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に成立してから、乾隆四〇年代 (一七七五〜八四年) に一時的に禁書扱いされるが、後に軍機大臣の上奏文で改めて「無違礙語句」が確認され、「誤夾入霉爛錯雑書捆内」と評されたように、全書中どこにも清朝を批判する語は見られず、字面だけを見るならば、確かに呉翊如氏が指摘するように、立論と叙事は完全に清の統治者側からなされている。\n しかしながら、楊陸栄に関する伝記史料である光緒五年 (一八七九) 刊本『青浦県志』(以下、本県志については年号を冠して『光緒志』などと略称) 巻一九・人物三・文苑・楊陸栄伝に、\n\n 研究経史諸書、論頗辨、而殷頑録・三藩紀事本末、尤於忠義加詳。\n\n と評されるように、『三藩紀事本末』は南明の列伝集である『殷頑録』と併せて「忠義」に詳しいとあり、これが南明士女の「忠義」を指すことは言うまでもないが、かかる指摘と禁書扱いされた判断との繋がりを示唆するものであり、本書の歴史意識を解明しようとする際に重要な視座になると考えられる。そもそも従来の研究では、『三藩紀事本末』と『殷頑録』との関係はおろか、楊陸栄の事蹟一つとっても全く明らかにされていない。また南明期に清軍による屠城が行われた松江府治出身の士人が、通常先行する特定の一つの史書をダイジェストして「紀事本末」を編集するところ、「三藩史」なる史料が存在しない中、敢えて「三藩紀事本末」と題して南明史を撰述している異常性も注目されて然るべきであろう。\n 右のように、特異な史書である『三藩紀事本末』の史学的・政治的意味合いが殆ど議論にすらならない状況にあることに鑑み、本稿ではその初歩的研究として、これまで楊陸栄という人物を考察する上で全く顧みられることのなかった、その根本史料となる『潭西詩集』の内容をまず概観した上で、楊陸栄の事蹟と彼を取り巻く青浦県人士との関係等を確認し、最後に『潭西詩集』巻一〇・『何其集』に収録される南明人士・事件を題材とした作品と『三藩紀事本末』・『殷頑録』との撰述の関係を検討し、撰述背景の一端を明らかにしたい。\n\n 一 『潭西詩集』の流伝状況\n 『潭西詩集』(以下、『詩集』と略称。引用の際は基本的に巻数のみ表記)全二一巻は、刊本として現存するのは巻一から巻一六までで、巻一七以下は散佚している。現在唯一出版物として利用できるテキストは、『四庫全書禁燬書叢刊補編』(北京出版社、二〇〇五年)第八五冊所収の北京図書館蔵影印刊本(一葉当たり一行二七字×一八行)であり、「清雍正刻本」とされるが、少なくとも影印刊本自体にそれを特定する刊行年の情報は記載されていない。或いは何か明確に拠るべきものがあるのかもしれないが、ただ、巻一六・『止止集』下の「減賦紀恩詩仿鉄崖体」には「雍正皇年御極之三載(一七二五年)春三月」(一葉表)と見えること、また同巻の「拝月詞女孫幼殤賦此自遣」には「己酉七月十七日夜」(一四葉表)の句があり「己酉」が雍正七年(一七二九)を指すことから、少なくとも雍正年間の作品を含むことは疑いない。\n しかしながら、冒頭に置かれる「外舅」たる王原の序には、 生刻其二十年来之詩十二集。……康熙六十一年(一七二二)壬寅夏四月、西亭居士王原撰。時年七十有七。 とあり、二番目に置かれる潘肇振の序には、 康熙六十年辛丑(一七二一)六月下澣、同学弟潘肇振拝跋。 とあり、三番目に置かれる陸????の序には、 ……辛丑(康熙六〇年)首夏(四月)、相与会萃編纂、付諸刻工、潭西命余覆閲裁汏、余展視弥月、訖無刪削、潭西怒而持去。……康熙六十年辛丑又六月下浣、同学弟拝題。 とあり、四番目に置かれる楊陸栄の自序にも、 少作荒蕪稿、多遺棄断、自癸未(康熙四二年〈一七〇三〉)至今、共得古今体詩、如干首類、為一十二巻。……青浦楊陸栄采南、甫漫題詩、康熙六十年辛丑六月既望(一六日)。 とあることが問題となる。かかる事情は『詩集』が当初、康熙六〇年四月から六月にかけて楊陸栄の詩を一二巻本として選定され、おそらく同年六月下旬までに書籍としての体裁を整え、翌年の刊行間近の四月段階で王原の序を冠したことを物語るのであろう。実際、二一巻本の巻一二・『擪線集』は「起己亥(康熙五八年〈一七一九〉)三月、尽辛丑(康熙六〇年)三月。」(同集題名割註)とある時期に詠まれたものと明記されており、これはここまでを下限として康熙六〇年四月から選定が始められたこととも合致する。よって、『詩集』は当初、一二巻本として康熙六一年に刊行され、その後、九巻分を増補して二一巻本として改めて刊行されたと考えられる。それを裏書きするのが魚尾に「潘序」と題される潘肇振の序に「拝跋」と見えることである。これが本来、一二巻本の跋として書かれたもので、現存しないものの二一巻本の編纂の際に新たな跋文が用意されたことから、巻頭に移動させられた事情を示すものであろう。また書名に関しても、王原『西亭文鈔』巻三にも収録される王原の序文は「潭西詩稿序」と題されており、二一巻本の鏡書きにも「潭西詩稿初刻」と記されていることから、これが一二巻本の本来の書名であったことが窺われる。二一巻本の巻一以下に「潭西詩集」と題される書名は、増補の際に改称されたものと見て大過なかろう。\n なお、各巻の始めには、著者と編集者について、 青浦楊陸栄采南氏著 陸 ????扶桑 同学潘肇振毅老選訂 胡鳴玉廷佩 と記され、『詩集』の編集には序文を寄せた陸????と潘肇振の他に、彼らと「同学」の胡鳴玉が関わっていたことが知られる。\n この巻一六までしか現存しない二一巻本刊本の各巻の篇目名、詠まれた時期、それに収録作品数と各巻の分量を確認すると、以下のようになる。 巻一・『????巧集』:癸未(康熙四二年〈一七〇三〉)九月〜甲申(康熙四三年)五月〔三三作品、一〇葉分〕 巻二・『無端集』:記載はないが、康熙四三年(一七○四)六月頃〜康熙四四年七月頃〔五五作品、二〇\n葉分)〕 巻三・『拈花集』:乙酉(康熙四四年〈一七〇五〉)八月〜丙戌(康熙四五年)十月〔三六作品、二二葉分〕 巻四・『寒灘集』:丙戌(康熙四五年〈一七〇六〉)十一月〜戊\n子(康熙四七年)四月〔五一作品、二一葉分〕 巻五・『東帰集』:戊子(康熙四七年〈一七〇八〉)四月〜己丑(康熙四八年)三月〔一七作品、一三葉分〕 巻六・『????羽集』:己丑(康熙四八年〈一七〇九〉)四月〜庚寅(康熙四九年)四月〔九〇作品、三七葉分 巻七・『喚奈集』:庚寅(康熙四九年〈一七一〇〉)五月〜辛卯(康熙五〇年)十月〔一六作品、九葉分〕 巻八・『????江集』:辛卯(康熙五〇年〈一七一一〉)十一月〜壬辰(康熙五一年)八月〔二七作品、一一葉分〕 巻九・『希古集』:壬辰(康熙五一年〈一七一二〉)九月〜己亥(康熙五八年)二月〔二七作品。一七葉分〕 巻一〇・『何其集』:不詳。ただし、一二巻本の順序を踏襲し、かつ『詩集』は編年順に配列しているので、『擪線集』の成立以前から\n下限は康熙六〇年(一七二一)三月までの作品と見られる〔三九作品、二六葉分〕 巻一一・『研露集』:不詳。