかわりを考えるとき、松陰像の変遷に政府はどのように関わったのかを\n検討することは、見落とせない視点となろう。そこで本論では、明治期、政府の中枢を担った長州藩関係者がどの\nように松陰と向き合ったのかを検討する。とりわけ、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎、野村靖らが中\n心となる。彼らは安政四年(一八五七)から翌年にかけて松陰が教育に当たっていた松下村塾出身とされる\n( ( (\n。近現\n代を通して様々な像が構築され続けてきた松陰であればこそ、政府中枢における松陰への向き合い方を検討するこ\nとは、明治維新のみならず、近代国家の在り方の一端を明らかにすることにつながると考えられる。\nなお、年代表記については、明治五年(一八七二)までは和暦(西暦)とし、それ以後は西暦とした。史料引用\nに際しては、旧字を新字に、カナを平仮名に改め、適宜句読点および( )で筆者による補注と訳を加えた。長州\n藩の表記については、明治二年(一八六九)の版籍奉還後から明治四年(一八七一)の廃藩置県までは山口藩であ\nり、それ以前は「藩」の正式名称はなく、廃藩後は山口県となるが、すべて長門・周防を合わせて長州藩と統一し\nた。また松陰神社は、一八八二年に東京、一九〇七年に萩に創立されるが、本稿では特に断らない限りは東京の松\n陰神社を指すものとする。\n一 維新の象徴\n現在、東京都世田谷区若林の松陰神社がある場所は、もともと長州藩が延宝二年(一六七四)、若林村の志村勘\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n45\n左衛門の所有地一万八三〇〇坪を、江戸都市部の火災に備えて購入した一部にあたる\n( ( (\n。もともとは非常時のための\n土地確保であったが、幕末には焔硝蔵が設けられるなど、その活用には大きな変化があった\n( ( (\n。安政三年(一八五六)\nには、百姓が蔵へ焔硝が積み込まれたと聞いて怖がっているので、蔵が見えないように大土手を築いて欲しいと、\n若林村名主等から村役人へ嘆願書が提出されている\n( ( (\n。\n松陰神社創立へとつながるような同地と吉田松陰の関係は、松陰死後のこととなる。安政六年(一八五九)一〇\n月に吉田松陰は安政の大獄により死刑となり、文久三年(一八六三)正月に小塚原から同地へ改葬されたとされ\nる。しかし、元治元年(一八六四)、禁門の変により長州藩が朝敵となった後、同地は幕府が取り上げ、墓等も壊\nされたという\n( ( (\n。その後、慶応三年(一八六七)一二月に長州藩の朝敵扱いが解け、同月の王政復古による新政府樹\n立、鳥羽伏見の戦いを経て、長州藩は薩摩藩と並び新政府を主導する立場となった。\nそして、明治元年(一八六八)九月、長州藩は政府へ、若林の元所有地を長州藩へ渡すよう願い出、許可を得\nた\n(\n(1\n(\n。同年、新政府の首脳部の一人となっていた長州藩出身の木戸孝允らは藩命を受けて、松陰の墓等を若林の霊場\nに建てたようである\n((1 (\n。現存する木戸の名が刻まれた鳥居もこの時のものと考えられているが、「大政一新之歳」と\nあるのみで、正確な月日までは不明である\n(\n(1\n(\n。\n木戸は、明治元年一〇月、明治天皇の東幸に供奉して東京(同年七月一七日、江戸から改称)へ赴いた。この東\n幸と翌年の再幸は、木戸ら新政府首脳部が京都から東京へと国家の中心を移すことを計画して推進したものであっ\nた。京都出発後、木戸は一七年前に初めて江戸へ出た時に思いを巡らし、その後の天地の「千転万変」に想いを馳\nせた。安政の大獄前後の松陰との関係、松陰の小塚原への埋葬、若林への改葬と同地の幕府没収等、現在に至る変\n転を頭に浮かべている\n(\n(1\n(\n。そして、木戸は「今日、生存して未曾有」の「盛事に遭遇」しているが、当時の同志は見\n46\nることができず、悲喜交々であると感慨を記した。同時に、長州藩内等から新政府への不平が多い現状を鑑み、国\n家の「前途」に苦慮を呈した\n(\n(1\n(\n。\n木戸はこの前後、自身が文久三年(一八六三)に江戸を立って以来、初めて同地を踏むことを受けて、その間の\n変転と当時の「同志」の多くが生存しないことに想いを馳せ、感慨一入という内容をしばしば記している\n(\n(1\n(\n。\nこのような木戸が明治元年(一八六八)、松陰墓地等の整備に関与していたことを考えると、それは、江戸(東\n京)に象徴される中央政治の表舞台への長州藩の復権(それも国家を主導する立場として)を示す意義を持ったと\nいえる。さらに、新国家体制を切り開いた一端を、長州藩とその関係者が担ったというアピールであったのだろ\nう\n(\n(1\n(\n。同時に、木戸のように今後の国家創設の困難を考慮した時、それは、新国家の根源は、欧米列強の脅威を前に\n国家の維持を図るため、国家体制の変革を求めて艱難を極めた幕末にあることの提示でもあった。明治初年の松陰\nは、まさに維新の象徴としての意味を持っていたといえよう。\nこの後、明治二年(一八六九)七月には長州藩の整武隊長官(山田顕義と考えられる)らが墓前に至る石畳を寄\n進した。山田は松下村塾出身の一人とされ、同時期は戊辰戦争における青森口陸海軍参謀として箱館での戦いを終\nえた後であった\n(\n(1\n(\n。同年一〇月には祭事が行われた。山田や野村靖等、松下村塾関係者だけではなく、同藩出身の広\n沢真臣(参議)や御堀耕助(前御楯隊〔後、整武隊〕総督)らも参加した\n(\n(1\n(\n。松陰との直接の関りの有無は別に、長\n州藩の維新の象徴としての松陰像への祭事であったといえる。その後、明治三年(一八七〇)一一月には、諸藩が\n藩邸などとして所有している土地の上地に対し、長州藩は歎願を出し、従来通り長州藩による管轄が認められた\n(\n(1\n(\n。\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n47\n二 立憲国家創設期の相克\n1\n 松陰神社創立\n⑴国会開設に向けて\n松陰神社の創立は、一八八二年五月二五日に東京府へ請願を出し、六月二〇日に許可がおりた\n( (\n2 (\n。場所はおよそ一\n丁で駅・市を隔てて数丁、高さが二層になっていて神社はその上層にあり、前面は田畑で高燥、眺望はよかったよ\nうである\n( (\n2 (\n。この後、松下村塾出身の品川(当時、農商務大輔)と野村(当時、駅逓総監)が中心となって、長州藩\n関係者などから松陰神社創立についての寄付金を集めた\n( (\n2 (\n。神社は一一月末までには落成し、四月に小祭、一一月\n(一八八五年以降一〇月)に例祭を行うこととした(本稿においてはこの後、すべて祭典と表記を統一する)。\n松陰神社の創立は、一八八一年の政変で大隈重信が参議から追放され、同日、国会開設の詔が発布された翌年の\nことである。一八八一年の政変時、薩長が提携して今後の方針を立てた際、長州藩出身の参議伊藤と井上馨は、同\n参議山県、山田と品川(内務少輔)へ次のように書き送った。「天下之形勢不容易、此上因循姑息に過る時は土崩\n瓦解、竟に不可如何、僕等期一死欲為国家有所計画、願くは速に来り僕等と力を尽すべし、僕等今已に黒田参議之\n宅に在り」(訳:天下の形勢が容易ならず、この上、因循姑息に過ぎる時は土崩瓦解し、ついに如何ともできなく\nなる。我々は一死を期して国家のために計画しようと欲す。願わくは、速やかに来て我々と力を尽くすべし。我々\nは今、すでに黒田清隆参議の宅にいる\n( (\n2 (\n)。政変前、政府における長州藩出身要職者は、今後の国家の一大改革を見\n据えて、結束を固めていたのである。\n48\nそして国会開設の詔の発布後、各府県で「政党団結」が「大流行」し\n( (\n2 (\n、自由民権運動が活発化する中、松陰神社\nは創立された。創立と同時期、井上は山田へ次の書状を送った。\n「府県会規則之事其他之事件に付而も、参議銘々之論説を地方え伝話候時は自ら迷惑を生し可申、且将来収税\n其他之都合も克々内部御互之議論を同一に帰着せしめ候事第一と奉存候、山県、松方等えも内話候処至極尤と\n之事に候、就而わ来る廿日朝八時於官宅、両参議も来会之筈に御座候、是非とも御差繰を、同日先内話を以基\n本相定め致度候、此議に付而は過日老台も既に御懸念に有之候、其後西郷も帰り候はゝ凡て会合候而、収税之\n目的幷海陸軍之拡張之順序等もい細話合候而、将来確乎として着手不致候而は、実に事を誤る之初歩を成す様\n立至り可申と苦心に不堪\n( (\n2 (\n」\n(府県会規則、その他のことについても、参議が銘々の論を地方へ伝えた場合は自ずから困難を生じるだろう。\nかつ将来、収税その他の都合もよくよく内部で互いの議論を同一にしておくことが第一だと考える。山県、松\n方正義(両参議)等へも話したところ、至極尤もとのことであった。ついては、二〇日の朝八時に官舎へ両参\n議も来会するはずである。