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"はじめに\n私塾「国士館」は一九一七(大正六)年一一月四日に設立されたが、この時代、一連の文部省令下の学校機関ではなく、あくまでも私塾を出発としており、(後には文部省令下の正規の学校となるにせよ)現代まで継続する学校は珍しい。史資料類のまとまった類例としていますぐに思いつくものは、一九二一年に開校された「自由学園」や、「玉川学園(玉川塾)」(一九二九年)が挙げられるだろうか。後者の玉川学園は創立者の小原國芳(一八八七~一九七七年)が「最後の私塾創設者」とも呼ばれることから、戦前までの私塾教育における一応の下限とみなせるが、私塾「国士館」(以下、私塾を指す場合は、史料からの引用を除いて「国士舘」とのみ表記)の設立とその後の動向もまた、近代学校史あるいは教育史研究の上からみて最後期に位置する私塾開設の事例と言えるであろう。\n学校史、教育史の上からみたときには、私塾にとって大正期は明治期以来より続く困難な時代であったとも言える。そのようななかで立ち上げられた国士舘の動向は、当時の時代相と突き合わせてみるとき、その経営や運営のあり方について興味深い一面がみられる。議論を若干先取りしてしまえば、同時代における「新教育」と呼ばれる教育思想や動向はもとより、「新しき村」(一九一八年)や「自由大学」(一九二一年)、「羅須地人協会」(一九二六年)といった、必ずしも正規の学校機関としてではないものの、地方・地域における新しい共同体の設立や人間教育を目指した活動と国士舘とは、時代の文脈を共有する側面が認められる。それらに等しく影響が見え隠れする時代のキー・コンセプトは、「大正デモクラシー」や「大正自由教育」、「大正生命主義」といった大正期に特徴的な用語で語られる思潮が挙げられよう。先に触れた自由学園や玉川学園などについては、これまで自他ともにこの時代相の下に位置づけられてきたわけだが、国士舘の成り立ちや展開についても、このパースペクティブに絡めて検討していく余地があるのではないだろうか。その点を追究していくことは、同時に大正期における私塾経営の一面を考えることにも通じてゆくはずである。\n本稿は以上の見通しのもと、国士舘の設立趣旨や運営方針などを検討することで、国士舘と時代状況の交差する地点の前景化を試みる。さらに、国士舘の設立理念として掲げられる「活学」をあわせみることで、それが明治中期頃よりみられる言説とリンクするコンセプトでもあったことを指摘する。それによって国士舘の近代学校史、教育史における位置づけについて再検討していく視点を多少なりとも提案できればと考えている。まずは迂遠なようではあるが、明治期以降の私塾の位置づけや展開について概観することから始めてみたい。\n一 近代教育制度と私塾\n1 「学制」から「学校令」にかけて\n明治期の本格的な学校制度は一八七二(明治五)年の「学制」を嚆矢とするが、以後の一連の制度は「明治一九年体制(「学校令」―引用者註)への収斂過程」であると言われる。ここでは「学校令」までを対象に、近代の教育制度と私塾の関係についてみていく。\n明治以前には全国で多くの私塾的な教育機関(寺子屋もふくむ)が開設・運営されていたが、学制が発布されて以降もなお多くの私塾が存在していた。この私塾の形式には、いくつかの種類が認められる。近世期からの寺子屋や私塾が引き続き運営されているもの、明治に入り新しく開設されたものの違いのほか、教授内容についても、読み書き(筆道、筆学など)を重視するものから国学や儒学といった高度な学問、英語やそれに付随するキリスト教などの洋学を教えるものまで、多様な状況を確認することができる。先の学制は中央集権的な学校制度の設立を意図した近代教育の黎明を告げるものだが、私塾に関する規定は学制発布前にも既に認められる。\n一八七〇年一二月二四日、明治政府は「太政官布告」により私塾の開業と入塾を許可制にすることを通達した。\n第九百八十六\n諸技芸師家私塾相開候向キ、生徒入塾之節、身元取糺シ、地方官添書無之者、入塾差許候儀不相成候事。\n但、塾生増減明細書記シ、月末地方官ヘ可届出候事。\n第九百八十七\n諸技芸師家私塾相開候者、其地方官之許可ヲ可受候事。\nこの布告は私塾を官の統制下に入れるはじめての措置であったが、一八七一年に創設された文部省はこれを受け継ぎ、翌年三月の「文部省布達第六号」では以下のように府県に命じている。\n従前私塾ニ於テ生徒教育之儀ハ、官ヨリ指構不致候処、元来人民教育之道ニ於テハ、公私ニ因リ其差別無之筈ニ付、私塾教師ト雖モ官之許可ヲ不得、叨リニ教育不相成訳ニ候條、自今私塾ヲ開候者ハ、前以其姓名、年齢、従前之履歴、学課、塾則、教育之方法、開講之場所等委細ニ開列シ、当省エ伺出、免許ヲ受候上開塾可致、就テハ東京府下ニ於テ、是迄私塾設置候者、右塾則等早々取調、来十七日ヨリ二十日迄之際、府庁添翰ヲ以当省ヘ可伺出、其他府県ニ於テハ其官庁ヨリ適宜之期限ヲ立テ、塾則之類為差出、検査之上開否之見込ヲモ相添、当省エ可伺出候事。