@article{oai:kokushikan.repo.nii.ac.jp:00013760, author = {土佐, 昌樹 and Tosa, Masaki}, journal = {Asia Japan Journal = AJ Journal = AJJ = アジア・日本研究センター紀要}, month = {Mar}, note = {J-GLOBAL ID : 200901090960446329, 今日の韓国において多文化主義はどのような位相で進んでいるかを、フィールドワークと理論的分析に基づき考察する。政策立案にかかわる専門家や研究者によれば、韓国の多文化政策は移住民の同化や統合に比重が置かれ、多文化主義というよりはナショナリズムの延長上に位置づけたほうが正当な評価だといえる。移住民の声は、多文化政策の矛盾をさらに厳しく告発している。しかし、さまざまな市民運動や文化運動の進展により、韓国社会が多文化社会に向けて前進していることも否定できない。そうした試行錯誤の軌跡を理論的に捉えるとしたら、多文化主義よりはナショナリズムの一環として位置づけたほうが的確であり、とりわけL. グリーンフェルドの「ナショナリズム三部作」は示唆的な手がかりとなる。それによれば、ネーションの基礎である世俗的平等の観念が社会を流動化させ、それは一面で活気のある発展をもたらすが、他面では存在論的不安に満ちた社会的アノミーをもたらす。この図式を韓国に当てはめたとき、ナショナリズムは集団的凝集力と急速な経済成長を実現したが、同時にアノミーの蔓延をもたらしてきたという近現代の歴史理解に適合的であるといえる。これは換言すると、GDPは高いがGNH (幸福度) は低いという東アジアの先進地域に共通する「逆説」を説明するものでもある。こうして俯瞰した場合、移住民から見た幸福の問題、および多文化社会の未来がもたらす幸福の可能性は、文明論的にきわめて大きな意味を持つといえる。  さらなる探求に向け、3点を指摘しておきたい。1) 東アジアの現実を、ナショナリズムから多文化主義への移行という図式から理解するのは無理がある。ナショナリズムは、今でも社会的現実を構築する主要なモデルであり、それは近代化の基礎になるとともに、平等な市民権の母胎ともなった。しかし、同時に東アジアを不幸な社会にしてきた面もある。2) 東アジアにおける多文化主義は、ナショナリズムの延長として理解すべきである。しかし、ナショナリズムそのものが永遠に「未完のプロジェクト」であり、移住民の排除と包摂はその軌道に予測不能な影響を与えている。3) 移住民を送り出す東南アジアや南アジアの国々と、受け入れる側の東アジアの先進地域との不均衡な関係についてさらに考えていく必要がある。それは新たな植民地主義であるといえるが、他方で移住民の声にホスト社会が耳を傾けるようになれば、ナショナリズムがもたらしたアノミーや不幸を和らげる可能性もある。, application/pdf}, pages = {29--42}, title = {Multiculturalism and Happiness in Today's South Korea}, volume = {14}, year = {2019}, yomi = {トサ, マサキ} }