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近世大名制において、半役職的性格を帯びていた詰衆には、その名称が表するが如く平日も交代で登城する、詰日と呼ばれる勤めが課されていた。すでに拙稿において触れてきたが、本稿ではこれまでの実態面に加え、勤務を完遂するために作成された詰日割という、いわば勤務シフト表の構造からも考察を加えることを試みる。その上で平日勤務である詰日を多面的に捉えるとともに、輪番で登城に当たる大名の姿をより鮮明にしていくことを目的とする。\n\n一 役職者における登城日数とその比較\n 本項においては、寛政期に大目付の職に就いていた「安藤日記」を用い、そこに記載されている登城勤務者について、とくに大名役職者に着目したい。それにより非役の詰衆と役職者との比較を行う。「安藤日記」には、詰衆と並んで当日勤務者として登城したと思われる人物の名前が記載されており、高家、奏者番、大番頭、小普請組支配、御留守居、御目付の各職を確認することができる。また、日記は二五三六日にも及ぶが、勤務者はほぼすべての日について記載されている。まずは詰日を勤めた者の中からその登城日数の多い者を対象に見ていくこととする。「安藤日記」上で名前を確認できる詰衆は延べ六三名を数えたが、そのうち誤記と思われる箇所も存在するため、そうした人物については対象外とする。この間最も多く詰日之者として日記に記載されているのは土屋但馬守で、その数は三一二日に達する。次いで井上河内守が二九四日、さらに板倉内膳正の二八五日、永井日向守の二八三日と続く。\n 表1に示される詰衆はほぼすべて記録の残る全期間を通して詰衆であったということはなく、土屋但馬守は寛政五年一月三日に詰日を勤めたのを皮切りに寛政一〇年六月一六日を最後にこの後は奏者番に就くことになったため、詰衆としては記載されず、代わって同年七月二日に今度は奏者番としての平日当番を勤めたことの記録がある。同様に井上河内守も寛政六年二月二二日から詰日の記載が見られ、寛政一一年六月一二日まで名前を確認することができる。\n ここで、他の役職者がどうであったか考えてみたい。まず詰衆からも就任する傾向がある奏者番から考察していく。寛政五年正月から同一一年末までの記録のうち最も多く当番となっていたのは水野壱岐守で、その日数は二二九日であった。この水野家は江戸定府大名であり、参勤交代を行わないことから、登城勤務数も他の奏者番に"}, {"subitem_textarea_value": "する。\n近世大名制において、半役職的性格を帯びていた詰衆には、その名称が表するが如く平日も交代で登城する、詰\n(1)\n日と呼ばれる勤めが課されていた。すでに拙稿において触れてきたが、本稿ではこれまでの実態面に加え、勤務を\n完遂するために作成された詰日割という、いわば勤務シフト表の構造からも考察を加えることを試みる。その上で\n平日勤務である詰日を多面的に捉えるとともに、輪番で登城に当たる大名の姿をより鮮明にしていくことを目的と\n本項においては、寛政期に大目付の職に就いていた「安藤日記」を用い、そこに記載されている登城勤務者につ\n(2)\nいて、とくに大名役職者に着目したい。それにより非役の詰衆と役職者との比較を行う。「安藤日記」には、垂叩衆\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数量的考察l詰衆を例としてI\nはじめに\n役職者における登城日数とその比較\n五十嵐\n郎\n67\nきる。\nと並んで当日勤務者として登城したと思われる人物の名前が記載されており、高家、奏\n者番、大番頭、小普請組支配、御留守居、御目付の各職を確認することができる。ま\nた、日記は二五三六日にも及ぶが、勤務者はほぼすべての日について記載されている。\nまずは詰日を勤めた者の中からその登城日数の多い者を対象に見ていくこととする。\n「安藤日記」上で名前を確認できる詰衆は延べ六三名を数えたが、そのうち誤記と思わ\nれる箇所も存在するため、そうした人物については対象外とする。この間最も多く詰日\n之者として日記に記載されているのは土屋但馬守で、その数は三一二日に達する。次い\nで井上河内守が一一九四日、さらに板倉内膳正の二八五日、永井日向守の二八一一一日と続\nく。\nここで、他の役職者がどうであったか考えてみたい。まず詰衆からも就任する傾向がある奏者番から考察してい\nく。寛政五年正月から同一一年末までの記録のうち最も多く当番となっていたのは水野壱岐守で、その日数は\n一一二九日であった。この水野家は江戸定府大名であり、参勤交代を行わないことから、登城勤務数も他の奏者番に\n(3)\nわって同年七月一一日に今度は奏者番としての平口u当番を勤めたことの記録がある。同様\nに井上河内守も寛政六年二月一一一一日から詰日の記載が見られ、寛政一一年六月一二日まで名前を確認することがで\n表1に示される詰衆はほぼすべて記録の残る全期間を通して詰衆であったということ\nはなく、土屋但馬守は寛政五年一月三日に詰日を勤めたのを皮切りに寛政一○年六月\n一六日を最後にこの後は奏者番に就くことになったため、詰衆としては記載されず、代\n表1寛政5年~11年までの登城勤務日数上位5名一覧\n鰭\n蔵「「安安蔭蔭日記」より作成\n68\n詰衆\n氏名日数\n十尾但馬守312\n井上河内守294\n板倉内膳正285\n永井日向守283\n阿部駿河守260\n奏者番\n氏名日数\n水野壱岐守229\n土井大炊頭189\n脇坂淡路守177\n稲葉丹後守167\n諏訪因幡守153\n大番頭\n氏名日数\n堀内蔵頭283\n建部内匠頭214\n小笠原近江守202\n新庄駿河守169\n堀田豊前守165\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数逓的考察詰衆を例として\n次に大番頭の状況を見ていくことにしたい。大番頭は大名以外からも就任する役職であるが、ここでは比較のた\nめにその日数を見ておこう。この期間、堀内蔵頭の二八三日という勤番数を筆頭に、建部内匠頭一一一四日、小笠原\n近江守二○二日と二○○日以上の勤番数を複数数え、次いで新庄駿河守一六九日、堀田豊前守一六五日、藤堂肥後\n守一六四日と一五○日以上の勤番者が六名という結果が得られた。\n奏者番と大番頭の双方の登城勤務数上位者を見ると、若干の違いはあるもののその傾向として大きな差異は認め\nられない。大番頭は一二番組編成となっており、その数は一定である一方、奏者番は例えば寛政五年の武鑑では\n(5)\n一五名の名前を確認することができる。大番頭のほうがやや登城勤務数が多い傾向にあることの要因の一つには奏\n者番の当該期における就任者数が大番頭のそれよりも多かったことが挙げられるのではないか。これに対し詰衆は\n人数こそ多く存在していたものの、「両人詰」「三人詰」という言葉があるように複数での勤務が常であったため、\n‘もうかがえよう。\nら同八年一月二一日の\n「年録」に「病後之御ュ\nえていたと思われる)。\n比べて多いことは容易に想像できる。また年によってその数に多寡は見られるものの、寛政七、八年以外は年間約\n四○日の勤番数となっており、毎月平均して三日~四日程度勤めていたことになる(寛政七年五月二七日の勤番か\n一月二一日の当番まで「安藤日記」からは平日勤番した様子は見られない。これには同八年一月七日の\n(1)\n録」に「病後之御礼」のため登城したことが記録されていることから、おそらくこの間は病を理由に勤番を控\nここでは水野壱岐守だけが突出した勤番数だった訳ではなく、順番に土井大炊頭一八九日、脇坂淡路守一七七\n日、稲葉丹後守一六七日、諏訪因幡守一五三日と上位五名は以上の通りであった。就任期間の違いや他の勤役との\n関係も考慮しなければならず、単純な比較はできないが、詰衆は奏者番にも似た登城勤務を行っていたという一面\nの\n表2飴日数卜付考の相鰭回数上位者\n国立公文啓館内閣文庫蔵 作成\n先述のとおり、詰衆は二、三名で詰日に当たることを常としたのであるが、こうした\n詰日を勤めた者同士は互いに相手を「相詰」と呼んでいたことも確認でき、詰日割に\nよって明確に定まっていた。詰日割は詰日之者が参勤交代や個々の事情によって入れ替\nわる場合、すなわち詰日を勤める人員構成に変更が生じた際には更新された。\nここからはその組合せについて勤務数上位五名に絞って考えてみたい。まずは詰日の\n多かった人物から分析を試みる。士屋但馬守が勤めた三一二日のうちで最も多く相詰と\nなった人物は永井日向守で、その数は四二日間である。次に多かったのは板倉内膳正で\n二六日間、その後は久世隠岐守二一一一日間、酒井修理大夫と間部若狹守がそれぞれ一一○日\n間であった。土屋は誤記による勤務者を除いた他の詰衆三七名のうち、実に三三名と相\n詰になっており、この間詰衆としてコンスタントに詰日を勤めていたことがうかがえ\nその日数がこの二つの役職を上回る者もいたといえよう。このことは詰衆が役職者とし\nて認識され得る条件を備えていた数字としても捉えておきたい。\nでは、このとき土屋但馬守から見て最も多く相詰となった永井日向守は、誰と相詰と\nなることが多かったのであろうか。永井日向守が詰日を勤めた数は全体で三番目に多\nる。\n二詰日の組合せ\n70\n板倉内膳正\n青山大勝充43\n増山河内守38\n永井日向守27\n阿部駿河守26\n土屋但馬守26\n阿部駿河守\n大久保山城守27\n板倉内膳正26\n板倉伊予守25\n青山大膳亮24\n井上河内守19\n永井日向守\n三浦志摩守44\n土屋但馬守42\n板倉内膳正27\n青山大勝亮26\n大久保山城守24\n井上河内守\n酒井修理大夫47\n大久保山城守34\n朽木近江守23\n板倉伊予守22\n永井山城守21\n+扇イEl馬守\n永井日向守42\n板倉内勝正26\n久世隠岐守23\n酒井修理大夫20\nIi部若狭守20\n江戸城輪番勤務者の登城日数に閲する数量的考察-詰衆を例として-\n井上河内守 年月 土雌但馬守\n庄府\n政6年8月\n劃元\n寛政8年12ハ\nグー-. --■\n在府\n在府\n、 母\n政7年6N\n政7年8月\n国元\n国元 蜜政7年12ハ\n政8年6Ⅲ\n国元\nTI1Ml 寛政8年12N\n〕 、\n征府\n、--. 」\n99年年い6]\n8)]\n国元\n国元\n政9年12,\n在府\n図1士屋但馬守と井上河内守の在府・国元滞在期間の比較\n71\n寛政7年12)1\n寛政8年6!]\n寛政8年8月\n寛政9年l2jj\n征府\n ̄ ̄l■■ ̄ロ■■-- ̄\nⅡ■■■■I■■-1■■-- ̄\n・・\n戸\n一一\n一|\n口| 府一一\n『『在一一一一\n戸\n『’\n二一\n戸\n一\n一\n一\n{\n『\n一\n再\nの\n辨一\n寛政6年8)I\n----\u0027■■-\u0027■■.■■\u0027■■-- ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄--● ̄--戸一一一一一一一一\n寛政7年6/j\n寛政7年8月一\n、 ̄Ⅱ■■.