成立時期は巻一〇と同じ〔五九作品、二〇葉分〕 巻一二・『擪線集』:己亥(康熙五八年〈一七一九〉)三月〜辛丑(康熙六〇年)三月〔九三作品、二八葉分〕 巻一三・『物言集』:壬寅(康熙六一年〈一七二二〉)正月〜癸卯(雍正元年〈一七二三〉)八月〔五〇作品、二四葉分〕 巻一四・『詠物集』:不詳。『物言集』の成立以後から『止止集』上の成立以前か〔七〇作品、一六葉分〕 巻一五・『止止集』上:不詳。ただし、一五葉に「今秋」を題材にした詩が見えることから、およそ雍正元年(一七二三)九月以後\nから雍正二年秋以前の作品を詠んだものか。〔三一作品、一六葉分〕 巻一六・『止止集』下:雍正三年(一七二五)三月〜雍正七年七月頃〔二九作品、一七葉分〕\n 歴史を題材とした詩賦は少なくないが、特に明末清初を詠んだものに関して言えば、「新楽府」上・中・下として巻一〇・『何其集』で集中的に扱われており、上が崇禎帝期、中・下が南明期の人物・事件を叙す。\n 右が現存刊本の概要であるが、これ以外に『詩集』の鈔本が存在する。筆者が二〇一二年五月に東京都文京区の古書店から購入した、全四八葉(一葉当たり一行二二字×二〇行)から成る近年に新造された帙入りの和綴じの一冊本がそれである。第一葉表の右下に本文に被せる形で蔵書印も押されており、朱肉が薄いものの「曳尾園圖書□」と判読し得るが、管見の限り、かかる印面を有する蔵書家を確認することは出来なかったので、何時写された鈔本かは不明である。ただ、収録作品題名には、例えば「雨傘カラカサ」のように片仮名でルビが振られているので、日本人が所蔵したことのあるのは疑いないが、本文とルビの字体の違いまでは筆者には見分けがつかない。\n この鈔本は四つの部分から構成されており、まず序(一葉表〜三葉裏)であるが、陸????と潘肇振の序は省略され、王原と楊陸栄の序のみが載せられる。次に「潭西詩集」と題されるだけで巻数等の記載がないが、その直後に「詠物集」(四葉表)と「詠物二集」(一九葉表)と題され、刊本と同様に著者と編集者を記す書き出しが二度出て来る。「詠物二集」に続くのが「咏物詩」(二九葉裏)と題されて始まる部分である。刊本と対照すると、鈔本の「詠物集」は、題名・内容共に巻一四に一致する。しかしながら、「詠物二集」の題名は現存刊本には存在せず、また内容の一致するものも皆無であることから、これは散佚した巻一七〜巻二一のいずれかの巻に該当するものであると見られる。とすれば、『詩集』はこの鈔本によって一七巻分まで確認することが出来る。そして鈔本の「咏物詩」と題される部分(五六作品)であるが、これは末尾の二作品を欠くだけで、刊本巻一二・『擪線集』の一二葉表に始まる「咏物詩」(五八作品)というグループと一致するが、それは四三葉表までで、その後には刊本の巻一三・巻三・巻四から抜粋した作品を入れて構成しており、混成巻となっている。以下、鈔本の内容を整理すると、次の通りである。 ㈠ 序:王原の序文(一葉表〜二葉表)と楊陸栄の自序(二葉裏〜三葉裏) ㈡ 巻一四:『詠物集』(四葉表〜一八葉表。七〇作品) ㈢ 巻数不明:『詠物二集』(一九葉表〜二九表。巻一七〜巻二一のいずれかの巻。四八作品) ㈣ 混成巻:巻一二・『擪線集』の「咏物詩」(二九葉裏〜四三葉表、末尾の二作品を欠く)、巻一三・『物言集』から一三作品を抜粋(四三葉裏〜四六葉裏)、巻三・『拈花集』から四作品を抜粋(四七葉表〜四七葉裏)、巻四・『寒灘集』から二作品を抜粋(四七葉裏〜四八葉表)。\n 右のことから、この鈔本は巻一三以下を有する二一巻本をもとに、身の回りの「物」事に対する関心に基づき作られたことが知られる。いずれにせよ、この鈔本は天下の孤本というべきものであり、刊本を補完し、対校し得る現状唯一のテキストと評することが出来る。\n それでは、かかる『詩集』を中心としながら、楊陸栄の事績はどのように復元出来るのであろうか。\n 二 楊陸栄の事蹟及び青浦県人士との関係\n 楊陸栄の伝記史料である『光緒志』楊陸栄伝には、生没年などの彼の事績を追う上で重要な記載は存在しないので、本節では、まず楊陸栄の生没年代とこれに関わる諸著作の成立年代を考察し、次に彼が如何なる家族・交友関係の中で著述をしていたかを明らかにすることとしたい。\n (Ⅰ) 楊陸栄の生没年代と諸著作の成立年代\n 関係史料を精査していない先行研究では楊陸栄の生没年は一切記述されることはなく、逆に憶測だけで「康熙年間」の人とされることもあるが、少なくとも生年に関しては『詩集』潘肇振の序に、 潭西与余家向属世好、而余之与潭西交也、実始於戊辰之年(康熙二七年〈一六八八〉)、時潭西年纔弱冠。 とあり、「弱冠」が単なる青年時代を指す修辞ではなく、文字通り二〇歳を意味するのであれば、逆算すると康熙一八年(一六六九)の生まれであることが知られる。実際、巻三・「乙酉(康熙四四年、一七〇五年)除夕、効誠斎体」では自身を指して「楊郎酒徒三十七」と記していることも、これを裏付ける。\n 次に楊陸栄の没年とも関係してくる、その諸著作の成立年代を確認したい。楊陸栄の著書としては、『三藩紀事本末』が著名であり、その成立に関して自序に、 時康熙五十六年(一七一七)、歳次丁酉、仲春下浣、青浦楊陸栄采南氏書。 とあり、また『殷頑録』自序に、 康熙辛丑(康熙六〇年〈一七二一〉)孟秋、青浦楊陸栄采南甫漫題。 とあり、更に『五代史志疑』自序に、 康熙庚子(康熙五九年)蒲月(五月)下澣、青浦楊陸栄采南氏題於呉????旅次。 とあることから、おそらく楊陸栄の没年も康熙年間末と推定されたと見られる。ただ前節で述べたように、少なくとも『詩集』巻一六には雍正七年(一七二九)七月十七日に詠んだ詩が存在するので、没年は当然それ以降とされねばならないが、そもそも他の\n著作の成立年代を確認することなしに、それを議論するのは些か軽率と思われる。\n 現状で楊陸栄の著作として確認されるのは、右で挙げたものを除くと、 『禹貢臆参』二巻 『経学臆参(経解臆参)』二巻 『易互』六巻 『夢囈集』巻数不明 『遼金正史綱目(遼史金史綱目)』三〇巻 となる。『禹貢臆参』自序には、 乾隆壬戌(乾隆七年〈一七四二〉)仲春月、楊陸栄識。 とある。また『経学臆参』に関しては、何に依拠しているのか不明であり、かつ些か曖昧であるが、『中国叢書綜録』第一冊・「総目」四九九頁『楊潭西先生遺書』条によれば、 経学臆参二巻 乾隆中刊 とあり、『禹貢臆参』と姉妹編である可能性が高いので、刊行された乾隆期に成立したと推定され、『易互』自序に、 乾隆戊辰(乾隆一三年〈一七四八〉)四月上浣、楊陸栄識。 とあることから、雍正七年以降、乾隆一三年までの生存が確認され、これが楊陸栄の生存を示す最下限記事となっている。とすれば、少なくとも楊陸栄は八〇歳までは著述家として活躍し、それ以降に没したことになる。\n 残る二書であるが、『夢囈集』に関しては、清・劉世瑗輯『徴訪明季遺書目』(劉宅鉛印、宣統二年〈一九一〇〉)一三葉表に、 楊陸栄夢囈集 と記されるだけで、巻数等も記されておらず、この書目が編まれた時に現存していたのかも分からない。