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である。現在、出光美術館に所蔵され、国宝に指定されているこの絵巻は、十七世紀に、若狭国小浜藩主で大老を務めた酒井忠勝の手によって、現在の形である三巻に切断され、改装されたという。\n 絵巻の主題となった事件は、貞観八 (八六六) 年閠三月十日の夜半、平安宮内の朝堂院の正門である応天門が炎上し、両袖の棲鳳楼と翔鸞楼も延焼したことに端を発する。やがて、これが平安初期の宮廷を揺るがす政治疑獄事件へと展開していく。世に言う「応天門の変」である。事態の収拾のために、十七歳であった清和天皇が、外祖父藤原良房に「天下の政を摂行」させる。告発によって、放火犯として大納言であった伴善男が伊豆国へ遠流とされ、幕を閉じる。\n この事件の経緯を今日私たちに伝えてくれる資料は、\n ①『三代実録』\n ②『大鏡裏書』所引『吏部王記』承平四年条\n ③『宇治拾遺物語』\n ④『伴大納言絵巻』\nの四つである。①は言うまでもなく正史であり、事件の記憶も鮮やかな三十五年後の九〇一 (延喜元) 年に醍醐天皇に奏進された公式な記録である。②は『大鏡裏書』に残された醍醐皇子の重明親王の日記『吏部王記』の逸文である。事件の七十年後の人々の記憶にこの事件がどのように伝わったのか、興味深い記事が見られる。③は十三世紀に成立したとされる説話集である。これと④の詞書は、大筋で一致しているので、一つの説話としての成立は説話集としての『宇治拾遺物語』の成立に先行すると考えられる。絵巻が作られたのは十二世紀後半であるから、当時の人々にどのような事件として伝えられ記憶されていたのか、物語ってくれる。\n この事件に関する先行研究は多岐に及ぶ。大きく分野別に三つに分けることが出来よう。第一に、歴史学からのアプローチである。平安初期の社会を震撼させた政治事件として、あるいは幼帝の出現に伴い「摂政」という新たな政治形態が出現した画期として評価する。第二は、美術史からのアプローチである。④は後白河院の宝蔵絵 (絵巻コレクション) の一つとして、古くから評価され、研究が進められてきた。近年は、黒田泰三や黒田日出男などに代表されるような学際的な研究の対象ともなってきた。もっとも、研究層の厚いアプローチである。第三は、国文学からのアプローチである。伝承の作品化として、説話文学研究の対象となっている。\n\n 本稿では、三つの分野からの精力的な研究の蓄積に導かれながらも、この四つの資料を基に、応天門の変がどのように記録されたのか、そして、後世の人々にはこの事件がどのように記憶され、言い伝えられていったのか、検証していきたい。さらに、歴史書の記載による「事実」と、人々に語りつかれた「真実」との乖離の分析を通して、当該期の社会的情勢を再考することを最終目的としたい。"}, {"subitem_textarea_value": "藤原良房に「天一\nれ、幕を閉じる。\n燃えさかる紅蓮の炎、集う野次馬たち、物々しい検非違使、静寂の宮殿、悲しみに包まれる屋敷…誰もが一度は\n目にしたことのある絵巻、「伴大納言絵巻」(「伴大納言絵詞」とも)である。現在、出光美術館に所蔵され、国宝\nに指定されているこの絵巻は、十七世紀に、若狭国小浜藩主で大老を務めた酒井忠勝の手によって、現在の形であ\n(1)\nる三巻に切断され、改装されたという。\n絵巻の主題となった事件は、貞観八(八六六)年閏三月十日の夜半、平安宮内の朝堂院の正門である応天門が炎\n上し、両袖の棲鳳楼と翔驚楼も延焼したことに端を発する。やがて、これが平安初期の宮廷を揺るがす政治疑獄事\n件へと展開していく。世に言う「応天門の変」である。事態の収拾のために、十七歳であった清和天皇が、外祖父\n良房に「天下の政を摂行」させる。告発によって、放火犯として大納言であった伴善男が伊豆国へ遠流とさ\n応天門の変と『伴大納言絵巻』~記録と記憶の間~\nはじめに\nこの事件の経緯を今日私たちに伝えてくれる資料は、\n仁藤智子\n1\n④「伴大納言絵巻」\nの四つである。①は言うまでもなく正史であり、事件の記憶も鮮やかな三十五年後の九○一(延喜元)年に醍醐天\n皇に奏進された公式な記録である。②は「大鏡裏書」に残された醍醐皇子の重明親王の日記「吏部王記」の逸文で\nある。事件の七十年後の人々の記憶にこの事件がどのように伝わったのか、興味深い記事が見られる。③は十三世\n紀に成立したとされる説話集である。これと④の詞書は、大筋で一致しているので、一つの説話としての成立は説\n話集としての「宇治拾遺物語」の成立に先行すると考えられる。絵巻が作られたのは十二世紀後半であるから、当\n時の人々にどのような事件として伝えられ記憶されていたのか、物語ってくれる。\nこの事件に関する先行研究は多岐に及ぶ。大きく分野別に三つに分けることが出来よう。第一に、歴史学からの\nアプローチである。平安初期の社会を震憾させた政治事件として、あるいは幼帝の出現に伴い「摂政」という新た\n(2)\nな政治形態が出現した画期として評価する。第二は、美術史からのアプローチである。④は後白河院の宝蔵絵(絵\n巻コレクション)の一つとして、古くから評価され、研究が進められてきた。近年は、黒田泰三や黒田日出男など\n〈3)\nに代表されるような学際的な研究の対象ともなってきた。もっとも、研究層の厚いアプローチである。第三は、国\n文学からのアプローチである。伝承の作品化として、説話文学研究の対象となっている。\n本稿では、三つの分野からの精力的な研究の蓄積に導かれながらも、この四つの資料を基に、応天門の変がどの\n②「大鏡裏書」所引「吏部王記』承平四年条\n③「宇治拾遺物語」\n①「三代実録」\n2\n応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~\nように記録されたのか、そして、後世の人々にはこの事件がどのように記憶され、言い伝えられていったのか、検\n証していきたい。さらに、歴史書の記載による「事実」と、人々に語りつかれた「真実」との乖離の分析を通し\nて、当該期の社会的情勢を再考することを最終目的としたい。\n(4)\n貞観八年閏三月十日夜、応天門が炎上し、棲鳳・翔驚楼も延焼した。応天門は、平安宮の正門である朱雀門を北\n上して、朝堂院の南正門に当たり、平城宮段階では「大伴門」と呼ばれていたことが知られる二図l】参照)。政\n庁の正門という重要な門が、一夜にして焼失してしまったというので、大騒動になった。災異を払い、人心を治め\nるために、同月二十二日に会昌門にて大祓が行われた。そののち、昨今の情勢を占わせてみると、「御疾病・火災.\n(5)\n兵乱」という卜占が下った。清和天皇はじめとする廟堂は、この卜占を相当気にしていたようで、度々記事に散見\n(6〉\nする。七月六日には、伊勢神宮に使いが遣わされ、南海道の諸神社には班幣が行われた。その際の告文には、\nの経緯を追っていこう。\n二)「三代実録」に記録された事件\n最初に、正史としての「三代実録」に、関連する一連の記事がどのように記録されているのかを見ながら、事件\n一記録に残された応天門の変\n遣二使於伊勢太神宮一、告以二応天門火一。告文日「(前略)圭\n〈天〉、焼蓋〈奴〉・其後頻有二物粧一〈永〉依〈天〉ト求〈永〉、\n去閏三月十日〈が〉応天門井東西楼〈永〉火災在\n御鵠〈永〉御疾事、又火災兵事等〈乃〉事可レ3\n図1平安京大内喪図\n安鳥間\n偉盤門\n連符門\n路\n大\n誰FlllllllllllllLlllllllllllLFIlllllllllILFlllllllllllL戸lllllトーllll」\n門阿門\n二条大路\nr\n大宮大路\n一\n壬生大路\n朱雀大路\n信\n一\n西大宮大路\n角田文衛監惟古代学協会・古代学研究所糧「平安時代史事典」(町川杏店lMに加筆・削除)\n4\n漆室\n正親司\n采女司\n兵庫寮大蔵省\n大蔵大蔵\n大蔵大蔵\n大蔵長殿\n主殿寮||大宿直郡\n茶圃内教坊\n上西ドI 上東リ\n通専門1一雄\n|壜’\nⅡ剛伽間]富松原榊[四団陶]\n卸聞寓門\n段\n聯華門\n陰礼門\n宮域10‘! 修\nj今『幻」而了〔【壁門\n肝\n炎天門\n「:~r罰:\u0027;i:P;W 砿1\n内膳司\n采女町\n中和院\n司\n造酒司典薬寮\n御井町\n中務厨\n治\n部\n罰畷盧\n朝堂院会昌門\n従豚\n舎人\n。『。\n騎\n勘行\n陰隔喪\n豊楽院愚楽門\n1画\n使\n庁\n==\n」大政官\nL豊\n民\n詞#厨\n梨下院職御曹司\n認\n西雅院生巧“ 廩院\n大舎人寮\n侍従厨’\n左近衛府\n-\n隅明\n左丘衛府\n東雅院\n(東宮)\n侍賢P\n大\n勝\n職\n大炊繋\n」\nⅡ■■■■■■■■■■■■■■■\n窪\n雅楽腰\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\nとみえ、火災後、たびたび物の怪に悩まされた清和が、占わせたところ、「御疾事」「火災」「兵事」があるという\n結果が出たため、加護を祈って遣使したとある。