\n但、府県学之外、皆私学トス、唯一家或ハ二家迄之子弟ヲ教候者ハ家塾ニ属シ候間、私学ノ数ニ算入セス。\nここでは私塾を開く者は前もって氏名、年齢、履歴、学課、塾則、教育の方法、開講の場所などを文部省に届けて許可を得なければならず、その他の府県も同様であるという。これは「廃藩置県を実施し、全国の学校をすべて文部省のもとに統括しようとする政府の方針によるもの」と指摘される政策だが、この許可制はつづく学制においても踏襲されていく。例えば学制の第四三章では「私学私塾及家塾ヲ開カント欲スル者ハ、其属籍、住所、事歴及学校ノ位置、教則等ヲ詳記シ、学区取締ニ出シ、地方官ヲ経テ督学局ニ出スヘシ」と述べる。さらに注目される規定として、第三〇章では、当今中学ノ書器未タ備ラス、此際在来ノ書ニヨリテ之ヲ教ルモノ、或ハ学業ノ順序ヲ踏マスシテ洋語ヲ教ヘ又ハ医術ヲ教ルモノ、通シテ変則中学ト称スヘシ。但、私宅ニ於テ教ルモノハ之ヲ家塾トスと、学制に定める教科や施設を備えた正規の中学(正則中学)に対して、それに満たないものは変則中学とするが、届け出制とされた多くの私塾はこの変則中学として括られていくことがこれまでに指摘されている。\nさて、学制においては私学・私塾について一定の意義が認められ、寛容な態度がとられていたと言えるが、一八七九年九月に公布された「教育令」、翌年一二月の「改正教育令」になると状況が大きく変わる。教育令の第二条において、「学校ハ小学校・中学校・大学校・師範学校・専門学校・其他各種ノ学校トス」と定められ、翌年の改正教育令第二条においても、「学校ハ小学校・中学校・大学校・師範学校・専門学校・農学校・商業学校・職工学校・其他各種ノ学校トス」と、正規の学校としての小・中・大学校や師範学校・専門学校などが掲げられた以外に「其他各種ノ学校」が規定された。「各種学校」と呼ばれるものがここで登場するわけだが、これにともなって学制に規定された変則中学や私塾・家塾などの規定は削除された。ここで私塾は各種学校に組み込まれる。この各種学校について、一八八三年の『文部省年報 第八』は項目を立てて次のように述べる。\n従来各地方ニ設置セル学校或ハ家塾ノ類ニシテ、其学規及ヒ教授科目等ノ全ク小学中学若クハ専門学校ノ資格ニ適合セサルモノ[中略]仮ニ之ヲ小学若クハ中学ノ部類ニ編入セシモノナリ、然レトモ今ヤ学校ノ分類種別一ニ皆教育令ノ本旨ニ遵依シテ、学科不備ノ学校ハ其程度ノ如何ニ拘ハラス悉ク之ヲ純然完備ノ学校ト甄別セスンハアル可カラス[後略]\n(傍線部引用者)\n学校(私塾)や家塾は小学・中学校の部類に入るものだが、教育令が公布されたことでそれらは「学科不備ノ学校」であるため、「純然完備ノ学校」つまり正規の学校と区別されることが明言されている。このように、各種学校は制度化された学校の進学コースから疎外されていくこととなる。さらに私塾(各種学校)に対する圧迫政策とみられるものが、一八八一年七月に布告された「文部省達第二八号」の「中学校教則綱領」と、一八八四年一月に布告された「文部省達第二号」の「中学校通則」と呼ばれる通達である。たとえば前者では初等中学だけで四年間の課程とし、修身や和漢文その他を計一九科目教授することなどを定め、また後者ではその第四条には「中学校ハ教員中少クトモ三人ハ中学師範科ノ卒業証書又ハ大学科の卒業証書ヲ有スル者ヲ以テ、之ニ充ツヘキモノトス」、続いて第五条には「中学校ハ修身其他諸科ノ教授上必須ノ図書及博物、物理、化学等ノ器械標本類ヲ備フヘキモノトス」などと規定され、正規\nの中学校となるためのハードルは高められた。\n以上を下地としつつ、一八八六年には「帝国大学令」、「中学校令」、「師範学校令」、「小学校令」などからなる「学校令」が公布された。まずは三月に帝国大学令が、四月には小学校令と中学校令が出される。小学校令は小学校の義務教育化を定めたもので、中学校令では中学校が尋常・高等の二段階をとり、「尋常中学校―高等中学校―帝国大学」の進学制度が整えられた。これによって「各種学校は正規の教育制度から明確に切り離され」たと言える。さらに各種学校は、一八九〇年一〇月に改正された小学校令(第二次小学校令)のなかでは、私立ノ小学校・幼稚園・図書館・盲唖学校・其他小学校ニ類スル各種学校等ノ設立ハ、其設立者ニ於テ府県知事ノ許可ヲ受ケ、其廃止ハ之ヲ府県知事ニ上申スヘシ(第四一条)と規定されたが、法令上は各種学校に関する文言はこの「小学校ニ類スル各種学校」が唯一のものであり、戦後の「学校教育法」(一九四七年)で明確な法的根拠を与えられるまで、各種学校となった私塾は小学校令において規定されるものであった。\n2\n 国家主義と私塾\nここまで見てきたように私塾は各種学校として括られ、その位置づけは年を経るごとに不安定であったと言えるが、官公立の学校の設置が整うまでは実質的な中等教育を担う機関として比較的に多くが存続しており、それらのなかには現在まで継続する学校も多々みられる。\nそれら私塾(各種学校)のなかには宗教教育によるものも存在する。例えば、明治に入り解禁となったキリスト教および宣教師による私塾は一八七〇(明治三)年のフェリス女学校をはじめ、立教学院、女子学院、青山学院など、短期間のうちに多くが私塾として立ち上げられるが、一八八六年の学校令で一通りの制度的な枠組みが設けられて以降、宗教教育に対しても統制の矛先が向けられる。