ただ、明末清初に関する著作であり、『三藩紀事本末』や『殷頑録』と密接に関連するものであろうから、それらとほぼ同時期に撰述されたものと考えられる。名称が『詩集』に収録される各詩集と類似することからすれば、或いは史料集ではなく、『詩集』の欠落部分に当たる明末清初に関する詩を詠んだ、単行された専巻を指すのかもしれない。\n 最後の『遼金正史綱目』は、鈔本しか存在しないようであるが、少なくとも二種類のテキストが存在すると見られる。静嘉堂文庫所蔵鈔本(一葉当たり一行二二字×二〇行)を見る限り、自序はなく、冒頭に凡例(五葉分、三〇則)があるだけで、成立年代を示すものはない。各巻の分量は最多で二三葉、最少で一二葉となっているが、各巻頭には巻数が示されるだけで必ずしも表題が掲げられておらず、また全てが年号の元年で始まるという書法も取られていない。加えて、例えば巻一の冒頭に(括弧内は原書では割註)、 大祖(名億、本名阿保機、徳祖長子、在位 年)とあるように、遼・金の全君主の在位年数が空格になっている。このように、体例が整っておらず未定稿のまま流伝したと見られること、『詩集』巻二と巻七(康熙四三年〜康熙五〇年の作品)に遼・金関係の詩が読まれており、この撰述との関連が示唆されること、そして、これまで見てきたように楊陸栄の著作傾向として康熙期には史書の撰述が活発であるのに対して、乾隆期には経学解釈書の撰述にシフトしていることから、おそらく『遼金正史綱目』は康熙四三年以降に作られた、『三藩紀事本末』に先行する楊陸栄最初の史書に属するものと推察される。\n 以上の考察から、『詩集』も含めて作品成立年代を整理すると、本稿末尾の「楊陸栄年譜」のようになる。また特に史書に関して言えば、五代・遼・金・南明を扱っていることから、中国の分裂時代に強い関心を抱いていたことが窺われる。\n(Ⅱ) 楊陸栄の家族と青浦県人士\n 後述の『光緒志』本伝には、殆ど家族関係が記されないが、『詩集』からは、楊陸栄に一人の兄がおり、康熙六一年(一七二二)に「孫」が亡くなっていることから、少なくとも一人は息子がいたこと、また「阿元」「元姪」「猶子元」と呼び可愛がった兄の子がいるこ\nとが確認される。雍正元年(一七二三)〜二年頃に成立したと見られる巻一五・『止止集』上の収録する「先君病中、不廃参餌、亡内王毎収其渣而乾之。????先君歿、将斂荒迷中、亡内偶以湯飲授余、余一吸遽尽、初不知為何物。越日始知即所乾之参渣耳。存亡久隔、老壮旋移、三十年而至今、而余亦以病進参飲焉。回念従前、不自知其涕泗之落」という長文題目の作品に「先君歿已三十載、内子亡経念九年」とあるので、遅くとも康熙三四年(一六九五)には「先君」とある父が、康熙五五年(一七一六)には「亡内王」「内子」とある王原の娘である妻・王氏が亡くなっていることになる。とすれば、この妻の死と同時期に『三藩紀事本末』の撰述が行われたことも意味しよう。\n さて、楊陸栄自身は、生来、特に耳目を患っていたようであるが、何度も旅行を行っており、『詩集』陸????の序に、 甲申(康熙四三年〈一七〇四〉)以来、潭西客遊京師、再人(「入」の訛か)西江幕舘於金????者三年。……甲申以前、多文酒讌会友朋酬唱之什、甲申以後、游歴愈広、感慨日深、両耳失聡、思致沈鬱、弥復捜討物情、穿穴経史。 とあるように、体調の不良を押して康熙四三年に、当時、王原が出仕する北京に上ってから、各地を遍歴することにより、執筆内容に深みが増し、精力を「経史」に振り向けたと記される。しかしながら経済的には困窮しており、楊陸栄の『詩集』自序にも、 余少遭坎????、家貧落魄、????????朝夕之計、惘然不知所措。中年奔走四方、以苟衣食、相須非殷。 と書かれおそらく各地を旅行する費用は妻の実家である王原が工面したと見られる。楊陸栄が踏破したのは、『詩集』に詠まれる詩を元に大まかに纏めると、一七〇四〜〇五年の北京往復、一七〇六〜〇八年頃に江西省、一七〇九〜一〇年に浙江省―江西省―安徽省―浙江省、一七一一〜一二年頃に浙江省―江西省、一七一六年以前に湖南省、一七二〇年に江蘇省蘇州府という足跡が浮かび上がる。ここで注目されるのは、浙江省経由で三度も江西省に入っていることである。『三藩紀事本末』は特に江西省における抗清運動が比較的詳しく記述されているが、この旅行での\n取材と無関係ではなかろう。\n それでは次に、『光緒志』に散見される関係記事の確認を行い、検討を加えることとする。 A 楊陸栄墓、在胥溝。〔巻一二・名蹟・古蹟・冡墓〕 B 雍正三年(一七二五)、届七十、乞休旋里、与陸緯・呂樾・潘肇振・楊陸栄文酒往還、又三年而卒。〔巻一八・人物二・\n仕蹟・銭珂伝〕 C 少通爾雅訓詁、王原深器之。与楊陸栄友善、陸栄著作多太璞与参定。〔巻一八・人物二・仕蹟・趙太璞伝〕 D 楊陸栄、字采南。婁県諸生。居学潭西、自号潭西。早慧博通古今、王原妻以女、得其伝学益進、著述繁富。荘師洛称其詩飄飄有仙意。研究経史諸書、論頗辨、而殷頑録・三藩紀事本末、尤於忠義加詳。〔巻一九・人物三・文苑・楊陸栄伝〕 E 澱畬草堂合稿(屠旭及文漪著・宸楨著、宸楨子善長編。楊陸栄序。)〔巻二七・人芸文・書目〕\n 右のことを纏めれば、楊陸栄は元来、隣接する婁県の諸生であり、青浦県の潭西に移ってからは、博学文才を買われて青浦の名士である王原の婿となり、その学問を継承したことと、王原の地縁に負う所が大きいと考えられるが、銭珂、『詩集』の序を寄せた陸????の父である「軒」と号した陸緯、七〇歳頃に引退し九一歳で亡くなるまで「吟咏自娯」とある呂樾、「承其家学、耽書嗜古」や「耽酒長吟」とある潘肇振、文字の訓詁に優れていた「橘郷」と号した趙太璞、屠文漪らとの密接な交友関係が形成されていたこと、その没後は青浦県城の北方郊外に位置する胥溝に葬られたこと等が知られる。とりわけCに見えるように趙太璞が楊陸栄の著作活動すなわち「経史」の撰述に大きな役割を果たしていたことが注目される。「文字の獄」が荒れ狂う中、字義に詳しい親友の趙太璞の協力の下、『三藩紀事本末』等の撰述が行われたため、反清色を一切読み取らせない叙述となったことを示唆するものである。\n 更にこれを『詩集』に見える交友関係と突き合わせると、王原は最も多くの詩の題目(一一作品)に出てきており、頻繁に関係良好だった婿との詩の応酬が想定されるが、その他、『青浦県志』で確認出来る人物としては、『詩集』に序を寄せた「西軒」陸????(一〇作品)と「毅老(潘毅老)」潘肇振(四作品)、その選訂を行った「廷佩」胡鳴玉(一作品)、「軒(陸軒、東軒)」陸緯(三作品)、「趙橘郷」趙太璞(一作品)、「我友」と称される「竹隝(唐竹隝)」唐瑗(二作品)、「天農」張徳純(一作品)が確認され、県内の文人たちとの活発な交流が窺われる。