\nまた同日に出された南海道諸神への告文には、\nとあり、この占い峰\nねて上申している。\nこの占いは\n当時の社会状況を概観すると、清和の不安はこの三点に集約されていたといっても過言ではあるまい。「疾病」\n言j)\nとは、自分の健康状態が芳しくないことで、貞観八年は天皇の不出御が時折みられる。何らかの過度のストレスが\nあったのかもしれない。「火気」とは、火災と日照りで、前者は応天門の焼失などの火災をさし、後者としてはこ\n(8)\nの年の春先から続く旱害を指していると思われる。濃尾平野での水騒動の勃発や南海道諸国への奉幣などからは深\n刻さを垣間見ることが出来る。「兵事」とは、不穏な新羅との緊張関係や地方での小競り合いなど不安定な社会情\n勢が考えられる。このような当該期における清和の不安を予兆・象徴したのが、応天門の火災であったようで、す\n(9)\nぐに再建に着手した。六月には再建のための料材確保のため、木工寮官人が派遣されている。\nl\n有〈止〉申〈世利〉。(後略)」\n又班二幣南海道諸神一告文日「(前略)去閏三月十日夜、八省〈乃〉応天門井左右楼〈永〉失火事有〈岐〉。因し\n弦神祇陰陽等〈乃〉官〈乎之天〉、令二占一求〈永〉、今亦火災兵警御病事等可レ有〈止〉申〈利〉。(後略)」\n神祇官と陰陽寮によるものであったことがわかる。さらに、陰陽寮は十六日には「水疫」も重\nラ\nいまだ不穏な状況を脱せぬ八月に、事態は急転することとなる。八月三日に左京に住む大宅鷹取という人物が、\n応天門の焼失は大納言である伴善男と右衛門佐伴中庸父子による放火であると告発したのだ。すぐに、告発者であ\nる大宅鷹取の身柄が左検非違使のもとに拘束され、勅命にて、参議である藤原良縄と勘解由使長官を兼ねる南淵年\n(叩)\n名が、勘解由使局にて伴善男を鞠問することとなった。一八日には文徳天皇の田邑山陵をはじめとする諸陵に山陵\n使が派遣されて、報告がなされた。\nこの告文で注目すべきは、応天門の焼失の事には触れている(傍線部①)のに、犯人については言及していない\nことである。これをどのように考えるべきなのだろうか。犯人が確定できていないとすべきなのか。とすれば、こ\nの日に山陵使を派遣した理由を、文字通り、一四日の巡検した際に発覚した山陵の木の伐採(傍線部②)に対する\n其答〈乎〉卜求〈礼波〉・掛畏〈岐〉御陵〈乎〉犯穣〈世留〉事在。又猶火事可し有。又疾事〈毛〉可し有〈止〉\nl\nト申〈利〉。因し蕊恐畏〈利天〉申奉出給〈牟止須留〉間〈が〉頻有二職事→〈天〉至レ今延怠〈礼利〉。②因以一《\n去十四日一巡〈留永〉・御陵〈乃〉木數多く久〉伐事〈阿り止〉検申〈世利〉。今御陵守等〈乎波〉c随し法〈永〉\n罪〈那倍〉賜〈牟止須〉。爲レ申二此状一・中納言正三位兼行陸奥出羽按察使源朝臣融。少納言從五位上良峯朝\n臣經世等〈乎〉差し使〈天〉奉出賜〈布〉・此状〈乎〉聞食〈天〉・平〈久〉安く久〉護幸賜〈止〉恐くミ〉恐\nく美毛〉奏賜〈波久〉奏。」自餘山陵告文准レ此。\n十八日庚寅。分二遺使者於諸山陵一、\n恐く美毛〉奏賜〈倍止〉奏〈久〉(①去閏三月十日夜。應天門及東西模〈永〉有二火災一〈天〉皆悉焼失〈奴〉。\n告二応天門火一也。田邑山陵告文云、「天皇掛畏〈岐〉御陵〈永〉恐く美〉\n6\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n御陵守の怠慢を詫びるとすべきなのだろうか。翌一九日に、清和天皇は勅命で藤原良房に「天下の政を摂行せし\n一Ⅲ)\nむ」という措置をとっている。この後、二九日には、伴善男の子息である伴中庸も拘禁され、今回の告発者である\n(吃)\n大宅鷹取の子を殺害した生江恒山、さらには伴清縄も拷問されている。\nまた、連座した八人も配流先も決定した。\n紀夏井(土佐国)・伴河男(能登国)・伴夏影(越後国)\n伴冬満(常陸国)・紀春道(上総国)・伴高吉(下総国)\n紀武城(日向国)・伴春範(薩摩国)\nいずれも伴氏と紀氏の同族ばかりである。同日、太政官曹司庁にて公卿・百官に宣制された。\nそして、告発から一か月半たった、九月二二日に事件は犯人五人が確定し、断罪された。以下のとおりである。\n伴善男↓死罪減一等伊豆国へ配流(遠流)\n伴中庸↓隠岐国へ配流(〃)\n紀豊城↓安房国へ配流(〃)\n伴秋実↓壱岐鴫へ配流(〃)\n伴清縄↓佐渡国へ配流(〃)\n公卿就一一太政官曹司艤一・會二文武百官一宣制。其詞日。「天皇〈我〉大命〈良万止〉宣く久〉・去閏三月十日之7\nこれによれば、大宅鷹取は「大納言伴宿祢の所為なり」と告発した(傍線部①)。勅使による謝問に、伴善男は\n否定を続けたが、従者であった生江恒山と伴清縄を拷訊したところ、「善男ではなく、子息の中庸がしたことであ\nる」と自白した(傍線部②)。そこで中庸を召喚したところ、「父の教命を受けて」やったことであると証言する\n(傍線部③)に至った。明法博士に罪科を審問したところ、「反逆の罪」に相当し斬刑にするべきであると奏聞した\n(卿)\nが、清和天皇は一等を減じて「遠流罪」とし、その他の関係者も断罪した、と見えている。\nこの断罪と処罰に基づき、二五日には伴善男の家財は没収され、山陵使が派遣され、仁明天皇の深草御陵と桓武\n巧詐一・③即中庸〈波〉父之教命〈乎〉受〈天〉・所し爲〈止〉云事無し疑。価与二明法博士等一勘定〈が〉・大逆\n之罪共難し可レ避・須同〈久〉斬刑〈永〉當虚〈止〉奏聞〈世利〉・然〈礼止毛〉。別〈永〉依し有し所し恩〈奈\n毛〉・斬罪〈乎〉一等減〈天〉。遠流罪〈永〉治賜〈布〉。又同謀從者豊城等三人井其兄弟子孫等。從二遠流→\n〈倍〉賜〈波久止〉宣天皇〈我〉大命〈乎〉衆聞食〈止〉宣。」\n伴宿祢身自〈波〉不し爲〈志天〉・息子右衛門佐中庸等〈加〉爲〈奈利介利〉・錐し然清繩恒山等〈加〉所し申口\n状〈乎〉以〈天〉・中庸〈加〉申辞〈永〉蓼験〈須留永〉・伴宿祢〈乃〉初所二争言一〈乃〉殺人〈留〉事既知二\n熱く加比〉御坐〈須〉・然間〈永〉備中權史生大宅鷹取告言〈世良久〉。①大納言伴宿祢〈乃〉所爲〈奈利〉・\n髪或諸人等又並レロ〈天〉無し疑〈留倍久〉告言〈己止〉在。然〈止毛〉件事〈波〉世〈氷毛〉不レ在〈止〉思\n〈保之〉食〈天那毛〉月日〈乎〉延引〈都々〉早く永〉罪〈那倍〉不し賜御坐〈都留〉・而今勅使等鞠問〈志天〉\n奏〈須良久〉・初問伴宿祢〈永〉毎し事固争〈天〉不二承伏一・從者生江恒山。伴清繩等〈乎〉拷訊〈留永〉。②\n夕〈永〉。應天門井左右模等。不慮之外〈永〉忽然嶢蓋〈多利〉・因し弦日夜無し間〈久〉憂〈礼比〉念〈保之〉8\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n天皇の柏原御陵に、事件の経緯と解決が報告された。二九日には朱雀門にて大祓を行い、この事件に関するすべて\n(M)\nが終焉したことが内外に表明された。\nこの事件の解決過程には、先学が指摘しているように不自然な点が見られる。三月一○日に起きた応天門の火災\nが、人為的な所作によるものであると、放火であると告発されたのが、八月三日である。そして、一八日には山陵\n使が、文徳はじめ諸山陵に派遣され、告文には応天門焼失が明記されるものの、背景については特定していない。\nところが、良房が「天下の政を摂行」した直後に、事態は終結を見て、五人の犯人の断罪と八名の連座が確定し\nた。これによって排除されたのは伴氏・紀氏であることは周知であるが、事件の主犯格は、伴中庸の「父之教命」\nが採用され、すべての責任は伴善男であると名指しされた。\n一喝)\n六国史のなかでも編集までのタイムラグが比較的短く、内容が正確だと評される「三代実録」の正文では、事件\nの首謀者は伴善男だけであり、以上のように他への言及ないことを確認した。しかし、「三代実録」には、ほかに\nも興味深い記述がある。\n記述を残している。\nその一つは、俗猴\n(二)記録の不協和音\n正史としての『三代実録」は、応天門の炎上とその後の政治疑獄事件について、伴善男父子とそれに連なる伴氏\nや紀氏のみが放火犯であり、当時の世情不安を煽ったと断罪するのみで、事件の背後関係については固く口を閉ざ\nしていることは先に確認したところである。それにもかかわらず、『三代実録」思いがけないところで、興味深い\n(肥)\n俗にいう伴善男伝である。これによると、\n,\nとある。伴善男と左大臣であった源信との間には確執が清和朝当初からあったこと。さらには、数年後に伴善男\nは源信が反逆を企てたと証告し、陥れようとしたこと。しかし、伴善男父子が大逆罪を犯して、ついには家門を\n絶ってしまったこと、が述べられている。「積悪之家」という文言には、かつて「積善」の家を標傍した藤原氏と\n(〃)\nの対比が感じられ、編纂当時の認識が反映されているように思われる。次に掲げる源信発伝から類推するに、源信\nの失脚を企てたものの、反って自らが墓穴を掘ってしまったのも今回の応天門の事件に関わる。さらに詳しい経緯\n{鳩〉\nは、源信の莞伝にもみえる。