■■Ⅱ■■ ̄」■■ ̄■■Ⅱ!■■■■\nトー---- ̄ ̄・■■ ̄ ̄\n寛政9年6)1.\n寛政9年8)】\n二番目に詰日を多く勤めた井上河内守の相詰は酒井修理大夫四七回、大久保山城守一一一四回、朽木近江守二三回、\n板倉伊予守二二回、永井山城守二一回と続く。最も多く勤めた土屋但馬守の名前が上位に出てこないのは、両者の\n参勤交代の時期の違いによるものと思われる(図1参照)。というのも井上河内守は寛政七年六月三日の詰日のあ\nとは翌年の六月一三日まで名前が見られず、さらにその翌寛政九年六月七日以降も詰日はなく、次に確認できるの\nは寛政一○年六月一四日以降である。なぜならば井上河内守は六月を起点とした一年交代で参勤交代を行ってお\nり、これに対して土屋但馬守は寛政五年八月二九日から同一二月一六日まで名前が見られず、以降の年も九月から\n一二月中旬までは詰日を勤めた記録はなく、半年代の参勤交代であったため、両者が同時に詰日之者として勤めて\nいた時期にズレが生じていることによるものと推測されるためである。\nこれによりこの両名が互いに相詰となり得る機会は寛政六年一二月~同七年六月までの半年間と寛政八年六月~\n八月までの二か月間、さらに寛政八年一二月~同九年六月までの半年間ということとなり、寛政六年から九年まで\n互いに詰衆として詰日を勤めていたとはいえ、四年間で一四か月間しか接点がなく、結果的に見ても同じ詰日を勤\nめたのはわずか八回にとどまっている。ただしあくまでもこれは同じ日に詰日を勤めた数であり、詰衆には詰日以\n外にも一統出仕日とされる詰衆全員が登城対象となる日が他の大名よりも多かったため、接触の機会が少ないこと\nを意味するものではない点は指摘しておきたい。ちなみに両者が相詰となったのは寛政六年二月一一七日、同三月七\n日、同七年一月一四日、’’一月二六日、’一一月一一七日、四月一四日、五月二七日、五月一一八日である。これらを見る\nと、寛政八年以降には互いに相詰とはなっておらず、両者が詰日之者としての期間が重複していた寛政八年一二月\nく、先述の通り一一八三日である。このうち最も多く相詰となったのは三浦志摩守の四四日間で、土屋より二日間で\nはあるが多い結果であった。\n72\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数量的考察詰衆を例として\n~同九年六月の間は一度も相詰となっていない。この点については検討する余地がありそうである。\n詰衆は毎年六月に参勤、または御暇となる一年交代の者と八月参勤・翌年二月御暇、あるいは一二月参勤・翌年\n八月御暇の半年代の者との大きく二つに分けられる。当時の大名の名鑑的役割もあった武鑑には、各大名の参勤・\n御暇の時期も記されており、ここからも詰衆たちの参勤交代の時期を把握することができる。仮にこれらの分類さ\nれたグループを図で示すと図2の通りとなる。\nこの図からも分かるように便宜的に分けた各グループの構成人数がどれも同じだとすると、三つのグループが在\n府する一二月から二月の間に最も多くの詰衆が詰日を勤める状況にあるということになる。また基本的に図のグ\nループーとグループⅡの詰衆は互いに在府する期間が重複しないため、相詰となることはない。ただし病などを理\n由に御暇を受けずに在府していることもあり、例外的に年中詰日を勤めることも見受けられる(後述)。\nこのように見ると互いに相詰となるのは同グループ内で勤める者同士が回数を重ねるように感じられるのである\nが、実態としては極端にはそうはならず、幾分かの傾向としてあらわれてくるにすぎない。これまでにも見ている\n(6)\n土屋但馬守の相詰上位五名について見ると、一年交代の者が四名、半年代が一名となっている。\n寛政七年の詰衆を武鑑から拾ってみると、三三名が確認できる。このうち老中らの嫡子として登録されている者\nが二名いるが、彼らは詰日を勤めることはなかったことから、ここでは対象から外して考えたい。つまりは残り\n三一名を対象にしていくこととする。\n三詰衆の参勤交代\n73\n乙丁已辛癸歳甲丙戊庚壬歳乙…戒\n12345678910111212345678910111212\n ̄ ̄=\u003e\u003e骨’劉元へ…らく仁在懸\nⅡ薗議雪紗◇瓶府=、\u003e‘璽元\nⅢ 在府=:\u003e4- ̄と伍臓>q鬮元;極二\nlv鹸馬劉元今\u003c_江府’○鬮鑓◆-つ罰\n年代\n一交\n半年代\n図\u00272 詰衆の参勤交代パターン図\n形態を見せる。\nの期間、二月から六月、六月から八月、八月から一\nする必要があり、人数は一五名から一七名となる。\n月~翌年一\n年代で参勤交代を行うこととされた者たちである。\nループ(Ⅳ)\n若狭守総弾、\n後守正識、士屋但馬守英直、久世大和守廣敦、黒田鶴松直温、\n丹後守忠烈の六名。\nに詰日を断る者がいるため、\n参勤を行い、乙・丁・己・辛・\n一一一■\nきる。\nープ(Ⅳ)とすると、松平久五郎武厚、大久保山城守忠喜、板倉伊予守勝意、石川\nグルーは九名となっていた。\n乙\n白\n二グループに分ける\nプ(Ⅱ)は九名‐\n次に一二月に参勤し、\nこれまでも指摘した通り四つのグループがすべて揃うタイミングはなく、\n名を上図に合わせて参勤交代で区分すると、\n・歳の六川に参勤を行い、\n年ごとに参勤交代を行うグループとしては甲・丙\n|月までが三つのグループによって詰日を勤める状況にある。\n阿部駿河守正常の五名が該当する◎\n次にその詰日割の構造につい\n続いて毎年八月に参勤し、\nことができる。\n翌年の八月に御暇をもらうグループ\nそれよりも少なく、\n癸歳の六月に御暇をもらう者たち\n甲\n▲\n寛政七年段階においてグループ(I)は一一名、\n・歳の六月に御暇となる者たち\nて述べていきたい。\n翌年の一\n勤め向きを管理する詰日割も様々な\n以上の一\nただ実際にはここから病等を理由\n二月は二つのグループでやりくり\n四つのグループに分けろ\n|月に御暇をもらう者たちをグ\n一つのグループはいずれも半\n・戊・庚・壬の歳の六月に\n(Ⅲ)としては、阿部豊\n松平備前守正升、大岡\n(1)。\n逆にそれ以外\n。その逆に\n(Ⅱ)という\n毎年一二\nことがで\n74\n江戸城轄番勤務者の登城日数に関する数iii的考察\n表3飴日割改正理由とのI\n詰衆を例として\nここからは国文学研究資料館所蔵の「常陸国土浦土屋家文書」を史料として、寛政期の日記の約九年分の中か\nら得られた語日割一三八通を対象に分析してみたい。\n全一三八件の詰日割が発された契機の内訳を見たところ、割入れ、即ち当勤之衆(詰衆内で詰日を勤められる状\n況にある者をいう)が増員したことによるものが七一件、逆に除名による減少となったのが五三件、増減は見られ\nないが詰日割が廻状に添えられて順達されたのが一三件、直前に発給された詰日割に不備があったため、改めて作\nり直されたケースが一件という結果が得られた(ここでは指摘するだけにとどめるが、寛政五年六月一八日、詰衆\nの中から御暇を受ける者がいた。国会図書館の「年録」には酒井修理大夫、間部若狹守、土井能登守、牧野周防守\n(7)\nと内藤大和守の名前を確認することができる。その一方で土屋但馬守の日記には「|内藤大和守病気二付不被致出\n四参府時の詰日割入れ\n崖\n(8)\n屋仕、依之御暇之義無之候」とあり、翌月一一八日に御暇を受けたことになっている。このと\n土\n浦き-八日のうちに「先刻於殿中申談候詰日割之内、内藤大和殿名前相洩候二付、同人名\n士(9)\n麹前書加、詰口u割並助順・急助順相廻候」と一日で一一度の詰日割が出されている。土屋の日\n常\n創成記では出仕していないことになっている一方で、「年録」では御暇を受けたこととされて\n〈Ⅲ} 糊昨いる。「年録」の七月一一八口凹条にはやはり内藤大和守が「初而御暇」となっていることか\n資トー\n舩止ら六月一八日の「年録」の記事は誤hソであろうか)・\n学岱\n欧錘それでは、詰衆が当勤之衆として勤務に復帰した場谷口の七一件について詳しく見ていく\nアラ\n理由件数\n割入71\n除名53\n増減なし13\n不備1\n定期的要因は参勤した者が詰日を勤められる状態にあって、その旨が当勤之衆へ廻状を通じて周知された場合が\nある。先述の通り詰衆が参勤を行うのは六月、八月、一一一月の年三回、六月は一年交代の者が対象で、八月、一一一\n月は半年代の者が該当する。また、通常の参勤以外にも同様の形式としては、日光への代参等を担った者がその役\n目を終えて帰府した後、詰日の勤めを再開する事例が四件確認できた。日付としてはいずれも四月一一○日前後で\nあった。これら四件とも異なる人物が日光l江戸間を往復している。\nここではその日光代参の該当者がどのようにして既存の当勤之衆へと割入れられていったかを検討したい。この\nときの視点として、割入れられる詰日割の箇所に着目してみる。つまり割入れられる箇所というのは詰日割が発せ\nられる日付の何日目に詰日を勤めることに指定されているかを見ていくことである。\n寛政三年四月二○日、牧野内膳正が日光祭礼奉行の役を終えて帰府した。このとき牧野内膳正には廻状到来の\n翌々日に詰日が設定されている。補足となるが、これより前の同月一○日には牧野内膳正からの廻状として、この\nたび日光への御暇を受けたので、詰日と肋の勤めが難しくなったこと、および帰府した際には再度その旨周知させ\n(u〉\nることを記した廻状が発された。同日は一統出仕日に当たっており、詰日割の見直しがなされているが、ここに牧\n(胆)\n野内膳正の名前は見られない。牧野が日光へ向かうのは一七日とされているのであるが、御暇を受けたという廻状\nが達せられると即座にこれに対応した詰日割を発している。詰日が断られたり、その勤務が難しいと周知されたり\nした場合には、すぐにそれへの対応を済ませた語日割を作成したものと考えられる。\n他の件も細かく見たところ、結果から述べると、四件中三件で詰日再開の廻状が順達された日から二日後、つま\nきる。\nことにしたい。割入れとなる要因としては先にも挙げたように定期的なものと不定期的なものとに分けることがで\n76\n江戸城轄番勤務者の登城日数に関する数iii的考察詰衆を例として\nりは詰日割での第二日目に割入れられていてp残りの一件も詰日割に記載される三日月に割入れられていた。ここ\nからまずは日光から帰府して詰日の勤めを再開するときは廻状到来の翌々日(もしくはそれ以降)とされていたと\n仮定しておきたい。これは参勤後における詰日の勤めについても同様なのではなかろうか。\n次に六月、八月、一二月の定期的に行われる参勤の例を検討する。表4は士屋但馬守の日記から知り得た割入れ\n理由とその件数を調べたものである。土屋但馬守は八月御暇、一二月参勤の半年代の大名であるため、八月中旬か\nら二月中旬までの殿中の様子を細かく知ることは難しいものの、一定期間の傾向を把握することは可能である\n定期的に行われる参勤による割入れは一五件を確認できた。この一五件に関与したのは延べ三四名。ほとんどの\n場合複数の人物が同じ日に参勤を行い、そのまま詰日の勤めも再開していた。