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み)を身につけておき、十五歳以上になると『四書』など大学の学問によって物事の道理を探求していくという学問的な階梯が提示されていた。\n 江戸時代前期、四書学と共に小学(小子の学)を重視する者が現れるようになる。武士層への朱子学理解を深めた山崎闇斎(一六一九~一六八二)は、万治元年(一六五八)に『大和小学』を執筆。朱熹『小学』の構成に従いながら、日本の故事を和文で提示した。次いで士道論を唱えたことで知られる山鹿素行(一六二二~一六八五)は、明暦三年(一六五七年)に『武教小学』を編纂。朱子学の教育論を取り込み、幼い頃から規律ある生活態度を習得させることを企図した。林家のように中国の士大夫の習俗をそのまま日本に移植しようとすることには批判的であり、武士の風俗に適した小学教育を模索していった。\n そして『養生訓』や『大和本草』など儒学・本草学に関する多くの著述を遺した貝原益軒(一六三〇~一七一四)も小学に早い段階から注目していた。福岡藩士である益軒は、二八歳の頃から三十五歳まで京都に遊学。山崎闇斎や木下順庵、中村惕てきさい斎等と交流を持った。闇斎・素行たちは朱熹『小学』をふまえて、日本に適合させる形での小学書を編纂したが、益軒は寛文九年(一六六九)に朱熹『小学』そのものに注釈を附し、『小学備考』を刊行した。当時、益軒は四十歳であったが、晩年にはさらに改訂して『小学集疏』を編纂した。天保九年(一八三八)に刊行された『小学句読集疏』は、「貝原益軒 鑒定、竹田春庵 編次」と見える。\n 先行研究で採りあげられてこなかった本書にはいくつかの疑問点がある。まずは編纂の経緯である。貝原益軒が監修し、竹田春庵(一六六一~一七四五)が編纂した書とされるが、一読すると益軒・春庵とともに三宅観瀾(一六七四~一七一八)の見解も多く引用されている。『小学句読集疏』(以下、『集疏』と略称)には観瀾の序文も収められているが、三宅観瀾がどのように関わっているのか。益軒・春庵はともに福岡藩士であり、師弟関係にある。春庵は十五歳の頃より益軒に師事した。一方、三宅観瀾は京都出身。山崎闇斎の門人浅見絅斎に師事し、後に木下順庵のもとで朱子学を学んだ。水戸藩に出仕し、宝永七年(一七一〇)には彰考館総裁に就任。同じ順庵門下である新井白石の推薦を受けて短期間ながら幕府にも登用された。貝原益軒・竹田春庵・三宅観瀾はいかにつながっているのか。本書の執筆経緯について明らかにしていきたい。\n 次いで『集疏』の内容である。闇斎・素行は小学教育を日本に適合させようとして『小学』の発想や構成を参考としたが、『小学』全篇に注釈を施すというのはどういう意図によるものか。忠実な解釈を試みたものか、それとも中国士大夫の規範や礼儀作法をそのまま日本に取り入れようとしたものなのか。『小学』が提示するのは、日常的な規範意識や礼儀作法(挙措動作の敬み)などである。益軒・春庵・観瀾が『小学』をどのように解釈したのか。江戸時代前期の『小学』受容の一端として、本稿では『集疏』について検討していく。\n\n 一\n 『小学句読集成』(天保九年〔一八三八〕・二書堂)には次の凡例や序文が附されている。\n ・貝原益軒「凡例」 元禄十二年(一六九九)\n ・竹田春庵「附小学集疏凡例後」 正徳四年(一七一四)仲夏\n ・松岡恕庵「小学集疏序」 正徳五年(一七一五)季春\n ・三宅観瀾「改正小学備考序」 享保二年(一七一七)春\n 竹田春庵「附小学集疏凡例後」によれば、陳選『小学句読』を基に『小学備考』(一六六九年刊)を編纂した貝原益軒であったが、益軒はずっと自著に不満を覚え、改訂することを望んでいた。元禄十二年(一六九九)、益軒は『小学』全六篇のうち立教一篇だけを改訂して「小学集疏」と名付けたが、七十歳となって江戸を離れたため、春庵に後篇の編纂を託したという。春庵は時に三十九歳。十五歳で益軒に師事してから二十四年が経とうとしていた。以来、春庵は『小学備考』の改訂を担う。具体的な執筆の経緯について「附小学集疏凡例後」からは分からないが、春庵には元禄三年以降の日記が部分的に残されている。日記を基に分かる範囲で春庵と『小学』との関わりについて整理してみたい。\n 春庵は元禄三年(一六九〇)から、『小学』の講義を行っていることが断片的に記される。このあたりの実績が益軒に認められたものであろうか。元禄十二年(一六九九)、益軒は『小学集疏』の編纂を託して福岡藩に戻った。春庵の日記では、元禄十三年(一七〇〇)五月十五日に、「小學集疏今日ゟより\n校注始。」と見える。その後、春庵は益軒と原稿をやりとりしながら執筆を進めたようである。元禄十三年十一月二十四日に『小学集疏』の原稿を益軒に送り、翌十四年二月二十四日、益軒から『小学集疏』の原稿を受け取ったことが記される。宝永年間にも『小学集疏』のや\nりとりがうかがえる。