是非とも山田も御差し繰り、来会を望む。同日、まず相談して基本を定めたい。こ\nのことについては、先日、山田も既に懸念されていたことである。その後、西郷従道(参議)も帰れば会合\nし、収税の目的ならびに海陸軍の拡張の順序等も委細を話し合って、将来に確乎として着手しなければ、実に\n事を誤る一歩となるだろうと苦心に堪えない。)\nここからは、井上らが国会開設後の政府と議会が対立するであろうことを踏まえて、まずは政府内部での方針統\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n49\n一、とりわけ薩長出身参議間での統一を図ることを極めて重視していたことがわかる(参議伊藤は欧州へ憲法調査\n中で不在)。それは、政府首脳部と地方の接点となる府県会の場を通して、政府の方針が混乱や誤解をもって伝わ\nらないことに配慮する必要があることも意味していた。とりわけ国防に直結して国家の存続に関わる収税と海陸軍\nの拡張に対し、国会開設後、議会からの反発が予想されるため、それに対応できる政府内部の体制を築こうとして\nいたことがわかる。松陰神社の創立は、このような政府内の団結が考慮されていた時期のことで、新たな立憲国家\n体制構築を前に、長州藩関係者の結束を図る狙いもあったものと考えられよう。\n創立後の祭典をみてみると、一八八九年には松陰神社での祭典は毛利家家扶(河野通三)、東京の料亭紅葉館で\nの集会は品川、野村両氏が取り計らい、毛利邸から紅葉館へも一人は出張する段取りが組まれている\n( (\n2 (\n。創立時の寄\n付金関係に留まらず、松陰神社に関する実際の取り仕切りは品川と野村が中心となっていたのであろう\n( (\n2 (\n。\n品川は、神社創立前から、萩の杉民治(松陰兄)と連絡を取っていた。杉は松陰の石摺などを品川へ送り\n( (\n2 (\n、品川\nからも東京で作成した松陰書状の石板摺りなどが杉へ届けられた。杉はそれを「同志」の人へ配布したいと考え、\nまず境二郎へ送ったと品川へ報告した\n( (\n2 (\n。境は松下村塾出身で、この後、一八九〇年には萩の松下村塾の建物の保存\nを志し、かつての同窓生から有志を募り、品川らの賛同を得て保存会を発足させた人物である\n( (3 (\n。杉は松陰の詩集や\n書状、さらには松陰と師弟関係にあったとされる久坂玄瑞や高杉晋作らの書状も石板などを作成して配布したいと\n考えていた\n( (\n3 (\n。松陰および松下村塾の痕跡を次世代へ残すことを希望していたのである。このような杉と品川は保存\n等に対する意識は共通であったものの、政治的要素の有無では温度差があったとも考えられよう。\n⑵攘夷論の松陰像への危惧\n50\nところで、松陰神社の寄付について、井上から品川へ出された次の書状がある。\n「先年松陰先生洋行之企望又西山一件等は、攘夷論之如く頑連よりは思想候得共、心事は其に非す。付而は松\n陰神社之寄附も攘夷論点よりとならは曲従する不能候得とも、克く其節之精神たる源因頑論に非すと云義に候\nはゝ、御同門同様に寄附可仕候。就而は則捺印之上帳面呈上仕候\n( (\n3 (\n。」\n(かつて松陰先生が洋行を希望したこと、また西山一件などは、攘夷論のように頑迷連中からは考えられてい\nるけれども、松陰の心事はそうではない。ついては、松陰神社の寄付も攘夷論の点からならば自分の意思を曲\nげて従じるわけにはいかないが、よくその時の精神の根源は頑迷論ではないということであれば、松下村塾の\n御同門同様に寄附しよう。ついては、捺印の上、帳面を呈上する。)\n井上は松下村塾の出身ではなく、松陰に師事していないが、松陰神社のための寄付には品川の求めに応じた。た\nだし、松陰のアメリカ船での密航計画などが、一部の人々の間では強硬な攘夷論と誤解されていることを危惧し、\n松陰神社の目的が対外強硬論と結びつかないよう、品川に釘を刺したのである。\nこのように松陰神社は、松陰に師事した者以外からの寄付も集めて成立した。それは、国会開設を見据えた薩長\nを中心とする政府内部において、とりわけ長州藩関係者の合致協力と、それを目に見える形で提示するための象徴\nとして築かれた節がある。しかし、当初から松陰をめぐる解釈や、その後の国家構想の展開は同一ではなかったと\nもいえる。\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n51\n2\n 松陰の贈位と「異心同体」\n一八八九年二月一一日、大日本帝国憲法発布日に、松陰は藤田東湖、佐久間象山と共に、正四位を贈られた。同\n日、西郷隆盛へ正三位が贈られた。これを期に幕末期の政治運動の犠牲者や、旧各藩の尊攘派の主要人物たちへの\n贈位が進んだ。憲法発布・議会開設という形での近代国家を生み出した原動力として、彼らの功績が認められたこ\nとを意味したとされている\n( (\n3 (\n。贈位前年の一八八八年九月、黒田清隆内閣の下で内務大臣であった山県は、品川に松\n陰の履歴書送付を求めており\n( (\n3 (\n、彼らを中心に贈位が進められたものと判断できる\n( (\n3 (\n。\n一八八九年四月、憲法発布時に欧州にいた山県は、日本の品川へ次の内容を書き送った。「防長俱良部」は昨年\n一二月一六日に開会して好結果を得たと拝承した。一方ならずご尽力のことと思う。この日は、二五年前、「国是\n挽回」を「祈願」して「参籠」した日に当たることは、実に「奇遇千万」、品川からの手紙を一読して「満腔感旧\n之情」にたえない。品川の言う通り、「人心を総攬する人物に乏しき」の「一点」は、この先「煩念」にたえない。\nなお「県治上、障碍を与」えず纏まるよう、計画を立ててくれることを希望する\n( (\n3 (\n、と。\nこの防長俱楽部は、政府が市町村制を発布し、国会の開設も一年後となり、維新第二の大業が迫る中、全国各地\n方は政社を起こし、政党を結んで準備するべきところ、「我地方(山口県)」は「優柔不断」で「偸安」の形状であ\nることを「痛嘆」した結果、設立されたものであった。「善良」なる「自治制度」を「死物」とせず、ますます\n「成育」して「立憲政体の美を発揚する」ことを主眼とした。そのために「我地方の団結を固め」、国家の体制に随\nい、「自治の政を講」じ、「維新第二の大業を翼成する」ことが目的であった\n( (\n3 (\n。\n発起人には、山口県各郡の有力者が名を連ねた。もっとも、主導者については、次のような新聞記事が掲載され\nた。「県会議長吉富簡一、其他の発起にて当地に組織したる防長俱楽部は、旭日の東天に昇るが如き勢力ありて、\n52\nすでに二千余名の会員加入者ありたりと。通信社は同会が果たして井上伯(井上馨)の精神より出たる自治主義の\n下に立かは噂までにて、これを確信する事を得ざるも、吉富簡一氏を井上伯と水魚の交りありて、已に防長俱楽部\n設定の事の如きは過般上京中に発企したるものなる事、同会が自治を研究するを以て目的となす事」などは疑いを\n入れない事実である\n( (\n3 (\n、と。\n新聞に依拠するならば、防長俱楽部は井上が地方自治の定着と発展を求めて発起を企画し、それに山県や品川ら\n長州藩出身の中央政府関係者が賛同した結果、組織されたということになる。実際、井上は一八八八年頃から「自\n治主義」の根を下ろすことを考え、政府と提携しうる政党の設立を望み始めていたことが明らかにされている\n( (\n3 (\n。\n同時に、山県や品川らは、山口県下における自由党、改進党の隆盛を留めようとの意図をもっていた\n( (\n4 (\n。新聞が、\n防長俱楽部が井上の考えに沿って自治を求めるかどうかまでは定かではないと記した通り、その先行きは不透明で\nあった。そもそも政府側において、井上の自治と、県治に支障が出ないよう纏める人物を希求していた山県らの自\n治が、完全に一致していたとは言い切れない側面も窺える\n( (\n4 (\n。\n一八八九年には伊藤、山県ら長州藩出身の政府首脳部らは山口県会議員が民党に引き込まれないようにするため\nに、山口市の亀山公園に毛利敬親ならびに四支藩主の像を建設する計画を立てた(除幕式は一九〇〇年四月)。憲\n法発布後、初の統一地方選挙を控えるという新たな国家運営を前に、防長二州の団結による維新の象徴として毛利\n敬親らを取り上げたのである\n( (\n4 (\n。このような情勢下で行われた松陰への贈位は、長州藩関係者にとっては、幕末の功\n績の承認と同時に、今後の国政に向けた結束の象徴としたい意図も働いていたものと考えられよう。\nこのように中央政府関係者が動く中、松陰甥の吉田庫三が、防長俱楽部の設立に反対する等、改進党系に与する\n動きを見せた。品川は、杉民治からの歎願もあって、吉田を山口県から引き離そうとし、改進党に与しないよう忠\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n53\n告もした。