参勤した三四名について、先の日光\nから帰府した者と同様の視点から、どのようにして既存の当勤之衆へ割入れられたかを考えていくと、次の表5の\n姿b一\n』7。\n表4鰭日割割入理由\n勤府復明\n参帰快忌\n様の視点から、どのようにして数字が得られた。\n家\n屋最も多かったのが参勤の御礼を行って当勤之衆へ生ロ知を終えた翌々日(二日後)に詰\n土\n浦日を勤めるように割入れられている事例であった。それに次いで二一日後に詰日を設定ざ\n土\n錘れている者が一二名おり、この場〈□それまでの当勤之衆と新たに参勤して詰日を勤める\n常\nr\n蔵ことになる者とを合わせると、その数が一一一~一五名になっていた。以上のことから参\n辮幟動した直後から詰日を勤められる状況にある場合には、基本的に廻状によって周知され\n職はてから二日後が最初の詰日となるように割入れられ、当勤之衆が多数存在するときには\n学j\n醜麺そうした制限はなく、むしろ一二日目以降の割入れとなるように取り決められていたとい\n77\n割入理由件数割合\n定期的\n参勤\n帰府\n15\n4\n21296\n%\n不定期的\n快復\n忌明\n32\n15\n45.0%\n212%\nその他5 7.096\n表5参勤時における賠日再開に伴う詰日割割入箇所の割合\nそれでは一統出仕日が連続していた場合にはどのような対応をとっていたのであろうか。それを最もよく表して\nいるのは寛政七年六月一三日において、翌一四日は平日、一五日が不時御礼、一六日が嘉定祝儀と二日連続して一\n〈応)\n統出仕日となっている期間での割入れである。一七日が平日になっているため参勤してきた詰衆らが菱明日を勤め始\nめるのはこの日からで、このとき三名が参勤しており、永井日向守が一七日から、板倉内膳正と三浦志摩守が揃っ\nて一八日からの詰日が割当てられている。これにより一統出仕日が翌々日から連続している場合の詰日割入れは、\n翌々日からさらにもう一日後の平日に割入れられるようにしていたものと考えられる。\n国文学研究資料館蔵「常陸国土浦土屋家文谷」により作成\nうことができよう。\nさらにそれとは別に、参勤者が三日目以降での割入れがなされているときは、その前日(つまり\nは廻状到来の翌々日)が紅葉山参詣等の一統出仕日に当たっており、これを避けて割入れていたよ\nうにも捉えることが可能である。\nいくつか例を示すと、寛政三年七月一一八日、本多伯耆守が参勤して詰日を勤めることになった結\n(皿)\n果、当勤之衆は七名になった。このとき翌日は平日であり、翌々日の八月一日は八朔の行事があっ\nて詰衆は一統出仕日となる。ここで作成された詰日割で本多伯耆守が割入れられたのは三日後と\nなっており、翌々日の一統出仕日を避けての割入れと思われる。\nまた寛政四年一二月一五日、この日は土屋但馬守と久世隠岐守とが半年代の参勤となり、当勤之\n〈M)\n衆として割入れられることとなった。この一一名も含めた当勤之衆は一一一名。翌々日の一七日はすべ\nての詰衆に対して紅葉山参詣が求められており、一一人揃ってこちらも三日後の割入れとなってい\nる\n○\n78\n翌日翌々日三日後四日後以降\n2名’59% 15名|“、1% 12名\u002735.3% 5名\u0027147%\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数通的考察詰衆を例として\nこれらの事例からは、あくまでも一統出仕日は詰日としてのカウントはしない性格のものとしての認識が強かっ\nたといえよう。そのため土屋の日記からも見られるように一統出仕日に詰日之者でなくても、詰日割で予定されて\nいる詰日之者(これを本詰と称している)が何らかの理由で欠勤となったとき殿中に登城した者が、詰日心得と称\nして詰日之者の代役と化していたこととも関連しているといえる。\nさらには寛政八年一二月一五日、この日も土屋但馬守、久世大和守、阿部播磨守が参勤の上、詰日を勤めること\nになった。翌々日の一七日には、先ほどと同様にすべての詰衆に対して紅葉山参詣が予定されており、参勤した三\n名が割入れられたのは土屋と久世が三日後、阿部が五日後とされた。\n以上四つの事例を見ると、やはり翌々日が一統出仕日となっていたため、それ以降の最初の平日を詰日に割り当\nてることを基本としつつ、当勤之衆が多く存在していれば、この枠組みから外れることもあったと捉えられよう。\nとくに毎年六月の参勤交代期には、わずか数日の差ではあるが参勤者と僅か数日後に御暇を受ける者とが同時に当\n勤之衆となっているタイミングがあるため、瞬間的に当勤之衆の人数が多くなる。このときに作成される詰日割\nは、参勤者を翌日の詰日へ割入れたり、四人詰の組合せが見られたりと、先述の事例から逸脱している例も見受け\nられる。\nではここからは最も件数の多い不定期的要因による詰日割入れの方法について分析を試みたい。土屋の日記中で\n確認できる不定期的要因による割入れは前掲表4からも分かる通り四七件で、そのうちの七五%ほどは病や体の痛\n五病等からの復帰時の詰日割入れ\n71\n表6 病等からの詰日復帰における割入れ箇所\n翌々日が詰日とされている事例の八件中七件において共通した現象が見られた。それは先の参勤による詰日の勤\nめ始めと同様に廻状到来の翌日は一統出仕日であった。一統出仕日を避けての平日への割入れは病等の快復からの\n勤務再開であっても共通していたと思われる。三日後の割入れとなる一件では、これが文言として残されている。\n〈胆)\n一般的な詰日割の例示としての意味も含め、ここで取り上げたい。\n|朽木隠岐守今日6出勤一一付、戸田因幡守6詰日割・助順・並急助順書付添廻状到来、土井能登守合到来、牧\n翌々日が詰日とされている事例はどのような理由からであろうか。同じく土屋の日記から拾っていくことにした\nレユ\n。\n野内膳江差遣候事\n国文学研究資料館蔵「常陸pErLiiii土屋家文Tl:」によ\nり作成\nみなど、体調不良を訴えて詰日の勤めを断っていた者が快復して、その勤めに復帰するパターンで\nある。これは一一一二件記録されており、その特徴を探っていきたい。\nここでも注目するのは快復宣言後に出される詰日割において、その者が何日目に割入れられてい\nるかという点である。\n表6の結果から述べていきたい。先ほどまで見ていた定期的要因による割入れ箇所の割合とは異\nなる数字を示していることがわかる。参勤後に最初の詰日として割り当てられていたのは廻状到来\nの翌々日で、半数近くがそうであり、翌々日が一統出仕日であった場合、それを避けていたことを\n考慮すれば、参勤後の最初の詰日は回状到来の翌々日として取り決められていたと推察できるのに\n対し、病等の不調からの復帰では七割強が翌日から詰日を勤めるように割入れられていた。では\n80\n翌日翌々日三日後以降\n23件’719% 8件250% 1件’3.1%\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数量的考察詰衆を例として\nまず着目したいのは「今日6出勤」となった直後に詰日割が作成されている点である。詰日の勤務に復帰できる別\n十二月小\n間若狭守\n朔日能登守\n(中略)\n(後略)\n朽木隠岐守痂積快二付今日より出勤、詰日・助共可被相勤旨廻状致到来候、依之詰日割・助順並急助順書付\n壱通相廻候、尤同人詰日割入之義、明朔日出仕日、明後二日琉球人登城之由、左候得者一統出仕日兼而申合\n之通、両日相除翌三日6割入申候、思召無御座侯ハ、廻状御順達、留之従御方御返却可被下候、以上\n十一月晦日戸田因幡守\n隠岐守\n三日因幡守\n廻状戸田因幡守\n詰日割・助順並急助順書付添\n下野守\n四日山城守\n石若狹守\n修理大夫\n二日自分\n内膳正\n状態が周知されれば即時に対応を行っており、病からの復帰と錐も、病み上がりを考慮するような状況は見られな\nい。逆をいえば、すぐに詰日を勤められる状態にまで快復しない限りは復帰して詰日を勤められるという宣言はし\nなかったという事もできる。またここで注目しておきたいのは朽木の割入れについて戸田が説明を加えている点で\n「明朔日出仕日、明後二日琉球人登城」のために一統出仕日に当たり、これらは「兼而申合之通」り、これらの日\nを除いた「翌三日」から割入れるとしている。この日は十一月晦日であるため、翌日は朔日であり、毎月朔日は詰\n日にかかわらずすべての詰衆が登城する一統出仕日に当たっている。その翌日の十二月二日もまた琉球人が登城す\nることにより一統出仕するよう事前に通知がきており、二日続けての一統出仕日となる。戸田はこの両日には朽木\nを割入れない判断を下している。つまりは、新たに当勤之衆となった場合、本来ならば廻状が届いた翌日が詰日に\nなるように割入れた詰日割となるところ、一統出仕日を理由に回避しているのである。しかも、この一統出仕日を\n避けることは「兼而申合」わせた通りであり、このことから詰衆内において詰日割に割入れるときには一定の約束\n事があったといえる。その一つがここでいう一統出仕日を避けて割入れるということであろう。\nここでは何故一統出仕日を避けていたかは明らかにされていないが、先述の通り一統出仕日はどの詰衆も登城の\n対象となり、それが詰日に当たっていた場合にも詰日心得として認識されていたことと関連があろう。そのことか\nら、一統出仕日における詰日とは誰もが出仕しており、その点においては誰が詰日として勤務しているかの分別は\nそれほど重要視されていなかったと思われる。あるいは平日勤務という詰日の勤めを詰衆内で均等に勤務するよう\nに、何れかのみが詰日を多く勤めたり、逆に少ない詰日にしかならなかったりすることをできるだけ避ける仕組み\nであったとも考えられる。ただしこれまで見てきたように、詰衆におけるその平日勤務数の実態は区々であり、日\n数の面ですべて平等な勤務実態とはなっていなかった様子がうかがえた。体制としては平等さを備えつつも実質的\n82\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数量的考察詰衆を例として\nこのほかの事例からもさらに検討を加えたい。これより後寛政三年一月一四日に酒井修理大夫より詰日の勤めに\n(Ⅳ) (旧)\n復帰する廻状が順達された。酒井は前年の一一一月一一一一日に病を理由に詰日を断る廻状を差し出しており、一一一一日間\nの休養を経ての復帰である。ここでは酒井の割入れについて先の戸田による説明のような文言は記載されていない\n(円)\nが、酒井の割入れは廻状到来から翌々日とされていて、この場〈ロも翌日が一五日であり、詰衆における毎月の一統\n出仕日のうちの一つに当たるため、これを避けての割入れと捉えられよう。\n廻状到来の翌日に割入れられている例としてはその後の松平備前守の復帰から見ることができる。このとき松平\n備前守がいつから詰日を断っていたか確認することはできなかったが、’二月二五日に詰日を勤められる状態に快\n(釦) (副)\n復したことが告げられ、当日中に戸田が詰日割を改正し、詰日之者へ周知させている。そのときの詰日割を見ると\n{”一}\n松平備前守の詰日は廻状到来の翌日に指定されている。