\n 益軒に『小学集疏』の編纂を託されてからおよそ十四年、春庵の『小学集疏』は成書間近となった。益軒が春庵に送った正徳三年(一七一三)十二月十八日の書簡では、「小学新疏」の板行元を推薦している。春庵の日記にも正徳四年二月六日に益軒が推薦した板行元の永田調兵衛から『小学集疏』の刊行に関する書状が届いたことが記される。刊行は順調に進んでいたが、根幹を揺るがす事件が発生。益軒の逝去である。春庵の日記には、正徳四年八月二十五日に先生(貝原益軒)の病状が重いと聞き、夕食後に急ぎかけつけたこと、翌日も朝食後から出向いたことが記されている。益軒は八月二十七日に逝去。享年八十五であった。八月二十九日に金龍寺(現福岡県福岡市)に葬られ、春庵はたびたび師の墓を参詣する。\n 益軒は亡くなったが、板行元の方では『小学集疏』の刊行を進めていた。九月十八日には『小学集疏』の改正が終わったとの連絡が届き、松岡恕庵に序を依頼した。天保九年刊『小学句読集疏』に収められている松岡恕庵「小学集疏序」は「正徳五年季春」の執筆となっており、この時の依頼によって記されたものであろう。ただし、春庵の動向を確認するならば、恕庵から序をもらうより前、正徳四年十一月二十八日には江戸へ向かうため福岡を出発している。この後、『小学集疏』に関する記録は見られなくなる。おそらく益軒の他界と春庵の江戸行により、『小学集疏』の刊行は延期になったのではないかと思われる。\n 再び転機が訪れるのは、江戸逗留中の正徳五年(一七一五)、三宅観瀾との出会いである。当時、春庵は五十五歳、観瀾は四十二歳であった。正徳六年にはたびたび互いの家を行き来し、また家の者を介したやりとりをした。そのなかで正徳六年四月以降からは『小学』のやりとりがうかがえるようになる。享保元年と二年の日記記録はないが、享保二年(一七一七)春の三宅観瀾の「改正小学備考序」は、春庵・観瀾のやりとりを経て完成された『集疏』に対する序文となる。春庵の日記には享保三年四月十八日に『小学集疏』稽古篇の校正が終了したことを記録する。全篇の校正もおそらくこの時期に完成したと思われる。\n これらを整理すると、竹田春庵は三十九歳で師の貝原益軒から『小学集疏』の編纂を託された。この時点ではまだ益軒が直々に改訂した立教篇一篇しか出来ていなかった。その後、正徳五年(一七一五)までに春庵が益軒とやりとりをしながら全篇を改訂。刊行間近であったが、益軒の他界と春庵の江戸行によっておそらく延期。その後、江戸で三宅観瀾と出会った春庵は、観瀾と『小学』について意見交換。観瀾の多くの意見が取り入れられ、享保三年頃にようやく完成に至る。春庵はこの時、五十九歳。『集疏』の編纂に約二十年を費やしたことになる。なお、貝原益軒と三宅観瀾に直接の面識はない。山崎闇斎・浅見絅斎・木下順庵ら二人とつながりのある人物もいるが、直接益軒と観瀾が面識を持つには至らなかった。そのため、『集疏』は竹田春庵を通して益軒・観瀾それぞれの見解が集約されたものとなる。\n\n 二\n 『小学句読集疏』(天保九年刊)は、いかなる書であるか。本文として朱熹『小学』を、小字双行注として「注」と「疏」を収める。「注」には陳選『小学句読』の全文を、「疏」には解釈の参考となる先儒の説に加え、益軒・春庵・観瀾の解釈を挙げる。書名について観瀾の序では「小学備考改正」と呼ぶが、これは観瀾の貝原益軒に対する敬意によるものであろう。益軒自身、「集疏」と命名しており、内題も「小学句読集疏」となっている。陳選『小学句読』について、益軒の「凡例」では次のようにいう。\n 一、舊本 陳選の『句讀』を附けず、今本 之を附くる者は、學者の合せ考るに便せんと欲す。凡そ小學書 先儒の註釋固より多し、然れども全く好くして詿誤無き者尠少し。唯陳選の『句讀』、王雲鳳の『章句』頗る好き有る而の已み。『章句』の如きは、世間玩讀する者鮮し。唯『句讀』の世に行はるること廣し。是を以て姑く俗尚に從ひて特\nひとり附くるに『句讀』を以てす。\n 益軒が寛文九年(一六六九)に刊行した『小学備考』とは異なり、元禄十二年(一六九九)からの改訂本では『小学句読』の全文を収め、書名を「集疏」とすることとした。益軒自身述べる通り、『小学』については多くの注釈書がある。その中で益軒が評価するのが陳選『小学句読』と王雲鳳『小学章句』であり、世間に通行している陳選『小学句読』の方を基本解釈に採りあげたようである。\n 『小学』について多くの注釈書があると言うが、当時の日本においてどのような注釈書が出回っていたか。これには明朝・清朝の事情も関連してくる。朱熹が『小学』を成書したのは淳煕十四年(一一八七)。以来、朱子学の展開に伴って朱熹の著作は盛行し、『小学』の注釈書も様々なものが著された。ところが明代後半頃から『小学』への関心が低下する。\n科挙に出題されなくなったことが何よりも大きいが、当時の学問風潮などの影響も少なからずあった。結果として明朝後期になると『小学』の書そのものが見られなくなってしまう。