しかし、吉田は伊藤が防長俱楽部設立に反対していると触れ回り、その円滑な運営を妨げようとし、言\n動は過激になった。品川は「吉田松陰先師に対し、今日までは忍び〳〵て転任のことも伊藤」へ頼んでいたが、\n「庫三一己人の為めに防長人民の不幸を来たす\n( (\n4 (\n」事を嘆いている。松陰の関係者が今後の国政を乱すことを回避し\nたい思いが強かったのである。\n先に山県が、二五年前の幕末期に国家の行く末を案じていたことを回顧し感慨を抱いていたように、憲法制定、\n国会開設という大きな節目を前に、近代国家体制の一段落への安堵と、その後の国政への危惧が、国家存続の危機\nを前に尽力した幕末来の人のつながりに意識を向けさせたのであろう。\nこのような中、松陰神社へは、一八八九年に神楽殿が奉納され、翌年五月、小祭典式と共に神楽奉納が計画され\nた\n( (\n4 (\n。また一八八六年からは祭典に集まった小学校の運動会が行われていたが、一八九一年九月には、荏原郡西北部\n村の総代らが二十数校の「大運動会」のため、松陰神社に接した毛利家所有地約六〇〇坪の貸与を願い出た。総代\nらは先に品川内務大臣の賛成を得ており、許可を得た。新聞紙への広告や諸氏への案内状の発信なども品川が指示\nした\n( (\n4 (\n。\n一八九一年の祭典は、一八九〇年一一月二三日の帝国議会開会後、初の大祭であった。加えて品川自身が内務大\n臣として地租増徴等をめぐり政府と議会の対立の渦中にある中、盛況な祭典を求めたのであろう。\n3\n 政府と議会の対立の狭間\n⑴品川の松陰論\n一八九二年、第一次松方内閣の下で行われた第二回衆議院議員総選挙は、議会・政党政治を望ましく思わない山\n54\n県閥(山県有朋系)に属していた品川内務大臣が選挙干渉を行ったとされることでよく知られている。結果、民党\nの議席数は減少した。しかし、従来最終的に政党政治を理想とし、立憲体制の確立を目指していた伊藤が、品川の\n選挙干渉を非難して枢密院議長辞職を願い出、品川が同年三月に内務大臣を辞職するなど、政府内部で伊藤と山県\nの関係は悪化した\n( (\n4 (\n。\n一八八一年以降、政府内の合致を強く意識しようとしてきた長州藩関係者のひずみは、松陰関係にどのような影\n響を及ぼしたのであろうか。\n品川は内務大臣辞任後、一八九二年六月には西郷従道(前内務大臣)らと国民協会を組織した。政府に対して\n「温和派」の議員を組織化し、政府と議会の対立に際し、政府の意向が通るような政治情勢を構築しようと試みた\n( (\n4 (\n。\nその後、品川は国民協会所属者に松陰の著作を送ったり、書状に松陰の教訓などを引用するなどして結束を強め\nようとしていたようである\n( (\n4 (\n。また、松陰の尺牘石板を国民協会員以外の地方有力者などへも送った\n( (\n4 (\n。そのうちの一\n人であった吉田耕平(元岐阜県会議長、第七十六国立銀行頭取)は、品川からの恵投への礼と同時に、松陰の\n「二十一回猛士」の「二十一回」の意味や、玉木文之進(松陰叔父)を示す「玉丈人」は如何なる人か、などと品\n川に尋ねた\n( (\n5 (\n。松陰に関係する基本的な知識を持っていなかった人物にまで、品川が松陰の関係史料を送っていたこ\nとがわかる。\nこの吉田耕平は、一八九七年末、松方内閣が地租増徴等をめぐり議会と対立し、解散総選挙後、そのまま辞職し\nたことを受けて、「明治歴史」の「汚点」と「大息」していた。「実に、独露」が「吞噬(飲込み侵略するの意)」\nの「爪牙をあらわしたる」今、あるまじき内閣と評し、対外情勢を鑑みて国政に憂慮を示していたのである\n( (\n5 (\n。\n品川は、一八九七年には山口県参事官上山満之進へ「松下村塾聯」を送り、萩などの学校へ配布するよう伝え\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n55\nた\n( (\n5 (\n。上山は一八九五年頃、品川に揮毫してもらった松陰の言葉を契機に、品川に私淑したという。その品川が尊敬\nしてその「言行を引用して」「訓戒」を与えた松陰、品川を「畏敬」していた乃木希典の三名を三哲と称し、後に\n出身の山口県防府に財産を寄付して三哲文庫(現防府市立防府図書館)の設立を試みるに至った\n( (\n5 (\n。\n品川は、自身と考えを共にし得ると判断した地方の有力者に松陰関係の書籍等の史料を送付することで、政治、\n経済、教育等の諸方面において自身の勢力を形成し、今後の国家体制に影響を与えることを意図していたのであ\nる\n((5 (\n。\nこのように品川が現状の政治運営に影響を与えようと松陰を引き合いに出すことについては、「何ぞと言えばす\nぐに松陰先生々々と二言目に」「担ぎ出す」として、松陰は「土佐の板垣と等しく出しに使」われる鰹節ではない\nという批判も出ていた\n( (\n5 (\n。自由民権、政党の代名詞としての板垣退助と同等と言われるほど、品川が政治的に松陰を\n引き合いに出していたことがよくわかる。\nしかし、品川にとっては、「いつも政府と議会と衝突」のため、「国家緊要」の「事業」とりわけ「国防之事」ま\nで放置されることは慨嘆に堪えないものであった\n( (\n5 (\n。その現状を打破することを考えたとき、品川にとっては松陰へ\nの敬意と政治的価値が同時に勘案されたのであろう。\n一八九四年一二月、杉民治は品川が松陰の「七生説」の石板摺を送ったのに対し、下記の礼状を返した。\n「松下村塾記の如きも、彼の小塾の記え君臣之義不講六百余年とか萩城の顕るゝ松下村より始まらんとか申、\n其当時に而はいかにもおかしくもあり、人々難堪様の心地仕候処、今日大塾より被為出候諸公の御尽力に而、\n彼の大意の記文が不都合なき様に相成候は実に奇妙と可申か。私よりは難申候\n( (\n5 (\n。」\n56\n (松陰が記した「松下村塾記」なども、あのような「小塾」の記へ、君臣の不講六〇〇余年とか、萩城の顕\nれは松本村より始まるだろうなどと記していて、その当時には何ともおかしく、耐えられないような心地で\nあった。しかし、今日、「大塾」から出た諸公の御尽力により、あの大意が不都合が無いようになったのは実\nに「奇妙」というべきであろうか。私からは何とも申しがたい。)\n「松下村塾記」は、安政三年(一八五六)、松下村塾で教育に当たっていた叔父からの依頼を受けて松陰が記した\nものであった。皇室との君臣の義を重んじ、忠信等を失わずにいれば、奇傑の人がそれに従い、気を一変し、国家\nが麗しく隆盛するようになり、そこにこそ萩城の真が顕れる、それを松下村塾が担うという内容である\n( (\n5 (\n。当時、兄\nの杉でさえ、その語は壮大で内実が伴わないと感じていたものであった。しかし、明治後の品川ら長州藩関係者の\n行動、つまりは彼らの明治政府での活躍と松陰顕彰の両輪により、辻褄が合うようになったというのである。当\n時、ひいき目にも実態にそぐわなかった松陰の論は、品川ら後世の活動によって昇華され、その価値を現実的なも\nのにまで高めたということになろう。杉がそれを「奇妙」と称したように、松陰の痕跡を残そうと尽力していた親\n戚からしても、信じがたい現象であったことが窺える。\nこの後、杉が萩で作成した松陰の石摺の代金が品川から杉へ届けられ、余金は松下村塾保存資金へ加えられるな\nど\n( (\n5 (\n、品川の松陰顕彰と杉の保存活動は一連の動きを見せていく。この連携は、松陰のみではなく、萩における幕末\nの長州藩関係殉難者の改葬や招魂碑建設等にも生かされた\n( (\n6 (\n。\nもっとも、萩における衆議院議員選挙において、杉は品川からの書状を受けて、品川が推す人物へと投票先を変\nえる気配を見せるなど\n( (\n6 (\n、松陰を通して築かれた両者の信頼関係は、品川が望んでいた通り中央政治にも関係を及ぼ\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n57\nしたのである。\n⑵品川の松陰像に対する伊藤の危惧\n品川が国民協会を組織した後、一八九二年八月に発足した第二次伊藤内閣は、海軍費等の予算案を巡って議会と\nの対立が強まり、一八九三年二月には詔勅によって衆議院解散を回避し、軍備拡張を図るに至った。しかし、その\n後も、議会の政府批判は収まらず、一八九三年一〇月頃からは条約改正も問題となった。新たに結成された大日本\n協会や、国民協会、改進党など、自由党を除く六派が、政府の条約改正交渉案である内地雑居に反対し、外国人に\n現行条約を励行させることを主張し、政府と議会の対立は深まった。さらに、一二月一三日には、伊藤と自由党の\n提携の要であった星亨衆議院議長が汚職疑惑で議員除名となり、後藤象二郎農商務大臣が不正取引を追及された。\n伊藤内閣は、憲法停止を回避し、その維持に努めてきたものの、衆議院解散総選挙を繰り返す可能性すら考慮せざ\nる得ない状況に陥った\n( (\n6 (\n。