\n①貞観六年冬先し是、大納言伴宿祢善男与二大臣一相杵、漸積二嫌隙一・至レ是有二投送書一日、大臣臣与二中納言\n罪一、父子自絶二干天一・積悪之家、\nく君、\n削\n略\n…\n(略)貞観之始、与二左大臣源朝臣信一有し隙。数年之後、証三告大臣謀為二反逆}、殆欲レ陥レ害。其後犯二大逆之\nl\n、父子自絶二干天一・積悪之家、必有二餘狭一、蓋斯之謂欽。\n錐し似二奨擢一・實奪二大臣之威勢一也。②八年春欲し遣一レ使園二守大臣家一・善男通二諮右大臣藤原朝臣良相一所’し行也。干し時太政大臣不し知有二此事一・及レ至二發聞一、惜然失し色。即便奏聞、探二認事由一・帝日。朕曾所レ\n向様一・左馬少属土師忠道爲二甲斐椛橡一・左衛門府生日下部遠藤爲二肥後權大目一・皆是便二於搬レ鞍引膨弓者。\n欲し爲二不善一既有二先聞一。今飲章如レ此・可レ謂其反有し端突。至二子七年春一、以二大臣家人清原春瀧一爲二日\n源朝臣融、右衛門督源朝臣勤等一、兄弟同謀、欲し作一反逆一。令下二時世一嗽々上。善男乘レ此、顯言日、大臣\n10\n応天門の変と「伴大納言絵巻j ~記録と記憶の間~\n傍線部①によると、貞観六年冬以前に、対立していた伴善男は「源信が、兄弟である源融や源勤らと謀って、反\n逆を起こそうとしている」という投書をした。その結果、彼らに近かった清原春瀧らが左遷された。これは伴善男\nが「大臣の威勢を奪おう」としたためであったらしい。\n続く傍線部②は、今回の応天門炎上を受ける内容である。源信の邸宅が包囲されたのは、伴善男と右大臣であっ\nた藤原良相の所業であった。太政大臣であった良房は、まったくこのことを知らず、事実を知りすぐに、清和天皇\nに事情をよく掌握すべきだと進言した。天皇も寝耳に水だといい、大枝音人と藤原家宗を勅使として遣わし、事情\nを問い慰めた。これによって窮していた源信は九死に一生を得た。これ以降源信は、自邸の門を固く閉ざして、世\n俗から一線を画した。失意のなか、貞観十年落馬によって命を落としたという。\n以上のように、大納言伴善男と左大臣源信、さらに右大臣藤原良相の確執は周知であった。それならば、『三代\n実録」はなぜ、閏三月の応天門の炎上から、源信との確執や善男による源信の認告騒動など、善男が告発される八\n月以前の動向が、応天門の事件にかかわる一連の記事から省かれているのだろうか。\nもう一つは、\n不し聞也。髪勅遣二参議右大弁大枝朝臣音人、左中弁藤原朝臣家宗等一、前後慰諭。中使相側。大臣始則危擢\n在し心。救伽無し計。及レ蒙二勅慰一・死灰更燃、虎口既免。大臣献二家中所有駿馬十二疋、井賓從冊餘人一、\n以示三軍子孤猫無二復勢援一焉。朝廷不し受。皆悉返し之。③大臣自後杜し門、不二肯諏出一。(後略)\n{卿)\n紀夏井伝である。\n11\n傍線部によれば、応天門に放火したのは中庸で、その所業を父親である善男は知っていて、坐して流されたこと\nがみえる。つまり、この史料によれば、主犯Ⅱ実行犯は伴中庸であり、善男自体はそれに連座した形で事件に関\nわったということになる。これも、先述した「父の教命」によって行動したのとは、ニュアンスが異なる。さら\nに、中庸の子どもたちが幼くて、父親の配所へ共に落ちて行くのは困難であろうと、二人の幼児には都への召還を\n(釦)\n赦している温情をみると、この事件に関する三代実録』の歯切れの悪さを感じずにはいられない。正確であると\nされる正史の記録には、正文と異伝との間に若干の齪嬬が見られ、この事件に関するすっきりとしない歯切れの悪\nさを残す結果となっている。善男と信との確執や善男による信の証告、善男が主犯ではなく中庸の罪に連座したと\nいう記述などは、正史の正文が記述しなかった「記録の不協和音」であり、そこに何らかの作為を感じるのは私だ\n(訓)\nこの事件の後十一月十七日に皇太后である明子が東宮より常寧殿へ移り、十二月に入ると清和天皇の手勅で藤原\n(鍵)\n基経を従三位とし、中納言に任じている。同日には、藤原良相の左近衛大将の辞職上表がなされ、これは十三日に\n(鍾)\n裁可されている。事件によって廟堂の人事が大幅に塗り替えられたのは事実である。年も押し迫った二十七日に\n(割)\nは、良房養女の高子が清和に入内し、女御となっている。このあたりのことについては、後で詳述したい。\nけではあるまい。\n善男坐。以二男中庸行し火焼F之。父善男応し知し之焉。\n被し処二遠流→。(後略)\n(前略)有二異母弟豊城一・夏井以一→其放誕一、数加二督責一・。豊城苦し之、遂託二身大納言伴宿祢善男一・応天門火、\n豊城為二善男之従一。夏井為二豊城之兄一、、韓相縁坐、\n12\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n以上、正史である「三代実録」を検討した結果、「三代実録」の事件に関する正文には、応天門の焼失は伴善男\nの放火である告発に沿って善男とその子息中庸、そして関連者の断罪のみ記載されていた。しかし、伴善男伝や源\n信伝、紀夏井伝など正文と異なる記述には、別の様相が伺い知られ、『三代実録」の語らない諸事情が存在したこ\nとを匂わせていることを確認することができた。\n次に、その諸事情とはどのようなものか、後世の人々のこの事件に関する記憶を、他の資料から辿ってみたい。\n(一)「大鏡裏書」に見えるもう一つの事実\n(笛)\n今日、「大鏡裏書」とされる記事のなかに、本事件に関係する興味深い記事がみえる。\n二人々の記憶の中の応天門の変\n四品惟喬親王東宮靜事\n文徳天皇第一皇子母從四位下紀靜子正四位下名虎女\n嘉祥三年十一月汁五日戊戌、惟仁親王爲二皇太子一・誕生之後九ヶ月也。先是有二童謡一云、「大枝〈於〉超〈天〉\n奔超〈天〉騰躍〈土那加留〉超〈天〉我〈那〉護〈毛留〉田〈仁耶〉捜〈阿佐留〉食〈母〉志岐〈那〉雌雄\n識者以爲、大枝謂二大兄一也。\n日超一}三兄]而立、故有二此三超\n〈伊〉志岐〈耶〉」\n是時文徳有二四皇子一・第一惟喬、第二惟條、第三惟彦、第四惟仁。惟仁天意若\n崔之誰一焉・\n13\n記事からもわかる。\nこれは、先述の\n文徳天皇には、臣籍降下させなかった皇子が五名いた。紀静子(更衣)の生んだ惟喬親王、惟條親王、滋野奥子\n(猫)\n(宮人)の惟彦親王、そして藤原明子(女御)の生んだ惟仁親王、藤原今子(宮人)の惟恒親王である。八五○年\n三月、文徳天皇の即位時に生まれていたのは、このうち四名であり、即位に伴う東宮選定の際に立てられたのは、\n傍線部のように惟喬・惟條・惟彦を飛び越えて一番年少であった惟仁親王で、生後九か月であったという。もっと\nも注目されていた惟喬親王は、第一皇子でこのとき数え七歳であった。この立太子に疑問や不満を持つ人がいたこ\nとは、「三超之謡」と呼ばれた童謡が広くうたわれていたことからも、容易に察しがつく。文徳天皇の後継者問題、\nいわゆる「ポスト文徳」が大きな関心事であったこともうかがえる。これに対する文徳の考えや周囲の雑音が次の\n太子績位後應天門有し火。③良相右大臣伴大納言計謀欲し退弐信左大臣一、共蓼一陣座・時後太政大臣、爲二近\n衞中將兼参議一・良相大臣急召之、仰云、「應天門失火、左大臣所爲也。急就レ第召之」。中將對云、「太政大臣\n若無し罪、亦不レ可レ立二他人一・臣不レ敢一奉詔一」。\n欲三先暫立二惟喬親王一。而太子長壯時、還繼二洪基一。其\n發。太政大臣憂云、「欲下使二太子]辞讓上」。是時藤原三\n菱帝召二信大臣一清談良久、乃命下以立二惟喬親王一之趣上二洪基一。之趣上。\n承平元年九月四日夕、参議實頼朝臣來也。談及一古事一陳云、「①文徳天皇最愛惟喬親王。千時太子幼沖。帝\n(”)\n「大鏡裏書』の一部であるが、今日散逸してしまった「吏部王記」の逸文でもある。\n時先太政大臣仰日、「太子祖父爲一朝重臣一」。帝偉未し\n是時藤原三仁善二天文一諌二大臣一日、「懸象無愛事、必不レ遂焉」。\n信大臣奏云、「②太子若有レ罪須レ嬢。鮎更不二還立一・\n帝甚不レ悦・事遂無し鍵無し幾帝崩。\n14\n応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~\n(麹)\nこれは、承平元(九三四)年九月四日に、重明親王のもとを訪ねた参議藤原実頼が、父親である忠平から聞いた古\n事(傍線部⑥)として、語ったことを重明親王が記したものである。それによれば、文徳天皇の皇位継承計画は、\nまだ幼い皇太子惟仁親王を飛ばして最愛の息子である惟喬親王に皇位を譲ろうというものであった。もちろん、皇\n太子が成人するまでという期限付きではあるが、文徳は何としても惟喬に譲位したいと考えていたらしい(傍線部\n①)。だが、先太政大臣であった藤原良房は皇太子惟仁の祖父であり、朝廷の重臣であったために、文徳天皇は\n憧って実行に移せないでいた。天文に通じていた藤原三仁は「文徳天皇の意志は遂げられない」といったものの、\n良房は外孫惟仁の行く末に不安を覚えずにはいられなかった。\n文徳天皇は、歓談した源信に惟喬立太子を命ずるが、信は道理を説いて不服従だった(傍線部②)。文徳は不満\nに思ったが、そのまま数年後に亡くなった。こうして、皇太子惟仁が即位して清和天皇となった。