呂樾や屠文漪らが如何なる号を称していたか不明であるが、この他に、「小崑」(八作品)、「鶴浦」(四作品)、「我友」とある「黄棣華」(二作品)、「霽南(沈霽南)」(二作品)、「虞山」(一作品)等とある諸人も、おそらく多くが青浦県の文人たちであり、かかる詩文の応酬を行う交友関係を基礎にして『五代史志疑』に序文を寄せた「恒山」すなわち直隷省正定府(今の河北省石家庄市一帯)の梁穆など松江府の外に広がる人脈を有していたことが知られる。また右の人士は、詩文の制作に長じた郷紳・生員が多く、その相互の繋がりによる文壇が形成され、その中に楊陸栄も属し、研鑽を積んでいたことを物語るものである。ただ、楊陸栄自身に即して言えば、やはりDに「王原妻以女、得其伝学益進、著述繁富。」と記されるように、王原の学問を継承したことが大きな意味を持っていたと考えられる。『乾隆志』巻一九・第宅園林下には、 大樹軒・蕉窓。並楊氏居、王原授経処。 とあり、「楊氏」は特に説明されていないが、王原の「授経処」でもあることから、婿の楊陸栄を指すと見られ、常に王原に侍してその学問に接する環境にあったこととなる。\n 以上のように、楊陸栄は青浦県の郷紳・生員文壇での交流や王原の学問継承を背景として、妻・王氏が亡くなった頃に、親友の趙太璞の協力を得て用字を慎重にしながら『三藩紀事本末』や『殷頑録』の撰述を行ったことになる。とすれば、何故そこまでして敢えて南明史を執筆せねばならなかったのかが、改めて問われることとなろう。\n 三 南明詩と南明史叙述\n 第一節で述べたように、『詩集』巻一〇・『何其集』の「新楽府」中・下が南明詩となっており、三字の題目が書かれた後に詩序が置かれ詩が詠まれる構成になっている。以下、それらと『三藩紀事本末』・『殷頑録』の叙述がどのように対応しているのかを確認するため、南明詩の題目の後にその詩序の内容を纏め、「※」に『三藩紀事本末』(『三』と略称)の巻数・篇目名等と、『殷頑録』(『録』と略称)での扱いについて示す。 「新楽府」中 ①「桂城下」:広西桂林陥落による瞿式耜の死を詠む。※『三』巻三・「瞿式耜殉粤」に関係記事(異聞を含む)。『録』巻六に瞿式耜伝。 ②「黄相婦」:捕縛された黄道周に書簡で忠臣のあり方を説いた妻・蔡氏を詠む。※『三』巻二・「王師平閩」に関係記事。『録』巻三に黄道周伝。 ③「龍泉郭」:江西で抗清運動を行った郭維経・郭応銓・郭応衡・郭応煜父子の死を詠む。※『三』巻三・「楊劉万殉贛」及び巻四・「雑乱」第一八条に関係記事。『録』巻四に郭維経郭応銓・郭応衡・郭応煜父子の伝。 ④「別母妻」:福建漳州で傅雲龍が母を友・陳秀に託したこと、江西広信で胡夢泰が妻に自分の死後に服毒を言いつけたことを詠む。※胡夢泰は『三』巻二・「金王収江西」に関係記事(異聞を含む)。傅雲龍の記載はない。『録』巻四に胡夢泰伝、巻五に傅雲龍伝。 ⑤「永豊程」:江西永豊県の程珣・程士鵬父子の死を詠む。※『三』に程珣父子の記載はない。『録』巻六に程士鵬伝。 ⑥「画網巾」:福建に潜伏後、捕縛・殺害された「画網巾」という無名氏を詠む。※「画網巾」の記載はない。『録』巻四に「無名氏」として立伝。 ⑦「死不仆」:徐石麒・徐爾穀父子の死を詠む。※『三』巻二・「王師平南浙」に徐石麒の死亡だけ記される。『録』巻一に徐石麟・徐爾穀父子伝。 ⑧「古虔州」:江西贛州で抗清運動を行った楊廷麟・万元吉の死を詠む※『三』巻三・「楊劉万殉贛」に関係記事。『録』巻四に楊廷麟伝と万元吉伝。 ⑨「贛四義」:江西贛州における盧観象・月世光・劉曰佺・孫経世の起義と死を詠む。※『三』巻三・「楊劉万殉贛」に関係記事。『録』巻四に劉曰佺伝、盧観象・月世光伝、孫経世伝(目録に見えるだけで本文はない)。 ⑩「劉寡婦」:王藹の妻・劉氏の抗清運動の失敗と死を詠む。※『三』巻四・「雑乱」第一○条に関連記事。『録』に記載なし。 ⑪「黄闖子」:黄得功の死を詠む。※『三』巻一・「四鎮」に関連記事。『録』巻三に黄徳功伝。 ⑫「永諸生」:江西永豊県の諸生楊不盈の死を詠む。※『三』に楊不盈の記載はない。『録』巻二に楊不盈伝。 ⑬「曾宗覆」:江西の湖東地域で抗清運動を行った曾亨応・曾杞・曾之璋・曾之球・曾之琦・曾応筠の死を詠む。※巻二・「金王収江西」に関係記事。『録』巻四に曾亨応・曾杞・曾之璋・曾之球・曾之琦・曾応筠伝。 ⑭「両難殉」:万文英・万元亨父子と彼らの妻妾の死を詠む。※万文英夫妻は『三』巻二・「金王収江西」に関係記事。『録』巻二に万文英伝。 ⑮「百丈」:江西で抗清運動を行った掲重熙の死を詠む。※『三』巻二・「益藩擾湖東」に関係記事。『録』巻六に掲重熙伝。 ⑯「張村敗」:江西広信県張村で捕縛された傅鼎銓の死を詠む。※『三』巻二・「益藩擾湖東」に関係記事。『録』巻六に傅鼎銓伝。 ⑰「赤心胡」:江西進賢県の諸生胡之瀾の挙兵と死を詠む。※『三』に胡之瀾の記載はない。『録』巻四に胡之瀾伝。 ⑱「刃不殊」:浙江徽州における温璜夫妻の死を詠む。※『三』巻二・「王師平南浙」に関係記事。『録』巻二に温璜伝。 ⑲「舟山殉」:舟山群島における張肯堂の死を詠む。※『三』巻二・「魯藩拠浙東」に関連記事。『録』巻六に張肯堂伝。「新楽府」下 ㊀「偰家池」:江西で清に叛いた金声桓・王得仁に合流した姜曰広の死を詠む。※『三』巻三・「金・王之乱」に関連記事。『録』巻六に姜曰広伝。 ㊁「王寵死」:江西吉水県の王寵の清軍を欺いた機智と死を詠む。※『三』巻四・「雑乱」第一四条に関係記事。『録』に記載なし。 ㊂「僧丹竹」:江西安仁県の「槍棒師」たる破戒僧・丹竹の武勇と死を詠む。※『三』巻四・「雑乱」第一四条に関係記事。『録』に記載なし。 ㊃「保寧歎」:益王に背いて清に内応した保寧王の死を詠む。※『三』巻二・「益藩擾湖東」に関係記事。『録』巻二・益王伝に附載。 ㊄「洪都乱」:江西で金声桓と王得仁が清に叛き敗死したことを詠む。※『三』巻三・「金・王之乱」に関連記事。『録』に記載なし。 ㊅「清漳哀」:鄭成功に包囲され大量の餓死者を出した福建漳州の惨状を詠む。※『三』巻四・「鄭成功之乱」に関係記事。『録』に記載なし。 ㊆「紅夷遁」:鄭成功により台湾からオランダが駆逐されたことを詠む。※『三』巻四・「鄭成功之乱」に関係記事。『録』に記載なし。 ㊇「松眷属」:金声桓と約して広東で清に叛いて敗死した李成棟とその愛妾を詠む。※『三』李成棟は巻三・「金・王之乱」に関係記事。『録』に記載なし。\n 右の如く、南明詩全二七作品のうち、③⑤⑧⑨⑫⑬⑭⑮⑯⑰㊀㊁㊂㊃の一四作品が江西省を詠んだ内容となっており、これは前述のように『三藩紀事本末』が江西省における抗清運動を比較的詳しく記述する叙述傾向と一致している。おそらく江西省への取材旅行と関係するのであろうが、この地域に対する楊陸栄の関心の高さを反映すると言えよう。また『三藩紀事本末』に関係する記載があるが『殷頑録』に伝が立てられないものに、⑩㊁㊂㊄㊅㊆㊇があるが、立伝と無関係の㊅㊆を除くと、⑩はそもそも『殷頑録』で列女に伝が設けられないことから除外されたと見られ、残りは『殷頑録』凡例の第四則に、 与頑字無渉者不録。 