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"(聞き手):本企画は、保坂智先生がご退職なさるということで、一つの節目として先生にこれまでのご研究についてお話しいただこうという目的となっています。聞き手側が不慣れなところもあり、先生にご迷惑をおかけすることになるかと思いますが、お付き合いの程、何卒よろしくお願いいたします。\n\n〈歴史学との出会い―高校・大学生活〉\nQ:まず、歴史学にどのように出会ったのかということについてお話しいただきたいと思います。\nA:高校時代に、新任教員がサークルをつくる、文芸部というサークルをつくるということでそこに参加しました。私はそれ以前からかなり小説は読んだ方だから、文芸部、文学みたいのをやりたいと考えていた。ただ実際活動を始めてみると、文学研究ではなく、文芸部でやっていたのは石川啄木論なんですが、岩波書店から発刊された石川啄木全集は全部読んで、明治の時代閉塞の、大逆事件になるというそういう時代になるなかで生きた啄木が対象だった。よって、どちらかというと歴史的な啄木論で、最初に文章にしたのは実は啄木論でした。『時代閉塞の現状』は、自然主義批判であり、私小説のような自然主義では駄目だというものでした。サークルの活動の話に戻ると、現在の研究手法につながると思うのですが、現地に行き調査するというもので、具体的には渋民村に教員の引率で行って、現地で考えるというようなことをしていました。高校のサークルの活動ですから、主な発表場所は文化祭でした。それと同時に、立ち上がってまもないサークルですから機関誌もなかったので、『きつつき』と題した機関誌をつくり、そのなかで活動成果を発表しました。現在どうなっているのか知りませんが、その第一号に啄木論を書きました。文章というものではそれが最初でした。それが高校二年生でした。\n 歴史学を志したのは、歴史が好きだった父の影響でした。歴史をメインに勉強したいというのは幼少の頃からあって、小学校から歴史教員になろうと考えていました。よって、大学で一番取らなければならない資格は教員資格をと考えていました。\n"}, {"subitem_textarea_value": "Q坤まず、歴史学にどのように出会ったのかということについてお話しいただきたいと思います。\nA輔高校時代に、新任教員がサークルをつくる、文芸部というサークルをつくるということでそこに参加しまし\nた。私はそれ以前からかなり小説は読んだ方だから、文芸部、文学みたいのをやりたいと考えていた。ただ実\n(聞き手)“本企画は、保坂智先生がご退職なさるということで、一つの節目として先生にこれまでのご研究につい\nてお話しいただこうという目的となっています。聞き手側が不慣れなところもあり、先生にご迷惑をおかけす\nることになるかと思いますが、お付き合いの程、何卒よろしくお願いいたします。\n〈対談〉百姓一摸・義民研究を語る\n〈歴史学との出会いl高校・大学生活〉\n聞き手林進一郎\n伊藤夏子\n西村安奈\n保坂智教授\n堀内暢行\n中尾あゆみ\n,\nたので、一きつつき」と題した機関誌をつくり、そのなかで活動\n成果を発表しました。現在どうなっているのか知りませんが、そ\nものではそれが最初でした。それが高校二年生でした。\n歴史学を志したのは、歴史が好きだった父の影響でした。歴史\nらあって、小学校から歴史教員になろうと考えていました。よっ\n教員資格をと考えていました。\n行って、\n行き調査するというもので、具体的には渋民村に教員の引率で\n同時に、\nサークルの活動ですから、主な発表場所は文化祭でした。\n話に戻ると、\n際活動を始めてみると、文学研究ではなく、文芸部でやっていた\nのは石川啄木論なんですが、岩波書店から発刊された石川啄木全\n集は全部読んで、明治の時代閉塞の、大逆事件になるというそう\nいう時代になるなかで生きた啄木が対象だった。よって、どちら\nかというと歴史的な啄木論で、爺初に文章にしたのは実は啄木論\nでした。「時代閉塞の現状」は、自然主義批判であり、私小説の\nような自然主義では駄目だというものでした。サークルの活動の\n立ち上がってまもないサークルですから機関誌もなかっ\n現地で考えるというようなことをしていました。\n現在の研究手法につながると思うのですが、\n高校の\nそれと\n現地に\n歴史をメインに勉強したいというのは幼少の頃か\nよって、大学で一番取らなければならない資格は\nその第一号に啄木論を書きました。文章という\n10\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQ⑪もともと歴史に関する本がご自宅に多かったのですか?\nA》環境的に本を置く場所はありませんでした。もちろん、父が好きなもので、例えば三田村鳶魚の「江戸から東\n京へ」などはあったりしましたが。高校二年生になると、ソヴィエト科学アカデミーから出ている「世界史」\n(江口朴郎・野原四郎・林基訳、東京図書、一九六四年~)、これは林基さんの監訳なのですが取っていまし\nた。内容がわかるわけがないのですが(笑)、これはいまでもとってあります。\nQ》高校のサークルの話ですが、雑誌を発刊したり、現地調査を実施するなど、私たちの時代と比べてかなり活動\n的だと思うのですが、当時はそういうものなのですか?\nA“文芸部ですから機関誌があるのは普通だと思います。後に調べてみると、高校の社研や歴研は本を出したりし\nています。代表的なものでは、甲斐の寛文期の百姓一摸や、熊谷女子高校は伝馬騒動について本を出したりし\nています。しかしながら、我々よりもう少し前の世代ですね。戦後民主化から国民的歴史学運動に携わった人\nたちが高校の教員となり、その立場で地域の歴史研究をおこなったりした成果を高校生と一緒に発表したりす\nる勢いは、私の時にはずいぶん衰えていました。\nQ甑そうしたなかでも、現地調査は継続して実施されたのですか?\nA“文芸部みたいなクラブは合宿もできないし、合宿を兼ねて行っていました。私が卒業してからも、佐渡や木曾\nに同行したこともありました。\nQぷ現地ではどういった調査をしていたのですか?\nA”作品を読んで、その場所を歩くというのがメインで、その他としては関係者と会うことがありました。\nQ“そもそもサークルに声をかけられたのは?\n11\nA“ロシア革命を見たアメリカのジャーナリストの本(ジョン・リード著原光雄訳「世界をゆるがした十日間」岩\n波書店、一九五七年)にならってやりましたが(笑)\nQ沖高校時代に文芸部で一緒だった方々とはその後もお付き合いがあるのですか?\nA》先生を通じてなんどか集まりました。何名かは今でも付き合いがあります。歴史の研究者になった人はいませ\nQ》出来はどうでしたか?\nQ坤青木書店の島田泉さんとの関係は高校時代からとのことですが?\nA坤私の担当ではなかったですが、日本史を教えていました。山岳部の顧問で、私の友人に山岳部が多く、その関\n係で知り合いました。青木に移られてからは、歴研で毎回会っていました。担当の教員がケガをしたため、た\nまたま受けた島田さんの授業で一番おぼえているのは、受験がはじまると、授業をやらない期間になります\nが、その際に「先生になりたいならお前授業をやれ」と言われ、ロシア革命について授業で四回ほどやった記\nA⑪部員のなかにタイプ屋がいて、そこで印刷してもらいました。\nQ酔いまでもお持ちですか?\nA卵はい。\nQ⑪ガリ版ですか?\nA卯職員室内で私の名前があがったのではないでしょうか。\nQ二号に書かれたものの分量は?\nA二一○枚くらいでした。\nが、その際に\n億があります。\n12\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nんが、生物学の研究者になった人などもいます。\nQ坤早稲田大学に入学されたわけですがどんな学生時代でしたか?\nA恥どういった研究者が居るのか知らなかったが、とりあえず早稲田にという考えでした。大学院に行くのも、教\n員の専修免許のためでした。\nQ》高校時代に学生運動についてどのように見ていましたか?\nA“興味はありましたし、入ったら自分も参加するのだろうなと思っていました。日大闘争の時はちょうど浪人中\nで、そのまま日大に進学した同級生は巻き込まれました。\nQ錘どういった形で参画していったのですか?\nA》大学闘争で激しくゆれていた時代でした。そもそも入学式もありませんでした。早稲田の第二文学部東洋文化\n専修に入学しましたので、東洋史も東洋哲学もやりました。日本史の専門科目はかなり少なかった記憶があり\nます。由井正臣さんは東洋哲学の関係で授業をしていました。アジア思想のようなものを読んだ記憶がありま\nす学では一度も発表したことがありませんでした。保坂の「ほ」が来るまでにバリケードが出来て順番が\nQ》四年間毎年そういった状況だったのですか?\nA》毎年そうでした。比較的安定した年もありましたが、一年を通じて一○○%満足に授業が行われた年は一度も⑬\nQ》そうしたある種異様ななかで、どのような学生生活を送っていたのですか?\nA亜サークルでは自分たちで勉強したりしていましたが、授業としては満足いくものを受けることができませんで\nした。\n。大学では一度も発圭\n回ってきませんでした。