土屋但馬の日記からも一一六日が一統出仕日であったという\n記載は見られないため、先の朽木隠岐守復帰における戸田の説明から類推するならば、一統出仕日を除いた初日に\n割入れていると判断できよう。その後も病からの快復により詰日に復帰する例を見ていくと、やはり一統出仕日を\n除いた初日に割入れていることが確認できた。\n以上のことから、病からの詰日勤務復帰では、その最初の詰日に当たっては一統出仕日を避けていたことが明ら\nかとなった。これにより病からの復帰では翌日に割入れることが基本であったということができよう。\nそれでは不定期的要因の病等からの復帰に次いで多くの事例が確認できた忌明けによる詰日の再開について考え\nてみたい。土屋の日記から確認できる一五件を見ると、そのうち一三件が翌日への割入れとなっている。残りの一一\n件を見ると、これまで見てきた例と同様に翌日が一統出仕日であった。これにより忌明けからの詰日勤務復帰によ\nには個人差が生じていた。\n83\nる割入れは廻状到来の翌日を基本とし、翌日が一統出仕日であれば、翌々日としていたといえる。\nここまでをまとめると、詰日の勤務を再開するに当たっては、どういった理由(事情)から復帰するかによって\nその割入れる日が定まっていたことになる。そこでは日光参詣からの帰府を含めた参勤の場合には翌々日、病や忌\nからの復帰の場合は翌日という大きく二通りの割入れ方があることが明らかとなった。ただし、どういった事情に\nせよ、その割入れ日が一統出仕日ならば、その日を避ける形で後に延ばしての対応をとった。これはこの時期で\nあった以前より語衆内で取り決めていた申合において、一統出仕日を除いて割入れることが定められていたものと\n考えられる。これは一統出仕日という名の通り、詰衆が総じて登城することがいわば義務付けられていた日であ\nり、その日が詰日に当たっている如何を問わず、詰日の勤めを果たしたならば詰日心得として勤務したことの代わ\nりにもなった。逆説的に言えばこの日の詰日は正規の詰日とは異なるものとされていたといえよう。\n続いて詰日割から名前が除外される場合を考えたい。これまでにも指摘してきたように詰日割が改められる機会\nとして、御暇、病等の不調、服忌によるものが挙げられる。まずはこの三要因を見ていく。先に見てきた参勤によ\nる割入れの対極にあるものとして御暇による詰日割からの除名がある。土屋の日記からも二月の半年代大名や、六\n月の一年交代大名の御暇を受けた姿を確認できる。さらに一つ指摘しておきたいのは大坂加番による御暇である。\n土屋の日記からは寛政四年の三浦志摩守、五年の板倉伊予守、八年の三浦志摩守と土井能登守、九年の内藤大和守\nの四例を見出すことができた。\n六詰日割からの除名\n84\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数量的考察詰衆を例として\nまずは、このうち寛政四年の三浦志摩守について見ていくことにしたい。大坂加番として御暇が出されるのは七\n月のことであるが、幕府からはそれより五か月前に通達がなされる。このときは一月二八日に三浦は呼び出されて\n(幻)\n大坂加番を仰せつけられ、そのことを当勤之衆へ廻状にて周知させている。\n|三浦志摩守より之廻状、今夜四シ時前到来、左之通\n拙者義昨夕御老中連名之奉書到来、今日致登城候処、当秋大坂加番、内藤右近将監代被仰付、難有奉存\n候、右之段為可得御意如此御座侯\n三浦志摩守は通常であれば子・寅・辰・午・申・戌歳の六月に御暇となるため、この年の六月半ばには同じく子\n…歳に御暇を受ける詰衆と同時に御暇となるところであるが、大坂加番を仰せつけられているが故に六月半ばには\n御暇とならず、七月一日になって大坂への御暇という形をとり、その場合にも詰日割が作り直されている。ほかに\nも大坂加番ほどの期間ではないものの、日光への参詣に伴う詰日割からの除名があり、在府していない間は当然の\nことながら詰日の勤めを課されることはなかった。\n次に病や服忌に伴う詰日割からの除名について触れてみたい。病などの不調、あるいは服忌を理由に詰日を断る\n際には、やはり復帰の場合と同様に廻状を送ってそれを周知させている。それによって詰日割が改正されるのであ\nるが、この時の組合せの変更については、割入れのときに見られたように何らかの取り決めがあっての組み直しと\nいうものまで見出すことはできなかった。詰日を三人で勤める三人詰の班から一人が除名となるときにはあえて作\nり直すことはせずに、対象者の名前だけを除いて、他の組には手を加えずにそのまま継続して使用する例が見られ\nる。寛政一○年一月二○日、阿部伊勢守が産穣のため除名されることになったが、ここでの語日割において阿部伊\n勢守は土屋但馬守・大岡主膳正とともに三人詰の班である。前々日の一八日に大久保山城守からの体調が回復に向\n8ラ\n(鋼)\nかつたことが周知され、それにより詰口凹割が改正となった上で、永井日向守から発給された。そのわずか一一日後の\n事態である。このとき永井日向守から「詰日割、伊勢守名前相除候迄一一而居置候」との一文を入れた廻状が達せら\n(蚕)\nれることになる。同じく同年一一月一一一一日にも一一一浦志摩守の親類が亡くなり、当人より忌服之覚として翌日まで忌中\n(麓)\n期間となる廻状が届けられた。これにより永井日向守からも廻状が出され、やはhソその文面には「同人名前相除候\n(汐)\n迄二而是迄之通居置候」と詰日割を改めて作成することはなかった。上記一一例では永井日向守によって詰口u割を改\n正せずに現行のものから該当者を除名するのみで対応していたが、これに一統出仕日が絡んでくると、割入れの場\n合と同様に「詰日割相直、酒井修理6廻状指出可申侯処、今日者同席一統出仕日一一付、於殿中申談、同人忌明迄\n語日割差支無之候一一付、是迄之通詰日割居置申候」と同席衆での話し合いの上で取り決めたことが記録されてい\n〈羽〉\nたい。\n(鉛)\nフCO\n本節の最後に寛政五年二月二七日に詰衆内においてなされた詰日出仕断に関する新たな取り決めについて紹介し\n及右但\n申同同\n間断断\n敷之\n曇節\n一病気一一而引込候節、日数縦四十日一一およひ候ハ、、御用番出仕断之義、両度申達侯迄ハ不及出勤候事\n但同席江断斗二而相済候出仕日之義ハ本文日数之内一一何度有之候而も相除候事\n一右同断之節、御用番江出仕断之義及三度候ハ、、日数ハ縦三十日餘二而も出勤之節者、御用番江可及直勤候\n事\n御用番江出仕断之義及四、五度二およひ候ハ、、日数ハ縦三十日二満不申候節ハ是又直勤直勤86\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数最的考察詰衆を例として\n不快之節日数一一不拘、詰日五度迄ハ頼合可申侯、或ハ頼合等出来不致候節者、助立二而も五度迄ハ詰日・助共\n一一断申間敷候、五度頼合候而も未快無之候ハ、、詰日・助共断之廻状差出可申候事\nこれは、それまで病気等で引込となっていた状況からの快復時の対応が各人区々であったことから、互いの意識\nを統一させるために取り決められたものである。詳細は別稿を設けたいが、詰日・助詰・急助詰の断を発するには\n五回まで何等かの手段を講じてできるだけ断りとならないようにとの対応かと思われる。\n詰日の勤務実態としては、これまでに見てきた通りである。詰日割に基づいた勤務だったとはいえ、それと実態\n{釦)\nとの整合性は決して高い数値を示していなかった。しかし、だからといって詰日割を軽視することはできず、むし\nろその構造を掴むことでより詰日という平日の勤務を鮮明にできると思われる。そこで以下では士屋但馬守の日記\nに写し残されている一三八通の詰日割を、その構造面に焦点を当てて分析してみたい。まず目を向けなくてならな\nいのは詰日を何人で勤めようとしていたか、であろう。先に見た奏者番や大番頭はそれぞれ一五名程度、一二名と\nいう人員で回していたようであるが、こちらも実態としては病や忌などの諸事情により、それより少ない人数での\n当番・勤番であったと思われる。その実人数をここで示すことは難しいため、奏者番と大番頭については参考値と\n七詰日割の構造\n但同断\n惣而\n丑二月\n御成一一付而も届断等其数二不加候事\n87\nそれではもう少し詳しくこの平均九名という数を考えてみたい。詰日を勤められる状況にある者、即ち当勤之衆\nと称される集団は多いときで一五名にもなった。この数字だけを見ると、詰衆全体のおよそ半数が詰日を勤められ\nる状況下にあった期間が存在していたかのように錯覚してしまうが、これには参勤交代のタイミングによる特殊な\n事情が隠れている。当勤之衆が一○名を越えるような時期はある程度固まっていて、一つには先述の通り在府して\n表7(巻末掲載)は一三八通の語日割をまとめたものである。表中の「組」とは両人詰、一二人詰あるいは四人詰\nの組がいくつ設けられていたかを、「当勤」欄は詰日を勤められる状況にある者(当勤之衆)が何名いたかを、さ\nらに「型」は後述するが、当該の詰日割が一巡する間に何度詰日を勤めるよう定められているかを独自に類型化し\nたもので、I型は語日割が一巡する間に一度だけ勤務する体系で、Ⅱ型は一巡する間に二日勤務するもの、▲印は\n上記のどちらにも当てはまらない特殊型である。また、両人語・三人詰・四人語の各項目はそれぞれの組がどれだ\nけの数で構成されていたかを示している。たとえば詰日割番号一番では両人詰が二組、三人語が一一組の計四組で構\n成され、.その当勤之衆は(二(人詰)x一一(組))+(一一一(人詰)×一一(組))x1(I型)Ⅱ一○名となる。\n写しとられた一三八通の詰日割をみると、一通当たりの詰日割に名前が記されているのは平均して九名ほどとい\nう結果が得られた。つまりは詰衆全体としては三○名前後が存在していたが、実際に詰日を勤められる状態にあっ\nたのは、その三分の一ほどであったということになる。この数字を示す原因はすでに述べてきた通りで、そもそも\n在府していなければ詰日を勤めることはないので、参勤交代が課されている以上は武鑑に表れているすべての詰衆\nが一同に会することはない。また、各人の体調や忌服関係での出入りがあるため、勤められる人物はさらに紋られ\nしてとどめておきたい。\nる。\n88\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数趾的考察 詰衆を例として\nいる詰衆が多くなる時期、即ち半年代の者の在府が重なる一二月中旬から二月中旬までの間である。続いて最も多\nくなるのが六月の参勤・御暇の時期で、御暇を受けるよりも前に参勤者が詰日を再開する廻状を差し出すことによ\nり、瞬間的にではあるが当勤之衆の人数が最大値をとることがある。ただし注意しておきたいのは最大数となった\n数日後には、御暇を受けて江戸を発つ者が出るため、最大数を示した詰日割が長く運用されることはなく、まもな\nく詰日割は改正される。そうしたことが意識されていたためか、この六月参勤時に作成される詰日割には、他の時\n期にはない割り当て方も見られる。