\nそのような情勢の中、一二月一六日、伊藤は井上(内務大臣)へ下記の書状を送った。\n「文部大臣より別紙只今落手、品川より同大臣井上え伝言之処、御一読可被下候、是ても同子か老台及ひ西郷\n伯に申出の如く、後藤を此際動かすは不宜と申候事と符合仕候哉否、西郷野村え御示可被下候、小生等も如斯\n諝詐権謀を用ゆるものと同人は心得居候歟も不可測、如斯にして松陰を祖述せんとす、危哉\n( (\n6 (\n」\n(文部大臣〔井上穀〕から別紙を今落手しました。品川〔国民協会所属〕より文部大臣、井上馨への伝言を御\n一読願います。品川が井上馨および西郷〔従道、海軍大臣〕に申出たように、後藤を動かすのは宜しくないと\n58\nいうことと符合するか、どうでしょうか。西郷、野村〔靖、枢密顧問官〕へお示し願いたく思います。私等も\nこのような詐諝\nしょ\n権謀〔権謀術数〕を用いるものと品川は心得ているのかもしれません。このような考えをもっ\nて松陰を祖述しようとしていること、何とも危ういことです。)\n井上はこれに対し、明朝、野村を呼寄せて問い詰めてみると返答し、実にこのような「時勢とは」申しながら\n「旧誼も」頼むに足らず、「敗徳時代」と「痛歎」と返答した\n( (6 (\n。\nこの時の品川からの伝言の内容は定かではない。ただし、同時期、新聞には次のような内容が掲載された。枢密\n顧問官がある筋の使者として品川に「入閣して現内閣を」助けるつもりはないかと持ち掛けた。それに対し、品川\nが「烈火の如く憤り」、「現内閣に空椅子」があるわけでもなく、また品川の「精神と方針」が「到底彼の人(伊\n藤)」と合わないのを知っていて「入閣せよ」とは理解しがたく、「人を馬鹿にするも程がある」とはね付けた、\nと\n( (\n6 (\n。枢密顧問官の名は伏せられているが、先の伊藤書状で閣員外にもかかわらず名の出ていた野村が想定されてい\nた可能性は高い。窮地に立った伊藤内閣が、政府批判の先鋒の一人である品川を引き抜こうと画策しているといっ\nた関係の話であったのであろう\n( (\n6 (\n。\nこのような新聞報道の真偽および品川が直接関与していたかどうかは不明であるが、いずれにせよ伊藤は、内閣\n維持のために節操なく権謀術数を繰り広げる存在として、品川が伊藤を認識している可能性を疑った。伊藤の品川\nへの視線には、実際の条約交渉の可否を考慮せず条約励行を主張する品川らの対外政策に対する批判も加わってい\nたのであろう。先に記した通り、松陰の考えは時に外国を追い払う攘夷論として受けとめられ、対外強硬論に利用\nされる危険性を秘めていたことも関係していると考えられる。そのような品川が松陰の考えを基としてそれを受け\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n59\n継いで方々で述べていることを、伊藤は「危」と評した。そこには、松陰の名のもとに品川の国家に対する考えが\n流布する危険性と、松陰の本質が伊藤とは異なる解釈で定着していくことへの危惧があったと考えられよう。\nこの時、伊藤、井上と品川の間を取り持つ存在として記されていた野村は、第二次伊藤内閣成立前、松方内閣が\n議会との対立で予算案通過に苦戦してきたことを受けて、国家の大目的である国防のためには、その障害となるな\nらば「議会を停止し解散し、終に憲法中止に至る」もやむを得ないとの考えを井上へ示していた。ただし、野村は\nそのためにも伊藤と山県の協力によって、予算と国防における政府と議会の対立に決着を付けることを、井上を通\nして進言する等、伊藤と山県系の仲介を務めてもいた\n( (\n6 (\n。その後も野村は伊藤や井上と品川の間を幾度も取り持つ役\n割を担っていた\n( (\n6 (\n。\nしかし、一八九五年、国民協会が「報告書」を新聞に出そうとした際には、野村と品川の関係に変化も見られ\nた。野村(内務大臣)は国民協会の報告書の内容を「内外に対し」甚だ「不穏当」として、新聞へ出さないように\n新聞社へ内諭し、品川へも国民協会の大岡育造(長州藩出身)へ撤回の旨を伝えるよう求めた。それに対し、品川\nは掲載停止になってもやむを得ないとして撤回を承諾せず、このような折には友情などに惹かれず、「どしどし遣\nるの外」はなく、今後は野村に対して「責任」はとらないと返答した\n( (\n6 (\n。日清戦争終了後、三国干渉の問題が片付い\nた直後の時期であり、国内に対してだけではなく、国外からの視線も考慮した行動が求められる中、国内外政策の\n相違をうまく仲介することは次第に難しくなっていったのである。松陰神社創立時には協同していた長州藩関係者\nは、政府と議会の対立が激化し、対外問題が複雑化する中、松陰像をめぐっても政治的側面から亀裂が生じたので\nある。\n60\n4\n 維新とその脱却の狭間\n⑴国家の重責\n長州藩関係者内で中央政府の動向と相まって松陰論が左右される中、一八九八年は松陰の四〇年祭にあたった。\n一一月の祭典を前に、国民協会の大岡は品川に次の書状を出した。\n「政海も愈よ狂瀾波濤を捲き来り、山県元帥の双肩には余程の重荷懸り申候。元帥は前々の松隈内閣成立当時\nにも辞し、近くは伊藤内閣此度の終にも辞され候へ共、今度はよもや御辞退は相成間敷、閣下も此際は出てゝ\n廻瀾の施政を為されすんば、松蔭神社の四十年祭も相済まぬ訳かと奉存候。協会員とても皆々待草臥れ居候に\n付、閣下より大将へ御迫り相成度候\n( (\n7 (\n」\n(政界もいよいよ狂瀾怒濤が巻き起こり、山県の肩には余程の重荷がのしかかっています。山県は以前の松隈\n〔第二次松方〕内閣成立前にも組閣を辞し、最近では第三次伊藤内閣の終わりにも辞退されましたが、今度は\nよもや御辞退はならないでしょう。品川もこの際は表に出てこの波乱を乗り切る施政をなさなければ、松陰神\n社の四〇年祭も済まない訳かと思います。国民協会員とても皆々待ちくたびれているので、品川から山県へ組\n閣するようにお迫り願いたい。)\n大岡は先の野村の書状にも出てきたように、国民協会内の有力者であった。その大岡は山県内閣の成立を望むと\n同時に、品川がその内閣で前面へ出て国政を取り仕切ることを求めた。その際、品川がこの期に及んでなお責を\n負って臨まないのであれば、松陰の没後四〇年祭の責も果たせないと、品川の覚悟を迫ったことになる。一見何の\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n61\n関係も無い中央政府と松陰神社の祭典が同時に記されることは、時に政治的方便が混じることがあったとしても、\n松陰の志を継いで国家の安泰を図るという重責を品川が意識していると周囲が認識していたことを示していよう\n( (\n7 (\n。\n⑵世代交代と松陰関係者の伝記編纂\n一八九九年、品川は松陰神社維持金を集めた。一九〇〇年一〇月には「新建殉難諸士墓碑記」(木戸孝正〔木戸\n孝允甥・神社内に墓を有する来原良蔵・治子子息〕誌)が残されており、関連がある可能性も考えられる。この碑\n記によると、新たに建てる理由は、一〇〇年もすれば風雨で摩耗し、草が生茂ってその存在が分からなくなり、認\n識自体が薄れていくことを憂い、永久に残ることを希望するためであった\n( (\n7 (\n。\n一八九九年の寄付集金の際、伊藤は高額を出したのに対し、当時農商務大臣であった曽禰荒助(長州藩出身)は\n伊藤の一〇〇分の一と少額であった。品川はこのことについて野村に、「先師之御薫陶なしに大臣になりし人なれ\nば、尤の事哉と奉存、呵々\n( (\n7 (\n」(松陰の御薫陶なしに大臣になった人であるので、尤ものことかと思う。呵々〔大笑\nいする様を示す〕)と書き送った。\n同年二月には品川は同じく野村へ、松陰に限らず「松陰門三傑」(久坂、高杉、入江九一)の伝記に取り掛かる\n計画について相談を持ち掛けていた。その書状で品川は下記の内容を記した。久坂の伝記については芳野(金陵・\n久坂が入門していたとされる儒者)の撰文があり、高杉の碑文は井上の代わりに杉孫七郎(長州藩出身)が撰文す\nるとのことである。入江(野村兄)の分は他者の筆では言い尽くせないので野村が撰文すべきである。「三傑之伝\n記」だけは、「御互(野村と品川)に達者」な内に「撰文」だけはやっておかなければ、師友に済まない、師友は\n「地下で笑つて居ら」れるであろうけれども\n( (\n7 (\n、と。松陰や同門の生存中の動向を実際に知っている自分たちが健在\n62\nな間に、後世へと書き残す必要を強く意識していたのである。\nこれらの品川の言動は、長州藩出身者で、国家の重責を担う大臣についていながら、もはや幕末来の維新・長州\n藩の象徴としての松陰に、自分たちと同様の質量で共感を寄せない世代が来たことを危惧していることを意味す\nる\n((7 (\n。そして、同時に先に記した通り、品川と野村が政治的立場の相違により意見を違えるようなことがあっても、\nその根底には共通の理念が貫かれているという共感があったことも読み取れよう。