\nQ胆サークルというのはどういったものでしたか?\nA軸「史考会」というサークルがあり、そこに参加しました。サークルでの活動では、石母田正の「歴史と民族の\n発見l歴史学の課題と方法」(平凡社、一九五二年)とかもう少し古いものがテキストでした。それをみんな\nで読んで議論していました。夜間の学生ですから、活動の時間が限られていました。一○時五分まで授業があ\nQ⑪そうなりますとサークルは一○時五分からということですか?\nA鞄普段は九時頃からです。基本的には毎日集まっていました。史考会は二文自治会執行部から睨まれていました\nから、活動することにある種の恐怖がありました。まして夜ですからね。\nQ⑪自治会の話がでましたが、学生運動にはどういった形で関わっていたのですか7.\nA“学生大会に出たり、デモに行ったりしました。当時の用語でいうノンポリよりは活動的でした。ただ私の活動\nの中心は、サークル活動でした。\nQ“史考会はかなり精力的に活動していたのですか?\nA》活動のメインは早稲田祭のシンポジウムです。その時期が近づくと喫茶店で徹夜するということもありまし\nた。シンポジウムのテーマは明治百年祭が問題となっていたこともあり、明治維新論でした。そこで安丸良夫\nさんを知ることになります。\nそのための勉強会を開き、レジュメをガリ版で作ってというものでした。それぞれが明治維新に関すること\nを調査し、それを報告するという形です。\nりましたから。\nありませんでした。\n14\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nA坤当時の言い方からすれば、民衆闘争史ではなく、人民闘争史になりますね。私の頭のなかではもう少し古くて\n階級闘争史でした。その意味では、林基さんに近かったですね。\nQご」の段階では林さんの研究をどのように捉えていたのですか?\nA“もちろん林さんの「宝暦天明期の社会情勢」(家永三郎等編「岩波講座日本歴史第一二巻(近世第四)」岩波書\n店、一九六三年所収)が出て、それをみんなで読み、影響を受けました。\nQ》他にはどういった方の影響を受けましたか?近世史の研究者のお名前があまりありませんが。\nA卵近世史は滝澤武雄さんがいました。当時の学生にとっては、滝澤さんのお話はあまり面白くありませんでし\n歴研の大会(歴史学研究会、大会一九六八年五月)、安丸良夫・色川大吉・鹿野政直の三人の共同研究で、\n安丸さんが民衆意識論をやりました。色川さんの方に惹かれる人もいるし、鹿野さんは早稲田の先生でした\nが、私は安丸さんに惹かれました。\nQ“サークルのなかで維新論をやりながら、時代性もあり、人民闘争史の方に興味をもたれるようになったのです\nQ“いままで出たお名前の方が書いた論文は大概眼を通していたのですか?\nA“もちろん読みました。鹿野さんの「資本主義形成期の秩序意識」(筑摩書房、\nら、大学四年の時の鹿野さん授業では原稿を読んでいました。\nQ“北島正元さんは?\nA“大学院からでした。\nか?\nた。\n九六九年)が出る頃でしたか\n15\nQ卵そもそも近世史を意識し始めたのはどういった契機ですか?\nA二番の基本は明治維新をどのように考えるかということで、そのための階級闘争論なのであり、近世というよ\nりも百姓一摸の方が先なんですよ。近世史を研究するということではなく、明治維新を解明するために百姓一\n摸を研究するという意識です。ですから、大学院に進学する際に、近代・近世どちらにいくかということにな\nると、百姓一摸ですから近世史に進むということになります。\nQ亜サークルとしては石母田正とかをよんで、明治維新論ではテーマを決めて安丸さんとか林さんとかの論文を読\nんでいたということですが、高校の時から読んでいたのですか?\nA“いえ、高校の時は読んでいません。大学に入って「史考会」というサークルのなかで百姓一摸だったら林さん\nという感じでした。テーマが百姓一摸と決まったことの方がかなり早かったです。\nQ卵サークルなど、他の方々は時代的に維新論や階級闘争史に入っていく方が多かったのですか?\nAれは、同じサークルのなかでは中世史を専攻する人がいたり、サークルの活動はサークルの活動で、個々の\nQ韓当時、林基さんがいて、それから安丸さんが雑誌「思想」や「日本史研究」等に書かれた論文でしたり、かな\nり階級闘争史というか民衆思想史的な性格のものでしたが、どのように捉えていましたか?\nA“読む頻度としては、林さんより、安丸さんのものが多かったです。例えば、安丸さんの。世直し」状況下の\n民衆意識」を読んだり、色川大吉さんの「民衆憲法の発見」には興奮したりしていました。ただ、大学院に\n入って思想史を専攻する人たちの頭の良さについていけないと思いました。頭の構造が違う。例えば宮沢誠一\nさんとか奈倉哲三さんとか(笑)\n軸それは、同じサークル〈\n専攻はそれぞれでした。\n16\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQ坤大学学生時代に決め手となるような論文はありましたか?\nA“学生時代ではなかかなかそこまでいけないものではないでしょうか。いろいろなものを読みましたが、それが\nよかったと思います。ただ、卒業論文の時に歴史学に深く入り込みますよね。その時は安丸さんの歴研報告を\n基軸にしながら、卒論のテーマは世直しの思想とその形成過程でした。\nQ“卒論で具体的に焦点を当てたのは?\nA二一一浦命助(三閉伊一摸、一八五三)と菅野八郎(信達騒動、一八六六)でした。命助の「獄中記」と八郎の一\n連の著作の分析でした。まだ「民衆運動の思想」(庄司吉之助・林基・安丸良夫箸「日本思想体系〈五八〉」岩\n波書店、一九七○年)が発刊されていませんでした。あの本があればすべて解決でしたが、命助の「獄中記」\nが手に入らないんです。森嘉兵衛さんの「南部藩百姓一摸の指導者三浦命助伝」(平凡社、一九六二年)を買\nいましたよ。二万円。当時二万円でしたよ。神田で売り出されました。翌年二五○○円で復刊されましたけど\n(笑)。八郎のものは庄司吉之助さんの論文を参考にしました。どうしても、「獄中記」の方がまとまっていま\nしたからそちらが中心になりました。したがって三閉伊一摸に惹かれていきました。\nQ⑪卒論執筆の際にどのような指導をうけたのですが。\nA“東洋文化専攻でしたから、そういった意味で演習が扱う範囲は幅広かったです。卒論の担当教授は由井正臣さ\nんでした。鹿野さんが体調を崩されて二文の学生を担当することは出来ないとのことでして、私はそれを聞い\nて「それはおかしい」と抗議をしにいきました。その際鹿野さんは「それではあなただけ担当します」とのこ\nとで、「それはもっとおかしい」と(笑)。由丼さんに問題があるわけではないですし。しかしながら、鹿野さ\nんが担当してくれると思い、卒論のテーマを「世直しの思想とその形成過程」に設定したのだとは鹿野さんに\n1ア\n伝えました。それは鹿野さんしかあり得ないテーマですから「それが持たないとはなんだ」ということになり\nました。「二文を下に見ているのか」といいたくなりました(笑)。鹿野さんは「そうではなく体力がもたなく\nて」とのことですが、それは理解出来ますが一言だけ文句を言わなければ気が済まないと思いました(笑)。\n鹿野さんは「それもわかる」といって、先ほどの「君だけは:.」になりました(笑)。実は「世直しの思\n想とその形成過程」のその一つには、いろいろな近世の民衆意識・運動のなかから「世直し」につながってい\nくのだという設定ですから、この時すでに義民を扱っていました。今私が考えている義民論とは違い、佐倉惣\n五郎だけを考えているものですが、一つの節は義民でした。義民も当初から問題意識にはいっていたと、あえ\nてではありますが言うことはできます。\nQ》それは、八郎などが義民化される影響として惣五郎を扱ったのですか?\nA”そうではなく、「惣五郎物語」(佐倉惣五郎にまつわる説話)のようなものが近世の民衆意識に影響を与えたは\nずだ、という視点から扱いました。日本全体の民衆意識のなかで検証したいと考えからです。ですから、惣五\n郎の事例が八郎や命助の義民化にそのままつながるものではないですし、その点からいえば、例えば三閉伊一\n摸の中の動きであった大明神に祀ることなどは見落としていました。\nQ坤卒論はそのようになると鹿野さんに担当してもらうということを意識してのテーマ設定だとのことですが、研\n究史の軸・核となるものはどういったものだったのですが?\nA叩それはやはり安丸路線に沿った論文でした。大学院の面接の際、「君は誰に影響を受けたのか」と問われ、私\nは「安丸良夫です」と応えると、「君のやっていることは深谷克己だろう」と言われました。深谷さんは教員\nではありませんでしたから、深谷さんの論文はほとんど読んでいませんでした。その後はかなり読み込み、私\n18\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nの百姓一撲論の骨格を形成していくことになりますが。\nQ函それまでは深谷さんとの面識はなかったのですか?\nA唖まったく知りませんでした。大学院での先輩で知っていたのは杉仁さんだけでした。杉さんは早実におられた\n関係で、私の教育実習の先生でした。