そのため、崇禎八年(一六三五)に学宮で陳選注釈『小学』が頒行されるにいたり、僅かながらではあるが『小学』の書が再び世に現れるという状況であった。明朝側の事情は、日本への『小学』伝来に影響を与えた。江戸時代初期、朱子学への注目が高まる中、日本にまずもたらされた『小学』は朝鮮からの伝来本であった。\n 日本で最も早く出版された『小学』は程愈『小学集説』と考えられている。成化二十二年(一四八六)に刻された同書は、十五世紀末には朝鮮使節を介して明朝から朝鮮に伝播。日本へは慶長年間(一五九六~一六一四)に伝来し、ほどなくして古活字本が版行されている。\n その後、日本への伝来が確認できる『小学』の注釈書としては、何士信『小学集成』、陳選『小学集註大全』と『小学句読』、王雲鳳『小学章句』などがある。何士信『小学集成』は朝鮮からの伝来、それ以外は中国(明朝・清朝)からの伝来と推定される。日本で刻本が作られたのは、陳選『小学集註大全』が慶安三年(一六五〇)、陳選『小学句読』が明暦二年(一六五六)、何士信『小学集成』が明暦四年(一六五八)、王雲鳳『小学章句』が寛文七年(一六六七)であった。慶安から寛文にかけて陸続と和刻本が刊行された。貝原益軒の『小学備考』もこの一連の流れにあるかのように寛文九年(一六六九)の刊行である。\n また、これらいくつもある『小学』の注釈書の中で、元禄期に益軒が陳選『小学句読』を採りあげたことは、二つのことを意味する。一つは元禄の時期、『小学』の注釈書の中で特に広く流通していたのが『小学句読』であったこと。いま一つは、先の流通と呼応することになるが、評価の高い『小学』の注釈書が陳選『小学句読』であったこと。これが問題となるのは、陳選(一四二九~一四八六)の注釈書が、『小学集註』と『小学句読』の二種類あったことである。『小学集註』(成化五年(一四六九)序)は、呉訥の集解、陳祚の正誤、陳選の増註を収める書であったが、後に陳選は単独の注釈書として『小学句読』(成化九年(一四七三)序)を編纂した。ところが陳選の没後、『小学集註』は王鏊の「序」が附せられ、『小学集註大全』として弘治十八年(一五〇五)に刊行された。王鏊の知名度もあって『小学集註大全』の方が重んじられることがあるが、元禄時期の日本では『小学句読』が流通し、益軒は『小学句読』を評価している。\n\n 三\n 『小学句読』を基に『小学』の注釈を著していくのは益軒の考えであった。しかし、益軒と春庵には、編纂方針の違いも見受けられる。益軒は小子(童蒙)の学習書である『小学』には、詳細な注釈をつけるよりも、簡易な解説に留めるべきであると述べていた。一方、春庵はその意見に賛成しながらも、『集疏』の編纂においては次のように論じる。\n\n 定直按ずるに、先生の説極めて的當。但だ集疏 俗尚に從ひ句讀の全文を載せて之を併せ解す。則ち略 諸説を収めて以て其の意を明さざることを得ず。 (『集疏』巻一・三丁)\n 「先生の説」というのは、益軒の見解である。簡易な解説に留めるべきだと述べた益軒の説を認めながらも、『集疏』の編纂に際しては『小学』に関する諸説を収録して、文意をはっきりさせたというのである。小子が学ぶのに便利な注釈を編纂しようとした益軒に対し、『小学』の文意をはっきりさせようとした春庵という違いとなる。益軒からすれば、煩瑣な引用と感じていたかもしれないが、春庵は様々な説を引用しながら『集疏』を編纂していった。『集疏』には次のような書からの引用が確認できる。\n\n 小学 明陳選『小学句読』 明陳選『小学集註大全』 明何士信『小学集成』 明王雲鳳『小学章句』 明李春培・明陶原良『小学主意衷旨』 中村惕斎『小学示蒙句解』\n 四書 『四書章句集注』『四書或問』『四書纂疏』『四書大全』『四書蒙引』『四書存疑』『四書講述』『四書翼註』『四書節解』『四書浅説』『四書直解』『四書備考』『大学衍義』\n 其他 『書経講義』『書経嫏嬛』『礼記説義』『礼記疏意』『礼記集説補正』『礼記通論』『曲礼全経』『朱子語類』『字彙』『合璧』『揚子法言』『読書録』『困学紀聞』『文体明辨』『焦氏筆乗』『五雑俎』『李退渓自省録』『撃蒙要訣』『性理紀聞』 など\n 四書学関係の引用も多いが、『小学』関係の注釈書としては『小学主意衷旨』と『小学示蒙句解』からの引用が多く認められる。特に中村惕斎『小学示蒙句解』は元禄三年(一六九〇)の序であり、貝原益軒が自著『小学備考』の改訂に着手した年からさほど隔たっていない。益軒は京都遊学の折に中村惕斎とも交流をもっており、直接の面識がある。\n また、書籍以外としては、貝原益軒・三宅観瀾・竹田春庵の三人の見解が記される。春庵はそれぞれ「益軒先生」「観瀾三宅氏」「定直」と記して解釈を載せていく。『小学』六篇のうち益軒・観瀾ともに多寡はあるものの一篇あたり十から三十以上の見解が記され、定直(春庵の名)は一篇あたり三十から五十以上の見解が述べられている。