とあるように、清に叛旗を翻した㊄㊇は終生節を曲げず「頑」に忠義を尽くした者ではあり得ず、逃亡後にその死が確認された㊁や、本来、専心して仏門に仕えるべき僧侶の身でありながら「寝皮食肉為律規」とある破戒ぶりに加え「将」として殺生を行った㊂も、ここでの「頑」という基準から外れると判断されたのであろう。それとは逆に『三藩紀事本末』に記載がなく、『殷頑録』で新たに加えられたものとして、④傅雲龍⑤⑥⑦徐爾穀⑫⑰が挙げられる。\n そして「新楽府」中・下の成立年代を考える上で、重要になってくるのが、それらと『三藩紀事本末』・『殷頑録』との記事の異同である。①詩序では瞿式耜と共に斬られた張同敞について、 時、少司馬張同敞自霊川廻過式耜、……敞曰、師誼君恩、敞当共之。遂同就執獄中。敞、式耜弟子。 と記されるが、『三藩紀事本末』には、 俄総督張同敞自霊川回、入見式耜、誓同死、因倶就執、幽之民舎。 とあるだけで、その藍本の一つである王鴻緒『明史稿』巻二六〇・瞿式耜伝に、 俄総督張同敞至、誓偕死、乃相対飲酒。……遂与偕行、至則踞坐於地。諭之降不聴、幽於民舎。 とある記述とほぼ変わらず、師弟関係には一切触れられていない。一方、『殷頑録』巻六・張同敞伝には、 同敞曰、君恩師誼、敞当共之。敞、耜門人也。明日、同就執。 とあって、①詩序と同様に「門人」とする。これらは『三藩紀事本末』の成立以後に楊陸栄が入手した何らかの史料に基づく新知見であろう。また④詩序には胡夢泰について、 胡夢泰赴広信、以薬一函授妻李曰、我訃至、服此、毋自辱也。\n泰死訃至、李仰薬死。 と記し、『殷頑録』巻四・胡夢泰伝も細部がやや詳しいだけでほぼ同じ内容を載せるが、そもそも『三藩紀事本末』では、 夢泰夫妻同縊死。 と記されているのであるから、それより後に成立した『殷頑録』と④で記述の訂正を行ったと見るべきであろう。更に⑤の程珣については、両書には全く見えず、程士鵬の調査に付随して『殷頑録』の執筆がほぼ終わった段階で得た知見に基づき、ここで詠まれたことを意味すると見られる。よって、『何其集』「新楽府」中・下は、『殷頑録』とほぼ同時期、もしくはその少し後に当たる康熙六○年(一七二一)頃に作られていると考えられる。\n それでは、「新楽府」中・下を通じて、楊陸栄は何を表現しようとしたのであろうか。性格の異なる㊅㊆を除いた全ての作品で詠まれているのが、枚挙に暇がないが②「慟哭川原黄相婦」、③「断無嗣向誰訴」などの句に明らかなように、事敗れて亡くなった者たちへの哀悼であり、哀悼という意味では凄惨な籠城戦に巻き込まれ餓死を強いられた者たちを詠む㊅「清漳哀」もその範疇に入る。とすれば、楊陸栄がそれらの作品と表裏する『殷頑録』の凡例(第二則・第三則)に、 一、本録惟詳死、其行業章疏在前朝者不載、即在本朝定鼎以後者亦略而不詳、不敢作全伝故耳。 一、是録所収、以死為断、雖大節無虧、而不死者不録。 と記し、執拗に「死」に拘る理由も南明詩と同様の意識から発せられていると理解し得る。そしてかかる傾向は清軍に陥落させられた城市と共に殉ずる者たちを詳細に列挙する『三藩紀事本末』にも既に表れている。更に⑨「贛四義」という題目に思わず楊陸栄の本音が垣間見えているが、畢竟、かかる「死」を賭して貫いた「義」への哀悼とは、明朝復興活動に対する「忠義」の顕彰に他ならない。実際、それは㊆に「便是荊州也須借」の句があり、鄭成功による台湾奪取が荊州を足場にして漢室再興を目指した劉備の故事に擬えられることにも表れている。無論、それを史書で直接的に示すことは危険であるので、楊陸栄は『殷頑録』の自序に、 夫死者人之所難、而罪者人之所諱、獲罪而不免於死、尚思避焉、死而適足以甚其罪、此真智者之所不為、亦愚者之所不蹈。而若人者独怡然就之、以自棄於聖世、此論世者所為撫巻長歎者也。 と論じるように、韜晦して建て前を振りかざすことを忘れてはいない。だが、詩という文学作品だからこそ、不意に韜晦していたかかる顕彰への念が発露してしまい、それ故に清朝にとって危険視され、『詩集』は「詩中語渉感憤」と評されて禁書に列せらねばならなかったのである。\n 右のように、南明詩と南明史叙述は、共通の歴史意識として明朝復興活動に対する「忠義」の顕彰と哀悼が込められていたと見られ、『光緒志』楊陸栄伝が『三藩紀事本末』と『殷頑録』を指して「尤於忠義加詳」と評したのは、かかる本質を射抜いた卓見と言える。とすれば、『三藩紀事本末』が一時禁書になったことも、そこまで読み取った禁燬する側の官僚の存在を示唆しよう。\n かつて謝国楨氏は『殷頑録』の撰述意図について、 惟自序所云可謂荒謬絶倫、其意図蓋所以取媚清廷、以為進身之階、或者在此掩飾下藉以存明季忠節之事蹟、亦未可知。 と述べているが、媚を売るほど中央政界との直接的な繋がりを持たず、終生在野で過ごした楊陸栄に、敢えて叙述そのものに身の危険を伴う南明を扱うことで得る利益は見当たらない。それ故、『詩集』の検討から窺われるように、逆に個人的な利害を超えたところでの「存明季忠節之事蹟」に目的があったと考えられるのである。そしてかかる歴史意識の出発点となる『三藩紀事本末』の撰述時期が、前述の如く父の臨終でも甲斐甲斐しく尽くしてくれた妻・王氏の亡くなった頃と重なることを勘案するならば、或いはその死とオーバーラップさせる形で「忠義」に死した南明士女への哀悼が叙述に込められているのかもしれない。\n おわりに\n なお、南明史叙述の特徴について議論すべき課題は少なくなく、とりわけ『三藩紀事本末』に関する考証が依然として不十分であるが、ひとまず本稿において検討した、楊陸栄に関する概要をまとめると、以下のようになろう。\n まず、『詩集』全二一巻については、その検討から、元来、康熙六一年(一七二二)に『潭西詩稿』一二巻として刊行され、その後、雍正七年(一七二九)以降に九巻分を増補して現在の『潭西詩集』として成立したことが窺われる。現存するのは刊本の巻一〜巻一六と、鈔本の重複分を除いた巻数不明一巻の計一七巻分である。\n 次に、『詩集』潘肇振の序と著作自序の記述から、楊陸栄が康熙一八年(一六六九)に生まれ、乾隆一三年(一七四八)まで生存しているので、少なくとも八〇歳以上で亡くなったことが知られる。また彼の著述活動は青浦県の文壇での交流や外舅・王原の学問継承を背景に行われおり、『三藩紀事本末』を始めとする著述の用字は、字義に精通していた親友の趙太璞の協力を得て行われていたこと、また『三藩紀事本末』に南明期の江西省に関する記述が比較的詳しいのは楊陸栄自身の旅行による取材も基づくこと、更に本書の撰述が妻・王氏が亡くなった時期と重なることが指摘される。\n 最後に、『詩集』巻一○の南明詩は、『殷頑録』とほぼ同時期の康熙六○年(一七二一)頃に成立し、その過半数は『三藩紀事本末』でも同様の叙述傾向が見出される、楊陸栄が頻繁に訪れた江西省に関するものであった。そしてかかる南明詩には明朝復興活動に対する「忠義」の顕彰と哀悼の意が込められており、同様の歴史意識は『三藩紀事本末』・『殷頑録』にも韜晦して盛り込まれていると見られる。\n 残された問題については、別の機会に譲ることとしたい。