\nQ“卒論を書かれた頃には深谷さんは精力的に執筆されていたのですか?\nA“もちろん。例えば、七○年に「島原の乱の歴史的意義」が「歴史評論」の第二○|号ではなかったですか?歴\n科協になった第一号だったと記憶していますが。\nQ“七○年ではなく、一九六七年一一月五月のようです。それが「歴史評論」の二○|号です。\nA“それでは見ていなければならなかったですね(笑)。ただ、「七○年闘争とわれわれの歴史学」s歴史評論」第\n二三一号、’九六九年一一月)には強くひかれました。\nQ》そうでしたか。大学院の面接時の話はどなたからの指摘だったのですか?鹿野さんですか?\nA卯いえ、大学院の面接ですから全員です。あの指摘は洞富雄さんだったのではなかったかな。\nQ卵それはどういった意味だったのでしょうか?研究テーマ・計画書から考えるとのことでしょうか?\nAmそういうことでしょうね。私は大学院はズルしてはいったから(笑)。推薦入試なんですね。そういうシステ\nムが数年間あって、九月には入学は決まっていて、あとは卒論の評価が「優」であることが条件でした。です\nので、由井さんに「優」じゃなければ私は大学院にいけないのだから絶対に「優」を付けてくれ」と頼みま\nQ叩それは九月までの段階で進学の希望も出していたのですね。かなり早い段階から進学を希望されていたのです、\nした(笑)。\nか?\nA地あまり勉強もしていませんでしたし、教員になるためには、あの当時は、一級・二級でしたが、一級免許の方\nがなりやすいということもあり、一級免許をとるために大学院に進学しようと。就活なんてさらさらやる気は\nありませんでした。大学院に行って教員になろうと考えていました。\nQ北学生生活のなかで、サークルの活動などについてお話をお聞きしましたが、どういった生活されていたのです\nか?例えばアルバイトですとか。\nA廸私はアルバイトは家庭教師しかしていません。ただ、私は実家の店番をしていましたから、その頃は大学に通\nう銀座線・東西線のなかで店に飾る用の編み物をしていました(笑)。スキーに行く時に上から帽子・セー\nター・マフラー全て自分で編んで着ていきましたね(笑)。ああいったものは自分で編んではダメで人に編ん\nでもらわないと(笑)。本代などは、すべて小遣いでした。家庭教師は週一回・二回で、二組・一一一組見ること\nが多かったです。四年間通してといったものではなく、臨時的なものが多かったです。アルバイトは修士まで\n家庭教師しかしませんでした。\nQ⑪他に大学時代のエピソードはありますか?\nA“白土三平の「カムイ伝」ですね。大学時代に、かなり前からですが、「ガロ」で連載していましたから。史考\n会のメンバーは「ガ且を買って「カムイ伝」を読むことは当然のことでした。「カムイ伝」が休載の時は\nガックリしました。「ガロ」ファンの中には「もう「カムイ」は止めろ」との声がありましたが、やはり「カ\nムイ伝」がメインでした。ところが、数ページしか無いときもあり(笑)。\nQ“楽しみにしながらその影響をうけたのですね。\n20\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nA坤もつとも「カムイ伝」の百姓一撲像を全部壊したのは私なのですけどね(笑)。でもやっぱり、階級闘争への\nあこがれ。それをビジュアルに示してくれたのは良かったです。\nQ恥それ以外に日本史の枠組みではなくて何か他に読みましたか?\nA》あまりこの時期は読みませんでした。大学に入る頃には、大学は西洋史を専攻しようと考えていました。大学\n受験は世界史でしたし、フランス革命史を専攻しようと考えていました。しかしながら、英語が出来ないのに\nフランス語ができるわけではないと思い、東洋史で太平天国を研究しようと思いました。ですから、東洋文化\n専攻はある意味でちょうど良かったと思います。ところが、ピンインを見てイヤになって(笑)、要するに横\nにはいつくばった字はイヤなんですよ(笑)。\nQ“それでしたら、東洋文化専攻のなかで東洋史を専攻する方々と接点をもたなかったのですか?\nA⑭あまり人数がいませんでしたし、日本史が多かったですから。\nQ“大学院に入学したのは?\nA“一九七○年の四月です。マスター三年、一年浪人してから、ドクターに七年いました。変なシステムでして、\n早稲田は七年居られました。そのシステムはおかしいとうことになりまして、システム改変の最初の年でし\nた。したがって、私以降の人は七年間在籍できませんでした。いい加減だったんでしょうね。(笑)\nQ唖となりますと確認ですが、一九七三年の三月に修了されて、一九七四年の四月にドクターに入学されて\n〈大学院時代〉\n21\nQ》大学院の専攻は日本史で近世専攻となりますと当時は北島先生お一人だったのですか?\nA蕊そうでした。選択の余地はありません。北島先生は早稲田の専任教員ではありませんで、当時は都立大学の教\n員でした。いつからだったか途中から立正大学にうつられたと記憶してます。\nQ『そうなりますとずっと早稲田大学の専任になられたことはなかったのですね?\nA》そうです。ただ、北島門下生はたくさんいます。\nQ“早稲田大学では同期の方はいらっしゃらなかったのですか?\nA二人だけいましたが、文学の方に移りたいとのことで止められました。きついんですよ、ゼミが。\nQ》どのようにゼミは進められたのですか?\nAご一つありまして、一つは午前中が近世の経世家の本を読むというものだったと記憶してますが、こちらのほう\nはあまり覚えてないんですよね。最初は太宰春台の本だったと思います。荻生祖採はやらなかったと思いま\nす。これは輪読と報告です。午後はゼミになります。ゼミは共同研究で加賀藩改作法でした。ドクターの頃は\n尾張藩となりましたが、ずっと加賀藩改作法をやっていました。私がゼミに入る前年度までに加賀藩史料のう\nち、どの史料を扱うかで議論して史料集を作成していました。それを輪読する形にはするのですが、読んで・\n訳して・報告するという形で、とにかく全員で加賀藩改作法に取り組むというものでした。私は維新論からで\nしたからこれはきつかったです。初期藩政改革なんていうものを考えたこともかつたようなテーマですから。\nとにかく、ゼミの報告はそれだけですから。個人の報告のようなものは一切ありませんでした。ゼミ員を三つ\n一九八一年の三月に》\nA晒そうなると思います。\n三月に満期退学されたということでよろしいですか。\n22\n〈対談〉17姓一摸・義民研究を語る\nA沖ドクターでした。\nQ\n■■\nQ\n■■\n当にハードでした。報生\nしました。報告の前に、\n況でした。\n前の助手は上杉さんでした。\nま\n、\nね\n○\n出席してるわけですよ。\nだったと思いますが、\nその時の深谷さんはどうい\nのグループに分けて、\nゼミですぐ上の先難とかはどなただったんですか?\nやっていたりしていました。ただし、\n一郎氏がいました。政治w\nの三人でした。それから、\n報告は三岡に一回まわ\nのですが、大体一番下が\nし】\nて\n、\n修士論文執筆時期になりますと、\n当然階級闘争のグループにはいりました。\n担当します。ですから、最初の頃は三回に\nⅢまわってくる}\nしかしながら、早稲田高校の非常勤左\n報告では、\n政治は上杉允彦氏、紙屋敦之氏らがいました。思想は、杉仁氏、宮沢誠一氏、\nそれぞれが報告するという形でした⑥\nすぐに助手になりましたから。\n考えてみればめちゃくちゃですよ\nグループの研究会があるのですが、\n聴講生のような人が来ていました。\nった立場だったのですか?\nだからゼミに助手が、教員が\n史料の読み方でかなり指摘されました。\n)とになりますよね。\n彼らが抜けますから、\nドクターの最後の年\nそれで、\nっての\nグループのなかで討論して、\n階級闘争グループの頭は深谷克己氏、\n政治と思想とそれから階級闘争の三つに分かれて\n深谷さんは忙し\n午前と午後を合わせるとほぼ毎週報告でした。霧\n蕊\n回報告することになります。\n読み方だけの討論で二時間かかったり\nいから夜しか集まれないという状\nそれをまとめて報告する\nそして吉武佳\n、奈倉哲三氏\n途中から\nノ 一一一一蕊 一●屯\n本\n郷3\nその後は、話がずれますが、大学院にはいって、三閉伊一摸は五月なので、その時期に調査にはいることが\n多かったです。ちょうど顕彰碑が建ったりする時期で、それに立ち会ったりしたりしていたものですから、大\n学院入学当初の頃から数年は歴研大会に参加できませんでした。\nQ》そういった記念祭に参加されたりしていたのですね。\nA卯はい。三閉伊一摸の基本史料で命助の「獄中記」ですとか、「庶民生活史料集成」の「南部藩百姓一摸記録」\nという形になっている「内史略」の史料が基本史料としてありますが、それでも史料調査をしようと思い、深\n谷さんに武田さんを紹介してもらいまして、初めて会う日は武田さんが盛岡駅で待っていてくれまして、お互\nいに「歴史評論」を持ってそれを目印に落ち合いました(笑)。武田さんとは岩手県立図書館や、盛岡市の中\nQ》早稲田大学時代は崩し字を読む講座が無いとお聞きしたことがあったのですが、崩し字購読はゼミのグループ\nで教えてもらったのですか?\nA“いえ、私の古文書の先生は武田功ざんです。