数年後、応天門\nが炎上した際に、右大臣藤原良相と大納言伴善男は共謀して、左大臣であった源信を陥れようと(傍線部③)、近\n衛中将と参議を兼務していた藤原基経に源信の召喚を命じた。しかし、基経は機転を利かせて、父である藤原良房\nに、「職曹司」にて(傍線部④)事態を報告することに成功する。良房は清和天皇に、源信は「陛下大功之臣」(傍\n知之欺。」良相大臣云「太政大臣偏信二佛法|、必不レ知二行如レ此事一・」中將則知下太政大臣不二預知一之由上報云、\nl\n「事是非し輕。不し蒙|太政大臣虚分一、難二諏承行一・」遂辞出到|④職曹司→令レ諮一→太政大臣一・大臣驚令レ人奏\n日、「⑤左大臣是陛下之大功之臣也。今不レ知其罪一忽被し戦未レ審。因二何事一・若左大臣必可二見謙一、老臣先\n伏し罪。」帝初不し知。聞大驚粧報詔、以二不し知之由一・於レ是事遂定臭。永後太政大臣莞。清和天皇爲レ之碁中\n不し塁し樂也。⑥此等事、皆左相公所し語也。」\n15\n線部⑤)であるので、処罰してはならないと進言し、信は赦免されたことが知られる。\nこれら一連の内容から、応天門の変から七十年後における人々の記憶が浮き彫りにできよう。右大臣藤原良相と\n大納言伴善男が結託して、左大臣源信を冤罪に問おうとしたこと。良相が、太政大臣であった良房を通さずに、強\n制的に権力行使しようとし、それが可能であったこと。基経の機転と良房の暗躍は、源信を救済することで、権勢\nを伸長しつつある良相らを牽制しようとしたことが考えられる。清和の後宮でも、八六四年に清和の元服の際に添\n臥として入内した良相の娘多美子は、清和の寵愛を一身に受け、この年の三月に正三位まで昇叙したばかりであつ\n(”)(鋤)\nた。姉の多賀幾子も文徳女御として入内しており、良相は文徳l清和の二代にわたって娘を後宮に送り込むことに\n(別)\n成功していた。一方、良房は清和の後宮に入れる娘がなく、基経と高子を養子として迎い入れたものの、高子は醜\n(蛇)\n聞があり、入内にまで漕ぎ着けていない有様だった。良相の「太政大臣偏信佛法」というフレーズにからは、良房\nに対する多少の侮蔑を感じられ、良房と良相の亀裂も相当深かったことが推測できる。\nさらに、注目したいのは「陛下大功之臣」という論理である。これは上述した傍線部②の、文徳天皇が惟喬親王\nへ先に譲位しようとしたところ、源信の阻止に逢って、実現しなかったことを指している。源信の真意がどこに\nあったにせよ、彼による惟喬立太子の阻止を良房以来、恩義に感じていたことを示している。\nそして、もう一つが「職曹司」に良房の直瞳が置かれていたことである。【図1】を参照していただくと、「職御\n曹司」は内裏の東、後宮からは嘉陽門を出たところにある。「職」とは中宮職あるいは皇后職の家政機関が置かれ\n(漣)\nた役所のことであり、当該期にはその両者が置かれていなかったことを考え合わせると、皇太后宮職であったこと\n〈鈍)\nになる。当時の皇太后は清和生母の藤原明子である。母后といわゆる摂政・関白の誕生が「職曹司」での出会いに\nあったことは偶然ではない。「天下の政を摂行」すべき太政大臣良房の執務空間としての直臓が、彼の実娘であっ\n16\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n図2平安京内璽図\n再誉浦円一言岸峠喋腿腫汀円一一二宣曜殿宣曜殿\n●の等\n・・・砥\n倣\n門\n→\n●\n号\n岳\n倣門\n誓門\n玄邸門\nl l 。。。● 号e u l の\n[団\n圃貞観殿\n登華殿\n舎雨餓\n淑\n腫訓 昭悶北舎\n門\nIE.’\n雨\n遊\n{后町鹿〉\n鹿殿殿\n外遡物所\n徹殿\n後宮小’二\n辞舎\n.率\n崎町井\nI\n承「\n-\n北舎\n北舎rユ可‐南寺〒LIr卜Ⅲ\n湿明殿明殿二内付所内付所\n#・上典h膣綾\n崎殿\n鶚酔\n建春門\n←\n也刷Ⅲ\ni\n殿\n測竹」\n測\n□ 遍\n内記所一一。。。\n梁\n|:|片紫展殿\n回|\n田\n校寄殿\n軒\n従隅殿、\n橘\n●\n桜\n熟jl蝋門 「輪腿\n作物所\n●丹\n安隅殿\n進物所\n邪興殿\n園\n修現内懐\n女月順寮島曹司● u\n角田文衛監修古代学協会・古代学研究所網『平安時代史邸典」(角川書店l\"4に加節)\n17\n平安初期に嵯峨上皇が内裏を退出し、嵯峨院に移居して以降、太上天皇が宮外へ退去する際には、天皇の生母で\n(弱)\nあってもキサキはすべて宮内から宮外へ退出することとなった。このことによって、内裏は初めて天皇一人の空間\nとなったのである。しかし、この応天門の変後、清和は成人しているにもかかわらず、生母である皇太后明子が宮\n内(常寧殿)に入り、居住を復活させた。常寧殿は、【図2】に見えるように、後宮の中心殿舎である。ここに母\n后明子が再入内したということは、後宮の支配統括権が母后に掌握されたことを物語っている。キサキの居住形態\n(弱)\nが大きく変化したのである。それだけではない。明子の内裏復帰によって、新たな清和の妃選びが行われた結果、\n高子が入内する運びとなったのであろう。高子は、良房の兄長良の娘で、兄の基経と共に良房の養子となってい\n(”)\nた。年頃には五条にあった藤原順子のもとにおかれていたらしいが、その後移されている。順子は仁明天皇の女御\nで、高子にとっては父方の伯母に当たる。「伊勢物語」に「(前略)ほかにかくれたり。あり所は聞けど、人のいき\n通ふべき所にもあらざり」とみえ、人の行ける場所でなかったというのは、おそらく後段に「いとこの女御の御も\n(銘〉\nとに、仕うまつるようにていいたまへりける」とあるように、文徳女御であった明子のもとに出仕するようになっ\nたことと関連していよう。【図3-にあるように、高子と明子は本来従姉妹に当たるが、養子縁組によって義理の\n姉妹にもなった。高子が順子や明子の監督下にあったことは、清和の妃がねとして養育されたことを物語ってい\nる。高子の入内は、このような明子の内裏復帰を前提として可能になったと考えられる。このことにとどまらず\nに、母后が天皇と内裏内で居住するケースは、明子を噴矢として内裏内の権力構造に影響を持ってくるようにな\nる。この応天門の変が、天皇・母后・摂関などの関係性に大きな変化をもたらす契機となったことは、評価しなく\n創出されたのであろう。\nた皇太后明子の家政機関が置かれた職御曹司に置かれていたことこそ、幼帝清和を輔弼すべき態勢として清和朝に肥\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n図3天皇家・藤原氏関係系図\n〈天皇家〉\nh” 2平城汁嵯峨仁1\n桓武\n淳和\n仁\n源\n藤原\n冬嗣\n良房\n(忠仁\n古子(文徳女御)\n孟順\n蛙霊長良\n良相常行計畿侭単… 多美子(浦和女御)\n明l捲孝l響多l醍醐l朱雀1\n2\n信\"\nへ\n古\n・\n*\n一回\nT 棊子\n后\n一\n7\n清和\n惟喬親王\n成\nさて、承平元年の九月の夕べに、このようなこ\nとが話題になったのは理由がある。この年の七月\n(”)\nに宇多太上天皇が仁和寺にて没した。この会話が\n重明親王の日記に記された二日後の六日には、字\n(側)\n多の火葬が行われる運びであった。朝廷に隠然た\nる勢力を持っていた宇多太上天皇の死没は、前年\n(似)\nに没した醍醐太上天皇に続く衝撃であった。醍醐\n天皇は亡くなる一週間前の九月二二日に、八歳の\n朱雀天皇に譲位したばかりであった。この時、藤\n原忠平が政を摂行し、藤原実頼は蔵人頭に任じら\n(枢〉\nれた。宇多・醍醐という後見がなくなり、幼帝が\n摂関忠平に補佐される態勢は、清和朝と類似して\nおり、当時でもそう認識されていたからこそ、こ\nのような話題が、宇多太上天皇の火葬を前に、\n「古事」として語られたのであろう。\n以上の記事から、応天門の変から七○年後に、\nてはならない。\n19\n当該者の子孫たちがどのようにこの事件を記憶し、語り継いでいたか知ることができた。良相と伴善男の結託によ\nる源信の追い落とし陰謀や、良相と良房・基経父子との間に横たわる溝、さらに、良房と清和天皇が源信の窮地を\n救った理由など、正史である「三代実録」には記録されていない、或いはできなかった事件の一端を知ることがで\nきよう。記録されなかった事実が、人々の脳裏に記憶として伝えられていく様相を『吏部王記」逸文から看取でき\nヲ(や0\n(二)「伴大納言絵巻」と「宇治拾遺物語」\n今日、東京の出光美術館が所蔵する国宝「伴大納言絵巻」は、十二世紀後半に、後白河院の周辺で作成されたと\n推定されている。いわゆる後白河院の絵巻コレクション「宝蔵絵」の傑作の一つに数えられている。宝蔵とは、平\n清盛が造営・寄贈した蓮華王院の一角にあった宝蔵のことで、ここには「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」「信貴山\n縁絵巻』「年中行事絵巻』悪獄草子」など多種多様なモチーフを扱った優れた絵巻が収集、製作・所蔵されてい起絵巻』「年中行\nたことが知られる。