\n また観瀾と春庵は注釈を通してそれぞれ見解を確認しあっていることも認められる。『小学』稽古篇第四十四章では次のようなやりとりが記されている。\n 定直按ずるに、本章の主意……。◯觀瀾三宅氏曰く、「定直の説、甚だ小學の正意を得たり。凡そ小學の載する所の詩書の語、聖賢の行、皆な當に此の説に依りて觀るべきなり。」 (『集疏』巻五・三十七丁)\n 出典は孔子が顔回を評した「一箪の食、一瓢の飲」で知られる『論語』の一章である。この章の主意を春庵が解説したところ、観瀾が「小学の正意を得たり」と賛意を表している。逆に観瀾の解釈を受けて、春庵が賛辞や補足を入れることもある。春庵と観瀾の場合、草稿をやりとりしてそれぞれの見解を記していったからこそ、『集疏』はこのような応酬がうかがえる注釈書となっている。\n\n 四\n 『集疏』は陳選『小学句読』の全文を収め、「疏」には多くの書籍や益軒・観瀾・春庵の見解が示されていることを確認した。次なる課題は、やはり春庵たちがどのように『小学』を解釈していったかということになろう。\n ここには小学という学問の特質が関わってくる。人は幼い頃から礼儀作法や規範意識などを習慣化して身につけておくことが重要で、その蓄積の上で物事の道理を探求する大学の学問へと進んでいく。これが朱熹が提示した小学・大学の関係である。そのため『小学』はどのような礼儀作法を身につけるべきか、自身の規範意識をどのように体得するかということが重視される。\n 『小学』敬身篇第十九章に「論語に曰く、車中にては内顧せず、疾言せず、親指せず」という一章がある。『論語』郷党篇を出典とする文章であり、孔子が車に乗る際の様子を記したものとされる。『集疏』では次のような観瀾と春庵の見解が記される。\n 觀瀾三宅氏曰く、「此に論語を引くも亦た説きて車に乘る禮節と爲して可なり。必ずしも論じて孔子 車に升るの容に至る可からず。但だ下條 郷黨の一節 孔子を引かざるは則ち文を成さず。然れども其の意も亦た孔子の行ふ所を取りて以て郷黨朝廷の禮式と爲る耳。此れ小學の讀法也。」◯定直按ずるに、觀瀾の説好し。後章の「席正\n\n しからざれば坐せず、寝るに尸のごとくせざる」が如き、皆な之に倣へ。 (『集疏』巻四・二十丁)\n 観瀾が懸念するのは、「車中にては内顧せず、疾言せず、親指せず」を孔子の挙措動作としてのみ解釈することである。車の中では振り返らない、早口で話さない、何かを指ささない。この一章が『小学』敬身篇に収められているのは、学ぶ者が自身の敬身(礼儀作法=挙措動作の敬み)のこととして見るべきだからであり、それが観瀾のいう「車に乗る礼節」という指摘につながる。もし孔子の行動として解釈するのであれば、孔子の乗った車はどのような形状であったか、乗り方はどのようであったかということも検討する必要があるかもしれない。『論語集注』において朱熹は「内顧は、回視なり〔振り返って見ることである〕」という注に続けて、『礼記』の「顧ること轂こくを過ぎず」(振り返る時には轂より後ろを見ない)という一説を引用している。疾言(早口)、親指(指さし)が明確であるのに対し、「内顧」が判然としないところがあるため、参考として『礼記』を紹介した。「轂」は車輪の輻やが集まる中央部分。「内顧」とは車の車軸より後方を見ないとの意であり、またそれには車は立ち乗りという乗り方そのものの確認も必要になってくる。しかし、観瀾はそれらには深入りしない。孔子の時代の車の形状を説明し、轂より後ろをみないことが「内顧せず」であるというような注釈は無用であると考える。小学の「敬身」としては「車の中では振り返らない、早口で話さない、指ささない」という礼儀作法を学ぶことを重視する。『小学』で示されていることは、自分達が行う礼節としてとらえるべきなのであり、それが「小学の読法」だと観瀾は主張する。そして春庵もまた「観瀾の説好し」と賛同する。自分たちの礼儀作法としていかに受容していくかを考えてのことであった。\n 礼儀作法の検討という観点からいま一例挙げてみたい。『小学』敬身篇第四十三章の中には、「唯ただ酒は量り無く、亂に及ばず」の一句が見える。これも『論語』郷党篇を出典とするものである。孔子は酒に定量を設けず、乱れないことを目安にしたと解釈される。『小学』として向き合う春庵はこの一句に対して次のような注釈を記す。\n\n 定直按ずるに、蒙存〔四書蒙引・四書存疑〕並びに謂ふ、惟だ酒は量り無し。人を望んで自ら量を爲さざる也。酒は以て人の爲に歡を合す。務めて人と情を盡つくさんと要す。惟だ人に在りて飲量同じからず。我 主と爲り客と爲る、人多く飲めば我も亦た多く飲む。故に限量を爲さず。緒言〔四書緒言〕 之を駁して謂ふ、蒙存皆な主賓の對飲を以て説と爲す。飲にも亦た自ら獨酌の時有り。豈に必ず皆賓主對飲せんや。倘もし我止ただ能く四五杯を飲んで人能く百杯を飲まば、主と爲り客と爲り、而しかも多く飲んで亂に免れず。謂ふ所の量り無き者、或いは時有りて少しく飲み、或いは時有りて多く幾杯を飲み、其の興會の至る所に隨ひ、預め限量を爲さず。