\nそのうちの一つとして通常は二名で勤める両人詰や三人で行う三人詰が基本であるのに、四人詰となる組が設け\n(狐)\nられていたり、一通の誌日割の中では特定の人物が偏った日数を詰めることがないように誰もが平等な配当となっ\n(兜)\nているのに対し、他の人物が一一日勤めるところを一一一日勤める人物がいることにされていたりと、御暇となることに\nより効力を失うことを見越して作成しているように感じられる面もある。当然この場合には御暇を受ける者がいて\n詰日割が改正されるであろう日以降について顕著となる。\n(卿)\n例えば寛政一一一年七月一一六日に久世隠岐守が体調不良となり、以後の詰日を断る事態となった。その結果、永井日\n向守から差し出された詰日割をみると、表8のようになっていた。\nこのときの当勤之衆は阿部伊勢守・土屋但馬守・増山河内守・三浦志摩守・永井日向守の五名。詰日割では翌日\nの二七日から来月朔日までの割り当てとなっている。五名で勤務をこなすため、二名で一組となった班を五つ示し\nて、一つのサイクルで全員が二日ずつ勤めるような詰日割が作成されるのが他でも見られる一方で、ここでは四日\n後の来月朔日までしか記されていない。このため仮にこのままの詰日割で来月二日以降も運用されるならば、二日\nは再び伊勢守と但馬守の両人詰で勤めることになる。しかしここでは二八日が月次の一統出仕日となっているた\n81\n表8寛政3年7月26日作成の詰日割\n国文学研究資料航蔵「常陸国土浦土屋家文杏」により作成\nまた参勤交代とは絡んでこないが同様の例として、寛政四年二月一一○日、本多伯耆守が産穣のた\n(麺)\nめに詰日を断ることとなった。それに伴う改正では本多伯耆守は一一六日までが忌み期間のため、そ\nれまでの割り当てを記したものとなっている。ここでの当勤之衆は七名であり、二名ずつの組が六\nつの班で構成され、士屋但馬守だけがこの六日間の中で一日しか詰日を勤めないものとなってい\nる。これもおそらくは二六日になれば本多伯耆守が忌明けとなって復帰するため二七日以降につい\nてはその際に改めて詰日割を作成し直すことを想定したものと思われる。実際にはこれが二六日ま\n{銘)\nで使われることはなく、一二浦志摩守が産穣のため忌中となり詰日割が改正されている。\nさらにもう一つ不規則な詰日割を紹介したい。寛政四年四月二四日、土屋但馬守が日光名代の役\n(釘)\n目を終えて詰日を再開することになり、作成された詰日割は表9の通りとなった。これを見ると一\n組に二名ずつが入り、それが四班で編成されている。しかしそこにある名前を確認すると、永井日\n向守と内藤銀次郎の一一名は重複して詰日割に名を連ねている。一巡目の二五日から二八日までは他\nの語日割と変わりはない。だが、五日後の二九日に詰日に当たるのは四組一班なので、詰日割にあ\nる一組目の永井日向守と内藤銀次郎となりそうなところ、二組目の牧野備中守と本多伯耆守とざ\nめ、そこで当勤之衆が話し合って詰日割が改正されることを見込んでいたものと思われる。実際に\nは二八日には一統出仕日であると同時に本多伯耆守が参勤の御礼を行い、詰日を勤めることになっ\n(訓)\nたため、華叩日割は改正されている。その詰日割は八月一一日からのものとなっており、先に出された\nものからそのまま日程を引き継いで、二七日からを通して見ると誰もが均等に勤めるようになされ\nている。\n,0\n寛政3年7月26日付\n詰日割\n27日\n伊勢守|但馬守\n28日\n志摩守|河内守\n29日\n伊勢守|日向守\n朔日\n河内守|但馬守\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数逓的考察一詰衆を例として-\n表9寛政4年4月24日作成の飴日割\n扇1if示扁悪T震E;?F悪iF需要W\u0027二云票下鳫扇\nIJil文学研究資料館蔵「常陸国土iii土岐家文1$」によi)作成\n表10寛政4年4月24日作成鰭日割における詰日勤務の疑定\n鴎\nhil文学研究資料館蔵「常陸国土ilii二t賊家文榔」により作成\n表11寛政4年4月24日急助願掛付\n■卍雪■、犀■r岡目■:,,\n ̄ ̄…■庄乙 ̄■Ⅷ皿\nmmmF ̄Ⅷ\n可■■函■面■■Ⅷ\nEI文学研究資料館蔵「常陸国土浦土離京文1Mにより作成\nれ、翌五月朔日は三組目の士屋但馬守と内藤銀次郎と\nなっているのである。では詰日割で示していない五月二\n日以降はどのように詰めるものと解釈すればよいだろう\nか。土屋の日記から判断し、筆者による疑定の上での詰\n日割運用を示したのが表皿である(表中()内の日付\nが筆者による疑定)。\n土屋は登城した際にはそれが詰日であるか一統出仕で\nあるかといった記述や、詰日の場合の相詰が誰であった\nかという点も書きとどめている。土屋が詰日として登城\nしたのは五月四日、七日、一三日とされ、一○日も詰日\nとされていたが、実際には三浦志摩守と差替えていて、\nこの四日間についての相詰はすべて内藤銀次郎となって\n〈郷)\nいる。これにより表9にある詰日割の第一二組目の班につ\nいては維持されていたものと捉えられる。次に土屋の五\n月八日の記事から、翌日に割り当てられている急助心得\nを内藤銀次郎に変更してもらった旨の連絡を九日の詰日\n(”)\nである本多伯耆守と牧野備中守に行ったとされる。これ\nにより九日の詰日は本多と牧野であったことが判明す\n’1\n寛政4年4月24日付\n誌日割\n25日\n日向守|銀次郎\n26日・29日\n備中守|伯耆守\n27日・5月朔I]\n但馬守|銀次郎\n28日\n日向守摩守\n日向守2528(2)(5)(8)11(14)\n銀次郎25271471013(15)\n備中守2629(3)(6)9(12)\n伯寄守2629(3)(6)9(12)\n但馬守271471013(15)\n志摩守28(2)(5)(8)11(14)\n寛政4年4月24日付\n急助心得\n備中守\n25\n但馬守\n26\n日向守\n27\n伯耆守\n28\n銀次郎\n29\n志庶守\n1\n※蕊者疑定\n(2)\n(8)\n(3)\n(9)\n(4)\n(10)\n(5)\n(11)\n(6)\n(12)\n(7)\n(13)\n表13鰭日割一巡内における二重氏名掲賦件数表12両人鰭・三人誌・四人鰭数\n■=r=\n正面■--面団\n皀脈石一一硬団\n丘函■\n国文学研究資料館蔵「常陸国土浦土屋家文継」によ\nり作成\n国文学研究資料館蔵「常陸同十浦土屋家文\n谷」により作成\nる。さらに一一日には三浦志摩守の「為返詰登城」し、「相詰永井日向守」であったこと\n(㈹)\nから、一一一浦志摩守と永井日向守の組み△ロわせで、詰日割の第四組目の通りとなる。\n以上のことにより七日から一○日までの詰日勤務予定者は当該詰日割の第二組目から第四\n組目を経て再び第二組目へと推移していったことになる。これを遡って二日から六日まで適\n用させると、表皿の通りとなり、急助心得と照合しても各人が詰日と重複することはないた\nめ、四月二五日のみが特殊な組合せとなり、二六日以降は第二組から第四組にて輪番させて\nいたと考えられる。\nこのように一見すると不規則な語日割が作成されたようにも見受けられるが、それは一時\n的なものであり、やはり詰日割上はどの当勤之衆も等しい詰日となるよう配慮されていたと\nいうことができよう。\nこのことに関連して一組当たり何人の詰衆が割り当てられていたか、つまりは何人詰で勤\nめることがどれだけ想定されていたかを考えてみたい。表皿は詰日割から抽出した何人詰班\nがどれだけ振り分けられていたかをまとめたものである。結果的には寛政期にあってはその\n多くが両人詰であったことがわかり、三人詰が四分の一強ほどで、ほぼ両人詰と三人詰の組\n合せであったことがわかる。なお四人詰という記載も見られるが、これは先に見た詰日割作\n成時における特異例と同様に、まもなく訪れる一統出仕日を見越して、いわば仮定的に配さ\nれたものであり、実際に四人で詰日を勤めている例は確認できなかった。\nまた多くの場合、|巡する間に示される各人の名前は同一語日割内で一度限りの記載であ\n,Z\n当勤之衆人数件数\n5 7\n7 10\n9 2\n件数割合\n両人階463 76.1%\n三人鰭142 23.4%\n四人鯖3\n%\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数fii的考察詰衆を例として\nるが、どの者も二度名前が示されている例が一九件見られた(先述の不規則な詰日割の例は除く)。この一九件を\n詳しく見ていくと、何れもが当勤之衆が奇数人数で構成され、すべて両人詰の組であったことが分かった。内訳を\nみると表追の通りとなった。ここでの当勤之衆は五、七、九名でそれ以外は見られない。また当勤之衆が五名である\nときはすべてこのパターンをとっており、両人詰の組が五班つくられている。これに対して当勤之衆が七名であっ\nた場合、三人詰の組を一班、両人詰の組を二班、合わせて三班で一巡させている例が三件あった。同様に当勤之衆\nが九名になると、三人詰の組を一班、両人詰の組を三班にしている例が一○件となっていた。この結果から当勤之\n衆が五名であれば両人詰の組を五班にして構成し、当勤之衆が七名であれば、多くが両人詰にして七班で輪番させ\nる方法を採用し、当勤之衆が九名となると、逆に班数を減らした傾向にあった。参考までに二名の場合が八件\nあったがすべてにおいて三人詰一班・両人詰四班の計五班で一巡となるよう構成されていた。\n本稿の最後に享和元年に同席衆で定めたと思われる覚書を示し、詰衆の基本的な勤めである詰日をどのように果\nたしていこうとしていたかを見、その特徴を示すことで詰大名としての位置づけを行うこととしたい。覚書は以下\n(机〉\nのようにに全全一一一二一条条かかららななっている\n詰日割、助順覚\n一詰日割入候節、同\nおわりに\n割入候節、同席一統出仕日をハ相除、翌々日江割入侯節、出仕日二候得者又其翌々日江割入申侯事\n一参勤之御礼後其外共詰日・助共相勤侯廻状差出、詰日割相極候上、初日之詰日二不時一統出仕等之義有之侯\n,3\n構、二筆助者暫断、\n|初而御\n一日光御\n入可申候事\n一病気一一而当分詰日・助断、其外快致出勤候之旨廻状到来之節、詰日者翌日、助順者断以前之所江割入可申\n侯、尤断中何レ茂一通り助相勤候得者、二筆江割入可申候、且産穣忌中等五日七日程二而相済、出勤之節者詰\n日助急助共二元順江割入可申候事\n但病気快明日6出勤与有之候而茂、今日より与有之候而茂、廻状致到来候翌日江割入可申候、併廻状到来之\n翌日定式一統出仕日候得者、其翌日江割入可申候事\n共不及割、直二詰日居置候事\n一参勤之御礼相済、詰日・助共可相勤廻状到来之節、詰日割翌々日江割入、助順者二筆江割合可申候、参勤後\n未助不相勤候者其以前二有之候得者、何人有之候共其次江割入可申候事\n但詰日御人多之節者、其翌日江割入候而茂不苦候事\n一大坂加番帰之者詰日助可相勤廻状到来之節、詰日・助共右参勤之節与同様之事\n一家督後初而詰日助可相勤廻状到来之節、詰日者参勤後之通翌々日、助順ハ参勤後未不相勤侯者之有無二不\n江\n割入可申候、其以前一一家督後未助不相勤候者有候得者、其次江割入可申侯、且家督後詰日者相勤、\n者暫断、追而助可相勤廻状到来之節茂同様二候事\n一初而御目見相済、前髪取候後詰日・助共可相勤廻状到来之節、詰日・助順ハ家督後之通二割入可申候事\n日光御名代帰府後、詰日・助共可相勤廻状到来之節、詰日者翌々日江割入、助順者日光出立以前之所江割\n二候事\n一両山御法事勤番等二而詰日・助断、其後詰日・助共可相勤廻状到来之節、詰日割助順共右日光帰府後与同様\n94\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数鼠的考察一詰衆を例として-\n但御人少之節者詰日之前日二而茂翌日二而茂割入不苦候事\n右従前相用侯帳面者当時之格二不相当、其上文言簡略之所茂有之候而分り兼候付、此度申談相極候事\n松平主計頭\n享和元年酉十一月永井日向守\n三浦志摩守\nまずは本覚書が成立した経緯であるが、これまでにも詰日割に関する帳面は存在していた瀝、「当時之格二不相\n当」であり「文言簡略之所」もあって分かりにくいために改めたものとされている。