\n「伴大納言絵巻」は現存は三巻(上・中・下)であるが、これは十七世紀に大老であった酒井忠勝によって切断・\n改装されたためである。もともとは、宝蔵から流失したこの絵巻は、十五世紀には若狭国松永庄新八幡宮に伝来し\nたが、十七世紀に入って若狭国小浜藩の藩主であった酒井忠勝が所有するようになり、二十世紀(昭和五○年代)\n(躯)\nになって酒井家より出光美術館へ渡った。\n絵巻の現状は【図4】のようである。\n20\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n蕊\n竃毎房\n■一屋\n垂一等\n腫一qpU・浄寺密\nー一一F…名園\n一一草一言一\n=←~デー←4\n翼二層冨調\n=一一一色や詞\n司絃藷】\n▼碁毎諄\n▼毒呈垂\n【薄判子\n【華善一\n~\n蝿峰0\n廷1超撰曇華⑭や鑑至\nL 一マー_音百一コーー\nと一一一エーシ\n▼葛輯ヨ\n塗霞\nT望『国‐\nz脚弄\n▼巧堂荘:電撃震▼胃■▼ご毒く\n(有呈鎮誕)導く樫喜ぶご昌罫\nyz『廃\n▼画邑歸\n▼舎営守屋\n享マ呑昌\n石哩苗\n一》一亭一一幸■\nで\n》\n難\n溺言1国露I嗣麗念9面麓朴〃ご『獅鍋胸棄K詮抽駐淵」球三画田雛\n鍾之“ロー一\n手一E旬ーーd\nレーGご←…一\nーー一一済\n合一一言一一\n▼竃邑臣\n墾鋼栓塞T含毎里替砿ゆ拳\nく劇や躍剖頃Ⅸ\n▼竃←E\n長浮く裡鼻心圏今雰\n郎毒辮鎭伽羅K詮苛函皿\nT薯画厚\n一一一一\n一.一一一\n一両■ご】\n囲醐竃遥\nq i\n(1)庭に佇む後姿の人物は誰か?\n(2)清涼殿の広庇に坐する人物は誰か?\n(3)清涼殿で清和天皇と語らう人物は誰か?\n(幅)\nこれに関しては、多様な説が出されているが、ここでは論じない。ただ、一つ言えるのは、十二世紀にこの絵巻\nが作られた当時、「謎の人物」は謎ではなかったということである。当該期の人々は、絵巻を見て、あるいは詞書\nを見ながら、その人物が誰なのかわかっていたということである。人々の記憶が、特定の人物と絵巻の「謎の人\n物」をむすびつけ、私たちが今日抱く「謎」は存在しえなかったのである。\nまた、絵巻の一部の人物らしきものが切り取られている痕跡も見える。中巻の第三紙には赦免使と思しき人物が\n切り取られている。さらに、第一五紙の最後にも噂をする人々のとその噂を伝えようとする水干の童の先も切り取\nられた跡がある。水干の童から報告を受ける人物なのであろうか。\n絵巻全体を見渡して、上巻に詞書が抜けていることや、各所に切り取られた跡や、紙の不自然な継接ぎなどがみ\nられる。\n多くの人を魅了するこの絵巻には、多くの謎がある。例えば、最大の争点として、絵巻の「謎の人物」論が挙げ\n22\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n(中巻)(下巻)「宇治拾遺物語」巻十第一話とほぼ同文\nとされている。そこで、詞書と「宇治拾遺物語」から十二世紀後半の人々の記憶を読み解いていきたい。\n上述したように「伴大納言絵巻」の詞書と宇治拾遺物語の関係が近いことは、周知の事実である。現存する上巻\nには詞書はない。おそらく、伝来の過程で欠落したものと思われる。続く中巻と下巻には、「宇治拾遺物語」巻十\n第一話とほぼ同文と言ってもいえる類似した詞書がある。このことを勘案すると、先学が指摘しているように、上\n巻にも「宇治拾遺物語」と同内容の詞書があった可能性が高い。煩雑になるが、両者を対照させてみていきたい。\n「伴大納言絵巻」詞書に欠けている上巻の部分を、『宇治拾遺物語」から推測してみよう。該当する箇所は次のと\nおりである。\nられ、絵巻が制作された十二世紀後半以降の伝来の過程で故意や事故による喪失があったことは周知である。た\nだ、念頭に置いておかなければならないのは、今日「謎」とされる論争点の多くが、製作時点では「謎」ではな\nく、衆目が理解でき納得する内容であったということである。絵画自体のより詳細な分析は、美術史家に譲ること\nにして、次に詞書の内容に注目して考察を加えていきたい。\n現存する詞書については、\n(上巻)なし\n今は昔、①水の尾の\n納言、「③これは信の大臣のしわざなり」と、おほやけに申ければ、その大臣を罪せんとせさせ給うけるに、\n御門の御時に、應天門やけぬ。②人のっけたるになんありける。それを、伴善男といふ大\n先学の検証によって、\n23\n傍線部①に「水の尾の御門の御時」とあるように、清和朝の出来事である。\nこの内容は、先述した「三代実録』の伴善男伝の一部と合致する。すなわち、伴善男が放火(傍線部②)は、左\n大臣である源信の仕業と証告し(傍線部③)、謹言を信じた清和天皇の怒りに触れそうになるというくだりである。\nこのことは、『宇治拾遺物語」のこの箇所が、史実として記憶されていたことを示すことになろう。さらに、政界\n(価)\nから距離を置いて隠居していた良房が、これをきっかけに政局に復帰したこと(傍線部④)や、清和天皇が良房の\n言(傍線部⑤)に一理ありと理解を示したこと(傍線部⑥)も、「三代実録」で良房に勅で天下の政を摂行させた\nことや、『吏部王記」逸文で基経の機転でことが良房の知るところになったことや、良房の説得に清和が同意する\nことに符合する。一方で、傍線部⑦のように、源信の処分が撤回されたことは、『三代実録」に記述がみられない\nのは、編纂者から見れば、削除に価する箇所であったのかもしれない。\n次に、中巻に該当する「宇治拾遺物語」をみてみよう。\nと、⑤申人の謹言にも侍らん。て、まこと、空事あらはして、お}\nさせ給に、一定もなきことなれば、\nる。\n大\n④忠仁公、世の政は御おとうとの西三條の右大臣にゆづりて、白川にこもりゐ給へる時にて、此事を聞きおど\nろき給て、御烏帽子直垂ながら、移の馬に乘給て、乗ながら北の陣までおはして、御前に参り給て、「このこ\n事になさせ給事、い\nおこなはせ給べきなり」\nい\n⑦「ゆるし給よし仰よ」とある宣旨うけたまはりてぞ、大臣はかへり給け\nとことやうのことなり。か、る事は、返々よくたずし\nと奏し給ければ、⑥まことにもとおぼしめして、たず\n24\n応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~\n①左の大臣は、すぐしたる事もなきに、かゞるよこざまの罪にあたるを、おぼしなげきて、日の装束して、庭\nせまうでければ、いそぎ罪せらる魯使ぞと心得て、ひと家なきの\nば、又、よろこび泣きおびた、しかりけり。ゆるされ給にけれど、\nる、者有。あやしくて見れば伴大納言也。次に子なる人おる。又つぎに、雑色とよ清と云者おる。何わざし\nて、おる魁にかあらんと、露心も得でみるに、この三人おりはつるま勘に、走ることかぎりなし。南の朱雀門\nざまに走ていぬれば此舍人も家ざまに行程に、二條堀川のほど行に、「大内のかたに火あり」とて、大路の域\nしる。みかへりてみれば、内裏の方とみゆ。走り歸たれば、應天門のなからばかり、燃えたるなりけり。この\nありつる人どもは、この火つくるとて、のぼりたりけるなりと心得てあれども、人のきはめたる大事なれば、\nあへて口より外にいださず。その後、左の大臣のし給へる事とて、「罪かうぶり給くし」といひの、しる。あ\nはれ、したる人のあるものを、いみじきことかなと思へど、いひいだすべき事ならねば、いとほしと思ひあり\nくに、「大臣ゆるされぬ」と聞けば、罪なきことは遂にのがる、ものなりけりとなん思ける。\nにあらどもをしきて、いでて、天道にうたへ申給けるに、②ゆるし給ふ御使に、頭中將、馬にのりながら、は\nせまうでければ、いそぎ罪せらる魯使ぞと心得て、ひと家なきの慾しるに、ゆるし給よしおほせかけて蹄ぬれ\n此ことは、過にし秋の比、右兵衞の舎人なるもの、東の七條に住けるが、っかさに参りて、夜更て、家に歸\nるとて、應天門の前を通りけるに、人のけはひしてささめく。廊の腋にかくれ立て見れば、桂よりか、ぐりお\nかくて九月斗になりぬ。か、る程に、伴大納言の出納の家の幼き子と、舎人が小童といさかひをして、出納\nの封しれば、いでて、とりさへんとするに、此出納、おなじく出でて、みるに、よりてひきはなちて、我子を\n】7匪引1Vて刺\n③「おほやけにつかうまつりては、よこざ\n0\n2う\n中巻の冒頭にみえる「おとど」は、「宇治拾遺物語」には「左の大臣」と明記され(傍線部①)、庭に荒薦を敷\nき、冤罪を天道に訴える主体として明確である。清和の勅命を伝えた「許し賜う御使に、頭中将」(傍線部②)は、\n(鞭〉\n絵巻の詞書には見られない。この頭中将とは、藤原基経を指すとみられる。「三代実録」の源信伝には、「差勅遣参\n議右大弁大枝朝臣音人。左中弁藤原朝臣家宗等。前後慰諭。」とあり、勅使は基経と別人で、大枝音人と藤原家宗\nだったとする。基経は『宇治拾遺物語』では、この赦免使として華々しく登場するが、前述した「吏部王記」逸文\nでは、上段部分に相当する場面で、隠居している良房に源信が証告されたことを告げる重要な人物として記憶されでは、‐\nている。