一八九〇年は「明治憲法」の施行と「教育勅語」が公布された年だが、その翌年には第一高等中学校で内村鑑三(一八六一~一九三〇年)の「不敬事件」が起きる。さらに一八九三年には東京帝国大学教授の井上哲次郎(一八五六~一九四四年)が『教育ト宗教ノ衝突』を著してキリスト教が日本の国体に背反すると述べるなど、この時期には国家主義の台頭と宗教(特にキリスト教)との軋轢が強まりをみせる。このような動向を前段としつつ、一八九九年八月三日には、文部大臣樺山資紀(一八三七~一九二二年)によって以下の訓令が発せられた。\n一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最必要トス、依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ、課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ、又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ\nこれがいわゆる「訓令一二号」だが、この訓令は同日に公布された「私立学校令」と抱き合わせであることは論をまたない。ここに改めて教育と宗教の衝突が生起するわけだが、この時多くの宗教系の学校は、正規の学校となり宗教教育を廃止するか、各種学校として非正規の学校のまま宗教教育を持続するかの選択を迫られることとなった。さらに一九〇三年三月には「専門学校令」が公布され、ここに初めて専門学校が制度化されるに至る。\nそれまで各種学校として非正規の位置づけで教育活動\nに従事してきた私塾も、ここまで概観してきた正規の教\n育制度が整えられていくなかでは廃止されたものが多い\nが、高度な教授内容を持つ私塾のなかには、いずれ専門学校令にもとづく専門学校として文部省令下の正規の学校に改組していく事例も現れる。現在の国士舘大学も、その直接的な淵源はここに由来している(国士舘専門学校の認可は一九二九年)。\n二 国士舘と「大正」という時代\n1\n 「大正新教育」と国士舘\n前節では明治期以降に私塾が置かれた位置づけについてみてきたが、明治政府による教育制度が整うにつれて、私塾(各種学校)の経営が困難の度を増していく様が見てとれた。その困難さは、資金面については措くにせよ、正規の学校としての恩典(上級学校への進学資格、徴兵猶予など)を受けられるか否かはもとより、明治憲法や教育勅語の発布を背景とした国家主義の台頭など、イデオロギーへの対応にもあらわれていた。このような困難さは、時代が大正に入っても基本的には変わらない。むしろ日清・日露の二度の対外戦争を経ることで、戦争に伴う経済成長と産業構造・労働環境の変化、鉱毒問題なども含めた社会不安の拡大とそれと連動する労働争議の頻発、知識人を中心とした社会主義思想の活発化や普通選挙運動の盛り上がりなど、国内では様々な事案が問題として俎上に載せられる状況に伴い、国家や社会状況といった枠組みから完全に自由な私塾教育などはおよそ不可能でもある。なかでも一九一〇(明治四三)年の「大逆事件」前後の時期には、民心の引き締めを底意とする国民道徳論や家族国家観といった官製のイデオロギーも現れるが、およそこのような状況のなか、時代は大正を迎えていく。\n第一次世界大戦前後の日本では、経済発展と並行して自由主義思想も広がり、市民の権利への関心が高まりをみせる。いわゆる「大正デモクラシー」の広がりだが、その流れは教育界においても「大正自由主義教育」または「大正新教育」(以下、「新教育」)の思潮として現れた。この「新教育」とは、国家主義的な強まりを見せる教育政策のもつ「画一主義、注入主義、暗記主義的な教育方法を批判し、子どもの個性、自発性の尊重を主張」した教育思想と実践を指す。このような特徴を持つ新教育の理念と国士舘の設立の動機には、教育目的とする地平は同じでないとしても、それが同じ時代の空気を背景として現れたという意味で、ある共通性が見受けられる。\n国士舘の設立趣旨は「活学を講ず」の宣言に明らかだが、そこでは「物質文明の弊、日に甚だしく、人は唯科学智を重んじて、徳性の涵養を忘る」から始まる文言とともに、当時の教育について次のような認識を示している(なお「活学」については次節で検討する)。\n一国の最高学府は未た天下に公開されざるなり、若し公開さるるとするも、ノート式の講義は畢竟死学のみ、其説く処高遠深邃なるが如きも、遂に之れ形式範疇のみ、何等の情熱なく、信念なし、人を化する力なし、形式、規則、規律、試験、之れ今日の所謂教育なるものなり。\n当時の高等教育を形式主義的なものと見なし、「形式、規則、規律、試験」といった内容では人を感化する力は生れないとする認識自体は同時代の新教育とも通ずるが、国士舘の特色としては、「膝を交へて親しく活学を講ずるの道場を開設せん」とする点に認められよう。