\n本文はすべて割入れ時における対応を示したもので、これまでに見てきた寛政期のそれと通じるものがあること\nがわかる。一条目から見ていくと、詰日を勤めるようになった場合、|続出仕日を除いた翌々日に割り入れるよう\nに定めている。二条目、三条目はともに参勤後の割入れに関する条文で、一統出仕日に絡んでの記述も見られる。\nさらに四条目・七条目・八条目がそれぞれ大坂加番、日光御名代、両山御法事と役儀関係からの割入れ事項となっ\nている。それより前の五条目、六条目は本稿においては事例として確認はできていたが、分析できるだけの数が得\n出仕日二無相構割可申候事\n一参勤之御礼以使者申上、直二当分詰日・助共断、其以後致出勤詰日・助共可相勤廻状到来之節、詰日者翌日\n江割入、助順者参勤之御礼申上未助相勤不申者有之候者、其次江割入可申候事\n一病後之御礼申上、詰日・助共可相勤廻状到来之節、詰日者翌日、助順者二筆江割入可申侯事\n但参勤後直引込、病後之御礼申上候者も同様侯事\n一急助心得之日者詰日6翌々日之心得いたし、三人詰者三人二而割合、両人詰者両人二而割合可申候、尤一統\n,ラ\nられなかつたため、表中で示したのみとなっている、初めて詰日を勤める際の割入れ条項である。以上の事由では\n翌々日の"}, {"subitem_textarea_value": "翌々日の割入れが基本であり、|統出仕日であればさらにもう一日後の割入れとすることを定めている。これはこ\nれまで見られた寛政期の記録とも合致する。また、九条目以降は病気からの復帰に伴う割入れ事項であり、ここで\nも寛政期にあった翌日の割入れが明文化されていることが分かる。\n以上、本稿においては詰衆の登城勤務に関して、大目付の日記から実数面を、詰衆自身の日記から詰日割をもと\nにした制度面を数量的に考察してきた。そこには平日勤務の詰日と、月次御礼や各種の行事における一統出仕日と\nを分けて考える様子が見られた。とくに詰日を勤め出す時機をめぐっては、この一統出仕日を強く意識して詰日割\nに割入れられた。ここには個別勤務の詰日と全体勤務の一統出仕という構図があったとも考えられる。また別の意\n味でも一統出仕日は幕府に対して詰衆全体で勤める姿勢を示す場であると同時に、同席衆で詰日割の改正を話し\n合ったり、詰日心得として詰日ではない人物が勤務に当たったこととしたりと、平日勤務の詰日制度を支える調整\n日的な役割も担っていたといえる。\nなお、これまでは主に平日の詰日に焦点を当て、そこから詰衆の実態に迫るよう取り組んできたが、今後は一統\n出仕日についても考察していく必要があると思われる。そうすることにより幕府組織機構の中での詰衆というもの\nをさらに明確にできることを期待したい。\n註\n(1)拙著「詰衆の基礎的考察」\n一七号二○一三年三月)\n(「国士舘史学」第一一号二○○五年三月)、「宝暦期詰衆の「詰日」と「外勤」」(「国士舘史学」第\n,6\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数戯的考察詰衆を例として\n〆 ̄、〆 ̄、グー、〆自、〆面へグヘ_、〆-、グー、ダー、デー、グー、〆■、〆古く〆へ\n181716151413121110987654\n、-〆~〆~〆~〆筥一グ、-〆、--〆、-〆、.\"_〆~〆~〆、-グ~〆\n(2)「安藤日記」(国立公文書館内閣文庫蔵)。ここでは重職者との比較ではなく、むしろ近接する役職者を取り上げたい。重職者の\n登城については荒川秀俊「「柳営年中行事」に見えた老中・若年寄の登城」(「日本歴史」一七四一九六二年一一月)などがあ\nる。また奏者番については、所理喜夫「土浦土屋藩主歴代と江戸幕府奏者番」(「徳川権力と忠近世の地域社会」所収岩田書\n院二○一六年五月)、高田綾子「江戸幕府奏者番の勤務実態に関する一考察l寛政元年「御奏者番日記」を中心に」(「聖心女\n子大学院論集」三一一一(|)二○一一年)、大友一雄「幕府奏者番にみる江一P時代の情報管理」(「史料館研究紀要」一一一五\n二○○四年)などがあり、勤務実態について明らかにされているが、登城日数を数量的に扱ったものは見られない。\n(3)「動向日記」寛政五年一月三日条、「動向日記」寛政一○年六月十六日条、「御奏者番日記」寛政一○年七月二日条(「常陸国土\n浦土屋家文瞥」(国文学研究資料館蔵三\n(4)「年録」寛政八年二月七日条(国立国会図轡館蔵)\n(5)深井雅海・藤賛久美子縞「江戸幕府役職武鑑編年集成」第一七巻東洋轡林、一九九七年二月\n(6)その内訳は永井日向守・板倉内膳正・酒井修理大夫・側部若狭守が一年交代、久世隠岐守が半年代である。\n(7)「年録」寛政五年六月一八日条(国立国会図瞥館蔵)\n(8)「動向日記」寛政五年六月一八日条{常陸国土補土屋家文轡」国文学研究資料餓蔵)\n「年録」寛政五年七月二八日条(国立国会図轡館蔵)\n「動向日記」寛政三年四月一○日条今常陸国士補土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n「動向日記」寛政三年四月二○日条(「常陸国土浦土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n「動向日記」寛政三年七月二八日条(「常陸国土浦土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n「動向日記」寛政四年一二月一五日条{常陸国土補土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n「動向日記」寛政七年六月一三日条(「常陸国土浦土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n「日記」寛政二年二月晦日条(「常陸国士補土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n「動向日記」寛政三年一月一四日条(「常陸国土補土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n「日記」寛政二年一二月一一一一日条(「常陸国土補土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n前掲註(8)参照\n,7\n(躯)「動向日記」寛政七年五月二日条(「常陸国土浦土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n(羽)「動向日記」寛政五年二月二七日条(「常陸国土浦土屋家文瞥」国文学研究資料館蔵)\n(釦)拙著前掲註(1)参照。語日割通りの勤務は四割程度であった。\n(皿)「動向日記」寛政三年六月一三日条、「公私日記」冤政九年六月一一日条(「常陸国士補土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n(聖「動向日記」寛政三年八月六日条(「常陸国土浦土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n(羽)「動向日記」寛政三年七月二六日条(「常陸国土浦土屋家文瞥」国文学研究資料館蔵)\n(狐)「勤向日記」寛政三年七月二八日条(「常陸国土浦土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n(鍋)「雁之間席日記」寛政四年二月二○日条(「常陸国土浦土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n(妬)「雁之間席日記」寛政四年二月二八日条(「常陸国土浦土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n(幻)「雁之間席日記」寛政四年四月二四日条(「常陸国土浦土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n(犯)「雁之間席日記」寛政四年五月四日条、同七日条、同一○日条、同一三日条(「常陸国土浦土屋家文瞥」国文学研究資料館蔵)\n(型「雁之間席日記」寛政四年五月八日条今常陸国土補土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n(如)「雁之間席日記」寛政四年五月二日条今常陸国土浦土屋家文轡」国文学研究資料館蔵)\n(、)「日記」寛政二年\n(四)前掲註(Ⅳ)参昭\n(〃)前掲註(妬)参昭\n(、)前掲註(卯)参昭\n(妬)「動向日記」寛政一○年二月\n文学研究資料館蔵)\n(あ)前掲註(型)参昭\n(犯)前掲註(釦)参照\n(羽)「雁之間席日記」寛政四年一月二八日条(「常陸国土浦土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n(別)「勤向日記」寛政一○年一月二○日条(「常陸国土補土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n月二五日条(「常陸国士補土屋家文瞥」国文学研究資料館蔵)\n日条今常陸国士補土屋「動向日記」寛政三年四月二○日条(「常陸国土浦土屋家文書」国\n98\n江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数還的考察一語衆を例として-\n(虹)「諾日割・語日割方(享和元年一一月、語日割助順覚)」(首都大学東京付属図瞥館所蔵、水野家文瞥)\n(蝿)「御日記」寛政四年三月二五日条(「常陸国土浦土屋家文書」国文学研究資料館蔵)\n,,\n◎Cl\n表7「常陸国土浦 土屋家文書」に見られる鰭日割の欄造表\n呂■■■■■■■■\n霊■■■■■■■■■■■・\n■薑\n『唇 I[! 