但だ亂に及ばざる耳のみと。蓋し蒙存 集註の人の爲に歡を合するに依りて爾しか云ふ。主賓對飲 須らく自ら人の多少に隨ふべし。然れども是れ人 百杯を飲み、我も亦た百杯を飲むにあらざる也なり。緒言の駁する所 刻に過ぐ。但だ如もし其の興会の至る所に隨ふと言ふは、還かへつて佳し。 (『集疏』巻四・三十七丁)\n 『論語』の注釈としては孔子の行動として解釈するものであるが、『小学』としては人は酒とどう向き合うべきかという観点で考察される。酒宴は主人と客人が歓びを共にすることが目的であるため、酒量に制限を設けず相手に合わせて飲むと『四書蒙引』『四書存疑』は解釈した。一方、『四書緒言』は酒はみんなと飲むだけでは無く独酌の時もあるのだから、酒量に制限を設けないということではないと批判。場の雰囲気に応じて多く飲んだり少く飲んだりすることであると解釈する。前説が酒宴の場で相手に合わせることに注目したとすれば、後説は飲酒時の興の乗り方に合わせることに注目したと言えようか。春庵はこれら両説を紹介した上で、双方の良い点をみとめながら、場の状況に応じて飲むという考え方を評価する。自分たちの礼節として「酒は量り無し」を考察していった。\n 『論語』の同じ文章であっても、大学と小学では着眼点が異なる。大学としては孔子たち古の聖人の言葉や行動がどのような道理に基づいているかを明らかにすることが重視されるとすれば、小学としては今を生きる自分たちが、古の聖人を参考にどのような礼儀作法を身につけ、どのように道理を体得するかが重視される。『集疏』はそのような観点を持つ春庵らによって編纂されている。\n\n 五\n 朱熹が『小学』を成書したのは淳煕十四年(一一八七)のことであったが、『小学』には経書からの引用が多い。朱熹の時代でさえ、経書の記述から千年以上の隔たりがあり、すでに時代に合わなくなった古礼もあった。まして二千年近くの時を隔てた、日本という異域においては、建物や衣服、習俗や作法などの隔たりはさらに大きい。それでも江戸時代の学問に努める者は、日常を生きる学問として儒学を受容しようとしていった。\n 『小学』敬身篇第四十一章に「骨を嚙む毋なかれ、魚肉を反かへす毋れ、狗に骨を投げ與あたふること毋れ。」という一句がある。『礼記』曲礼上を出典とする。特に「魚肉を反す毋れ」の解釈が問題となるところであるが、『集疏』では次のように記す。\n 孔氏〔孔安国〕曰く、「魚肉 人と器を同じくす。已に囓り殘せば、器中に反し還\nかへす可からず。……」◯定直按ずるに、獨り魚肉を言ひて鳥獸の肉を言はざる者は、蓋し魚肉の骨有るを以ての故に或いは其の骨有るに遇ひて之を反せば也なり。上下の句皆な骨を以て之を言ふ、觀つ可し。……一説に魚は魚味、肉は鳥獸也と。未だ是否を知らず。○觀瀾三宅氏曰く、「魚味 反す可からざれば則ち鳥獸の味も亦た反す可からざること明らけし。」\n(『集疏』巻四・三十四丁)\n 食事のマナーにおいて「魚肉を反す毋れ」という作法についての考察である。孔安国は、魚肉は他の人と同じ器で出てくるので、食べ残したものを元の器に戻してはいけないとする。要するに、魚料理は大きな器で出されるので、「魚肉を反す」というのは、一度手元にとって食べた魚の残りを、大皿に戻してはいけないという大皿料理のマナーとされるものとなる。春庵・観瀾も基本的にその解釈を受けているが、なぜ戻してはいけないのか、それは「魚」だけなのかという点で考察を加える。春庵は、鳥や獣の肉のことは言わずに、魚だけを「反す勿れ」と言うのは、骨があるからであると推測する。食事で提供される鳥や獣の肉の形状について具体的には分からないが、魚料理は厄介な骨があったからといって大皿に戻すのはよくないとする。また、原文の「魚肉」は〝魚の肉〟と解釈されるものであるが、春庵は一説として「魚」が魚、「肉」が鳥獣のことで、ここの「魚肉」は魚・鳥・獣すべての肉を言うという説があることも紹介する。これが正しいかどうかは分からないが、観瀾は魚を戻してはいけないのであれば、鳥や獣料理も戻してはいけないこと明らかであると追記する。こうして春庵・観瀾の解釈は、料理の作法としては一度とった料理は戻してはいけない、それは魚だけのことではなく、鳥や獣などすべての料理に通ずる作法であるとされることになる。\n 中国と食膳文化は異なるものの、「魚肉を反す毋れ」はまだ共有できる礼節であったが、そもそも導入できない礼節もある。その一つが君から食事の余り物を賜る時の作法である。『小学』明倫篇第四十六章には、「君に御食し、君餘を賜へば、器の漑あらふ者は寫うつさず、其の餘は皆な寫す。」とある。『礼記』曲礼上篇を出典とする文章であり、君の食事に御し、君から余りものを賜わったとき、陶器・漆器などの洗える器ならそのまま食べ、竹器などの洗えない器なら自分の器にうつし入れて食べる、というものである。春庵は次のように述べる。