\n国士舘が目指す教育の姿は、「大正維新の大業を成就するの松陰塾に私淑せんとす」のように、松下村塾的な私塾教育にある。一九一九年九月には麻布区笄町より現在の世田谷に移転するが、それに伴って柴田德次郎らは新館に移り、「塾生諸子と心のまゝに起き臥しつ、或は語り或は談し、或は耕し」と構内での生活を始めている。私塾時代の国士舘の大きな特徴は、このように教育する場が即ち生活の場でもあったことにある。それは「国士村」と呼ばれ当時の新聞雑誌にも取り上げられるが、国士村は学生内から村長・助役・収入役・雑役を、教職員も含めて村会議員を選挙で決める自治制度を敷いていたという。この教育の場は、批判の対象であった当時の教育と教師のような一方的な教授ではなく、共に学び且つ生活する関係として構想され、実践されるものであった。世田谷に移って間もなく刊行された雑誌『大民』(第五巻第一号)の「是れ活学の大道場」と題した文中には次のようにある。\n国士館は決して或る一種の限られた人間の養成所ではない、其講学の方法としては自修自発を旨とする、教師の口述を筆記する如き迂愚に倣はず、又妄りに不要の諳記を強要せず、詰込みにあらずして誘導にある。教師は命令者にあらずして相談相手である。同時に館生は自分の労力に依つて自活を期する、即ち学校附属三千坪の畑を耕すと共に別に或種の室内工業を営み、之に依て各自の生活費を弁ずるのである。\n右の言葉を、例えば新教育の旗手であり実践者であった玉川学園の小原國芳の次の発言と比べるとき、教育に対して基調音を同じくすることは容易に読み取れよう。\n成城以来、全人教育に個性尊重、自学自律に能率高き教育、学的根拠に自然の尊重、子弟間の温情に労作教育、生産教育に自給自足の教育[後略]制度が整うに、四角四面の建物が出来て、先生は高く教壇に、生徒は低く冷い机や椅子に去勢され、一枚の辞令で任免がなされ、ドコの学校にどの先生が転任して、どの校長の下にどの学級にどの子供と師弟となるのやら、義務教育という名は美しいとしても、お役所風の空気の中に条令と叱責にまで堕落しては、到底ホントの教育が生まれようハズは無論ないと思います。\n玉川学園(玉川塾)の教育もまた教師と塾生が寝食を共にし、生活の場それ自体の開拓を塾生と共に行う労作教育や、出版・印刷・植字といった事業も自ら行っていくなどの、国士舘とコンセプトを同じくする、言わば共同体志向を基調としていた。\n2\n 「大正生命主義」と新教育\n国士舘の教育や新教育(の一部)にもみられた共同体志向を持った学びの場、実践の場は、それでは当時の教育界においてだけみられたのかと言えば決してそうとは言えない。学びと生活が相即するあり方は、学びの面が強く出れば私塾的な教育傾向が表れるものの、生活の面が強く出ればまた異なった表出の仕方をする。このような分け方もあくまで便宜的なものだが、後者の一例として、ここでは武者小路実篤(一八八五~一九七六年)と「新しき村」について簡単に触れておきたい。\n新しき村は一九一八(大正七)年一一月に宮崎県児湯郡木城村石河内の山あいに建設されたが、それは武者小路の抱く理想の下、自由な個々人たちによる農本主義的な共同生活の場を立ち上げることを目的とする。組織としては、実際の共同生活を営む村内会員と、生活外から支援する村外会員とに分かれる。村内会員として入村した人々は、地元の篤農家に指導を受けながら水田稲作や耕地の開発などを行うほか、村外会員の中には池袋の郊外に出版社(「新しき村出版部曠野社」)を設立し、村と連携しながら雑誌や叢書、詩集などの出版事業に従事する者も現れた。また、村内では絵画、演劇、音楽、演説、朗読会などの表現活動が広く行われていたという。\n勿論、新しい生活の立ち上げは順風満帆ではなかったものの、農本的な生活のなかで営まれる文化的な表現活動や学びの機会は、大部分が初等・中等教育修了者であった入村青年たちにとっては「“私の大学”であった」と指摘される。この新しき村で注目したいコンセプトは、「村の精神及会則」の次の点にある。\n一 全世界の人間が天命を全ふし、各個人の内にすむ自我を完全に生長させることを理想とする。\nさらに戦後の発言ではあるが武者小路自身の言葉を借りれば、「新しき村の理想は簡単明瞭である。すべての人が天命を完うし、個性を生かすことが出来る世界」であり、それは「自分の生命を肯定する運動だ」とか、「新しき村の仕事にとつて一番大事なことは、自然の意志に従い、自己の生命を肯定できる道を歩くこと」、「ただ物質的に生きることではない。生命全体が素直に生きられることだ」など、個々人が自らの「生命」を肯定し、自然と調和して生きる理想が繰り返し述べられる。\nそのため、鈴木貞美は新しき村を「国家や権力との葛藤を考えに入れないところに成り立つ。そういう意味でアナキスティックな農本主義共同体だった」と指摘するが、ここで繰り返し登場する生命の言葉こそ、そのアナキスティックな農本主義共同体を支える根幹の理念でもあった。鈴木自身も位置づけるように、武者小路の理想ひいては新しき村の共同体的な生活を支える思想には、「大正生命主義」(以下、生命主義)と呼ばれる時代の思潮が控えている。