直接教わったわけではないのですが、武田さんにつれられて、と\nにかく史料の写真を撮ってくるのでが、史料が読めませんから、完全に独学で読みました。古文書に最初にぶ\nつったのは、偶然ですが、史考会の合宿に大学四年の時に行ったときでした。秩父でした。秩父で宿屋に蔵\nがって、そこを見せてもらったところ、明治期を中心として古文書が出てきました。そこで文書というもの\nA二年上が紙屋さんです。その上が宮沢さんです。奈倉さんはいろいろな理由で私の後輩になります。教育学部\nの学生であると同時に大学院のゼミに出席していました。一つ下が湯浅隆さんになります。その下が浅見隆ざ\nかったのは、偶処\nあって、そこを目\nを初めて見ました。\nんです。\n24\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\n央公民館は南部家の史料を持っているのですがそこを調査したりしました。それから、武田さんが、|摸が\nあった実際の地域に連れて行ってくれまして、命助の家に行ったり、命助の「獄中記」を見たりしました。命\n助の「獄中記」は撮影時に露出を間違えて家に帰ってみると真っ白で何も映っていなかったことがありまし\nた。悲劇ですよね(笑)。武田さんがそのようにいくらでも連れて行ってくれるので、史料の写真を撮ってく\nるのですが、まったく古文書が読めませんでしたので、とにかくひたすら辞書をめくりながら読みました。当\n時はまだ崩し字辞典が刊行されていませんでしたから、みんなは「五禮字類」だというのですが、私は「大字\n典」の後ろに草書体が載っていてそれを見ながら解読していました。特にマスター二年の時に日本史専攻協議\n会(日史協)という自治会の書記長をしていまして、忙しかったですから、大学行ってもいろいろな運動があ\nるので、常に写真を持ち歩いていて、時間ができると喫茶店に入ってそれを読んでいました。カバンには「大\n字典」も入っていてさらに「広辞苑」も入っているわけで(笑)。\nQ坤ゼミで史料集を作ったとおっしゃってましたけど、その文字起こしはどのようにしていたのですか?\nA池それは「加賀藩史料」のなかから選択していたので、文字起こしの必要はありませんでした。上杉さんや深谷\nさんらをのぞいて、実は先輩たちはあまり読めませんでした。ですから数人の先輩に教えました。その勉強会\nには勝田政治さんも来ていました。\nQ“北島先生はどうでしたか?\nA“北島先生とは、週に一回ゼミの時に会うだけですから。常にそばに居るわけではなかったですから。文書解読\nを教わるということはまったくありませんでした。もちろん、一○時から一六時くらいまでゼミをやってい\nて、ずっとお付き合いいただけて有り難かったですけど。授業二コマ分のお給料ではとても見合わなかったで\n25\nQ函マスターに入学されてすぐに、史料調査に入ろうという考えがあったのですか?\nA》卒論の時も足で稼ぎたいということを鹿野さんや由井さんに話していましたが、卒論ではなかなかそれができ\nませんでした。やはり現地に行って現地で史料をみてということを考えていました。ですから、深谷さんに武\n田さんを紹介してもらってすぐに調査に行きました。\n武田さんの存在は大きかったです。武田さんがそれまで長い年月かけて調査蒐集してきたものを、私は写真\n撮ってまさに略奪ですよね。それで済んでしまうわけで。まあ、修士論文をかくまで、マスター三年の夏休\nみまで調査に入っていました。\nQ》いまマスターに入学してすぐに調査に入ってということで、卒論からの流れがあったと思いますが、もう一つ\n卒論では菅野八郎の存在がありましたが、それを三閉伊一摸・命助に絞る経緯にはどういった考えがあったの\nA亜実は卒論の段階でも、取り組んでいて命助の方が面白かったのです。ですので、意識として、命助の方にとい\nうことだったと思います。卒論段階では二人を並べましたけども、時代的には嘉永から慶応ですから、本来嘉\n永から慶応に連続しているなんていうことを卒論でも書きましたけども、実際は命助から八郎への変化は追え\nませんでした。卒論を読んだ由井さんが、「そういうもんかな」と言われましたけど、それは由井さんの指摘\nのとおりで、その変化ではないと思います。時代差はあるのだと思うのですが。取り組んでいても、信達一摸\nではなく三閉伊一摸の方に興味がいっていたと思います。ですから、大学院入学時点で「三閉伊一摸をやりま\nす」と伝えていました。すぐに深谷さんも武田さんを紹介してくれました。ほんとうに武田さんと会えたこと\nですか?\nしょ這うし。\n26\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQmゼミの話に戻りますが、入ってすぐに加賀藩のことを取り組まれて、その翌年には「民衆史研究」で深谷さん\nと吉武さんと共著でその成果を執筆されていますが、一年の間にかなり議論が深まったのですか?\nA叩私が入る前から史料集作りなどをしていたから、深谷さんも吉武さんもすでにこの課題に関する基盤ができて\nいました。ほとんどの人は「深谷克己他」として引用しますけども、実はこの文章のほとんどを吉武さんが執\n筆しました。吉武さんの明治大学での修士論文は、加賀藩改作法がメィンテーマですから、そちらの専門に\nなっていきます。あの文章で私が書いたのは、実は義民園田道閑についてでした。私の義民論の原点は、あの\n題材だったと思います。具体的には、文化の一摸の打ちこわし対象にされかねない男が道閑の義民顕彰をす\nる。その意味は何かということでした。林基さんや横山さんたちの義民論は闘争の顕彰というものでしたが、\nこの題材で、そのように簡単にいかないということを学びました。闘争の対象が顕彰したのだということの意\n味を考えることが、その後の義民顕彰研究において大事な問題提起になったと思います。調査も三人でいきま\n「百姓一摸と義民の研究」のなかにも、唯一三閉伊一摸について書いているものがありますが、そのなかで\n金浜村の史料で、この文書は三.一一震災でもう無いと思います。その史料で面白かったのは、|摸に参加し\nた人々がどこまで行って帰ってきたのかわかるもので、それを分析してみると、村役人はきちんと二つに振り\n分けられていて、それから唐丹(釜石市)に行った人々は残る者と帰る者が半分ずつということがわかり、こ\nれは個人ではなく村の意思だという論文を書くことができました。これは撮影した写真を見ながら書きました\nが、これは武田さんが調査してくれていたおかげでした。この史料は「宮古市史」資料編に全文救っています\nは大きいです。\n、}蹟\nけども。\n27\nQ”秩父の調査は大学院時代にも史考会に参加し、そこで佐藤さんとつながるという流れですか?\nA恋いえ、史考会は学部のサークルです。佐藤さんとは学部時代からの同級生で、調査には個人的な関係で行きま\nした。あと慶應大学の女性と三人で調査に入りました。\nQ函林基先生との関係はどのような経緯ではじまったのですか?\nA恥林さんの「国民の歴史一六享保と寛政」(一九七一年)と「続百姓一摸の研究」(一九七一年)だったと思いま\nす。「享保と寛政」の索引は私が作りました。先ほどのゼミの階級闘争グループで林さんのところに一緒に行\nした。道閑の村もいきました。若林喜三郎さんの「義民道閑伝」というなかなか手に入らないものも入手する\nことができて、これは助かりました。\nQ二一一人の執筆分担はどのようにしたのですか?\nA恥論文を執筆する際に、「お前はこれをやれ」という形で、このテーマを扱いました。長くもないですし、まと\nまっているから一番下の私に取り組ませることは好都合だったのでしょう。\nQ韓先生の義民論が横山十四男さんらの捉え方と違うのは、この時の論文を見て感じていました。\nA恥その通りで、このときの出会いが私の義民論の原点になります。\nQ”史料調査について三閉伊一摸の調査ということで東北地域、そして金沢にということでしたが、それ以外にも\n全国的に調査されたのですか?\nA“いえ、史料調査という意味では東北の調査と、もう一つは秩父で調査をしました。秩父の長留という地域に、\nものすごい史料群があって、その調査はしました。ですが、メインは私の調査ではなく、これは佐藤政憲氏の\n調査でした。\n28\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nくという感じでした。深谷さんは定期的に顔を出していましたし。続編にどの論文を掲載するか、三人で議論\nしました。林さんの部屋のあの膨大な本のなかで話し合いました。ミカン箱に本を詰めてそれを積み上げてい\nました。まさか、その蔵書を後に長野県青木村で整理するとは思ってもみませんでしたけど。\nQ“林さんとお話する時は、ご自分の研究について相談されたりされたのですか?\nA“それもしますけども、林さんはご自分の話しをすることが多かったですが、勉強になりました。林さんとは早\nくから関係を持てたことは大きかったですね。索引を作らせてもらうのも自分の研究として大きかったです。\nすべて読むわけですし。それもマスターに入学してすぐにそういったことをさせてもらえたのは有り難かった\nQご」の頃は、ゼミの他のグループはどういう活動をされていたのですか?\nA碑それはなんといっても思想グループの仁政イデオロギー論でした。