維新後の松陰像は、明治政府の\n要職を担った長州藩関係者における、国家確立という政治的要素と、その国家の根源たる幕末・維新への重責とい\nう背景が複雑に絡み合うことで形成された側面があったのである。\n品川は、翌一九〇〇年に死去し、その後、野村が中心となって松陰神社祭典の関係を執り行っていった\n( (\n7 (\n。\n三 明治末期の忘却と新像\n1\n 日露戦争と松陰\n一八九四年の日清戦争以降、徳富蘇峰が平民主義から帝国主義へと変化し、一八九三年に記した革命家としての\n『吉田松陰』像が後に変貌することはよく知られている\n( (\n7 (\n。では、一〇年後の日露戦争と松陰はどのような関係にな\nるのであろうか。\n日露開戦の一九〇四年には、松陰神社に旧長州藩第四大隊戦死者招魂碑が立てられ、翌年四月からは、同招魂碑\nと中谷正亮ら殉難諸士碑春夏祭典への神饌料が支出に加わった\n( (\n7 (\n。第四大隊は戊辰戦争の際、桂太郎が所属していた\n隊で(二番隊司令)、中谷は桂太郎の叔父にあたる。陸軍出身かつ日露戦争開戦時に総理大臣であった長州藩出身\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n63\nの桂、およびその後ろ盾的存在であった山県の影響が色濃いとも考えられよう。\n戦中の一九〇五年四月の神社祭典には、陸軍大臣寺内正毅(長州藩出身)も足を運び、松陰の姉等吉田家の親族\nと顔を合わせた\n( (\n7 (\n。同時期、山県は杉民治の求めに応じて自身の詠歌・写真を送った。杉は礼と同時に、写真は「伊\n藤侯、野村子爵、諸君之分と共に塾に掲」げると書き送った\n( (\n8 (\n。他の関係者に比べて、山県の写真提供が遅かったよ\nうではあるが、この時期に山県が萩の松下村塾とのつながりを維持しようとしたことは、確かであった。\n日露戦争中の一九〇五年、野村は山県に、米国人の手による松陰の記述を翻訳出版することについて書状を出し\nた。翻訳に際しては、高平小五郎駐米公使から野村へ原本が送られた。原本は「米国政府出板に関る故、殊に詳細\nに著述し有る様」に見えたため、「緊要」の部分を「翻訳出版して」然るべしと野村が考えたという。野村は、翻\n訳出版に当たり言葉を添えようと考え、その「基因、偏に老台(山県)に」あるとして、山県に確認を依頼した\n( (\n8 (\n。\n内容と時期から考えて『松陰先生逸事』であろう。同書は、ペリー来航時の軍艦に乗船していたスポルディングの\n『日本遠征記』と、「米国政府の発刊」のペリーの日本遠征記の一部の翻訳を掲載したものである(前者は高平、後\n者は山県の意を受けて古沢滋が翻訳)。翻訳された部分は、松陰らが密航のためにアメリカ船へ向かった前後の様\n子が描かれた場面であった。\n野村の跋文によると、これは高平から山県へ寄贈され、山県が「史家」が「益」を得るところが少なくないとし\nて「日本帝国大学図書館に納」めたものであった。山県はこの翻訳を野村へ示し、野村は「彼我の間に於ける個人\nの情義、権宜の行為、互に高尚の気韻を存じ、深淵の理想を含」んでいると考え、活版を決定したという。そして\n野村は、「先師(松陰)等の意を」読者に理解してもらうためとして、翻訳に出てきた松陰がアメリカへ渡した書\n状の和文を末尾に添付した\n( (\n8 (\n。\n64\n同書の翻訳からは次の二点を読み取ることができる。一つは、松陰らが密航を企てたのは、日本中を巡っただけ\nでは、武器や戦略、規律に関する規則もわからず、欧米の習慣や知識を耳にして、五大陸を一周したいと希望した\nためであることである。もう一つは、アメリカ側が、危険を冒した松陰らの行動や書状の筆跡から、松陰らを知性\nある人物と好意的に受け止めたことである。\n山県らがこの翻訳の出版を整えたのは、日露戦争中であることを考慮すると、海外雄飛の志と、日本と米国の良\n好な関係構築を視野に入れてのものであったと考えられよう。日本人が米国人、ひいては欧米列強の人々と「高\n尚」な気でもってやり取りできる礼儀正しく気品高い集団であることを示し、国内の士気をあげ、日露戦争におけ\nる日本への支持を得る一端にしたいとの考えであったのであろう。\nこのように一九〇四年の日露戦争勃発後、松陰関係における軍と対外的要素が増すのである\n( (\n8 (\n。\n2\n 松陰五〇年祭\n一九〇八年は松陰の五〇年祭に当たった。同年八月、松陰神社は拡張・移転を東京府へ願い出、一一月に許可を\n得た(拡張、社殿の向き変更等\n( (\n8 (\n)。五〇年祭に当たっては、宮内省と東宮から計金七五円が下賜され、毛利家の他、\n藤田伝三郎、毛利家が所有して大きな収益を上げていた福岡の金田炭坑\n( (\n8 (\n、久原庄三郎ら、財界関係者からも寄付が\nあった。毛利家をはじめ、長州藩関係者から石灯籠が奉納されたのもこの時であった。灯籠には、伊藤、山県ら松\n下村塾出身者やその親族のみならず、松陰と直接の接点は不明であっても政府要職にあった長州藩出身者は軒並み\n名を揃えた\n( (\n8 (\n。\n前年に伊藤や野村が中心となって創立した萩の松陰神社でも祭典が行われ\n( (\n8 (\n、東京から萩へ祭典が無事に済んだ旨\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n65\nが電報で報告されるなど、東京と萩の両地は連携を取っていた\n( (\n8 (\n。\nこの時、東京の松陰神社では、松陰の遺著二〇〇部、松陰軸物約二〇五〇枚、松陰の詩の摺物一〇〇〇枚が準備\nされた\n( (\n8 (\n。また徳富蘇峰著の『吉田松陰』二〇〇部を買入れた\n( (\n9 (\n。\nこの一九〇八年の徳富著『吉田松陰』については、徳富が一八九三年に記したものを元に大幅な改変が加えら\nれ、革命家としての松陰像が帝国主義の象徴へと変化したものであることが知られている。この改変に当たって、\n徳富は野村に不明点を尋ねるなど話を聞き、「松陰先生に歩一歩接近の感あり」としていた\n( (\n9 (\n。また「マシニーと革\n命家としての松陰二章は全滅改候」など、改変の途中経過を報告もした\n( (\n9 (\n。出版後、野村や山県から徳富へ礼状が出\nされた。山県は、「旧著を改訂し殆ど新に起稿」したものにして、「迅速」で「精密」であることに「驚嘆」したと\n記した\n( (\n9 (\n。とりわけ日露戦争頃から徳富の国民新聞が御用新聞とみなされたほど、時の総理大臣桂太郎と徳富は懇意\nであり\n( (\n9 (\n、長州藩関係者とのつながりを強めていたと考えられる。\nもっとも山県は同じ徳富への書状で、「老生(山県)は先生(松陰)の門下に在りしも、先生の事蹟において、\n此書の三分の一も見分に及ばざりしなり。神州の正気錘\nつむ\nりて此書に在れば、実に天下の至幸と謂ふべし」と書き\n送った。先に品川が危惧していたように、幕末から維新に至る実態を知る者が減少する中、当事者の知識の枠を超\nえ、その時の時代背景に依拠した新たな松陰像の構築が進んでいたことが読み取れよう。\n一方、同年、松陰没後五〇年を記念して、政教社発行の『日本人』が臨時増刊で吉田松陰号を組んだ。創刊者の\n三宅雪嶺の松陰論は、松陰の後半生に疑問を呈するなど、徳富の松陰像とは異なっていた\n( (\n9 (\n。政教社はこの臨時増刊\n号三〇〇部を松陰神社へ寄贈し、神社側は寄付金を渡すことでそれに応えた\n( (\n9 (\n。\nもっとも、徳富の著書は定価通り約三一〇円ほどをかけて買い取ったのに対し、政教社へは五〇円の寄付に留\n66\nまった(定価五〇銭のため、寄贈三〇〇部の金額に満たない)。ただし、『日本人』には野村が「吉田松陰先生の神\n髄」を寄稿していた。ここで野村は、松陰は、外国に対して国を憂いた結果、勤王を唱えたのであり、勤王から発\nして国家を憂いたわけではないと記した。これは、尊皇の精神を第一に掲げた徳富や帝国教育会の松陰像とは異な\nる論調であった\n( (\n9 (\n。さらに、野村は、松陰の精神は伝記や碑文によって人に知られているものとは異なるので、伝記\nを作る必要は感じないとして、松陰自身の手による文章等によって、松陰の精神を伝えることに最大の関心を払っ\nたという\n( (\n9 (\n。その野村が、徳富の松陰伝執筆に協力していたのは、幕末の記憶が世の中から薄れていく中、やはり少\nしでも実態に近い松陰像を残そうとしたものと考えられよう。\n松陰や松陰関係の幕末の実態を後世に残そうとしてきた品川や野村の意識と、その思惑を超えた時代の流れに\nよって作り上げられる像が結びつくことで、近代松陰像は膨張したともいえる。\nおわりに\n一八八二年松陰神社創立以降の明治期を中心に、とりわけ政府の中枢を担った長州藩関係者の松陰への向き合い\n方を検討してきた。明治初年の松陰は、長州藩の中央政治への復権と、幕末に源流を有する国家存続の維持を目的\nとした新国家確立への責任を示す、まさに維新の象徴であった。