\n 定直按ずるに、瓦が甒ぶ杯はい抃べんの漑あらふ可き者、君の器と雖も、亦た器中に於いて之を食す。本邦の如きは、未だ嘗て君の器を同じくして食するの事有らず。敬の至り也。此くの如きの類、彼我 宜を異にする者也。\n(『集疏』巻三・五丁)\n 君から食事の一部を賜わった時、どのように振る舞うべきかという作法である。本文によれば、洗うことのできる器なら君の食器をそのまま受け取って頂戴するという。ただ、本邦(日本)では君への敬意から君の器でそのまま頂くという作法はなく、このあたりは中国と日本の違いであるという。\n いずれにせよ、すべての作法や道理を日本に導入しようとしているわけではない。『小学』の解釈を通して、日本へ適合し得るもの、そもそも適合できないものなどの検討を試みていることがうかがえる。では礼儀作法について吟味しているとすれば、日常的な規範意識についてはどうか。最後に規範意識に関わる解釈を確認したい。\n\n 六\n 「孟母三遷」という故事があるように、孟子は教育熱心な母に育てられたことで知られる。実際の孟子がどのような家庭教育を受けたのかは不明であるが、漢代頃から孟子の母が教育熱心であったという逸話が伝えられるようになった。『小学』稽古篇第二章では、次のような孟母と孟子の話が収められている。\n 孟子幼き時、「東家に豬を殺すは何にか爲る」と問へり。母曰く、「汝に啖くらはしめんと欲す。」既にして悔いて曰く、「吾聞く古に胎教有りと。今適に知ること有りて之を欺く、是れ之に不信を教るなり。」乃ち豬肉を買ひて以て之に食くらはしむ。\n 孟子が幼い頃、隣人が豚(猪)を殺害しているのを見て、その理由を母に尋ねた。母は「お前に食べさせるためだよ」という冗談を述べたのであるが、すぐに子供相手に戯れをいったことを後悔し、本当に豚肉を買ってきて孟子に食べさせたという。孟子の母は子供相手でも真摯に向き合ったことを伝える話である。春庵はこの話への異論を紹介しながら次のように論じる。\n 定直按ずるに、東萊の呂氏〔呂祖謙〕云ふ、「人多く孟母能く子に示すに信を以てすと謂ふ。知らず、肉を買ひて以て其の言を實にす、誑を爲す所以なることを。母 當に直ちに前言を以て誑あざむくと爲して之に語つぐべし。乃ち肉を買ひて以て其の誑あざむくを成す。本\nもと是れ一誑、却て兩誑を成す。大抵、小人に陷る所以の者、多くは前言を實にせんことを要するに因る。蓋し前言を實にする三字、最も是れ小人に入るの徑路なり」と。蓋し孟母の心、一に正に出づ。仮たとひ是れ過擧なるも亦た是れ仁者の過ち、是れ小人の過ちを文かざ\nるの比ならず。東萊 孟母を論ずる、以て刻に過ぐと謂ふ可き也。然れども其の言亦た正大なりと謂ふ可し。故に竊かに謂はく、子を教ふる者孟母の心無くんばある可からず、而して又た東萊の論を知らざる可からざる也。 (『集疏』巻五・三丁)\n 春庵はまず別の観点から解釈する呂祖謙の説を引用する。呂祖謙は孟子の母が戯れの言葉を子供(孟子)に述べた後、それをごまかしたと見る。自分の前言を本当のことにしようとするあまり、欺きを重ねていったのではないかと。このような自分の虚言を本当のことにしようとするのは、小しようじん人に陥っていく道であるとまで批判する。嘘が嘘を重ねていく、つまらない人物たちを何人も見てきた呂祖謙自身の経験による見解かもしれない。\n 春庵は呂祖謙の批判を紹介した上で、孟子の母のやり方は間違っているかもしれないが、それもすべては子供への影響を考えてのことであると補足する。もし孟母が間違っていたとしてもそれは仁者の過ちに類することであると言う。仁者の過ちというのは、『論語』里仁篇の「子曰く、人の過つや、各々其の党に於いてす。過ちを観て斯に仁を知る。」に基づく見解であろう。仁者は相手への思いやりが深すぎるが故に過ちを犯し、小人は酷薄の情から過ちを犯すというものである。たとえ孟母が間違っていたとしても、それは小人が欲望にとらわれたり自分の失敗をごまかそうとしたりして嘘に嘘を重ねるのとは異なるという。\n こうして春庵は批判と補足をふまえた上で、孟母の話を一つの道理として提示する。子供の教育に与る者は、子供に対しても真摯に向き合うこが何よりも重要であるが、下手なごまかしが悪弊を生むということも心に刻む必要がある。そしてまた春庵たちは、道理についてもそのまま受容しようとしていたわけではない。むしろ『小学』の解釈を通して、道理を吟味・検討していったことが重要であると思われる。\n\n 結\n 『小学句読集疏』は貝原益軒『小学備考』を基に、大幅に増補改訂された書である。その画期は三回ほどあった。\n 一、元禄十二年(一六九九) 貝原益軒が立教一篇のみを改訂。\n 二、正徳五年(一七一五) 竹田春庵が全篇を改訂。益軒とのやりとりを反映。\n 三、享保三年(一七一八) 春庵が再度全篇を改訂。三宅観瀾のやりとりを反映。\n 貝原益軒と三宅観瀾に直接の面識はないが、竹田春庵を通して二人の見解が『集疏』に集約された。