\nここで挙げる生命主義とは、「思想一般において、「生命」という概念を世界観の根本原理とするもので、一九世紀の実証主義に立つ目的論・機械論による自然征服観に対立する思想傾向」をさしあたりは指すものとする。\n時間軸としては「日露戦争後から関東大震災に至る時代」、つまり大正という時代をほぼ含み、社会的には「戦争や急速な重化学工業化の展開の中で「生命」の危機感が蔓延」する時代状況のなか、「物質文明批判と利益追求の自由=生存競争の「近代」を超え、普遍性を求めようとする精神の営みを根幹で支えた思想」とも整理される。\nこの生命主義は、文学や芸術、哲学、宗教といったおよそ文化的と呼べる領域に広く共有された思潮だが、その思潮と教育も無関係ではない。むしろ先に触れた大正新教育では、生命の語が様々に論じられるのである。その点についてここで取り上げる余裕はないが、教育学や教育史の側からは、生命主義と新教育の関係については時代的な共時性は認めつつも、積極的に論じられているとは言い難い。鈴木の整理する生命主義に対して、「文学、芸術、哲学、宗教など各分野における思潮の差異や特質による分類については曖昧である」との指摘は確かにそうだが、その点については鈴木自身も「「生命」の観念が、まさにスーパー・コンセプトとして、一切の現象を呑み込むブラック・ホールのようなものとして働くことだけは心得ておこう\n」と認めつつ、さらに次のように研究の方向性を示唆していた。繰り返すが、「生命」に関する思想は、いつでも、どこにでも存在する。「生命」は人間のだれでもが実感しうるものだし、誰もが、何らかの生命観をもっている。その意味で「生命」という観念は普遍性をもっており、歴史や地域性を超えて思想を観察するための概念たりうる。「生命」を観察装置として用いるならば、言い換えると、それがどのような「生命」観に支えられているかという問いを基準に分析するならば、あらゆる思想について、それぞれの相互関連と特徴を明らかにすることができるはずだ。\n次節ではこの鈴木の言葉にも拠りつつ、生命という語と連綿とするかたちで主張される国士舘の「活学」について検討する。\n三 「活学」と国士舘\n1\n 「活学」と生命主義\n国士舘の設立趣旨に「活学を講ず」の宣言があることは前節で触れたが、そこでは物質文明の弊害や当時の学校教育における形式主義的な傾向への批判が展開されていた。その文脈は、同時代に生起した新教育と通底することを確認したが、新教育にみられた生命主義的な文脈をも国士舘は共有している。それを考える糸口が、設立趣旨でもある「活学」である。ここで改めて、どのような意味で活学なる言葉が用いられているのかを検討するため、何が活学ではないと認識されているかも含め、設立趣旨のなかで主張される論点を次のように整理しておく。\n①物質文明の弊害と精神文明の欠落\n②無批判的な西洋化(西洋の「猿真似」)\n③教育制度・機関・教育者の形式主義\n右の三点は互いに関わりあうが、他の文面でも度々繰り返される。これを敷衍すれば、文明の機器を扱うべき「精神」ひいては「人間」が欠如しており、(その時点の)日本文化は西洋文化を直訳した猿真似にすぎず、そのため「人間(国士舘においては「国士」)」を育てるべき教育がみられない……およそこのようにまとめられる。それらが主張される『大民』の言葉をいくつか引いてみれば、\n国家の最高学府たる帝国大学は骨抜きせる奴隷的の官吏養成所なり[中略]かくして智識の宝庫は天下に公開されざるなり。可し公開さるゝの日ありとするも、ノート式の講義は畢竟死学のみ、[中略]故に能く学ぶと称せらるる者も亦唯だ、所謂糞勉強するのみ、其漸く学校を終るや、一生の精力を消費し尽くして精神上のインポーテントとなり、[中略]かくして日本の教育は徹底せる舶来品にもあらず、純なる日本品にもあらざる、毒にも益にもならぬ間に合せ物となり、単なる死物となり終れり。\n今日の我が教育制度と教育機関と自称教育者とは凡て生命なき死物である、由来日本の文教は人民を権者の道具となさんが為めの機関であつた、(いずれも傍線は引用者)など、「死学」「インポーテント」「死物」「生命なき」といった生理的な表現も含め、当時の世相や教育を批判する点が見出せる。活学とは、それら「死学」「生命なき」ものに対して文字通りに「活きた学」「生命に満ちた」ものとして対置されていると言えよう。さらに、「死」や「生命」といった言葉からも明らかなように、ここには生命主義的な文脈も看取できるが、それは活学を媒介とした繋がりであることが判る。\n2 「活学」の系譜\nこの活学は、その前身もしくは参照点としては少なくとも明治二〇年代終わり頃より散見しうる。ここでは明治・大正期に論じられる活学を概観し、特に井上円了(一八五八~一九一九年)の議論に注目するなかで、改めて国士舘の活学が含む文脈とそのオリジナリティについて考えてみたい。\n国語辞典で活学の項目を確認しようとすると、明治期の『言海』(一八八二~一八八六年)、大正期の『大日本国語辞典』(一九一五~一九一九年)といった代表的な辞典類では確認できないものの、現代の『日本国語大辞典(第二版)』(二〇〇一年)では「活学問」の項目においてわずかに認められる。