厳密には、私が入学する前年にその概念が\n出たのですが、あの名前を付けたのは杉さんだと思いますが、一世を風廃しましたよね。彼らは「すべての史\n料は思想史の史料である」という合い言葉のもとに研究に取り組んでいましたね。ゼミの活動以外に吉武さん\nと百姓一摸関連の論文を読もうじゃないかということで読書会を始めました。それが後に「百姓一侯研究会」\nとなります。マスター時代にはじまり、そこに他大学から齋藤純さんだとか落合廷孝さんらが参加するように\nなりました。そうした流れで大きな研究会となりました。その原動力は間違いなく齋藤さんです。月二回位報\n告会がありました。そこに堤洋子さんも出てくるようになります。そういう意味で恵まれていたと思います。\nQ血それでは元々は吉武さんとお二人で身内の勉強会として活動していたものが、いろいろなところで知り合った\n同世代の方が参加して大きな研究会となったのですね。場所は早稲田ですか?\nです。\nZ,\nA卯最初早稲田でしたが、後に明治大学となりました。明治大学の方が場所をとりやすかったので。\nQ“その研究会は一番多いときでどれくらいの方が参加していたのですか?\nA二二十人くらいだったと思います。専修大学から林門下の学生が来てそれが一つの核となっていましたから。全\n国義民顕彰連絡協議会(全義連)で一緒にやった高橋正一郎さんらもいました。\nQ恥百姓一摸研究会には深谷さんたちはあまり関与しなかったのですか?\nA”参加されていましたが、中心は齋藤純さんや私です。研究会で本を作ろうという時に深谷さんや青木美智男さ\nんを頭に担いでというものでした。常に忙しい方々ですし。青木さんは毎年歴研大会で報告していましたし。\n青木さんも深谷さんの紹介で関係をもちました。\nQ函マスター時代は他の研究会活動はどういったものでしたか?\nA恥その時代、私は基本的には日史協の活動でしたから外にあまり出ることができず、その意味では、百姓一摸研\n究会で外とつながることができました。\nQ二一一年生でマスター論文を執筆することになりますが、その理由はどういったものだったのですか?\nA“上級生もみんな三年で提出していました。二年で書けるものではないというものです。もう一ついいますと、\n英語の単位を落としてしまったのです。テストの日に熱が出まして(笑)。ですから、英語の単位を落とすと\n自動的に三年ということになります(笑)。\nQ“修士論文のテーマはどういったものでしたか?\nA当幕末南部藩政の危機と百姓一摸」です。\nQ“それが後の北島先生の編著舍幕藩制国家解体過程の研究I天保期を中心に‐」吉川弘文館、一九七八年)に\n30\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nA碑そうです。藩政改革と百姓一摸となります。ただし、修士論文では嘉永を中心に取り組みましたが、あの本で\nは天保期(「天保期南部藩における家臣団の動向」)を扱いました。ですから、修士論文を分解せずにやりまし\nたので、修士論文は全くの未発表ということになります。\nQ“修士論文において藩政改革と百姓一櫟というテーマ設定はやはり共同研究の影響があったのですか?\nA⑱そうですね。それが強かったですね。当時はまだ人民闘争史の時代で、佐々木潤之介さんが牽引していまし\nた。佐々木さんの論には違和感を持っていました。悪くいえば、階級決定論であり、生きた運動ではないとい\nう感じがしていました。ですから、そちらに傾倒しませんでした。\nQ函それでは修士論文では佐々木さんの論ではなく、深谷さんの論に傾倒したのですか?\nA酔そうですね、深谷さん論に影響を受けましたし、林さんが主張する政治に絡めて運動を見なければならないと\nいう考えかたに影響を受けました。ですから、天保期の論文に対する批判は、状況論であって階級論がないと\nいうものでしたが、その通りだと思います。第一、あの地域では村方文書は残らないのです。何度も津波等の\n被害を受けていますから。ですから、村方文書は無いのですよ。ですから、階層構成を分析しようとしても、\nそれを示す史料が無いんです。\nそしてもう一つ、東北ではすぐに名子論に入る傾向がありますけども、それにも違和感をもっていました。\n遅れた東北の名子的行動だから旧土豪的一楼、というものです。あの運動を見て果たしてそう言えるのか?運\n動からみないで名子論を結びつけようとするからおかしな認識につながっているのではないかと思いました。\n村方史料がないということは、当時、研究を進めていく上で、非常に取り組みにくかったです。階層構成表\nつながってくるのですか?\n3\nAmそうですね。後の時期に連続させていくというのはそうですね。そう思います。やはり、階層構成表を作るこ\nとが出来るのであれば、それを一所懸命作っていたと思うのですよ。そういうふうにやるべきだと思われてい\nたのですから。たくさんの史料を武田さんに紹介してもらいましたけど、一つも村方文書はありませんでし\nた。彼の頭のなかには村方文書というものがなかったのだと思います。実は史料はあったのかもしれません\nが、そういう理由もあって出てこないのです(笑)。\nQ血話をゼミの話に戻しますが、その運営を含めてその当時を振り返って、いかがですか?\nA二番大きなテーマは共同研究論というものですね。ゼミって何か?院生とは何か?その上で研究を生産的に進\nめるためにどのような組織を作らなければならないのか?そういうことを盛んに討議しました。当時の討議の\nやり方は、米帝国主義と日本反動独占資本という切り口から入っていって、そこから自分たちの学問とはどう\nいうものか?自分たちはどういう立場なのか?ということを討議しました。これは、全国院生協議会でも討議\nされてきましたし、歴史学では東歴研の共同研究の成果で深谷さん「七○年闘争と我々の歴史学」代表で書い\nています。その中で過渡期の研究者、全院協では新しい研究者と規定しましたけれども、研究者として大学院\n生はどのように生きていくべきなのか?だからこそ、どのような要求を出すことが出来るのか?を問うことは\nを作ることができませんし。表を作ってから始めるというものが一般的でしたから。でも、階層構成表を作る\nことができなかったことはかえって良かったかもしれませんけど(笑)。\nQ当南部藩の闘争と藩政の研究(百姓一摸研究会編「天保期の人民闘争と社会変革」上吉川弘文館一九八○年)」\n手法法はは、、Zその後の先生の研究手法の傾向にある、大小の運動を確認しながら立論してくという点で共通してい\nますよね。\n32\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQ酔共同研究でレジュメ集を出していますよね。国会図書館に納められていて、私もそれを確認しにいきましたけ\nど、その後の民衆運動研究者も大きな影響を受けていますね。\nA亜あれはすごいレジュメ集ですよね。加賀藩改作法の時は出しませんでしたけども。その代わり「民衆史研究」\n(早大大学院近世史ゼミ「共同研究「加賀藩改作法」」第一二号、一九七四年五月)の方に論文が掲載されまし\nたけど。共同研究論については、やはり矛盾が出てきます。個人の報告をどうするのか?個人の研究をどうす\nるのか?という問題については、結局克服できませんでしたね。共同研究が進めば進むほど、個人の報告の機\n会がなくなるのです。そうなると内部に不満がたまっていくようになります。私の時は不満がたまるもなにも\nなかったのですが、私が高学年になってくると個別報告の要求が出てくるようになりました。しかしながら、\nQ”入学した際に共同研究論の狙いや目的というものが説明される場があったのですか?\nA坤ありました。例えば、ゼミの第一回目はゼミ論ですから、ゼミとは何なのか?ということが討論されますか\nですから、常に前回ゼ{\n認していく流れでした。\n闘争の根拠であり、そういう討議を重ねるなかで、現実的に北島ゼミでは加賀藩改作法をみんなで共同研究す\nるという形をとったわけです。その共同研究の足になるのは各グループになります。ですから報告は、形式上\nでは個人が話しますが、それはグループの発表でした。そして教員というのは?となると、北島先生がよく\n「わたしの立場も考えてください」といってましたが(笑)、先生はゼミの討議を引っぱっていくような方では\nなく、宮沢・奈倉・深谷・上杉氏らが引っぱっていました。それを克明にメモをしていたのが杉さんでした。\nから、常に前回ゼミ討論のレジュメが「杉メモ」という形で出されて、それを参考にしながら、討論を確\nら\n0\n33\nQ“マスター時代の共同研究等の話のなかで、研究者として・ゼミとは.院生とはということから学ばれ、修士論\n文というのは個人研究ということで取り組まれたということでした。修士論文では、幕末南部藩政と危機とい\nうテーマでまとめられたということですが、その際に、研究者としてその後の課題が見えたということで、ド\nクターに進学されたのですか?\nA“マスター時代に研究者であるということを自覚するように言われていましたから、進学当初の目的にあった教\n員免許の級数を上げるということは全く忘れていました。結局専修免許状の申請もしませんでした。生活のた\nめには教員という職もあり得ますが、研究者になるんだと考えていました。それでも、研究者として、研究課\n題において将来の展望があったのかというとそれは厳しい話です。