\n註\n(1) 南明史に関しては、謝国楨『南明史略』( 上海人民出版社、一九五七年)、司徒琳(李栄慶等訳)『南明史 一六四四????一六六二』(上海古籍出版社、一九九二年)、南炳文『南明史』(南開大学出版社、一九九二年)、顧誠『南明史』(中国青年出版社、一九九七年)等の概説的研究を参照。また紀伝体形式で南明諸史料の集大成をしたものに、現代の銭海岳『南明史』一二○巻(全一四冊、中華書局、二○○六年)があり、「引用書目」が末尾に附されているが、本文では諸史料をどのように合成したかの説明は一切なく、各記事の出所が明記されていないので、史料集としての厳密性において些か疑問が残る。\n 清初における南明史料の編纂については、謝国楨『増訂晩明史籍考』(原版一九三一年、増訂版一九六四年、のち上海古籍出版社、一九八一年)、????紅柳『清初私家修史研究―以史家群体為研究対象』(人民出版社、二〇〇八年)、段潤秀『官修《明史》的幕後功臣』(人民出版社、二〇一一年)、呉航『清代南明史撰述研究』(天津人民出版社、二〇一五年)等を参照。ただし、それらの研究では『三藩紀事本末』を「是書記南明史事、於清代頗多頌諛之辞、全謝山(全祖望を指す)深非其書。……自序抑明揚清、立論多謬、不足称為信史也。故僅録其凡例。」(謝氏前掲書四五六頁)、「他賛頌清朝代替明朝」「並認為南明政権属於不義之師」(????氏前掲書九一頁)、「此書為紀事本末体南明史撰述、在紀年上、一依清朝年号紀年、表現了尊清抑明的政治立場和思想傾向」(呉氏前掲書五〇頁)などと評するように、清朝に阿る著作と断ずるだけで、それ以上に考究されていない。『四庫全書総目』巻四九・史部四・紀事本末存目類は「其凡例自云捜羅未広。頗有疎漏、又間有伝聞異詞者。」と『三藩紀事本末』の取材に関してのみ批評している。\n なお、ここでいう「三藩」とは、「前三藩」すなわち清朝が明の後継正統政権として承認しない福王(弘光帝)・唐王(隆武帝)・永明王(永暦帝)の南明三政権を指す。\n(2) 雷夢辰『清代各省禁書彙考』(書目文献出版社、一九八九年)によれば、乾隆四○年(一七七五)十一月十四日に奏准された直隷省の禁書に『三藩紀事本末』の名が見え、乾隆四三年(一七七八)六月二九日には『潭西詩集』と共に江蘇省でも禁書として奏准され、翌四四年四月八日に奏准された同省の「重複応燬書二百四十九種」の中にも両書が見え、その年九月六日に奏准された閩浙(福建・浙江)の禁書や、また河南布政使の栄柱が刊行した『応繳違礙書籍各種名目』(清・姚覲元編『清代禁燬書目』収録〈『清代禁燬書目〈補遺〉・清代禁書知見録』所収、商務印書館、一九五七年〉)にも『三藩紀事本末』が挙げられている。なお、清代の禁書については、岡本さえ『清代禁書の研究』(東京大学出版会、一九九六年)、王彬主編『清代禁書総述』(中国書店、一九九九年)等を参照。\n(3) 中国第一歴史档案館編『清代档案史料 纂修四庫全書档案』(上海古籍出版社、一九九七年)下冊一六九六頁所収「軍機大臣奏遵旨詢問紀昀等《三藩紀事本末》有無違礙等情片(乾隆四十七年〈一七八二〉十二月十八日、軍機処上諭档)」。これを受けて禁書を解除されたようで、嘉慶一三年(一八〇八)には張海鵬による校訂重版が刊行されている。嘉慶本については、呉翊如点校『三藩紀事本末』(中華書局、一九八五年)「点校説明」を参照。なお、本文中の『三藩紀事本末』はこの点校本に拠る。\n(4) 註(3)呉氏「点校説明」。\n(5) 『青浦県志』は、万暦・康熙・乾隆・光緒・民国の各版の県志を標点して収録する『上海府県旧志叢書 青浦県巻』(上海古籍出版社、二〇一四年)に拠る。\n(6) 黄毅「三藩紀事本末」(安平秋・章培恒主編『中国禁書大観〈参〉中国禁書解題―清代所禁書籍』所収、竹友軒出版有限公司、一九九二年)は、本書で清軍による江南での屠城という「暴行的罪証」を載せたことが禁書の原因であり、また書中で多くの殉難した抗清烈士が相次いで従容として義に就いた不撓不屈の頑強なる闘争精神が感動を呼ぶと指摘している。とりわけ後者は光緒『青浦県志』に見える「尤於忠義加詳」との関係、更にはそれと禁書との関係を示唆する点で注目されるが、簡単に触れられるに止まる。また『五代史書彙編』(杭州出版社、二〇〇四年)第壹冊所収『五代史志疑』の曾貽芬校点「校点説明」は、楊陸栄を「清康熙年間青浦(今上海市青浦)人」とするが、本文で後述の如く康熙年間以降も生存しているので、かかる記述は正しくない。\n(7) 『光緒志』楊陸栄伝には「婁県諸生」とあり、元来は婁県の人であったと見られる。『清史稿』巻五八・地理志五・江蘇松江府条によれば、「〔順治〕十二年(一六五五)、析華亭置婁県。」とあり、松江府治の華亭県を分割して婁県が置かれている。松江府治における\n屠城は『三藩紀事本末』巻二・「王師平南浙」の順治二年(一六四五)八月三日条にも「屠松江府。」と記される。また岸本美緒「清初松江府社会と地方官たち」(同氏『明清交替と江南社会』所収、東京大学出版会、一九九九年)等を参照。\n(8) 註(2)王氏前掲書四一五頁によれば、乾隆四○年(一七七五)三月二四日に『潭西詩集』は禁書とされている。また『清代禁燬書目』補遺一によれば、「査、潭西詩集係楊陸栄撰、詩中語渉感憤、応請銷燬。」とある。『四庫全書禁燬書叢刊補編』(北京出版社、二〇〇五年)第八五冊所収の『潭西詩集』では、王原の序に始まる最初の葉と巻一六の最終葉の二箇所には、それぞれ始点と終点を示す如く「国立北平図書館所蔵」の印が押されているので、少なくとも巻一七以降は民国期には所蔵されていなかったものと見られる。\n(9) 王原『西亭文鈔』巻三・「潭西詩稿序」では「夏四月」を「冬十月」に作り、そこで文が締めくくられている。なお、王原(本の名は深。字は仲深、一字は令詒。号は学庵、後に西亭と号す。『乾隆志』巻三〇と『光緒志』巻一七に本伝)は、康熙二七年(一六八八)の進士で、徐乾学に従って『大清一統志』の編纂に従事しており、以後、広東茂名県知県、貴州銅仁県知県、工科給事中を歴任したが、権臣の李光地に連なる陳汝弼を弾劾したことで、致仕に追い込まれ官界を去り、雍正七年(一七二九)に八四歳で没している。王鴻緒『明史稿』にも採用された『明食貨志』一二巻、『歴代宗廟図考』二巻等多数の著作がある。註(1)段氏前掲書一七七〜八五頁、上海市青浦区文化広播影視管理局編『青浦前賢著作経眼録』(上海人民出版社、二〇一五年)一一二〜二四頁を参照。\n( 10 ) ただし、巻二一までが雍正年間以降、どこまでを下限とする作品を収録していたか不明であり、『四庫全書禁燬書叢刊補編』の編者が「清雍正刻本」とする論拠が積極的に示されていない以上、現時点では二一巻本の正確な刊行年は定かではない。