しかしだからといって、明治・大正期において活学(または活学問)の語がまったく見られないかと言えばそうではない。活字で確認できる早い時期の例として、一八九六(明治二九)年五月の『穎才新誌』に三宅空々なる人物が寄せた「活学問」には、次のような一節がみられる。\n儀式的ニ、束縛的ニ、只学力ノミヲ養フニ全脳ヲ奪ハレ、[中略]人間的ニ活眼的ニ、之ヲ施シ之ヲ行ヒ、虎ヲ広野ニ放ツヲ知ラサレハナリ、活学問夫レ何処ニアル、抑萬巻ノ書、億兆ノ冊、之ヲ学ヒ、之ヲ習フモ、而モ之ヲ用ユルノ術ヲ知ラスンハ、[中略]仮令幾多ノ学ニ通セサルモ、人ニ於テ、物ニ於テ、所謂、人間的ニ、活眼的ニ、之ヲ使用スルノ法全ケレハ、偉人タリ、傑士タルニ於テ、亦何ヲカ憂ン、\nこれは、大望を抱いてもなぜそれが達成されないのかという文脈に出てくるものだが、大望を妨害するものとして「学力ノミヲ養フ」ことや、「万巻ノ書、億兆ノ冊」を学んでもそれを活かすことができない点が指摘される。十全に活かすためには「人間的ニ活眼的ニ」と述べられるが、ここで早くも「人間」が活学を論じる際のキーワードに現れている。\n右の議論以降にも、書物や雑誌のなかに活学(活学問)は散見される。以下、目につくものに限るが、国士舘創立前後の時期までのものを挙げれば次頁の表のようになる。ここでそのすべてに触れることはできないが、基本的な論調はそれぞれがおおよそ通じている。すなわち、学校での書物上の勉強も大切だがそれだけではない実際社会に目を注いだ「活学活智」が大切だとするもの(表④)、学校で学問をしてもそれを活用する技量がなければただの奴隷であること(表⑤)、自然という良き教師が教育する学校で学び(例えば「郊外」で遊び)、そうではない死学をやめるべきこと(表⑥)、活学は書物によらず自らの体験によって身につけた学問であること、実際の業務のなかに学問もあること、知行合一であること(表⑧・⑩・⑪)、というように、学校もしくは書物だけでの勉強を批判し、それ以外の場所(自然環境や労働環境など)における経験知というべきものを重視する。表のうち、大隈重信(一八三八~一九二二年)による「活学問説は大間違ひ」との文言が見える論説(表⑦)は、一見すると活学批判のようだがそうではなく、学生の就職難・生活難にかこつけて主張される活学を批判するのであり、当世に主張される活学は「青年の勇気が足りない、熱心が足りない、意気を欠いて居ることの表白」であるとの見方を示す。活学問云々ではなく、活きた人物か死んだ人物かの違いが問題だとの主張は、幕末維新の頃には尊皇派の志士として活動した大隈らしい叱咤とも言える。以上は大づかみではあるが、国語辞典の単語としては立項されずとも、明治の中後期頃より少なからぬ人々のあいだで活学(活学問)が口にされていた様子が浮かび上がってくるだろう。\nさて時期が前後したが、一八九八年には井上円了が『教育的世界観及人生観』(表②)と題した著作を刊行している。この著作は円了の「平素小学教育に従事せる者に対する意見」として、それ以前よりの講演などをまとめたもので、内容は当時の教育家の社会的地位の低さを遺憾とし、「教育の業務は実に天職にして天幸を享有」することを主張したものとなる。円了は一八八七年には現在の東洋大学の前身となる私塾「哲学館」を創立したように自身が教育家だが、同書は教育家の地位と待遇、小学教育の重要性から始まり、自然科学や哲学などの知見をいかしながら教育および教育家を論じていく。そのなかに「活学活書」の節が設けられるが、ここでの議論は、先に概観してきた活学の議論をほぼ包括するためすこし詳しくみておこう。まず、円了の言葉をいくつかに分けて引用する。\n天地は我人の学校にして万物は我人の教師なることを開示せり、故に此天地此万物は自然に具備せる無限の学問、無限の書籍と謂ふべし、諸君の従事せる学校は死物にして此自然の学校は活物なり、諸君の研究せる学問は死学にして此自然の学問は活学なり、諸君の愛読せる書籍は死書にして\n自然の書籍は活書なり、斯る活学活書は活眼を有するものにあらざれば知るべからず読むべからず、然るに諸君が自然の活学活書あるを知らざるは死学死書に心を奪はれたるに因るのみ、猶ほ維新以後我邦人が西洋の文物に心を奪はれたる為に自国の長所を忘れたるが如し、\n若し諸君が其心を一転して人間的教育、人間的学校の外に別に教育学校を求めんと欲せば忽ち活学活書の存するを知るべし、ここで述べられる自然は「日月星辰も山川草木も鳥獣魚虫も皆教育となりて」とのように、人為の及ばない自然的環境のことを指すが、それとの対比において、人為としての教育(学校教育)や学問・書物は、死物や死学・死書と捉えられる。ただしその学校教育は否定されるものではなく、「唯之(自然―引用者註)を取捨し之を適用する丈は人為にして其他は皆自然なり、故に自然を離れて人為なしと謂ふて可なり」、「学校教育は自然的の教育を縮写して人間に示したるが如し」と認識され、そのなかで教育家は「自然教育の写真師若くは支店長と称して可なり」と位置づけられる。