\n無罪放免となった左大臣源信は、\n「おほやけにつかうまつりては、よこざまの罪出で来ぬべかりけり」といひて、もとのやうに、宮づかへもし\nば家に入て、この舎人が子のかみをとりて、うちふせて、死ぬばかりふむ。舎人思ふやう、わが子もひとの子\nも、ともに童部いさかひなり。たぎさではあらで、わが子をしもかく情なくふむは、いとあしきことなりと腹\nだ、しうて、「まうとは、いかで情なく、幼きものをかくはするぞ」といへぱ、出納いふやう、「おれは何事い\nふぞ。舍人だつる。おればかりのおほやけ人を、わがうちたらんに、何事のあるべきぞ。わが君大納言殿のお\nはしませぱ、いみじきあやまちをしたりとも、何ごとの出でくべきぞ。しれごといふかたゐかな」といふに、\n舎人、おほきに腹だちて、「おれはなにごといふぞ。わが主の大納言を高家に思ふか。をのが主は、我口によ\nりて人にてもおはするは知らぬか。わが口あけては、をのが主は人にてはありなんや」といひければ、出納は\n腹だちさして家にはひ入にけり。\n26\n応天門の変と『伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\nと、朝廷への出仕を止めて、隠居してしまったとされる。実際に、源信は事件の二年後、貞観十年閏十二月に\n(鴨)\n五十九年の生涯を閉じている。前掲した蕊伝には、「大臣自後杜門。不肯諏出。」とみえ、この事件をきっかけに源\n信は閉門してしまった様子が、史実としても確かめられる。\n後半は、「右兵衛の舎人なるもの」の事件当夜の目撃が噂になるまでを語る。事件当夜に、応天門から「伴大納\n言」「子なる人」「雑色とよきよ」が逃走した様子が、市井の人に目撃された。そして、思いもかけない「伴大納言\nの出納の家の幼き子」と「舎人が小童」の識いから風聞が広まっていく。\n市中の風聞が広がり、とうとう舎人は朝廷で尋問されることとなり、放火犯として伴善男自身が断罪されるに\n下巻に該当する「宇治拾遺物語』は次のとおりである。\n給はざりけり。(傍線部③)\nl\nとの、\nをやきて、信の大臣におほせて、かの大臣を罪せさせて、②一の大納言なれば、大臣にならんとかまへけるこ\nこのいさかひをみるとて、里隣の人、市をなして聞きければ、いかにいふことにかあらんと思て、あるは妻子\nにかたり、あるはつぎつぎかたりちらして、いひさわぎければ、世にひろごりて、おほやけまできこしめし\nて、舎人を召して問はれければ、はじめはあらがひけれども、われも罪かうぶりぬくくとはれければ、ありの\nくだりのことを申てけり。その後、大納言も問はれなどして、ことあらはれての後なん流されける。①應天門\n③かへりてわが身罪せられけん、④いかにくやしかりけん。\n27\n至った。「応天門をやきて、信の大臣におほせて、かの大臣を罪せさせて」(傍線部①)とは、源信を冤罪とするた\nめに伴善男が謡言したことをさす。「一の大納言なれば、大臣にならんとかまへけることの」(傍線部②)は、この\n動機が出世(大臣への昇進)であったことを記す。\nだが、「三代実録」伴善男伝では「貞観之始、与左大臣源朝臣信有隙。数年之後、謹告大臣謀為反逆、殆欲陥害」\nとみえる。また源信伝では、「貞観六年冬先是。大納言伴宿祢善男与大臣相杵。漸積嫌隙」として、これ以前にも\n両者の確執がいくつもの事件を生んでいたことを明記している。両者とも、明らかに源信と伴善男の政治的対立が\n原因であったことを記している。しかし、伴善男の計画は上手くいかず、「かへりてわが身罪せられけん」(傍線部\n③)と、自らの足元をすくわれた結果になった。最後の詞書「いかにくやしかりけん」(傍線部④)は意味深な言\n葉である。何に対して「くやしかりけん」としているのだろうか。伴善男の、自分の愚かな行動に対してだろう\nか。それとも、後日怨霊になったとされる善男が自分を陥れた人々に対してであろうか。前者であれば、源信の権\n勢失墜と政界からの左遷を企てて証告したものの、まわりまわって自分が罪人として都を追われるようになった伴\n善男の口惜しさととることができる。後者とすれば、踊らされた挙句に自滅することになった善男を憐み、同情を\n寄せる十二世紀の人々の嘆きと受け取ることができる。いずれにせよ、この言葉は時の文であり、当時の人々の認\n識や感情を表しているのは間違いない。\n絵巻は、前の簾を垂らして後を巻き上げられた八葉車に、罪人として後ろ向きに座らされる善男が検非違使に連\n行されて行く場面で終わっている。\n「絵巻」と聿治拾遺物語」を考察してきたが、これらは当時の記憶’十二世紀の京周辺の人々の記憶lを伝え28\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\nる貴重は史料である。事件から三百年後の人々には、応天門の変はこのように伝えられた。応天門の焼失後、伴善\n男によって「放火犯は左大臣源信」であるという謹言が成されたが、基経の機転や隠居していた忠仁公良房の再登\n壇により、清和天皇は説得に応じた。天道に無実の訴えていた源信は、赦免されると政界から引退してしまった。\n市井の子どもの喧嘩に端を発し、放火犯として伴善男が断罪されて、事件はあっけなく幕を下ろした。当時の人々\nの事件に関する認識は、「いかにくやしかりけん」という言葉で表され、伴大納言は冤罪と認識されていたことを\n窺わせる。そこには、「三代実録」の記録とは異なる人々の記憶があることが明らかになった。\nこのような記憶が、一つは画像化されて「伴大納言絵巻」という絵巻として、もう一つは文字に書き記されるこ\nとによって「宇治拾遺物語」として、新たな形で「再記録」されて、後世まで繰り返して語りつがれることになっ\nたのである。\n八六六年の応天門の変を題材に、事件がどのように史書に記録されるのか、さらに、真実が人々の記憶の中でど\nのように生き続けるのか、その実態を考察してきた。\n九世紀の記録である「三代実録』の正文は、ただひとえに伴善男を断罪するのみで、歯切れの悪さを残してい\nた。一方で、同書の中で個人の伝として採録された異伝の中に、当該期の社会政治情勢を物語る記述や、事件の背\n後関係に関する言及を垣間見ることができた。許されるのであれば、正文には残されなかったそれを「記録の不協\n和音」と呼びたい。事件に対する朝廷の正式認定された「事実」以外にも、物語が存在することを示している。\nむすびにかえて~記録と記憶の間~\n29\n応天門の変が起きた清和朝は、史上初めて幼帝の出現した時代でもある。幼帝である清和の登場と惟喬親王との\n皇位争いの伝承は、清和という王権が必ずしも貴族層の支持を得ていない実情を表している。九世紀以降、幼帝の\n出現は、血統の重視によって必然的に起こるようになっていった。もちろん、その前提には、官僚制が成熟して、\n(袖)\n国家機栂が安定してきたことを忘れてはならない。その幼帝をどのように補佐していくかが大きな問題として浮上\n(釦)\nしてくる。即位当時の清和の場合、同興して内裏に臨んだという祖母である太皇太后藤原順子の存在抜きには語れ\nまい。この順子の手足となって政界での地歩を固めてきたのが、伴善男その人である。彼の失脚は、順子の政治的\n(別〉\n権力の失速を物語るのかもしれない。\nかわって、この事件後、内裏内での影響力を強めたのが、清和の生母である藤原明子である。平安初期以降、太\n上天皇が宮外へ退去する際には、天皇の生母であってもキサキはすべて宮内から宮外へ退出することとなった。し\nかし、この事件後、清和は成人しているにもかかわらず、母后明子は宮内(常寧殿)に入り、内裏内居住を復活さ\nせた。このことによって、家政機関(皇太后宮職)も宮中におかれ、「職御曹司」として機能するようになった。\nさらに七○年後の十世紀の記憶は、「記録の不協和音」である「三代実録』の異伝や後世の「宇治拾遺物語」に\n相通じる記述がみえる。孫の代に伝わる「吏部王記』逸文からは、事件当時の利害関係が浮き彫りになった。\n十二世紀になると、この事件は平安期のミステリアスな事件の一つとして、絵巻の題材に選ばれて画像化され、\nさらには説話化されるに至った。今でこそ謎に包まれた「伴大納言絵巻』は作成当時には「謎」は存在せず、観る\n人には内容が素直に理解されていたはずである。ここに記憶の画像と文字による再記録のプロセスを見ることがで\n些弍ごヲ(》◎\n30\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\nこのようなキサキの居住形態の変化は、とりもなおさずキサキという立場の変化を物語っている。この事件こそ\n(露)\nが、天皇の配偶者(妻后)というより、天皇の母(母后)という立場へ大きく変化する画期ともなったと評価する\nことができる。その母后の政治的背景として、「摂政の出現」という事態を想定することは難しくないであろう。\n先述したように、太政大臣良房の執政空間としての直臓が「職御曹司」におかれていたのは、偶然ではなく、母后\nと藤原摂関家の「職御曹司」での出会いは、八六六年応天門の変を画期として成立したといえる。