4\n番号年月日割入/除名理由組当勤型両人詰三人詰四人鰭作成者または\n差出人\n当骸者鰭日割入箇所ほか摘要\n1 2-11-30 割入快復4 10 I 2 2 0 戸田因幡守朽木隠岐守回状到来の翌日、翌々日が一統\n出仕のため三日後\n2 2-12-16 割入参勤4 11 I 1 3 0 戸田因幡守久世隠岐守、\n十厘但馬守\n回状到来の翌々日\n3 2-12-22 除名不調4 10 I 2 2 0 戸田因幡守酒井修理大夫除く\n4 2-12-25 割入快復4 11 I 1 3 0 戸田因幡守松平備前守回状到来の翌日\n5 3-1-14 割入快復4 12 I 0 4 0 戸田因幡守酒井修理大夫回状到来の翌々日(翌日が一統\n出仕日のためか)\n6 3-1-30 継続不明4 10 I 2 2 0 戸田因幡守なし月末には来月分の誌日割を発行\nしたか。\n7 3-2-9 割入服忌4 12 I 0 4 0 戸田因幡守牧野内勝正回状到来の翌日(忌中期1111が10\n日程であるためか)\n8 3-2-15 除名御暇4 10 I 2 2 0 不明大久保山城守、\n石)Ⅱ若狹守\n除く\n9 3-2-29 継続不明4 10 I 2 2 0 戸田因幡守なし月末には来月分の誌日割を発行\nしたか。\n10 3-3-22 除名不調4 9 I 3 1 0 戸田因幡守久世隠岐守除く\n11 3-3-24 除名服忌4 8 I 4 0 0 戸田因幡守酒井修理大夫除く\n12 3-3-30 割入服4 9 I 3 1 0 戸田因幡守酒井修理大夫回状到来の翌日が公家衆御返答\nの一統出仕日のため翌々日\n13 3-4-10 継続不明8 I 2 2 0 戸田因幡守不明一統出仕日に調整したか。もし\n〈は牧野内勝正が17日から日光\n祭礼奉行となるためか\n14 3-4-20 割入帰府4 9 I 3 1 0 戸田因幡守牧野内勝正回状到来の翌々日\n15 3-4-23 割入`快復4 10 I 2 2 0 戸田因幡守久世隠岐守回状到来の翌日\n16 3-4-28 割入参勤4 11 I 1 3 0 戸田因幡守板倉内勝正回状到来の翌々日\n17 3-5-14 割入服忌4 10 I 2 2 0 戸田因幡守背山下野守回状到来の翌々日(翌日が一統\n出仕日のため)\nlPJ剖軍細鑛鵜-騨榊雷嘱蒸幻や宝u燕、葺銅e神鱒績緯鐸算但馳\n~\n・\n~\n番号年月日割入/除名理由組当勤型両人詰三人飴四人詰作成者または\n差出人\n当該者詰日割入箇所ほか摘要\n18 3-5-15 除名御暇4 9 I 3 1 0 戸田因幡守。\n牧野内膳正\n青山下野守除く\n19 3-5-25 割入快復4 10 I 2 2 0 戸田因幡守朽木隠岐守回状到来の翌日\n20 3-6-1 継続不明4 10 I 2 2 0 1111部若狭守.\n朽木隠岐守\nなし一統出仕日に調整\n21 3-6-13 割入参勤4 13 I 0 3 1 1111部若狭守.\n朽木隠岐守\nなし一統出仕日に調整\n22 3-6-15 除名御暇3 8 I 1 2 0 永井日向守.\n三浦志摩守\n土井能登丁除く\n23 3-6-17 除名不調3 7 I 2 1 0 永井日向守・\n三浦志摩守.\n久世隠岐守\n酒井修理大夫除く\n24 3-6-18 除名服`忌3 6 I 3 0 0 永井日向守久世隠岐守除く\n25 3-6-23 除名服忌8 5 ▲ 8 0 0 水井日向守松平備前守除く\n26 3-7-21 割入服忌5 5 Ⅱ 5 0 0 久世隠岐守上屋但馬守[m状到来の翌[]\n27 3-7-23 割入・快復3 6 I 3 0 0 久世隠岐守永井日向守回状到来の翌日\n28 3-7-26 除名不調4 5 ▲ 4 0 0 永井日向守久世隠岐守除く\n29 3-7-28 割入参勤7 7 Ⅱ 7 0 0 三浦志摩守。\n士屋但馬守\n本多伯薔守回状到来から3日後(翌々日は\n一統出仕日)\n30 3-8-2 除名不調3 6 I 3 0 0 久世隠岐守阿部伊勢守除く\n31 3-8-6 除名不調6 5 ▲ 6 0 0 本多伯耆守久世隠岐守除く\n32 3-8-10 割入快復3 6 I 3 0 0 本多伯替守阿部伊勢守回状到来の翌日\n33 3-8-11 割入快復3 7 I 2 1 0 本多伯耆守久世隠岐守回状到来の翌日\n34 4-1-17 割入初而4 9 I 3 1 0 (土屋但馬守) 内膜銀次郎回状到来の翌々日\n35 4-1-29 割入快復5 10 I 5 0 0 石川若狭守地山河内守回状到来の翌々日(翌日は一統\n出仕日)\n36 4-2-15 除名御暇4 8 I 4 0 0 本多伯耆守.\n三浦志摩守\n大久保山城守、\n石川若狭守\n除く\n37 4-2-20 除名服忌6 7 ▲ 6 0 0 士屋但馬守本多伯替守除く\nNC一\n7\n番号年月日割入/除名理由組当勤型両人詰三人詰四人誌作成者または\n差出人\n当骸者詰日割入箇所ほか摘要\n38 4-2-21 除名服忌3 6 I 3 0 0 土屋但馬守三iiIi志摩守除く\n39 4-2-27 割入服忌7 7 Ⅱ 7 0 0 米屋但馬守三iiIi志摩守回状到来の翌日一統出仕、翌々\n日割入\n40 4-2-28 除名服忌3 6 I 3 0 0 米屋但馬守三浦志摩守除く\n41 4-閏2-4 割入快復3 7 I 2 1 0 十尾但馬守阿部伊勢守回状到来の翌日割入\n42 4-閏2-11 割入・快復4 8 I 4 0 0 (土屋但馬守) 本多伯番守回状到来の翌日割入\n43 4-閏2-18 割入服忌4 9 I 3 1 0 +屋但馬守三iii志摩守回状到来の翌日割入\n44 4-閏2-28 除名不調4 8 I 4 0 0 本多伯香守.\n土屋但馬守\n堀山河内守除く\n45 4-3-1 除名不調7 7 Ⅱ 7 0 0 十屋但馬守阿部伊勢守除く\n46 4-3-6 除名不鯛3 6 I 3 0 0 +屋但馬守久世隠岐守除く\n47 4-3-7 除名不鯛5 5 Ⅱ 5 0 0 土屋但馬守松平備前守除く\n48 4-3-9 除名差控\n何\n2 4 I 2 0 0 十尾但馬守三浦志摩守除く\n49 4-3-10 割入差控\n何\n5 5 Ⅱ 5 0 0 土屋但馬守三浦志摩守回状到来の翌日割入\n50 4-3-22 割入初而3 6 I 3 0 0 士屋但馬守牧野備中守回状到来の翌々日割入\n51 4-4-24 割入帰府4 7 ▲ 4 0 0 本多伯耆守士屋但馬守回状到来の3日後割入\n52 4-5-15 割入・除名快復.\n御暇\n3 6 I 3 0 0 (墹山河内守) 永井日向守除く\n53 4-5-17 除名服忌5 5 Ⅱ 5 0 0 上屋但馬守牧野傭中守除く\n54 4-5-21 除名服忌2 4 I 2 0 0 土屋但馬守墹山河内守除く\n55 4-6-4 割入服忌3 6 I 3 0 0 十屋但馬守土屋但馬守回状到来の翌日割入\n56 4-6-6 割入快復3 7 I 2 1 0 士屋但馬守牧野佐渡守回状到来の翌日割入\n57 4-6-7 割入服忌4 8 I 4 0 0 十L屋但馬守牧野備中守回状到来の翌日割入\n58 4-6-11 割入参勤5 10 I 5 0 0 土屋但馬守.\n牧野備中守\n1111部若狹守、\n牧野周防守\n回状到来の翌々日割人\n59 4-6-13 除名御暇7 Ⅱ 7 0 0 \u0027Ⅲ部若狭守.\n牧野周防守\n牧野備中守、\n本多伯耆守、\n牧野佐渡守\n除く\n61\n1-\nlPJ剖亘弾叢纒I鰈熱霊唄鋪岬や童]議国葺銅e鞠鱒繍蒋鐸算但鼬\nmC-\n番号年月日割入/除名理由組当勤型両人詰三人詰四人詰作成者または\n差出人\n当該者詰日割入箇所ほか摘要\n60 4-6-19 割入快復4 8 I 4 0 0 十屍但馬守朽木隠岐守回状到来の翌日束叡山参詣、翌々\n日割入\n4-7-1 割入・除名参勤。\n御暇\n7 7 Ⅱ 7 0 0 土屋但馬守.\n松平備前守\n背山下野守(参\n勤)、三浦志厳\n守(大坂加番\n御暇)\n回状到来の翌々日割入\n62 4-7-8 割入服忌4 8 I 4 0 0 士屋但馬守牧野周防守回状到来の翌日割入\n63 4-7-16 除名昇進7 7 u 7 0 0 土屋但馬守.\n松平備前守\n宵山下野守除く\n64 4-7-18 割入快復4 8 I 4 0 0 士屋但馬守土井能登守回状到来の翌日若君御七夜祝儀\n一統出仕、翌々日割入\n65 4-8-8 割入快復4 9 I 3 1 0 氷屋但馬守酒井修理大夫回状到来の翌日割入\n66 4-12-15 割入参勤5 12 I 3 2 0 牧野周防守。\n戸田因幡守\n土屋但馬守、\n久世隠岐守\n回状到来の翌々日紅葉山参詣、3\n日後割入\n67 4-12-21 除名不調5 11 I 4 1 0 戸田因幡守大久保山城守除く\n68 4-12-25 割入快復5 12 I 3 2 0 戸田因幡守.\n牧野周防守\n石川若狭守回状到来の翌日割入\n69 5-1-11 割人快復5 13 I 2 3 0 牧野iii中守.\n阿部駿河守\n大久保山城守回状到来の翌ロ割入\n70 5-2-15 除名御暇4 10 I 2 2 0 土井能登守.\n内藤大和守\n石川若狭守、\n大久保山城守、\n阿部駿河守\n除く\n71 5-2-29 継続不明4 10 I 2 2 0 戸田因幡守なし一統出仕日\n72 5-3-25 割入快復4 11 I 1 3 0 戸田因幡守松平備前守回状到来の翌日割入\n73 5-4-1 除名不調4 10 I 2 2 0 戸田因幡守\u0027Ⅲ部若狭守除く\n74 5-4-10 除名御暇4 9 I 3 1 0 戸田因幡守松平備前守除く\n75 5-4-20 割入帰府4 10 I 2 2 0 戸田因幡守松平備前守回状到来の翌々日割入\n76 5-4-29 継続不明4 10 I 2 2 0 戸田因幡守なし一統出仕日\n77 5-5-19 除名服忌4 9 I 3 1 0 戸田因幡守牧野周防守除く\n》C【\nE麺]\nし’\n「791 5\n|’\n17 「T l,\n一鰄\n彗--菫\n|-J\n「`’\n番号年月日割入/除名理由組当勤型両人鰭三人誌四人鯖作成者または\n差出人\n当骸者詰日割入箇所ほか摘要\n78 5-5-28 割入快復4 10 I 2 2 0 戸田因幡守牧野周防守回状到来の翌日割入\n79 5-6-15 割入参勤13 I 2 3 0 松平備前守.\n板倉伊予守\n牧野日向守、\n牧野佐渡守、\n増山河内守\n回状到来の翌日一統出仕、翌々\n日紅葉山参詣、牧野日向守、牧\n野佐渡守翌々日割入、増山河内\n守3日後割入\n80 5-6-18 除名御暇7 7 Ⅱ 7 0 0 増山河内守.\n板倉伊予守\n戸田因幡守、\n酒井修理大夫、\n問部若狭守、\n土井能登守、\n牧野周防守\n除く\n81 5-6-18 不備不備4 8 I 4 0 0 土屋但馬守内藤大和守名前漏れ\n82 5-7-2 除名御暇3 6 I 3 0 0 土屋但馬守板倉伊予守除く\n83 5-7-8 除名不調5 5 Ⅱ 5 0 0 十屋但馬守久世隠岐守除く\n84 5-7-9 割入快復3 6 I 3 0 0 十尾但馬守板倉内臓正回状到来の翌日割入\n85 5-7-28 割入参勤3 6 I 3 0 0 土屋但馬守永井日向守回状到来の翌日割入\n86 5-7-28 除名御暇3 6 I 3 0 0 +屋但馬守内藤大和守除く\n87 5-8-1 割入快復7 7 Ⅱ 7 0 0 増山河内守.\n阿部駿河守\n久世隠岐守回状到来は29日で翌日は-続出\n仕日、回状到来の翌々日割入\n88 6-1-12 除名不調5 11 I 4 1 0 土屋但馬守.