つまり、円了による「活」の字が冠せられる営みとは、常に自然的な環境との関係で把捉される限りにおいてであり、自然から離れた瞬間に「死」に至るものだと言えよう。そのため活眼とは、自然との関係を視野に入れたままに物事を捉える視線のことだと解釈できる。\nこのように「活」の字を盛んに用いる論者は、管見の限り円了に限られるとも思われるが、その様子は晩年にまとめられた『奮闘哲学』(一九一七年・表⑨)のなかでも変わらない。その「活書と活学」の節では、学者が実際や実用を忘れて省みなくなるときは国の衰亡を招くこと、その予防の任は哲学者にあること、学者は実用に心を注ぐべきとし、時弊を矯正するためには活眼をもって活書を読み活学を修めよと、言わば「活」主義を掲げる。活眼、活識、活書、活学、活用は皆連続せる関係を有し、一を挙ぐれば他は相伴うて起るから、今日の死眼死識死書死学死用を医治するは、活の一薬に限ると余は断言して居る、此方針を取りて活学問、活仏教、活教育を唱へ、之を教外別伝の哲学と名づけて置く、吾道一以貫之、曰活而已の主義である、国を富まし家を興すの道は此外にないと信ず、活学についてまとまった議論を展開した円了は、彼自身が「活学者」であったと後に追悼されるが、そのロジックやレトリックも含めた活学の主張は、必ずしも直接的な関係にはないものの、後の国士舘にも共有されていると考えられる。先にみた『教育的世界観及人生観』のなかに、死学死書に心を奪われた状態を西洋の文物に心を奪われているとの喩えがみられたが、それが国士舘では喩えの域に留まらず、一つの動機として活学の主張に組み込まれていた点(西洋の猿真似を批判する点)は興味深い。その他にも、以下の諸点で彼我の主張・認識は同期する。すなわち、\n①円了は教育を「天職」とも「天幸」とも述べていたが、国士舘同人においても「教育家諸君は、教育こそは天の人類に附与し得る最高の職務たるを知覚せざるか」、「諸君教育家は唯我独尊の地位にある者なり、天の美禄を食むもの也、人禄意とするに足らず、境遇憂ふるに足らず」と、教育を天職という自\n然との関係でみなす論調。②同時代の教育を「形式のみに走り器械的方法を以て児童の精神を抑圧せんとするものあり、是の如きは決して精神的人物を養成する道にあら」と捉える\n円了と、国士舘同人による同時代教育の形式主義的傾向への批判。\n③円了が人間教育の要点を「書籍の講釈や文字の説明のみを以てよくす可からず、必ず感化の力に依るを要するなり」として、その感化は「教師の心を以て生徒の心を動かす一種の以心伝心法なり」とするのに対し、国士舘同人においても「活学の道場」のあり方は教え・学ぶものがともに膝を交えたもので、\nその関係は「心学なり、活学なり、信念の交感なり」と表現されていたこと。\n④円了の教育目標として、「児童の精神を感発して国民的人物を養成すること[中略]日本国民としては其教育の神髄たる忠孝二道を全うして永く国体を維持する赤心を発揮せしめざるべからず」と、国家有用の人材ないしは国事に貢献する国民の教育が目指されていたのに対し、国士舘同人においても文字通りの「国士」の養成を目的としていたこと。の四点である。\n右にみたように、同時代の教育や、教育とはどのようなものであるかといった認識と、その上でどのような教育が目指されるべきかといった諸点につき、円了と国士舘は相似形をなしている。これを世代論的にみれば、円了が教育家に養成を呼びかけた「国民的人物」や、「国体を維持する赤心を発揮せしめざるべからず」との期待をかけた子どもないしは若者世代に、柴田德次郎(一八九〇~一九七三年)をはじめとする国士舘同人は位置している(例えば、円了の『教育的世界観及人生観』が刊行された年は、柴田が八歳の頃にあたる)。その世代差を考慮するとき、「円了の子ども」とすら呼びたくなるような象徴的な系譜ともいえる関係を、そこに見出すことができるだろうか。しかし仮に系譜関係を見出すにせよ、それでは国士舘の活学が円了の活学の引き写しかといえば、そうだとばかりは言えない。そこには国士舘(ひいてはその前身であり、一九一三年に結成された「青年大民団」)が活動した時代との関わりが抜きがたく存在する分だけ、円了の活学とは異なった表出の仕方をすることとなる。その表出を、本稿では生命主義的な文脈を含む、郊外地での学びと生活が相即した共同生活の実践というあり方に見出すのである。つまり私塾「国士館」における教育とは、明治期よりの活学の系譜と、大正生命主義的な時代思潮との交点に生起した実践であったと考えられよう。\n\nまとめにかえて\n本稿では、私塾「国士館」の設立が近代学校史・教育史の上でどのような文脈に位置するのかを考えるため、大きく三つの方向から検討してきた。一つは、明治期よりの学校制度のなかでの私塾の扱い、二つは、大正新教育と呼ばれる教育思潮や大正生命主義といった時代思潮との関係、そして三つめは、国士舘のグランド・コンセプトとでも言うべき活学と、その前史・系譜関係の考察との、以上の三点である。これらの考察は大づかみであるため、今後は個々の論点(特に第二・第三の点)につき、より精度を高めた検証を加える必要はあるが、ここで一応のまとめを試みよう。