\nこの変によって、政界の勢力範囲図も大きく塗り変わった。太政大臣であった藤原良房は「天下の政を摂行」す\nる権限を付与され、実権を握ることとなる。左大臣であった源信は、事件後政界から引退して失意のまま翌々年死\n没している。伴善男と共謀したとされる右大臣藤原良相は影響力が失墜し、翌年死没した。参議に登った藤原基\n経は、政界へ大きく躍進しただけではなく、実妹である高子を年内に清和の後宮に入内させることに成功したのでは、\n(郭)\nある。\n論じ残した点も多々あるが、歴史の中で、何が「事実」として記録されたのか、それとは必ずしも合致しない\n人々の「真実」として記憶がどのように伝えられていったのかを、応天門の変を一つの題材として明らかにすると\nいう本稿の課題を果たしたものとし、ここで筆を掴くことにしたい。\n註\n(1)小松茂美三伴大納言絵詞」の誕生」(「日本の絵巻」所収、中央公論社一九八七年、初出は二伴大納言絵詞」成立の周辺と\n背景」「日本絵巻大成」一九七七年)。\n(2)応天門の変に言及した歴史研究は枚挙に過ない。敢えて主要な研究を挙げるならば、佐藤宗諄「「前期摂関政治」の史的位世」\n31\nへへへへへ\n8 7 6 5 4\n…ーーーー\n(「平安前期政治序説」所収東京大学出版会一九七七年初出一九六三年)。神谷正昌「承和の変と応天門の変」「史学雑誌」\n一二’二二○○二年)。今正秀「摂政制成立考」(『史学雑誌」一○六’一一九九七年)。坂上康俊「関白の成立過程」\n(「日本律令制論文集」下吉川弘文館一九九三年)。米田雄介「藤原摂関家の誕生」(吉川弘文館二○○二年)など。\n(3)黒田泰三・城野誠治・早川泰弘「国宝伴大納言絵巻」(中央公論美術出版、二○○九年)。黒田日出男「謎解き伴大納言絵巻」\n小学館、二○○二年)。美術史による、「伴大納言絵巻」に関する膨大な先学の成果は、黒田日出男氏の整理によると、5期に\n「三代実録」貞観八年閏三月一○日条。なお、「三代実録」は国史大系本による。\n「同」貞観八年四月一四日条及び七月六日条。\n「同」貞観八年七月六日条。木工寮の藤原直宗らは近江国へ、中臣伊度人らは丹波国へそれぞれ派遺きれた。\n例を挙げれば、「三大実録」同年四月乙亥朔条、五月十一日条、十月壬申朔条、十一月二日条など。\n上述の伊勢太神宮への告文は二条あり、後者には「今年旱災ありて、百姓農業みなことごとく枯損せぬ。」とみえ、「甘雨」を\n乞う祈願がなされている。\n1期(明治初期~己ら年代)研究の胎動期\n2期(ころ年代~ら命年ごろ)研究のパラダイム形成期\n3期(岳余年~らご年ごろ)鈴木敬三による風俗史的研究\n4期(ら己年~ら鴎年ごろ)研究の展開期\n5期(乞駅年~現在)山根有三による発見と研究の深化\n黒田泰三・黒田日出男による研究の進化\n美術史研究による主な争点は二つである。\n①「謎の人物」論↓上巻の宮中にいる三人の人物比定。さまざまな説が出ているが、重要なのは、絵巻が制作された時点では、\n人物は謎ではなかったということであろう。\n②「絵巻」論↓省略されたのは一体何か、原型はどのようであったか復元しなければならない。多様作成された時点での原型\n分類できるという。\nな復元説が出されている。\n32\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n(9)\n(皿)\n(Ⅲ)\n(吃)「同」貞観八年八月二九日、三十日条。恒山と同謀した清縄は伴善男の従僕であった。直後には、美作国の兵庫が鳴動するなど、\n(喝)「同」貞観八年九月二二日条。\n、)「同」貞観八年九月二五日条、二九日条。生江恒山と占部田主は、十月十四日に殺人罪で処分された。\n(喝)井上薫「日本三代実録」(「国史大系番目解題」上所収吉川弘文館二○○??"}, {"subitem_textarea_value": "吉川弘文館二○○一年初出は一九七一年)など。\n(肥)「同」貞観八年九月二二日条。これによると、善男の祖父は、藤原種継暗殺事件にかかわった大伴継人で、父の国道はそれに坐\nして佐渡国に配流されたが、のちに許され入京し、従四位上、参議まで昇った。善男は国道の第五子で、敏捷であったが人に\n「児」と言われていた。仁明天皇の傍に仕え、その知寵を得て、出世した。法隆寺僧善榿事件で立ち回り、太皇太后宮大夫兼鶏児」と言われていた。\n(Ⅳ)積善という言葉は「易経」に「穣善之家必有余慶、祇不善之家必有余残」とみえる。「貞慧伝」には「積善余慶」、「武智麻呂伝」\nには「祇善之後、余慶篭郁」とあり、藤原氏が自らの家を積善と意識していたことがわかる。さらに正倉院宝物の中に光明皇\n后の錐によると伝えられる「杜家立成雑普要略」の捺印に「積善藤家」がある。「易経」の「欲不全之家」が〃ここで言う「薇\n(肥)「同」貞観十年十二月二十八日条。源信は清和皇太子時の「皇太子傳」であった。\n(岨)「同」貞観八年九月二二日条。夏井は善岑の第三子で、小野篁に師事して書を学んだ。地方官としても善政を敷き、領民から慕\nわれたほどの人格者であった。異母兄に紀大枝、異母弟に豊城がいる。今回は豊城に連座して、赴任先の肥後国から土佐国へ\n流刑となった。任国の肥後から流されるとき、領民たちは夏井を偲んで泣き悲しみ、かっての任国であった讃岐国を過ぎると\nきは、領民たちが道々に逢迎し、数里も従行したという。\n始ではなく、あくまでも臨弛\n雄介前掲注(2)著書など。\n「同」貞観八年六月三日条。\n「同」貞観八年八月三日条、七日条。良縄は右衛門督で、伴中府の直属の上司となる。\nこのような勅命に対して、良房は九月二二日と二四日に抗表して固辞している。近年の研究では、これを摂政という官職の創\nはなく、あくまでも臨時の措置であり、機能であると評価するようになってきている。神谷正昌前掲注(2)論文、米田\n大納言にまで上りつめた。\n不穏な空気が濃厚になった。\n悪之家」に当たる。\n33\n(妬)「大鏡」は古典文学大系本(岩波沓店)による。\n(妬)文徳天皇の子女は、史料上知られるだけでも一二男一二女いる。そのうち、滋野朝臣岑子・伴宿祢某女、多治真人某女・清原\n真人某女・菅原朝臣某女・布勢朝臣某女らの所生子は源氏を賜り臣籍降下している。女御で子供をもうけたのは、一男一女の\n藤原朝臣明子だけで、二男女を生んだ更衣紀朝臣静子が続き、あとは惟彦親王の母の滋野朝臣貞主の女奥子、惟恒親王の母で\n藤原朝臣守貞の女今子、晏子内親王の母の藤原朝臣是雄の女列子がいる。\n(”)史料纂集三九「吏部王記」(米田雄介・吉岡真之編)とは多少字句の異同がある。ここでは、古典文学大系『大鏡」所収と照ら\nし合わせながら、基本的には史料纂集本によることにした。また、「吏部王記」の作者である重明親王と清和の関係は左のよう\nである。\nへ\n(認)実頼は基経の孫にあたる。文徳天皇と良房の関係がよくなかったことは、佐々木恵介「日本古代の歴史4平安京の時代」(吉\n川弘文館二○一四年)でも指摘されている。\nへ\n262524\n……ー\n(釦)「同」貞観八年九月二五両\n(皿)「十七日左\n(躯)「同」同年十二月八日条。\n(認)「同」同年十二月八日I 「同」同年十二月八日・十\n「同」貞観八年九月二五日\n一日旬十三日条。良相は三度、病気による左大将の解職願いを上表している。代わって、藤原氏宗が\n右大将から左大将へ転じている。\n「同』同年十二月二十七日条。\n条。\n「同」同年十一月条。\n良房側蕊経晶卵鵬輔\n仁鯛鳳薫押雛‐璽鯛親ゞ\nl兼家l道長\n34\n応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~\n(羽)「三代実録」仁和二年十月甲戌条の蕊伝には「性安祥にして、容色研華なり」とみえる。さらに、婦徳も高く、清和の寵愛を集\nめていたことや、清和が出家すると同時に尼となって、仏門に帰依したとみえる。\n(釦)「三代実録」天安二年十一月十四日条の蕊伝には「雅操あり」とみえる。西三条女御と言われたのは、父の良相の邸宅があった「三代実録」\n(瓠)貞観八年春に清和天皇は、三月に良相第と、閏三月に良房第をそれぞれ行幸している。「三代実録」同年三月乙亥条に西京第へ\nの行幸がみえ、桜花を観じながら百花亭にて詩賦や競射、音楽の宴が催された様相が知られる。良相第への行幸が華々しかっ\nた様相は、「伊勢物語」七八段の三条の大御幸のくだりから伺える。また、「同」七七段・春の別れには文徳女御であった良相\nの娘多賀幾子の安祥寺での法要の様子がうかがえるc多賀幾子が没したのは、天安二(八五八)年二月のことであるが、そ\nの段の登場人物である藤原常行が右大将なったのは貞観八年一二月であり、在原業平が右馬頭になったのは貞観七年のことだ\nから、この法要は応天門の変後のことになるか。供物が山のように積まれたみえ、変後でもそれだけの権勢があったとなると、\n変前はかなり隆盛を極めていたと思われる。七八段山科の宮でも前半は、多賀幾子の安祥寺での七七斎の話である。後半は西\n京三条にあった良相第への清和天皇の行幸の様子がうかがえる。