そのため、『集疏』には多くの先儒の説とともに、益軒・春庵・観瀾の見解が随所に附されることとなった。ただ、編纂方針については若干傾向の違いもあったかと思われる。益軒自身は小子(童蒙)が学ぶのに便利なようにと、簡易な注釈書を想定していたようである。しかし春庵が編纂した『集疏』は諸説を多く引用する詳細なものであった。さらに益軒没後は観瀾とのやりとりによって更に重厚な注釈書となったが、春庵の関心は単に詳細な注釈をつけるというものでもなかった。春庵は小学(小子の学)として礼儀作法や規範意識について考察しており、それが注釈にも反映されている。日本に導入できない礼節や道理があることを認めながら、それでも自分たちがどのような礼節を身につけ、いかに道理を把握すべきかという視点で検討していったと言える。\n 小子の頃から礼儀作法を習慣化し、日常道徳を体得しておくという点で江戸時代前期に小学(小子の学)を重視した人は少なからずいた。その重視の仕方において、『集疏』は中国士大夫の礼儀作法や規範意識をそのまま移植しようとしたわけではない。また、日本に適合させ得るもののみを集めようとしたわけでもない。重要なのは『小学』全篇の注釈書を著したことであり、それは礼節や道理において日本に適合し得るものと適合できないものを『小学』を通して吟味検討したことを意味する。江戸時代前期、『集疏』は礼節や道理を模索したことの一つの現れとなる。\n\n (注)\n(1)『小学』については、拙著『朱熹『小学』研究』(汲古書院、二〇二一年)参照。『小学』については近代以降、劉清之の編であって朱熹の著ではないとの見解が見られる。しかし、朱熹自身「某所編小学」(『朱子語類』巻一二〇・第五十六条)と述べており、朱熹の自意識としては『小学』は自編の書であり、また何よりも江戸時代の日本人は『小学』を朱熹の著書とみなしていた。\n(2)『大和小学』については、市来津由彦「山崎闇斎『大和小学』考――中国新儒教の日本的展開管見」『国際文化研究科論集』一号(一九九四年)参照。\n(3)『武教小学』については、前田勉『江戸教育思想史研究』第三章「山鹿素行における士道論の展開」(思文閣出版、二〇一六年)参照。\n(4)「竹田春庵日記」(川添昭二・福岡古文書を読む会校訂『黒田家譜』第七巻中巻/第七巻下巻、文献出版、一九八四年所収)。なお、日記は元禄三年五月~十二月、元禄四年八月十二日~十二月、元禄七年八月~十二月、元禄八年~元禄十三年四月廿二日、正徳二年、三年、享保元年、二年、享保三年六月十三日以降の記録を欠く。\n(5)「竹田春庵日記」元禄十三年十一月廿四日に「久兵衛殿へ書状一通、小學立教校合遣。」とあり、元禄十四月廿四日に「久兵衛殿ゟより信仙便書來。小學集疏來。」とある。「久兵衛」は貝原益軒の通称。どのようなやりとりをしたか詳細は分からないが、「竹田春庵日記」の元禄十五年六月十九日と七月廿五日の間には「敬身備考、五葉蒙引可改。」というメモ書きのような書き入れが見える。『小学備考』敬身篇の第五丁に引用されている『四書蒙引』を改訂するよう指摘したものであろう。\n(6)「竹田春庵日記」宝永四年四月朔日に「ゟより小學集疏嘉言寫來。」とあり、宝永六年八月朔に「道善村忠二郎ニ小學集疏、嘉言善行二册かす。」とある。\n(7)「貝原益軒書簡」(前掲『新訂 黒田家譜』第七巻中巻、348頁)参照。\n なお、益軒の『小学備考』のことは正徳四年の時には「旧編」と呼ばれるようになる。「竹田春庵日記」正徳四年正月廿二日に「小學備考舊編來。」とあり、正徳四年三月廿二日に「小學舊編備考、二宮源三ゟより歸ル。」とある。\n(8)「竹田春庵日記」正徳四年三月六日に、「永田調兵衛ゟより書來。小學集疏可二刊行一由。先生にて受取。此かミ五百枚來。入銀貳拾五匁、貳拾五册、板下此方より。」とある。\n(9)「竹田春庵日記」正徳四年九月十八日に、「小學集疏改正了。松岡言達、小學集疏序頼遣。」とある。\n(10)「竹田春庵日記」正徳六年四月六日に「観瀾へ明倫集疏又遣。」と、正徳六年四月十六日に「九十郎殿へ立教遣。明倫返ル。」とある。「九十郎」は三宅観瀾の通称。観瀾にも春庵に送った書簡が残っており、「小学敬身篇、此間致一讀候處、少々書入申候」(川平敏文・大庭卓也・菱岡憲司『福岡藩儒 竹田春庵宛書簡集』雅俗の会、二〇〇九年、38頁)と『小学』への言及が見える。なお観瀾については、進藤英幸『三宅観瀾 新井白石〈叢書日本の思想家14〉』(明徳出版社、一九八四年)参照。\n(11)「竹田春庵日記」享保三年四月十八日に「小學集疏稽古校正了。」と\n(12)『小学集疏』は天保九年(一八三八)に『小学句読集疏』として刊行される以前、享保四年に刊行されたかどうか不明である。三宅観瀾が享保三年八月二十一日に亡くなっていることが関係するかもしれないが、『集疏』は写本として伝わり、それが天保九年に刊行されたか。\n(13)三宅観瀾「改正小学備考序」に「不及見益軒翁、而得遇竹田子」とある。