\n なお、孫殿起輯『清代禁書知見録』(『清代禁燬書目〈補遺〉・清代禁書知見録』所収、商務印書館、一九五七年)十五画「潭西詩集二十一巻」には「康熙六十一年刊」とあり、上海図書館編『中国叢書綜録』(一九五九年初出、のち上海古籍出版社、二○○七年)第一冊・「総目」四九九頁の『楊潭西先生遺書』条「潭西詩集二十一巻」には「康熙六十年(1721)刊」とあるが、これは前者が王原の序、後者が潘肇振以下の序の年に拠ったことにより生じた誤りと見られる。管見の限り、少なくとも一二巻本は現存しないようである。\n( 11 ) 題名のあるものを一作品と数え、その中に複数首あるものは含めていない。\n( 12 ) 『無端集』には「奉和外舅甲申(康熙四三年〈一七〇四〉)除夕」「奉和外舅乙酉(康熙四四年〈一七〇五〉)元旦」「初夏(四月を指す)」という収録作品名が見え、同じく「金陵寓中有懐同学諸子」という作品には「我従長安(実際には北京を指す)帰、秋孟(七月をいう)抵白下」の句が見えるので、少なくとも康熙四三年十二月から康熙四四年七月までの作品が収録されていることは確実である。\n( 13 ) 巻一三では、「壬寅」を「庚寅」(康熙四九年〈一七一〇〉)に作るが、陸????の序や楊陸栄の自序の如く一二巻本は精選した詩であり、その後、二一巻本を刊行するに当たり、一度削った詩を遡って収録するとは考え難いことから改める。\n( 14 ) 南明以外に歴史を題材とした作品としては、巻二の「遼后????台」・「読金史雑感」(一二首)、巻三の「武皇(前漢の武帝をいう)」・「元社屋」・「豊之人」・「梁州」、巻七の「宋事雑感」(八首)・「遼事雑感」(五首)・「唐事雑感」(四首)・「巴蜀雑感」(七首)・「滇南雑感」(三首)・「六朝雑感」(四首)、巻八の「読廖安民(清康熙年間の江西省贛州の人)伝」、巻九の「元事雑感」(六首)、巻一三・「遼事雑咏」(二首)などがある。\n( 15 ) 第一八葉と第四八葉は、裏に記載はない。\n( 16 ) 或いは「曳尾庵」と号した、江戸時代後期の加藤玄悦を指すものか。幸田成友「『我衣』とその著者」(同氏『読史餘録』所収、大岡山書店、一九二八年)によれば、その生没年は一七六三〜一八一五或いは一八二九年。またこの蔵書印は何らかの別の蔵書印に被せるように押印されているが、その印字は不鮮明で、判読出来ない。\n( 17 ) 四葉表では、「陸????」を「陸長」に誤る。\n( 18 ) 「????孫周????」・「梅花」を欠く。\n( 19 ) 巻一三から「眉語」・「眼語」・「手語」・「蛛網」・「暖」・「夾竹桃」・「蛺蝶」・「珠蘭」・「凌霄」・「金粟」・「橘」・「玉簪」・「鴛鴦草」の一三作品、巻三から「帰燕」・「残鶯」・「寒蜂」・「乾蝶」の四作品、巻四から「花魂」・「鳥夢」の二作品をそれぞれ抜粋する。\n( 20 ) 註(3)呉氏「点校説明」では「生平事蹟不詳」と記される。また倉修良「楊陸栄」条(『中国歴史大辞典・史学史巻』、上海辞書出版社、一九八三年)二○三頁は生没年には一切触れない。\n( 21 ) 註(6)を参照。\n( 22 ) 屈万里主編『明代史籍彙刊⑲ 殷頑録(国立中央図書館蔵本)』(台湾学生書局、一九七〇年)に影印されている版本には自序が附されていない。註(1)謝氏前掲書七四一〜七四二頁には「自序略云」として引用されるが、北京大学図書館蔵『殷頑録』の自序と\n対照させると、これが「略」ではなく、全文であることが知られる。なお、『殷頑録』は自序を除いて台湾学生書局に拠る。\n( 23 ) 実際、康熙五九年に「呉????」すなわち蘇州に逗留していたことは、巻一二・『擪線集』収録の「姑蘇雑咏」等から窺われる。\n( 24 ) 『四庫全書存目叢書』(斉魯書社、一九九四〜九七年)経部第五九冊収録(北京図書館蔵『楊潭西先生遺書』所収)。なお『四庫全書総目』巻一四・経部書類存目二・「禹貢臆参」条では「無巻数」と記され、実際巻数表示がなされないが、『四庫全書存目叢書』本の新たに附した鏡書きが「二巻」と記すように、「禹貢上」(一〜三七葉)・「禹貢下」(一〜一四葉)と区別されているので、実態としては二巻本である。\n( 25 ) 『乾隆志』巻三七・芸文下は「経解臆参」に作る。『経学臆参』は『楊潭西先生遺書』に収録されるが、これを所蔵する機関としては北京図書館(現在の国家図書館)が知られるだけである。日本には所蔵されておらず、未見。\n( 26 ) 『続修四庫全書』(上海古籍出版社、一九九六〜二〇〇三年)第二一冊収録。\n( 27 ) 註(1)謝氏前掲書一〇〇四頁でも、これ以上の詳細は説明されていない。\n( 28 ) 倉修良「遼史金史綱目」条(『中国歴史大辞典・史学史巻』)一四○頁には「是書僅有鈔本」と記されており、日本の静嘉堂文庫所蔵本も八冊の鈔本(第一冊に凡例と巻一〜四、第二冊に巻五〜七、第三冊に巻八〜一一、第四冊に巻一二〜一四、第五冊に巻一五〜一八、第六冊に巻一九〜二二、第七冊に巻二三〜二六、第八冊に巻二七〜三〇が収められている)であること、また静嘉堂文庫所蔵本では各巻に「遼金正史綱目」と題するのに対して、倉氏は本書の名称を「遼史金史綱目」と表記しており、これにも基づくものがあると考えられることから、少なくとも二種類以上の鈔本が現存することは明らかである。\n( 29 ) 各巻の内容・葉数を示すと、巻一(遼・太祖元年〈九〇七〉正月〜天顕元年〈九二六〉十一月。一七葉)、巻二(遼・太宗天顕二年〜会同三年〈九四〇〉十二月。二〇葉)、巻三(遼・太宗会同四年正月〜大同元年〈九四七〉。一六葉)、巻四(遼・世宗大同元年九月〜穆宗応暦元年〈九五一〉。一九葉)、巻五(遼・穆宗応暦二年〜景宗保寧一〇年〈九七八〉。二二葉)、巻六(遼・景宗乾亨元年〈九七九〉正月〜聖宗統和六年〈九八八〉。二〇葉)、巻七(遼・聖宗統和七年正月〜二〇年十二月。一九葉)、巻八(遼・聖宗統和二一年三月〜開泰五年〈一〇一六〉十二月。一七葉)、巻九(遼・聖宗開泰六年正月〜興宗景福元年〈一〇三一〉。一八葉)、巻一〇(遼・興宗景福二正月〜重熙一三年〈一〇四四〉。一九葉)、巻一一(遼・興宗重熙一四年〜道宗清寧九年〈一〇六三〉十一月。一九葉)、巻一二(遼・道宗清寧一〇年十一月〜大安三年〈一〇八七〉十二月。二三葉)、巻一三(遼・道宗大安四年正月〜天祚帝乾統一〇年〈一一一〇〉十二月。二二葉)、巻一四(遼・天祚帝天慶元年〈一一一一〉〜保大元年〈一一二一〉十一月。一六葉)、巻一五(遼・天祚帝保大二年〜金・太宗天会三年〈一一二五〉二月。一六葉)、巻一六(金・太宗天会三年四月〜六年十二月。一七葉)、巻一七(金・太宗天会七年正月〜一二年十二月。一六葉)、巻一八(金・熙宗天会一三\n年正月〜天眷三年〈一一四〇〉十二月。一六葉)、巻一九(金・熙宗皇統元年〈一一四一〉正月〜海陵王天徳元年〈一一四九〉十二月。一五葉)、巻二〇(金・海陵王天徳二年〜正隆五年〈一一六〇〉十一月。一九葉)、巻二一(金・海陵王正隆六年正月〜世宗大定三年〈一一六三〉十二月。二〇葉)、巻二二(金・世宗大定四年正月〜二〇年十二月。一六葉)、巻二三(金・世宗大定二一年〜章宗明昌六年〈一一九五〉十二月。一八葉)、巻二四(金・章宗承安元年〈一一九六〉正月〜衛紹王泰和八年〈一二〇八〉十一月。