それは対外的脅威を前に国家の安泰を図るという\n共通意識に基づいたものであったと言える。\nその後、立憲政体の確立と発展への相克期、とりわけ国防と国家体制という国家の根幹に関わる問題を前に、各\n自の政治構想とその実現のための勢力形成が加わって松陰像の分裂へと至った。政府と議会の対立期における品川\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n67\nと伊藤のように、中央政治上の意見の相違と松陰についての論じ方は密接に連動していた。松陰への視線は時に幕\n末や旧知への旧懐を含みつつも、中央政府に関与した者にとってはむしろ国家の維持・発展をかけた国政への影響\nに変換された。それは松陰関係の著作や空間の保存を求めた杉民治と、松陰を現在進行中の政治における自身の勢\n力形成の一部とした品川の相違に如実である。\nただし、幕末を経てきた長州藩関係者の中には、明治初年の幕末を源として表象された松陰像が根強く存在し\nた。それゆえに、五〇年祭に見られるように、政治的対立を超えて、幕末以来の関係者は松陰との関りの強弱を別\nに協力したのであろう。毛利家が松陰神社に脈々と関与し続けたことからもわかるように、明治末には松陰は長州\n藩を代表する人物の一人とみなされていった。その意味において、政府と議会の対立が緊迫化し、長州藩出身者内\nでも政党への対応を巡って見解が分かれてくる中、井上がいう「旧誼」の根底は、政治的対立の中で揺るぎはして\nも、崩壊はしなかったともいえる。\nもっとも、このような根底は、一九〇〇年頃になると世代の交代と共に薄れていった。それは日清戦争を経て、\n幕末における対外危機から国家を守るという強い危機感の元での国政運営が、対外的にも国内制度の面でも一定度\nの落ち着きを見せ始めたことをも意味していよう。\nそして、国政に関与するものの中から幕末来の根底が消失しつつあることへの危機意識は、日露戦争以降の軍関\n係も含みながら、次第に時の政治情勢により左右されやすい松陰像の創出へと力点が傾いていったのである。\n一八九四年の日清戦争時、山県が出陣先の清国で病気となり帰国が図られる中、品川は、山県の「病弱の身体」\nに対比して、「強壮なる」ものの一つに「先師之名言」をあげた\n( (\n9 (\n。松陰像は種々の変遷を経て構築されてきたとは\nいえ、松陰の言動が強烈な残影を与えたことは確かであったと考えることはできよう。\n68\n註\n(1) 田中彰『吉田松陰』(中公新書、二〇〇一年)、植手通有「解説」(徳富蘇峰『吉田松陰』〔岩波書店、一九八一年〕)、勝田政治\n「松陰はどのようにとらえられてきたか」(『国士舘人文学』四九号、二〇一七年)等。\n(2) 一坂太郎『吉田松陰』(朝日新聞出版、二〇一五年)。\n(3) もっとも、明治二〇年代の歴史的背景と関連付けて、多様な主体による記念・顕彰行為が行われていたことが指摘されている\n(松本剣志郎「吉田松陰と明治の記念・顕彰行為」〔『世田谷区立郷土資料館資料館だより』№\n44\n、二〇〇六年〕)。松陰神社の設\n立も時代を追って検討されてきた(一坂太郎著・杜出版株式会社編『松陰神社ものがたり』松陰神社、二〇一八年)。また、教\n育の観点に軸足を置きながら、明治後の松下村塾出身者の経歴と動向を追い、個々人と松陰の関係を明らかにした研究がある\n(海原徹『松下村塾の明治維新』〔ミネルヴァ書房、一九九九年〕)。\n(4) 羽賀祥二『明治維新と宗教』(筑摩書房、一九九四年)、同『史蹟論』(名古屋大学出版会、一九九八年)、高木博志「『郷土愛』\nと『愛国心』をつなぐもの」(『歴史評論』六五九号、二〇〇五年)等。\n(5) 数日間しか出入りした形跡のない山県が松下村塾出身と称したのはその人脈を活用しようとしたという側面がある一方で、期\n間の長短はあれ、松陰から受けた影響の大きさを無視はできないことも指摘されている(前掲、海原『松下村塾の明治維新』\n四九二頁)。このように松下村塾との関係の密度は個々に異なる。\n(6) 松本剣志郎「長州藩江戸若林抱屋敷について」(『世田谷区立郷土資料館資料館だより』№\n48\n、二〇〇八年)、「明治十五年若林村\n松陰神社建立一件」(山口県文書館蔵)。\n(7) 前掲、松本「長州藩江戸若林抱屋敷について」。\n(8) 東京都世田谷区編『世田谷区史料』第四集(東京都世田谷区、一九六一年)一三六頁。\n(9) 前掲、松本「長州藩江戸若林抱屋敷について」、前掲、一坂『松陰神社ものがたり』等。\n(\n10\n) 「松陰神社一件綴込」(山口県文書館蔵)。\n(\n11\n) 「世田谷村松陰神社由来略記」(山口県文書館蔵)。\n(\n12\n) この時、墓等の整備の周旋者は井上新一郎であったとされる(前掲、「明治十五年若林村松陰神社建立一件」)。井上新一郎は、\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n69\n明治元年九月一三日、改名を木戸に依頼し、木戸が新一郎と名付けた(元の名は善心)(『木戸孝允日記』第一〔日本史籍協会、\n一九三二年〕、明治元年九月一三日)。そのため新一郎名義での史料は同日以降作成のものと知れる。同時期、井上新一郎は、\n木戸の命を受けて、東京での新たな長州藩藩邸地の調査も行っており、東京での元長州藩所有地等も含めた土地関係の計画に\n関与していた(前掲、『木戸孝允日記』第一、明治元年一二月一六日)。\n(\n13\n) 木戸にとって松陰は、在萩時代よりも、木戸が嘉永五年(一八五二)に江戸へ出た後、とりわけペリー来航後に国防や国政に\n関心を高める中で重要な意味を持った(拙著『木戸孝允と幕末・維新』〔京都大学学術出版会、二〇一八年〕第一章)。\n(\n14\n) 前掲、『木戸孝允日記』第一、明治元年(一八六八)九月二一日。\n(\n15\n) 同右、明治元年六月二四日。\n(\n16\n) 徳川幕府に代わる新政府という意識も垣間見え、その点において、葵紋の石灯籠等が神社に現存することは興味深い。この灯\n籠等について、「世田谷村松陰神社由来略記」には、「徳川氏も亦、葵の紋章を刻したる浄手器一台を寄贈す」とある。一方、\n「明治十五年若林村松陰神社建立一件」によると、「葵章を刻す石階、左右の石燈籠は、旧水藩関口新十郎寄附。榎本市右衛門\nの話」との記述がある(いずれも前掲)。徳川氏からの寄贈か、もしくは水戸藩関係者からの寄贈なのか、現存する葵紋の石灯\n籠等も含め、寄贈者・寄贈時期等は詳細な検討を要する。\n(\n17\n) 前掲、一坂『松陰神社ものがたり』七四~七五頁。なお山田は、時期は不明であるが、大伯父村田清風や松下村塾同門の久坂\n玄瑞らと共に、国家のために一命を惜しまなかった松陰の追懐詩を残した。自身が国政に関与するに当たって顧みるところが\nあったのであろう(日本大学大学史編纂室編『山田伯爵家文書』七〔日本大学、一九九二年〕五二二頁)。\n(\n18\n) 鳥居に名を刻んだ木戸はこの祭事には参加していないようであるが、九月末に墓へ詣でた。その後、明治四年(一八七一)\n一〇月の「十三年忌日」、木戸は多忙により自身の代理を墓参に遣わしている(前掲、『木戸孝允日記』第一、明治二年九月\n二八日、明治四年一〇月二七日)。ただし、その際に祭事が行われていたかどうかまでは定かではない。\n(\n19\n) 前掲、「松陰神社一件綴込」。\n(\n20\n) 前掲、「明治十五年若林村松陰神社建立一件」。\n(\n21\n) 同右。\n(\n22\n) 「松陰神社創建ニ付寄付金人名簿」(山口県文書館蔵)、前掲、一坂『松陰神社ものがたり』八二~八五頁。\n70\n(\n23\n) これに対し、山県宅にいた品川は山田へ、「即時山県同道、黒田参議之宅へ駆け付ける覚悟にて、其返事差出し置申候、閣下\n(山田)にも勿論、黒田へ御来会被下度奉待上候」と連絡した(山県・山田・品川宛井上・伊藤書状、山田宛品川書状、\n一八八一年一〇月一六日〔日本大学大学史編纂室編『山田伯爵家文書』二、日本大学、一九九一年、二四一~二四二頁〕)。\n(\n24\n) 山田宛内海忠勝(長州藩出身、長崎県知事)書状、一八八二年四月二一日(同右、一二頁)。\n(\n25\n) 山田宛井上書状、一八八二年一一月一七日(同右、一二二~一二三頁)。\n(\n26\n) 河野通三宛今村直心書状、一八八九年一一月六日(前掲、「松陰神社一件綴込」)。\n(\n27\n) 一八九〇年一一月の祭典では、紅葉館の集まりに野村が小田原から戻ってきて出席したため、「諸般好都合」だったという(品\n川宛佐々木陽太郎書状、一八九〇年一一月二三日〔尚友俱楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編『品川弥二郎関係文書』四、\n山川出版社、一九九七年、三〇~三一頁〕)。\n(\n28\n) 品川宛杉民治書状、一八八二年二月二八日(同右、三一四頁)。