\n(14)『小学句読集疏』の原文は訓点・送り仮名付きの漢文であるが、引用に際しては訓点・送り仮名に従って書き下し文とし、引用者が句読点および「 」『 』を付した。〔 〕は引用者による補注。以下、同じ。\n(15)明朝後期以降における『小学』衰退については、拙著『朱熹『小学』研究』第六章「元明清時代の『小学』」参照。\n(16)程愈『小学集説』については、白井順「朱熹《小學》傳播的一側面――以程愈《小学集説》爲中心」『歴史文献研究』総第三六輯(二〇一六年)参照。\n(17)『小学句読』と『小学集註』の関係については混乱も多く、後人が『小学句読』の書名を『小学集註大全』に改めたという見解や、陳選は『小学句読』を編纂した後に『小学集註大全』を編纂したという見解が見られるが、いずれも誤りである。陳選は『小学集註』を編纂後、改めて『小学句読』を著している。\n(18)陳選『小学句読』が優れていることを、松岡恕庵「小学集疏序」では「明陳克菴句讀、世尤尚之、以其解義、比諸家簡明平實、無乎經意也。」と記す。なお、『集疏』には「海虞呉氏」(呉訥)の注釈を挙げていることから、益軒等が『小学集註大全』を参照していたことは確実である。いくつもの注釈書を確認した上で、『小学句読』を優れた注釈書と判断していると考えられる。\n(19)『集疏』巻一・十丁に「定直按ずるに、三宅氏の説尤も的確と為す。」と、巻一・三十九丁に「定直按ずるに、三宅氏辨じ得て好し。」とある。\n(20)「魚肉を反す毋れ」について、孔安国は「反す」を戻すの意に解釈するが、(魚を)ひっくり返すという解釈もある。元禄三年(一六九〇)に序が書かれた中村惕斎の『小学示蒙句解』では、「反す」を箸でひっくりかえすことや、魚をひっくりかえして裏側まで食べることとする見解も掲載する(巻三・二十五丁表)。\n\n[付記]本稿は、國學院大學中國學會第六十五回大会(二〇二二年一〇月二三日)で発表した内容に基づくものである。\n\n〔キーワード〕貝原益軒 竹田春庵 三宅観瀾 小学集疏 小学句読\n"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (493.8 kB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2023-04-28 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | ja | |||||
タイトル | 『小学句読集疏』の編纂 : 江戸時代前期における『小学』受容 | |||||
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資源タイプ | ||||||
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資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
松野, 敏之
× 松野, 敏之 |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 201101091780338859 | |||||
書誌情報 |
國文學論輯 en : Kokubungakuronshu 巻 44, p. 35-55, 発行日 2023-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学国文学会 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | PISSN | |||||
収録物識別子 | 0286-7494 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN00090339 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 125.4 | |||||
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主題 | 121.54 | |||||
フォーマット | ||||||
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内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
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キーワード | ||||||
主題 | 貝原益軒, 竹田春庵, 三宅観瀾, 小学集疏, 小学句読 | |||||
注記 | ||||||
本稿は、國學院大學中國學會第六十五回大会 (二〇二二年一〇月二三日) で発表した内容に基づくものである。 |