一八葉)、巻二五(金・衛紹王大安元年〈一二〇九〉正月〜宣宗貞祐二年〈一二一四〉十二月。一四葉)、巻二六(金・宣宗貞祐三年正月〜興定元年〈一二一七〉十二月。一三葉)、巻二七(金・宣宗興定二年正月〜四年十一月。一六葉)、巻二八(金・宣宗興定五年正月〜哀宗正大四年〈一二二七〉。一五葉)、巻二九(金・哀宗正大五年正月〜天興元年〈一二三二〉十二月。一七葉)、巻三〇(金・哀宗天興二年〜三年正月。一二葉)となっている。\n( 30 ) 表題が掲げられるのは、巻一・遼太祖、巻二・太宗、巻五・穆宗、巻一〇・興宗、巻一六・金太宗、巻一八・熙宗、巻二〇・海陵、巻二五・衛紹王の八篇に限られる。\n( 31 ) 註( 14 )を参照。なお、外舅・王原も『資治通鑑綱目』の後漢・明帝〜順帝に関するテーマで「進呈綱目講義八道」(『西亭文鈔』巻一)という文章を書いている。\n( 32 ) 「寄呈大兄」(巻四)。\n( 33 ) 「哭孫詩」(巻一三)。また女孫がおり、早世したことも「悼女孫」(巻一五)から知られる。\n( 34 ) 「丁亥除夜寄猶子元」(巻五)の中で「阿元」とも称される。なお、「携元姪登尊経閣」(巻三)で言う「尊経閣」とは、王原『西亭文鈔』巻七所収「青浦学尊経閣碑記」に見える青浦県のものであろう。\n( 35 ) 妻・王氏に弟がいたことは「奉和外舅浴児日、用東坡賀陳述古弟章生子韻」の註に「愴念亡内弟大来」とあることから確認される。\n( 36 ) 「余生困奇病、倣昌黎体」(巻六)。\n( 37 ) 旅程の考証は些か煩雑になるので、別稿を待ちたい。\n( 38 ) 全二二篇目のうち、巻二の「金王収江西」・「益王擾湖東」、巻三の「楊劉万殉贛」・「金王之乱」、巻四の「雑乱」(全一八反乱のうち、一二までが江西で起こったもの)が江西関係のもので、同時代で南明史を叙述する史書の中では群を抜いて詳細である。\n( 39 ) 『乾隆志』巻三〇・人物六・銭珂伝は「雍正三年、年七十乞休、帰与陸緯(有伝)・呂樾(有伝)・潘肇振(有伝)・楊陸栄(字采南、県学生)等、以文酒自娯。又三年而卒。」とある。\n( 40 ) 嘉慶『松江府志』巻六○・古今人伝によれば、荘師洛(字は蓴川)、松江府婁県の人で、抗清運動の末に亡くなった陳子龍や夏完淳の全集を編纂している。陳子龍の『陳忠裕全集』の荘師洛跋文によれば、少なくとも「嘉慶八年(一八〇三)」までの生存が確認されるので、楊陸栄より後の人に当たる。\n( 41 ) 銭珂(本姓は陳氏。字は以朝、号は忍菴。)は康熙四五年の進士で、山東萊蕪知県となった。陸緯(字は星聚。『乾隆志』巻二九と『光緒志』巻一八に本伝)は県学廩生で詩・古文の作成が巧みだった。その次男が「貢生」の陸????。呂樾(字は開藩。『乾隆志』巻三〇と『光緒志』巻一九に本伝)は康熙三八年の順天府の挙人で、「生平喜出遊、足跡半天下。」と言われる。陝西????知県となった。潘肇振(字は文起、一字は毅遠。ただし『詩集』では「毅?"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorAffiliations": [{"affiliationNameIdentifiers": [{"affiliationNameIdentifierScheme": "ISNI", "affiliationNameIdentifierURI": "http://www.isni.org/isni/"}], "affiliationNames": [{"affiliationNameLang": "ja"}]}], "creatorNames": [{"creatorName": "津田, 資久", "creatorNameLang": "ja"}, {"creatorName": "ツダ, トモヒサ", "creatorNameLang": "ja-Kana"}, {"creatorName": "TSUDA, Tomohisa", "creatorNameLang": "en"}], "familyNames": [{"familyName": "津田", "familyNameLang": "ja"}, {"familyName": "ツダ", 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (1.1 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2019-06-01 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | ja | |||||
タイトル | 楊陸栄の南明史叙述に関する初歩的研究 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | An elementary study about Southern Ming (南明) dynasty's history describing of YANG Lurong (楊陸栄) | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 研究ノート | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
津田, 資久
× 津田, 資久 |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 200901079019347536 | |||||
書誌情報 |
国士舘人文学 en : Kokushikan journal of the humanities 巻 8, p. 154-129, 発行日 2018-03-15 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学文学部人文学会 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | PISSN | |||||
収録物識別子 | 2187-6525 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12519434 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40021519639 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 222.058 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
主題 | 楊陸栄, 南明史, 三藩紀事本末, 潭西詩集, 殷頑録 | |||||
注記 | ||||||
通巻50号 (国士館大学人文学会紀要からの通号) 雑誌変遷情報 : 国士館大学人文学会紀要→国士館大学文学部人文学会紀要→国士舘人文学 |