みんなでワイワイガャガャやっていれば、\nそのうちどうにかなるよというところが本音だったのではないですかね。とにかく、研究者になろうと。そし\nて、当時は高度成長期でしたから、なんとか生活していけるだろうと(笑)。\nそれで、研究テーマは相変わらず南部でした。南部をやっていて、研究の動向は詰まってきた感じがしてい\nQ“しかしながら、そうした手法のなかで、仁政イデオロギーのように研究者に多大の影響を与えた論理が出てき\nたのですよね。\nA“そうですね。\n共同研究の維持のためには、そういった要求を押しつぶさざるを得なかったのです。個人の研究スキルは共同\n研究で上がっていくのですが、要求されているテーマは共同研究で与えられたものであり、自分の興味関心と\nは関係が無いのです。ですから、大学院の授業として本当の意味で正解だったのかわかりませんが、私にとっ\nては正解だったと思います。\n34\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQ“その「追いつけない」というのは、論理的な部分がわからなかったということですか?\nA“そうです。議論に乗り切れなかったです。\nQ”そのように忙しく自治会の活動をされるなかで、ドクターに進学されたのですから、先ほどお話しにあったよ\nうにゼミの運営もしなければならなかったと思うのですが、どうされていたのですか?\nA密基本的なゼミの運営はマスターの三年が行うことになっていますので、その時期は越えていました。それで\nました。何年だったか北島さんの「幕藩政国家解体過程の研究I天保期を中心にl」(北島正元編、吉川弘文\n館一九七八年、「天保期南部藩における家臣団の動向」)のなかで、林基さんの武士的反対派論を核としなが\nら、南部の武士的反対派を分析しました。これはいろいろなところで評価をされました。他には、東京大学出\n版会のヨ摸」(第二巻「一摸と打ちこわし」、一九八一年)が大きかったです。そのなかで、通史を執筆しな\nければならなかったですから。その頃に「編年百姓一摸史料集成」(以下、「編年」)の刊行がはじまりました。\nQ”ドクター時代はどうですか?\nA“ドクター時代は、結構きつかったです。現役の頃は論文も発表できませんでしたし。特にドクター一年の時は\n活動家でしたね。日史協の議長、早院協(早稲田大学院生協議会)の副議長でしたし、文研協(文学研究科院\n生協議会)の議長でしたから。早稲田文研で自治会があったのは、日本史と哲学だけでしたが、文研協は文研\n院生の全員が参加できるというものでした。そのような状態でしたからそちらの活動が大変でした。\n齋藤純氏の東歴研報告がその年でした。その時、とにかく私は勉強していないので、齋藤・吉武・浅見氏ら\nの議論に追いつけない。その状況にとにかく焦ったことを覚えています。この時期お酒を飲むと一番悪酔いし\nました。\nあ\nA“そうです。日史協で「史観」に院生が執筆できるよう要求して、その権利を獲得したのは七月の初旬だったと\n思います。そして原稿の締切が九月でした。誰が書くのか、頼むのかということになった時に私しかいなかっ\nたのです。狸得した権利を護るために強引に書いたものがこの論文です。この時、マスター時代に史料調査を\nやっていたことが大きかったです。これは岩手大学が所蔵している鉄山の経営関係の史料(中村家文書)です\nが、そのなかにいくつか出勤簿がありました。そこには、前借りいくらで何日出勤してどこの村の出身でとい\nうことが書かれていました。その分析を進めてみると、例えば一年も経たないうちに前借りを返せてしまえる\nような前借りならば、前借りではあるけれども、前借り支配とは言えないのではないか。勤務日から考えても\n賃金に近い性格なのではないかという感覚を持ちました。ただ、大工など、特殊な技能を要する職種はやはり\n鉄山アジール的な側面はあります。しかし、水かきなどの一般的従事者については、労働者的な側面を注視す\nる必要があるのではないか。そうしなければ、あの一摸につながらないのではないか。というものでした。こ\nQ鋸そうした活動のなかで「史観」(第九三号、「近世後期鉄山労働者の性格に関する一考察」、’九七六年)を執\nQ妙自治会の活動は畦\nA錘本当に忙しくて、\nりませんでした。\nも、共同研究には取り組まなければなりませんのでそちらも忙しかったです。そのときの共同研究のテーマは\n加賀藩から尾張藩になっていました。その尾張藩の研究を進めるなかで、ゼミ内を三つに分けたグループの一\nつのリーダーとして取り組まなければなりませんでしたので、大変でした。\n妙自治会の活動はどのようなものでしたか?\n錘本当に忙しくて、かなりデモもやりました。日史協がデモに参加するときは、私が旗を持って行かなければな\n筆されたのですか?\n36\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQ”ドクターに進学されて学内の自治会活動に従事されてきたとのことですが、研究会の活動としては百姓一摸研\n究会が中心だったのですか?\nQ『そのなかで、先ほどからお名前があがっている齋藤純さんらと活動していたとのことですが、百姓一摸研究会\nと東歴研の活動は合同でという形だったのですか?\nA率百姓一摸研究会は東歴研の部会ではありません。組織としては東歴研とは一切関係のない独立したものでし\nた。いわゆる頂点的リーダーはいませんから、誰々が主催しているというものではなく、純粋に大学の枠を越\nえてみんなでやろうじゃないか、という性格の組織でした。そういう形で活動できることが素晴らしいと思い\nましたし、だからこそやる気を出させてくれたと思っています。だから「天保期の人民闘争と社会変革」も青\nれ以降は鉄山について一切研究はしていませんが、そのときはいろいろと鉄山関係の研究を見ました。\nQ”それまでは「史観」には教員以外は執筆していなかったのですか?\nA函書いていませんでした。院生自治会の大きな課題の一つに発表の機会の獲得がありました。その後、大学院の\n紀要もつくられましたし、院生編は別につくられたり、院生の発表の機会が増えていきました。日本史は他の\n専攻と比べて発表の機会はある方なのですが、それでも発表の機会を獲得するということは重要だと思い、取\nり組みました。私の代では獲得できませんでしたが、その後の日史協の重要な課題は書庫内コピーでした。こ\nれも日史協の活動で勝ち取りました。図書館職員の部屋に近いということはありましたが、日本史の本の真ん\n中にコピー機が設置されました。そういった意味で日史協の活動は院生自治会として役割を果たしてきたと恩\nA》そうです。\nいます。\n37\n木美智男・深谷克己編ではなく、あくまで百姓一摸研究会編で発刊されたわけです。研究会で集まったみんな\nで校倉に本を出させようじゃないかということです。\nQ輔青木先生とは百姓一摸研究会で関係がはじまったのですか?\nAwそうです。研究会には毎回のように出席されていたのと、歴研の近世史部会の関係もありました。\nQ卯先生は歴研の近世史部会にも精力的に参加されていたのですか?\nA“はい。ドクター時代に近世史部会の運営委員をやりました。齋藤・吉田伸之・安藤正人さんが運営委員長の時\nまでやりました。国家論が始まるときで、紙屋報告だとか荒野報告だとかの時代です。\nQ坤他にはどういった方がいらっしゃったのですか?\nA韓先にあげた委員長の他には、少し下の年代に久留島さんとか白川部さんとか、同世代では菊池勇夫さん、村井\nQ坤地方史研究協議会には参加されたのですか?"}, {"subitem_textarea_value": "A坤いいえ。私は地方史にはほとんど参加しませんでした。雑誌の「地方史研究」を購読するのも遅かったです。\n出不精なところがあるので、あまりいろいろなところに出る性格ではないので。\nQ》それではいろいろな方々と関係を持つことができたということでは、やはり百姓一摸研究会は大きかったので\nA“はい。それと歴研の近世史部会の運営委員も大きかったです。\nQ“八一年に講座三摸」のなかで「|摸と打ちこわし」を連名で書かれたのですが、それまで南部というフィー\nルドがあったわけですが、ここでは全国的な視点が必要とされたと思いますが?\n早苗さんらがいました。\nすね?\n38\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nるという形でした。\nQ”それでは、内容や壁\nA“そうですね。「全国」というものを明確に意識したのはこの仕事でしたね。南部だけでは書けませんから。た\nだ、幸いなことに「編年」が出始めましたから、史料はあるわけです。私が担当したのは明和から天明期まで\nで寛政改革までかな。以降の化政・天保期は浅見さんが担当しました。\nQ》全体の分担はどのように決めたのですか?\nA恥決めたのは編集員の方々でしたが、島原の乱といった百姓一摸の形態になるまでを西田真樹さん、百姓一摸を\n齋藤・吉武氏の二人、それで後は私と浅見さん、世直しを落合さん、新政反対一侯を松田之利さんが担当しま\nした。中世から近世へ.近世から近代へというそれぞれの移行期以外は、百姓一摸研究会のメンバーで担当す\nQ函編年の話にうつりますが、集成として発刊されるという情報はあったのですか?