\n松平備前守\n増山河内守除く\n89 6-1-15 継続不明5 11 I 4 1 0 土屋但馬守なし一統出仕日\n90 6-1-18 割入快復5 12 I 3 2 0 土屋但馬守.\n阿部駿河守\n増山河内守回状到来の翌々日割入\n91 6-3-9 剖入`快復5 11 I 4 1 0 土屋但馬守牧野佐渡守回状到来の翌日割入\n92 6-4-1 継続不明5 11 I 4 1 0 本多伯耆守.\n三浦志摩守\nなし一統出仕日\n93 6-5-26 除名不調4 8 I 4 0 0 土屋但馬守本多伯脊守除く\n94 6-7-1 継続不明4 9 I 3 1 0 戸田因幡守・\n土井能登守。\n阿部駿河守\nなし一統出仕日\nIP当剖軍や鶴鵜I鰈榊趨瑁蒸岬や霊]蕊画葺銅e勲構憲穐鰹算但騨\n「■ 「\nの●『\n番号年月日割入/除名理由組当勤型両人詰三人誌四人詰作成者または\n差出人\n当該者詰日割入箇所ほか摘要\n95 7-1-1 継続不明5 13 I 2 3 0 阿部駿河守.\n大久保山城守\nなし一統出仕日\n96 7-5-5 除名服忌4 9 I 3 1 0 士屋但馬守.\n間部若狭守\n久世大和守除く\n97 7-5-13 割入服忌4 9 I 3 1 0 酒井修理大夫内藤大和守回状到来の翌日割入\n98 7-6-13 割入参勤5 12 I 3 2 0 朽木近江守.\n牧野内勝正\n永井日向守、\n板倉内勝正、\n三浦志摩守\n永井日If1守回状到来から4日後、\n板倉内膳正、三浦志摩守回状到\n来の5p後\n99 7-6-15 除名御暇5 5 Ⅱ 5 0 0 板倉内購正.\n永井日向守\n土井能登守、\n牧野内膳正、\n酒井修理大夫、\n朽木近江守、\n119部若狹守\n除く\n100 7-7-7 割入快復3 6 I 3 0 0 十屋但馬守久世大和守回状到来の翌日割入\n101 7-7-16 除名不調5 5 Ⅱ 5 0 0 士屋但馬守久世大和守除く\n102 7-7-20 割入・快復3 6 I 3 0 0 土屋但馬守背山大勝兜回状到来の翌日割入\n103 7-8-11 割入快復7 7 Ⅱ 7 0 0 土屋但馬守増山河内守回状到来の翌日割入\n101 7-12-15 割入参勤5 11 I 4 1 0 永井日向守土屋但馬守、\n久世大和守\n回状到来の翌々日割入\n105 7-12-21 割入快復5 12 I 3 2 0 士屋但馬守増山河内守回状到来の翌日割入\n106 8-1-2 割入不明5 13 I 2 3 0 久世大和守松平備前守回状到来の3日後割入\n107 8-2-5 割入服忌5 12 I 3 2 0 +屋但馬守板倉内勝正回状到来の翌日割入\n108 8-2-15 除名御暇4 8 I 4 0 0 永井日向守.\n三浦志鷹守\n大久保山城守、\n板倉伊予守、\n石川中務少輔、\n阿部駿河守\n除く\n109 8-2-22 割入初而4 9 I 3 1 0 士屋但馬守阿部播磨守回状到来の翌日割入\n110 8-3-11 除名不調7 7 Ⅱ 7 0 0 二I2屋但馬守久世大和守除く\n111 8-3-15 割入快復4 8 I 4 0 0 土屋但馬守.\n永井日向守\n本多伯替守回状到来の翌日一統出仕、翌々\n日割入\n。●『\n|祠\n_’\n|蕊|了\n’ JjJ\n|Tl\n|了\nl][\n番号年月日割入/除名理由組当勤型両人結三人誌四人詰作成者または\n差出人\n当骸者詰日割入箇所ほか摘要\n112 8-6-2 割入快復4 8 I 4 0 0 士屋但馬守久世大和守回状到来の翌日割入\n113 8-6-11 割入参勤6 15 ▲ 3 3 0 士屋但馬守.\n土井能登守\n酒井修理大夫、\n井上河内守、\nⅡ11部若狹守、\n内藤大和守、\n牧野内膳正\n酒井修理大夫、井上河内守翌々\n日、間部若狭守、内藤大和守3\n日後、牧野内勝正5日後\n114 8-7-1 除名御暇9 9 Ⅱ 9 0 0 (問部若狭守) 三浦志摩守、\n土井能登守\n除名、一統出仕日\n115 8-8-1 継続不明9 9 Ⅱ 9 9 0 朽木近江守.\n土屋但馬守\nなし変更なし\n116 8-12-15 割入参勤5 12 I 0 5 0 松平備前守.\n内藤大和守\n土屋但馬守、\n久世大和守、\n阿部播磨守\n土屋但馬守、久世大和守3日後、\n阿部播磨守4日後割入\n117 9-1-3 割入服忌5 15 I 0 5 0 酒井修理大夫朽木近江守回状到来の翌日割入\n118 9-4-1 継続不明5 13 I 2 3 0 内藤大和守.\n阿部播磨守\nなし一統出仕日\n119 9-5-3 割入服忌5 13 I 2 3 0 酒井修理大夫阿部播磨守回状到来の翌日割入\n120 9-6-11 割入参勤5 15 I 2 1 2 牧野内膳正永井日向守、\n板倉内膳正\n永井日向守回状到来の翌々日割\n入、板倉内勝正回状到来から3\n日後割入\n121 9-6-13 除名御暇4 9 I 3 1 0 永井日向守.\n大岡主膳症\n酒井修理大夫、\n朽木近江守、\n秋元但馬守、\n井上河内守、\n牧野内膳正\n除く\n122 9-6-16 割入快復4 10 I 2 2 0 内藤大和守.\n士屋但馬守\n青山大膳亮回状到来の翌々日割入\n123 9-7-1 除名御暇4 10 I 2 2 0 阿部播磨守.\n青山大鵬亮\n内藤大和守除く\n124 9-閏7-9 除名服忌4 8 I 4 0 0 土屋但馬守増山河内守除く\n垂\n国文学研究資料館蔵「常陸国土浦上屋家文行」により作成\nrll\nlPJ当學鞄窯鶇-騨蕪霊項熱岬ヤ亜]熱垣算銅e紳鰐鐵掩鰹算但邑\nトC[\n番号年月日割入/除名理由組当勤型両人詰三人結四人酷作成者または\n差出人\n当該者詰日割入箇所ほか摘要\n125 9-閏7-17 割入服4 9 I 3 1 0 地山河内守墹山河内守回状到来の翌日割入\n126 9-閏7-24 除名服忌6 8 ▲ 5 1 0 上屋但馬守青山大勝亮除く\n127 9-閏7-28 除名不調4 8 I 4 0 0 阿部播磨守.\n墹山河内守\n阿部伊勢守除く\n128 9-8-1 割入服忌4 8 I 4 0 0 土屋但馬守青111大膳亮回状到来の翌日割入\n129 9-12-15 割入参勤5 13 I 2 3 0 阿部駿河守.\n永井日向守\n久世大和守、\n阿部播磨守、\n土屋但馬守、\n大岡主隣症\n久世大和守、阿部播磨守回状到\n来の翌々日割入、土屋但馬守、\n大岡主勝正回状到来の3日後割\n入\n130 10-1-18 割入快復5 14 I 1 4 0 永井日向守大久保山城守回状到来の翌日割入\n131 10-2-15 除名御暇5 12 I 3 2 0 石)Ⅱ中務少輔.\n青山大勝充\n板倉伊予守、\n大久保山城守、\n阿部駿河守\n除く\n132 10-4-8 除名御暇5 10 I 5 0 0 永井日向守阿部播磨守除く\n133 10-4-12 除名不調4 9 I 3 1 0 永井[]向守久世大和守除く\n134 10-4-13 割入快復5 10 I 5 0 0 永井日向守大岡孝駿派回状到来の翌日割入\n135 10-4-24 割入帰府5 11 I 4 1 0 永井日向守阿部播磨守回状到来の翌々日割入\n136 10-4-25 除名差控\n何\n5 10 I 5 0 0 永井日向守阿部播磨守除く\n137 10-5-1 継続不明5 11 I 4 1 0 石川中務少輔.\n板倉内勝正\nなし一統出仕日\n138 10-6-11 割入参勤5 14 I 1 4 0 阿部播磨守.\n三iiIi志摩守\n牧野内勝正、\n酒井修理大夫、\n井上河IAl守\n牧野内膳正回状到来の翌日割入、\n酒井修理大夫回状到来の翌々日\n割入、井上河内守回状到来の3\n日後割入"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "五十嵐, 一郎"}, {"creatorName": "イガラシ, イチロウ", "creatorNameLang": "ja-Kana"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "19893", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}, {"creatorNames": [{"creatorName": "IGARASHI, Ichiro", "creatorNameLang": "en"}], "nameIdentifiers": 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江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数量的考察 : 詰衆を例として
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.4 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2017-10-17 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 江戸城輪番勤務者の登城日数に関する数量的考察 : 詰衆を例として | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | A quantitative Study on work days of Edo Castle rotation workers. | |||||
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資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | Article | |||||
言語 | en | |||||
著者 |
五十嵐, 一郎
× 五十嵐, 一郎× IGARASHI, Ichiro |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | CiNii ID : 9000356577550 | |||||
著作関係者詳細 | ||||||
(p.203「執筆者紹介」より) 日本文京出版株式会社 | ||||||
書誌情報 |
国士舘史学 en : Kokusikan-shigaku 巻 21, p. 67-107, 発行日 2017-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学日本史学会 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40021146670 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 210.5 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 366.8 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
安藤日記 詰日割 |