\n私塾としての国士舘は、一九二五(大正一四)年には文部省令下の中学校(正則)として認可されていくことから、正確にはおよそ八年のあいだだけ存在したものではある。ただし、設立の理念として掲げる活学とは、ここまでみてきたように同時代の教育、具体的には文部省管轄の学校教育への批判を土台としていただけに、この理念を掲げる限りは文部省令下には属さない教育の形、すなわち私塾の形態を採ることは論理的にも必然であった。この活学とはある種の精神的な態度のことでもあったから、後々には正則中学や専門学校化するにせよ、その教育が活学の文脈に掉さす限りは、その私塾性、在野性が失われることはないとも言えよう。その精神を私塾経営に引きつけて言い換えれば、「私学を死学とさせないための活学」とさえ言いうる。一節でみてきたように時代を経るごとに国家と私塾の関係が抑圧さを増すなか、それでもあえて私塾を立ち上げていく上では、活学というコンセプトは、一方で常に現実批判を担保しうる概念という意味で、便利な、柔軟性に富むものであったとも考えられる。\n三つの方向性のうち第二・第三の視点からは、国士舘をみていくうえでは明治期以来の活学の系譜が一つ、大正期の新教育または生命主義的な系譜が一つと、少なくともこの二点をあわせみることができるのではないか、という仮説を提出した。活学とは、この二点を繋ぐキーワードでもある。この点を違う角度から捉えれば、明治期からの活学の系譜に属する分だけ、主に欧米の哲学や教育思想との影響関係を軸とする大正新教育に関する研究領域では、国士舘のような実践が視野に収められることはなかったとも考えられよう。ただしその教育実践の理念や実際の運営、また同時代性を考慮するとき、新教育と生命主義の関連や、その生命主義と活学の関連も視野に収めたうえでの、学びと生活が相即する大正期の教育実践という枠組みからのアプローチも必要かと思われる。そのパースペクティブより捉えたときは、生命主義の思潮を背景とした新しき村のような実践が、白樺派的な国家を超越したアナーキーな実践であったことの対極に、国家との結びつきの下で構想・実践された国士舘の人間教育(=国士の養成)が位置づけられることも見えてくるだろう。このことは、同じく生命主義的な思潮を背景とする共同体志向の実践のなかでも、その先の方向性にはいくつかの経路があるということでもある。少なくとも大正期における私塾教育の形態をみる上では、同時代の新教育や玉川学園のような事例もあわせつつ、国士舘の営みを検証する意義は大きいと言えよう。"}]}, 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国士舘の設立とその時代 : 私塾、大正、活学の系譜
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (4.3 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2018-11-20 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 国士舘の設立とその時代 : 私塾、大正、活学の系譜 | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | article | |||||
関連タイトル | ||||||
国士舘創立100周年記念 | ||||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文と資料紹介 | |||||
小見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
平崎, 真右
× 平崎, 真右 |
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著作関係者詳細 | ||||||
二松学舎大学SRF研究助手 | ||||||
書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 9, p. 75-100, 発行日 2018-03-13 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12479001 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.28 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.2136 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol9.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第9号(2017) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
注記 | ||||||
本稿は、二松学舎大学私立大学戦略的研究基盤形成支援事業の成果を一部含むこともお断り致します。 |