\nA函そういったことはまったく無くて、突然宣伝で知って、これは買わなければと思いました。\nQ叩青木虹こさんとの関係はあったのですか?\nA鞄名前だけは知っていました。「百姓一摸総合年表」をさんざん使用していましたし。しかしながら、編年が刊\nA\n●●\n全編年百姓一摸史料集成』編纂〉\nそれでは、内容や構成については百姓一摸研究会で議論したのですか?\nいいえ。頻繁に顔を合わせているメンバーですから、個別に研究会を設けるということはしませんでした。共\n著ですから浅見さんとは良く話し合いました。\n31\nQ\n凸■\nQ報その時は、\nA沖いいえ。へ\nA\nQ”七九年に一\nQ\nA亜そうです。\n如先ほど言いましたとおり、\n》第五巻から先生のお名前が\nだったのですか?\nと相談したと思いますが、\nませんでした。一一\n田忠雄さんです。\nら、原稿の校正。\n行されることは全く知りませんでした。\nした、\nそもそも編年の編集に携わることになっ\nし\n、\nらいからは掲載史料の選択も少しするようになりました。\nらですよね?\nそれに携わることになると思いませんでした。\nその頃はまだ名前は出して\n青木さんはすでに次の巻の準備をして\n全一六巻と言っていました。\n巻が刊行されるのですが、\n編年の刊行予定は全二○巻だ\n四巻では純粋に原稿を校正するのみでした。\n一一一\n・校訂をする人間がいな\n青木虹こさんが亡くなって、三一の編集者か\n書房との関係からこの話を持ってきたのは山\n声をかけてもらいました。\n私は青木虹一\n川閂ています。それでは、\nいませんでした。\n先生が携われたのは四巻か\n一さんとは全く面識があり\nた経緯はどういったもの\nその上で、まさか自分が\nいから困ったという話で\nったのですか?\nいましたから。そうした状況で、\n青木虹こさんから直接依頼されたわけではなかったのです\n第五巻く\nしか\n山田さんは青木さんや深谷さん\n40\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nA曲そうです。青木さんが亡くなられて、三一書房側がどうしようもなくなって、山田さん経由で話が来たので\nす。先ほど話したとおり、ちょうど三摸」の話がありましたから、この仕事を受ければ、青木さんが持って\nいた史料をタグで見る事ができると思いました。ただし、きつい仕事になると思いましたから、受けるのを跨\n謄しましたし断るつもりでいました。結局、百姓一摸研究会のメンバーのうち、講座を受けた五人のうちの誰\nかがやらなければならないとは思いました。最終的には、落合さんに背中を押されて引き受けることにしまし\nた。あの時落合さんが押してくれたことは非常に大きかったと思います。それ以降の私の研究を決めていくこ\nとになるのですから。日本中の百姓一摸の史料を読まざるを得なくなる。私のところに史料があるという状態\nになるのですから。それは、今までの単なる若手研究者から、違う立場にならざるを得ないわけですから。\nQ叩第四巻以降は一九八○年から刊行されていますから、先生はそのあたりから編纂のために調査に入っていたよ\nうですが。調査にはいるきっかけはどういったものだったのですか?\nAご」の仕事に入るとき、基本的に青木さんの仕事を信頼していました。そのまま仕事を引き継げばいいと思って\nいたのです。ところが、第六巻にある、例えば天明の江戸の打ちこわしに関する史料を見て「これではまずい\nのでは」と気づいたのです。あまりにも史料が少ない。青木さんは事件があったことが確認できればいいので\nす。青木さんは史料文言・形式にはあまり関心がなかったので、校訂に問題が出てきますし、筆耕は史料原本\nと合いませんし。きちんとやろうとすると、どんどん遅れていくことになります。よって、途中から青木さん\nの筆耕原稿はほとんど使わず、複写をやり直すなど、全面的にやり直さなければなりませんでした。そのため\nには、調査もしなければなりませんでした。最初に調査をしたのは尾鷲に享和期の史料調査に入りました。た\nね。\n41\nQ芸編年」の刊行ノルマはあったのですか?例えば、一年に一冊とか。\nA“青木さんは一年に四冊刊行するつもりでした。そんな頻度で刊行するには史料集の校正として異常ですよ。そ\nれでも、一年に一一冊は刊行したいと思っていましたが、できませんでしたね。史料筆耕があると、その作業だ\nけで時間がかかってしまいますから。\nQ“編集作業は基本お-人ですか?\nAぷそうです。やり方は今と全く一緒です。一人でやります。やり方としてもう一つ一緒なのは、当時の非常勤先\nの東海大学の学生を早稲田の研究室に集めてやってました。その当時、コピーを切って原稿用紙に貼り付ける\n方法でした。それをみんなにやってもらいました。そのような作業ですから、たくさん貼りましたよ。業務用\nの糊のボトルがしょっちゅう無くなる状態でした。\nA帥そうです。\nまたま「編年」を引き受ける時に、三摸」の第二巻を書くために、浅見さんと京都・兵庫の日本海側をずっ\nと歩きました。それは「編年」の調査も兼ねてやりました。その時、豊岡で雑の文書のなかに、一摸の契状が\n入っていました。もし死んだ場合は石代大明神として祀るという約束事が書かれていました。とんでもないも\nのを見つけたと思い、教育委員会の編纂室にそれを取り上げてもらいました。ちょうどその時大塩平八郎の記\n念年で大阪で研究会があり、それに参加した流れで調査に入りました。\nQ⑪関西の研究者の方々と交流はあったのですか?\nA1數田貸さんとの関係は作法論に取り組んだあたりからです。\nQ函「編年」のお話に戻りますが、以降、三一書房から調査費用をもらってどんどん調査に行ったのですか?\n42\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQ“パソコンの導入はいつからなのですか?当時ですか?\nA》「編年」をはじめたころに、目の前の膨大なデータをどのように扱うか、ということでいろいろと電機屋に見\nに行きました・当時ワープロ全盛期でしたので「文豪」の「ミニ・セブン」を個人で買いました。文献目録\nを県別に作成して、どの史料・文献が終わったのか、複写が必要なのかを管理していました。膨大なデータな\nので、当時はフロッピーディスクでしたから、一枚に入らなかったため、分けて記録していたのですが、どん\nどんフロッピーディスクがたまっていきました。これではダメだということで、パソコンを購入しました。\n五○数万円。プリンター無し。清水の舞台から飛び降りる気持ちで買いました。毎日「ミニ・セブン」を動か\nしているのを家族も見ていて、購入することにしようとなりました。NECのPC九八○一lVM○でした。\nVM二は五インチフロッピーが内蔵されていたのですが、VM○は八インチフロッピーディスクの外付けでし\nた。それで作業を進めていると、八インチフロッピーが家に並ぶことで、家族がこれではダメだと言い、結\n局、内蔵フロッピーディスクを購入しました。結局VM○を購入したのにVM一一になっていて、なぜ最初から\n購入しなかったのかと思います。とにかくそれで持ち運びも楽になりました。\n編年とPCはほぼ同じ時期でした。同時に、PCは現在進行中の百姓一摸年表用でした。大部なデータを管\n理することはPCでしかあり得ませんから。\nQ岬史料の管理はまだPCではやらなかったのですか?\nA“史料は手書きの方が早いのでやりませんでした。外出時でも出来ますから。東海大の他に本郷高校にも行かな\nければいけませんし、どこでも作業ができますから。\nQ輔本郷高校にはいつから非常勤講師として勤めはじめたのですか?\n43\nQ叩調査の時は、教育委員会に問い合わせて行くのですか?\nA”ほとんど図書館です。いわゆる現物史料、地方文書を調査している時間はありませんから。そして、関連文献\nを複写する必要がありましたから。早稲田大学の図書館に無いものは、各地の県立図書館は所蔵していますか\nら。数名で、私が複写箇所を指示して複写してもらうという手順でした。それを先ほど言ったように、切り刻\nむので、凡例とか切り離れてしまうのでその後使うことができず現在作成中の年表用には、早稲田大学の図書\n館で同じ作業をもう一度やり直しました。当時、PDFがあったらと思います。なんで切ったのかと悔やまれ\nます。結局、お金の問題で複写にお金がかかりますから。当時の経済的感覚からいってそうせざるを得なかつ\nA酌ドクターに入学する一年前の浪人時代からです。同年に結婚しますから、本郷高校の仕事がなかったら困った\nと思います。一三年間勤めました。\nQ芸編年』編纂の時の調査は年に何度もという形ですか?または夏期休暇中にまとめてという頻度ですか?\nA”非常勤がありましたので、夏しかいけませんでした。そのかわり、夏には一○日間くらい行きました。例え\nば、天草まで行きました。その時は天草から厳木、唐津まで行きましたね。それから高知から松山に、そして\n宇和島に行って戻って船で熊本、竹田と行きました。基本的には、「編年」の先を見て調査していました。と\n同時に、既に刊行している時代の史料も調査しました。\nQ卵調査にはどういった方々と行ったのですか?\nA“その時行ける人とは誰とでも行きました。