\n(\n29\n) 品川宛杉民治書状、一八八四年一〇月二六日(同右、三一五頁)。\n(\n30\n) 前掲、海原『松下村塾の明治維新』二二一~二二二頁。\n(\n31\n) 品川宛杉民治書状、一八八二年二月二八日、一八八四年一〇月二六日(前掲、『品川弥二郎関係文書』四、三一四~三一五頁)。\n(\n32\n) 品川宛井上書状、六月二四日(尚友俱楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編『品川弥二郎関係文書』一〔山川出版社、\n一九九三年〕四六七頁)。同書状の追伸で、井上は品川に、百武のことを依頼している。これは百武兼行のことかとも考えられ\nる。在イタリア外務書記官であった百武は、一八八二年に帰国し、同年七月四日に農商務権大書記官に就任、一八八四年七月\n二四日に病気のため商務局長を辞した。同書の日付から考えると、一八八一年から一八八五年まで農商務省に出仕していた品\n川に、百武の転職か辞職の話をしていたものと考えられる。同門同様に寄附するとの文面からは、一八八二年の神社創立時の\n書状の可能性が高いとまでは推定できる。\n(\n33\n) 前掲、羽賀『明治維新と宗教』三五五~三五七頁。\n(\n34\n) 品川宛山県書状、一八八八年九月二三日(尚友俱楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編『品川弥二郎関係文書』八〔山川出版\n社、二〇一七年〕二五頁)。\n(\n35\n) この後も各方面から贈位歎願は頻繁に行われるが、一八九二年、森田節斎の贈位歎願は、品川にも依頼があった。森田は安政\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n71\nの大獄で処分を受けた志士と関係を有していた人物であるが、その行状冒頭に「吉田松陰翁もかつて師事」したことが記され\nた(品川宛柴原和書状、一八九二年七月九日〔前掲、『品川弥二郎関係文書』四、二一〇~二一三頁〕)。政府中枢の一角を占め\nる長州藩とのつながりを、贈位済みの松陰を引合に示すことが、とりわけ品川ら長州藩関係者に対して有効であると、周囲か\nら判断されるようになっていたのであろう。\n(\n36\n) 品川宛山県書状、一八八九年四月一五日(前掲、『品川弥二郎関係文書』八、二七頁)。\n(\n37\n) 阿部至朗「防長俱楽部設立関係の資料」(『山口県地方史研究』五五号、一九八六年)。\n(\n38\n) 『読売新聞』一八八九年一月一二日。\n(\n39\n) 坂野潤治『明治憲法体制の確立』(東京大学出版会、一九七一年)一〇~二一頁。\n(\n40\n) 伊藤・山県・井上宛品川書状、一八八九年一月二九日(伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』五〔塙書房、\n一九七七年〕二四八~二四九頁)。\n(\n41\n) 品川が、伊藤らに防長俱楽部の創設を「異体同心」ながらに創設しようとするものと称していたように、参加者のみならず、\n創立企画者間でもわずかな相違は感じていたものと考えられよう(同右)。ただし、この後、最終的な政党政治を目指し、藩閥\n内閣と相互に提携できる政党創設を目指していく伊藤、井上らと、政党政治への移行を望まなかった山県や品川との路線の違\nいは、第二回総選挙における選挙干渉等により明確になるが、この時点では表面化せず提携していた(伊藤之雄『伊藤博文』\n〔講談社、二〇〇九年〕二九二~二九七頁)。\n(\n42\n) 拙稿「木戸孝允の明治・大正・昭和」(瀧井一博編『「明治」という遺産』〔ミネルヴァ書房、二〇二〇年〕)。\n(\n43\n) 伊藤・山県・井上宛品川書状、一八八九年一月二九日(前掲、『伊藤博文関係文書』五、二四八頁)。\n(\n44\n) 前掲、「松陰神社一件綴込」。\n(\n45\n) 同右。\n(\n46\n) 前掲、伊藤『伊藤博文』二九六~三〇四頁。\n(\n47\n) 佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』(吉川弘文館、一九九二年)二六五~二七一頁。\n(\n48\n) 品川宛佐々友房書状、一八九六年一二月二二日、一八九七年一月三日(前掲、『品川弥二郎関係文書』四、九二~九五頁)。\n(\n49\n) 『品川弥二郎関係文書』において、大洲鉄然、梶山鼎介、白根専一、周布公平、和田彦次郎(衆議院議員、農務局長)等、十数\n72\n名が確認できる。\n(\n50\n) 品川宛吉田耕平書状、一八九九年一〇月一日(前掲、『品川弥二郎関係文書』八、二七六頁)。\n(\n51\n) 品川宛吉田耕平書状、一八九八年一月一日(同右、二七四~二七五頁)。\n(\n52\n) 品川宛上山書状、一八九七年九月七日(同右、五〇五頁)。\n(\n53\n) 上山君記念事業会編『上山満之進』上巻(成武堂、一九四一年)四四九~四六八頁。\n(\n54\n) なお、一八八七年三月、品川は、京都に学派や身分を超えた教育機関をという松陰の遺志を継いだとされる、尊攘堂を創設し、\n殉難志士の遺墨等の保存、展示、祭祀等を行う場とした。品川にとって、そこは地方人士組織化の京都における拠点や連絡機\n関であり、政治から離れるためだけの場ではなかったことが指摘されている(池田さなえ「明治期日本における政治家ネット\nワーク形成:品川弥二郎・京都尊攘堂人脈の分析から」〔『日本研究』第六六集、二〇二三年〕)。\n(\n55\n) 品川宛「冥途より寅次」書状、一八九七年一月一四日(前掲、『品川弥二郎関係文書』八、二八六~二八七頁)。もっともこの書\n状は、松陰自身が冥途から品川を叱責する設定となっており、差出人と品川の関係によっては冗談を含めた品川への諫めと考\nえられる。その内容は、一八九六年、国民協会が政府の不信任案を提出しながらも撤回したことや、「不俱戴天の敵」である自\n由党と提携したことなど、政党自体や政党と手を組む政府への妥協を詰問したものである。\n(\n56\n) 品川宛山口素臣書状、一八九四年一月二九日(同右、一四五頁)。\n(\n57\n) 品川宛杉民治書状、一八九四年一二月三日(前掲、『品川弥二郎関係文書』四、三三六~三三七頁)。\n(\n58\n) 栗栖安一『解説吉田松陰遺文集』(撰書堂、一九四二年)一六九~一七一頁。\n(\n59\n) 品川宛杉民治書状、一八九六年六月一三日(前掲、『品川弥二郎関係文書』四、三四〇~三四一頁)。\n(\n60\n) 同右。\n(\n61\n) 品川宛勝津荘太郎書状、一八九八年二月九日(尚友俱楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編『品川弥二郎関係文書』三〔山川\n出版社、一九九五年〕六九頁)。\n(\n62\n) 伊藤之雄『立憲国家の確立と伊藤博文』(吉川弘文館、一九九九年)一三四~一五四頁。\n(\n63\n) 井上宛伊藤書状、一八九三年一二月一六日(「井上馨関係文書」二九八―三、憲政資料室蔵)。\n(\n64\n) 伊藤宛井上書状、一八九三年一二月一六日(伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』一〔塙書房、一九七三年〕\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n73\n二五六頁)。\n(\n65\n) 『読売新聞』一八九三年一二月一五日。\n(\n66\n) これ以前に、国民協会からは、西郷従道が海軍大臣、創立以来の幹部曽禰荒助が駐仏公使となり、品川は国民協会の「瓦解」\nを意識するに至っていたとされる(前掲、佐々木『藩閥政府と立憲政治』三四一~三四三頁)。\n(\n67\n) 井上宛野村書状、一八九二年七月八日(伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』六〔塙書房、一九七八年〕三五一~\n三五六頁)。一八八二年以降、政党の動きが活発化する中、品川は野村へ、プロイセンの例を挙げて、政府の職を辞しても党派\nに入るなどということは決してなく、政府は党派の上にあり外にあるものと伝え、野村に念を押していた(野村宛品川書状、\n一八八二年四月一三日〔「野村靖関係文書」三―一、憲政資料室蔵〕)。\n(\n68\n) 野村宛井上書状、一八九二年九月二三日(前掲、『品川弥二郎関係文書』八、五四三~五四四頁)、伊藤宛野村書状、一八九四年\n一二月八日(伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』六〔塙書房、一九七六年〕三六〇頁)。\n(\n69\n) 品川宛野村書状、野村宛品川書状、一八九五年五月二四日(尚友俱楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編『品川弥二郎関係文\n書』五〔山川出版社、一九九九年〕三五三~三五四頁)。