その後、「三代実録」同年閏三月丙午朔条には、良房の東京染\n殿第への行幸がみえ、様々な催しが一行を歓迎したことが知られる。このように太政大臣良房と右大臣良相は権勢を競い合っ\nており、清和天皇はバランスをとるかのように双方の臣下第への行幸を行っている。なお、「伊勢物語」は新編古典文学全集本\n(福井貞助校訂・小学館.一九九四年)による。応天門の変直前は、良相の全盛期にあたる。\n(躯)「伊勢物語」三段ひじき藻、四段西の対、五段関守、六段芥川に見える「懸想じける女」「東の五条に、大后の宮おはしましけ\nる西の対に住む人」「二条の后」「女のえ得まじかりける」などは藤原高子を指し、「男」である在原業平との醜聞は周知であった。\nためである。\n仁明\n〒lll文『llll清和\n肌祷‐同修臘仔l多美子\n3う\nへへへへへへへへ\n4241 403938373635\n…-ーーー---\nへ\n34\nー\n(認) 岡村幸子「職御曹司について」(「日本歴史」五八二一九九六年)、吉川直司「摂関政治の転成」(「律令官僚制の研究」所収、\n塙書房一九九八年)。吉川氏はキサキや臣下の内裏直臆の成立に摂関政治の成立が関連することに着目した。\n母后に関する研究は女性史研究の進展に伴い近年成果が蓄積されている。本稿に直接関連するものとして、西野悠紀子「母后\nと皇后’九世紀を中心に」(前近代女性史研究会「家・社会・女性~古代から中世へ」吉川弘文館一九九七年)、同「九世紀\nの天皇と母后」(「古代史研究」一六一九九九年)。服藤早苗「王権と国母l王朝国家の政治と性l」(「民衆史研究」五六\n一九九八年)、同「九世紀の天皇と国母l女帝から国母へ」(「物語研究」三二○○三年)。末松剛「即位式における摂関と母\n后の登壇」(「日本史研究」四四七一九九九年)。東海林亜矢子「母后の内裏居住と王権」(「お茶の水史学」四八二○○四年)。\n仁藤敦史「太上天皇制の展開」二古代王権と官僚制」臨川書店二○○○年初出一九九六年)\n東海林亜矢子前掲注(拠)論文。\n「伊勢物語」四段西の対。「伊勢物語」四m\n「同」六段関守。\n「大日本史料」\n「大日本史料」\n「大日本史料」\n「大日本史料」\n宇多l醍醐1重明親王\n一一一一\n’ ’ ’ ’\n六六六六\n承平元年七月十九日条。仁和寺御室にて六十五歳で没した。\n同年九月六日条。\n延長八年九月二十九日条。\n同年九月二十二日・二十五日条。\n実頼\n朱雀\n村上\n36\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~\n(蝿)黒田泰三ほか前掲注(3)著書。黒田泰三は早くから伴大納言絵巻に注目し、「伴大納言絵巻」(小学館ギャラリー新編名宝\n日本の美術一二、一九九一年)などで自説をまとめられている。\n(“)現存する各巻の紙数は以下のとおりである。(上巻)第1~賜紙(中巻)第1~賜紙(下巻)第1~略紙\n(妬)著名な説を整理すると次のようになろう。\n(妬)藤原良房は冬嗣の次男、良相は五男で、共に母は藤原美都子の同母兄弟。\n(仰)当時近衛中将は、右近衛府が藤原常行で、左近衛府が藤原基経であった。\n(娼)「三代実録」貞観十年閏十二月二十八日条、「公卿補任」貞観十年条。\n(⑲)拙著「平安初期の王椎と官僚制」(吉川弘文館、二○○○年)\n(釦)天皇と母の同輿に早くに注目したのは、野村育世「中世における天皇家」(「家族と女性の歴史」所収吉川弘文館、一九八九\n年)、同「王権の中の女性」(「中世を考える家族と女性」所収吉川弘文館、一九九二年)である。その後、多くの研究者が\n言及するようになったが、拙稿「「都市王権」の成立と展開」(別冊「歴史学研究」七八九号、二○○二年)でも王椛の問題と\n(別)大胆な想定が許されるなら、次のように考えられる。\nして扱っている。\nAm1)伴善男\nB》l)伴善男\nC》l)伴善男\nD”1)源信\nE”l)源信\nF函1)藤原基経\nG卵1)藤原良相\nH“l)藤原良房\n2)伴善男\n2)藤原基経\n2)藤原良相\n2)源信\n2)源信\n2)藤原基経\n2)源信\n2)藤原良房\n3)藤原良房\n3)藤原良房\n3)藤原良房\n3)伴善男\n3)藤原良房\n3)藤原良房\n3)藤原良房\n3)伴蕃男\n↑福井利吉郎・上野直昭・五味文彦\n↑上野憲示・山根有三・若杉準治・黒田日出男\n↑黒田泰三・高畑勲\n↑桜井清香・藤田経世\n↑小松茂美・松尾剛次\n↑田中豊蔵・鈴木敬三・田中一松・奥平英雄・小峰和明\n↑竹村信治\n↑源豊宗\n37\n(艶)妻后から母后への質的重点の変化は、すでに西野悠紀子前掲注(鈍)論文や服藤早苗前掲注(弘)論文などでも指摘されてい\nるが、応天門の変がその大きな画期になったことをここでは積極的に評価したい。\n(銘)廟堂の構成変化は以下のとおりである。\n権大納言\n太政大臣\n左大臣\n右大臣\n大納言\n藤原良房\n源信\n藤原良相\n平高棟\n伴善男×\n藤原氏宗\n’\n(事実上閉門、翌々年死没)\n(左大将を辞職、翌年死没)\n(翌年死没)\n(配流)\n(右大将から左大将に昇進、翌年大納言へ)\n、\n■■■■■■■■■■■I■■■\nグ\u003c-う\n38\n藤原明子(皇太后)藤原良房(太政大臣・明子・高子の父・満和外祖父)\n藤原高子(清和女御)藤原基経(参議・高子の実兄)\n藤原順子(太皇太后)伴善男(太皇太后宮大夫・大納言)\n藤原良相(右大臣・文徳女御多賀幾子の父・清和女御多美子の父)\n清和天皇源信(左大臣・嵯峨源氏)\n応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~ ’\nなお、このとき入内した高子がのちの陽成天皇を生むことになる。\n中納言源融\n藤原基経(参議から七人超)\n111\nI 11\n”\n’\n"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "仁藤, 智子"}, {"creatorName": "ニトウ, サトコ", "creatorNameLang": "ja-Kana"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "19980", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}, {"creatorNames": [{"creatorName": "NITO, Satoko", "creatorNameLang": "en"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "19981", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", "dateValue": "2017-12-16"}], "displaytype": "detail", "download_preview_message": "", "file_order": 0, "filename": 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.2 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2017-12-16 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 応天門の変と『伴大納言絵巻』 : 記録と記憶の間 | |||||
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資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | Article | |||||
言語 | en | |||||
著者 |
仁藤, 智子
× 仁藤, 智子× NITO, Satoko |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 201401097517608612 | |||||
書誌情報 |
国士舘史学 en : Kokushikan-Shigaku 巻 19, p. 1-39, 発行日 2015-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学日本史学会 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40020404028 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 210.36 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 721.2 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
伴大納言絵巻 応天門の変 三代実録 大鏡裏書 宇治拾遺物語 |