実際の新聞は、題目「国民協会の宣言書」は残るものの、文章は削除\nされた(『読売新聞』一八九五年五月二五日)。\n(\n70\n) 品川宛大岡書状、一八九八年一〇月三〇日(尚友俱楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編『品川弥二郎関係文書』二〔山川出\n版社、一九九四年〕二〇八~二〇九頁)。\n(\n71\n) なお、ここで名のあがっている山県自身は、品川の求めに応じて松陰の幽囚録の再版にあたり序を記した際、当時を回顧して\n若き松陰の遠見卓識を顧み、白髪の自分がそれに及ばないことを慚愧に堪えないと伝えたことがある(品川宛山県書状、\n一八九一年三月二二日〔前掲、『品川弥二郎関係文書』八、五四~五五頁〕)。松陰に愧じないように、政府の重責を全うすべき\nだとする意識は共通していたといえよう。\n(\n72\n) 前掲、「世田谷村松陰神社由来略記」。\n(\n73\n) 野村宛品川書状、一八九九年一〇月一四日(前掲、「野村靖関係文書」四―一八)。\n(\n74\n) 野村宛品川書状、一八九九年二月七日(同右)。\n(\n75\n) もっとも品川の自嘲は、先に記した通り元々国民協会に所属していた曽禰が、品川の意に沿う形で寄付しなかったことも一因\n74\nといえる。\n(\n76\n) 前掲、「松陰神社一件綴込」。\n(\n77\n) 例えば、前掲、田中『吉田松陰』三五~四四頁。\n(\n78\n) 前掲、「松陰神社一件綴込」。\n(\n79\n) 山本四郎編『寺内正毅日記』(京都女子大学、一九八〇年)一九〇五年四月二一日。なお、寺内日記の残存状況を考慮する必要\nがあるが、現時点で日記から寺内が祭典に足を運んでいることが確認できるのは、一九一四年四月(兼桂太郎の墓参)、\n一九一七年四月であり、毎年参加していたわけではないように考えられる。\n(\n80\n) 山県宛杉民治書状、一九〇五年一月四日(尚友俱楽部山縣有朋関係文書編纂委員会編『山縣有朋関係文書』二〔山川出版社、\n二〇〇六年〕二三二頁)。\n(\n81\n) 山県宛野村書状、一九〇五年二月一三日(尚友俱楽部山縣有朋関係文書編纂委員会編『山縣有朋関係文書』三〔山川出版社、\n二〇〇八年〕七七頁)。杉民治は山県に、「松陰か米艦乗組之記事の米人之著し候分を翻訳被成候由、是も一冊松下村塾に納め\n置度奉存候。野村子爵に御頼可申出候へ共、乍恐縮閣下よりも御伝被成置被下度奉願上候」(松陰がアメリカ軍艦へ乗り組んだ\nことを米国人が記したものを翻訳されたとのこと、これも一冊、松下村塾に納めたく考えている。野村子爵へお願いを申し出\nるべきところではあるが、山県からも伝えておいてくれるよう願う)と伝えた(山県宛杉民治書状、一九〇五年一月四日〔前\n掲、『山県有朋関係文書』二、二三二頁〕。同翻刻書は、野村が主で行っていたものの、山県が重要な役割を担っていたことがわ\nかる。\n(\n82\n) 『松陰先生逸事一節』(相澤敏太郎、一九〇五年)。\n(\n83\n) 毛利家関係者、野村や吉田庫三らが中心であった松陰神社総代に、それまでとは異なり、一九〇九年には乃木希典、その後任\nに寺内と、軍関係者が就くこともその表れと言える(前掲、「松陰神社一件綴込」)。\n(\n84\n) 同右、前掲、一坂『松陰神社ものがたり』九四頁。\n(\n85\n) 松村敏「明治期における旧長州藩主毛利家資産の由来と性格」(『商経論叢』五七巻一・二号併冊、二〇二一年)。\n(\n86\n) 前掲、「松陰神社一件綴込」、「松陰神社五十年祭寄付金簿」(山口県文書館蔵)。\n(\n87\n) 『読売新聞』一九〇八年一一月二二日。\n明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰\n75\n(\n88\n) 「松陰神社五十年祭一件支払簿」(山口県文書館蔵)。\n(\n89\n) 同右。なお、このうち一枚は「米国人」へ渡したとある。\n(\n90\n) 前掲、「松陰神社五十年祭一件支払簿」。\n(\n91\n) 野村宛徳富書状、一九〇八年五月二〇日(前掲、「野村靖関係文書」四―四〇)。\n(\n92\n) 野村宛徳富書状、一九〇八年八月二六日(前掲、「野村靖関係文書」五―一〇)。\n(\n93\n) 徳富宛野村書状、一九〇八年一〇月二九日、徳富宛山県書状、一九〇八年一二月三一日(酒田正敏・坂野潤治他編『徳富蘇峰\n関係文書』二〔山川出版社、一九八五年〕)二八五、三八四頁。\n(\n94\n) 和田守『近代日本と徳富蘚峰』(御茶の水書房、一九九〇年)九五~九九頁。\n(\n95\n) 前掲、田中『吉田松陰』四八~五二頁、三宅雪嶺「二十一回猛士五十年祭」(『日本及日本人』臨時増刊吉田松陰号、一九〇八\n年)。なお、三宅については、吉田松陰と高杉晋作を除いて、尊王攘夷から倒幕へと転じた長州藩に批判的だとの見解があり\n(長妻三佐雄『三宅雪嶺の政治思想』〔ミネルヴァ書房、二〇一二年〕九〇~九三頁)、三宅の中では松陰を肯定的に描いたもの\nと考えられる。\n(\n96\n) 前掲、「松陰神社五十年祭一件支払簿」。\n(\n97\n) 前掲、田中『吉田松陰』四五~五〇頁。\n(\n98\n) 前掲、海原『松下村塾の明治維新』一六二頁。\n(\n99\n) 野村宛品川書状、一八九四年一一月二〇日(前掲、「野村靖関係文書」七―一―八)。"}]}, "item_30001_alternative_title1": {"attribute_name": "その他のタイトル", "attribute_value_mlt": [{"subitem_alternative_title": "In the Meiji Period Choshu clan 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明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文
|
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Item type | 雑誌記事(1) | |||||||||||
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公開日 | 2024-04-13 | |||||||||||
タイトル | ||||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
タイトル | 明治期における中央政府の長州藩関係者と吉田松陰 | |||||||||||
その他のタイトル | ||||||||||||
その他のタイトル | In the Meiji Period Choshu clan officials in the central government and Yoshida Shoin | |||||||||||
言語 | en | |||||||||||
見出し | ||||||||||||
大見出し | 論文 | |||||||||||
言語 | ||||||||||||
jpn | ||||||||||||
作成者 |
齊藤, 紅葉
× 齊藤, 紅葉
J-GLOBAL ID
201601012694134442
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キーワード | ||||||||||||
吉田松陰, 長州藩, 明治政府 | ||||||||||||
書誌情報 |
ja : 国士舘史学 en : Kokushikan shigaku 巻 28, p. 43-75, 発行日 2024-03-20 |
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出版者 | ||||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
出版者 | 国士舘大学史学会 | |||||||||||
NCID | ||||||||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||||||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||||||||
資源タイプ | ||||||||||||
資源タイプ識別子(シンプル) | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||||||||
資源タイプ(シンプル) | departmental bulletin paper | |||||||||||
出版タイプ | ||||||||||||
出版タイプ | VoR | |||||||||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 |