|番一緒に行ったのは、齋藤純ざんですね。深谷さんとも行きまし\nた。いろいろなところに行きましたけど、全国的に回れたのは三一書房のおかげですね。個人研究で行くには\n費用の問題もありますし。\n44\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQ“本格的に義民研究に入られるのはいつ頃からですか?\nA二九八三年に民衆思想研究会で「義民伝承と顕彰」という報告をしました。その時からです。\nQ”群馬で報告されたのですか?どういった内容でしたか?\nA韓義民全体を数量的に分析するというもので、死なない義民Ⅱ「先例」の確認が義民顕彰の核になるというもの\nQ“これまでの経歴のなかで、書評の数が少ないように思われますが、なにか理由があったのですか?\nA皿あまり得意ではないんです。\nQ“これは一九八五年前後に本郷高校での紀要で義民年代表を書かれていましたけど、出すきっかけはどういった\nものだったのですか?史料を集めながら取りかかったのですか?\nA沖集めながらです。あれは、ゲスな理由ですが、本郷高校から原稿料が出るということで、その原稿料で本郷高\n校の社会科教員の研修旅行の費用に充てようということでした(笑)。紀要の原稿に原稿料が出るというまさ\nにバブルでした(笑)。研修旅行の費用は非常勤講師はお金を出さないようにしようということで、私と専修\n大学の学長をやった古代史の矢野建一さんらが必ず原稿書いて旅行代金に充てました。毎年原稿を書くのは厳\nしいので、一番楽なのは年表を作るのでそれに取りかかりました。しかしながら、集めながら作成していった\n〈研究者として〉\nたのですね。\nでした。\n45\nので、きちんと精査できなかったです。例えば、千葉のある事例は三か所入っています。集めた時に見た地方\n史の書き方でそのようになってしまったのですが。後で見直して、え1つという感じでした。本郷の研修旅行\nというのは、古代の遺跡と義民碑を巡見していくというものでしたので、まさに現地を見て回れたことは良\nかったです。最初は車でしたが、その後はバスで行っていました。一度なんかはサロンバスで行ったこともあ\nりました(笑)。すごい車でした。\nQ“何人くらいだったのですか?\nA二五~六人くらいいたと思います。社会科の非常勤講師を含めた全員ですから。本郷高校はクラス数も多かっ\nたですし。義民年代表を作りながら、現地を歩くというものでした。\nQ“再度確認で申し訳ないのですが、編年の編輯作業で史料を見ていく中で、義民に関係するものをデータ・ベー\nスに入れていくというものだったのですか?\nA卵まだPCのデータ・ベースに移行していませんでした。PCでデータ・ベースに取りかかったのは、一撲史年\n表の作成がはじまってからです。義民年代表の作成を可能としたのは、既刊の史料を読み直すのも当然大き\nかったのですが、青木虹こさんが残した原稿がありましたから、それを見直していくと、義民が出てくるんで\nす。それが大きかったです。ある一定量は、青木年表で出来たんです。義民年代表は何件でしたかね。\nQ“義民年代表には、三五○件になっています。近世義民年表は四九九件となっています。\nA“そうですか。かなり少ないですね。\nほぼ同じ頃、バタバタと全体把握の流れが動き出しましたね。深谷さんをリーダーとして、中.近世一撲史\n年表の作成という科研費の総合研究が始まるし、編年も始まるし、それから義民の年表化も始まりますから。\n46\nく対談〉百姓一撲・義民研究を語る\nQご」の義民年代表が一九八五年ですよね。以前鯨井干佐登さんが「民衆史研究」で先生の吉川の本を書評してい\nました。その中で、作法論に研究の潮流が転換していくなかで、一つの起点が、’九八四年に「歴史公論」に\n書いた「個と集団」の論文は過渡期の論文ではないかと位置付けていました。「歴史公論」での「個と集団」\nの論文は、編集者側からの依頼されたテーマだったのですか?\nA坤依頼です。あの号は、全体のテーマは集団論かなんかだったと思います。百姓一摸ではないですね。\nQ》その時に使用した史料は、武田さんから情報提供を受けたものですよね。\nA》そうです。これは面白いと思って進めました。ですから、論点をどうこうするというより、史料に引っぱられ\nて進めていったと思います。ただ、確かにあそこから論文としては変わったのだと思います。「百姓一摸と義\n民の研究」のなかで三閉伊一摸を掲載したのはこの一本だけです。一一一閉伊一摸研究者として、あの論文を書き\nましたけど、次に変わっていくという意味では、あの論文だったなと思います。\nQ鞁その前年に、薮田・斎藤洋一両氏の得物論が出て、民衆思想研究会で斎藤さんが報告されたと記憶してます\nが、その辺を意識して「歴史公論」や義民年代表に取りかかったのですか?\nA“まったく意識していませんでした。斎藤さんが論文のなかで、むしろ旗を使う一摸は少ないと、研究会で指摘\nさらに八五年一二月に民衆思想研究会で「「|摸」について」という報告をしました。ここでは起請文と車連\n判、|摸と村(非発頭村の動員や旗について)、得物・出立、処罰と免罪(寺の機能)について報告しました。\n後の作法論につながる論点を報告しています。勝俣鎮夫氏の「|摸」を批判することが目的でした。民衆思想\n研究究会会はは、、例年二、三本の報告が行われるのですが、この時は私一本だけだったので大変だったという記憶が\nあります。\n47\nA》鯨井さんの報告は、伝馬騒動を扱ったものでしたよね。あれにはかなり影響を受けました。三摸について」\nの報告の時も直前まで薮田さんの作法論的研究を知りませんでした。薮田さんは国訴の研究者だと思っていま\nしたから、そのようなことを書いているとは知りませんでした。\nQ“斎藤さんも藪田さんを知らなかったのですか?\nA恥わかりませんが、斎藤報告のなかで薮田さんの名前は出てなかったと思います。薮田さんが書いたものは橘女\n子大の紀要に書かれたものでしたよね。藪田さんが書いたものというのはすぐに目に付くはずなのに、私の眼\nQ“では、報告を聞いた印象は、そこに可能性があるというよりも、枝葉の研究といった認識だったのですか?\nA“そういう一摸研究もあり得るのかなという、そこまで積極的ではなかったです。ただ、作法論につながるデー\nタを集めて見ると面白いと思い、その後どんどんのめりこんでいくことになり、八五年の報告になります。\nQ“勝俣さんの本を読んだ時の感想はどういったものでしたか?社会史の流れで書かれていましたけども。\nA“第一に思ったのは、中世の一摸というのは分からないことがこんなに多いのかというものでした。かなりの部\n分近世の一摸で書かれていましたし。近世の一摸については、違和感が大きかったです。例えば、蓑笠につい\nされたと、自説を補う形で書かれています。その時はデータ的な根拠はなく、感覚的なレヴェルでした。斎藤\n報告について、民衆思想研究会はかなり否定的でした。「そんなことやってどうするの?」というものでした。\nただ、わざわざ引っ張り出しただけあって、興味はあったのでしょうけど。\nQ》あの時の報告は二本あって、たしか斎藤報告の他に鯨井さんが義民伝承に関する報告をしていたと記憶してま\nすが。\nについていませんでした。\n48\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nて書かれている部分。このようにはいかない、百姓からの変身とはならないだろうと思いました。変身してし\nまっては百姓一摸の本質からはずれますから。\nQ“その時はそういう関心でということだったのですね。\nA“そうですね。討論になったのですが、結論からいうと全く違う考えで進めざるを得ないというものでした。た\nだ、得物論は、中世の人々が自らの階層を示すために所持している道具を使う。例えば大工が「斧鉄をかけ\nる」というような論理ならば、近世の鎌でも同じじゃないかという。そういう論理になるはずです。\nQ“作法論的研究を進めていけば、編年を見ていく上でも史料の見方が変わってくると思うのですが。\nA“当然変わってきますね。しかしながら、史料集というものは自分の研究テーマに沿って出すべきものではない\nと思います。編年で言えば、未刊あるいは手に入りにくい史料、次に最もその一摸を表現する史料を掲赦する\nという原則を立てました。ですから、自分の関心に無理矢理引きつけようとはしませんでした。正直いいます\nと、編集中はそんな余裕はありませんでした。出していかなければならないですから。そのなかで、自分用の\nノートを少しでも取ろうという努力はしました。\nQ亜そのようななかで、一九八六年から八七年は「歴史と地理」に「百姓一摸の1徒党の形成と一摸の有様」が出\nて、一方で「歴史評論」に「義民群像」を連載するようになるという大変な年だったと思います。同時並行的\nに進めていくということだと思いますが、八四年に「個と集団」を出した後に、大変な史料の量を読んだと思\nいますが、その当時はいかがでしたか。\nA》史料はたくさん読みました。「義民群像」は国士舘に就職した年でした。「歴史評論」の連載は、もっとベテラ\nンの人がやるべきだと思いました。私の後は山田忠雄さんですから。普通に考えれば順番は逆だろうと思いま\n41\nA鞄義民について、地方調査をすすめてはいましたが、中心は早稲田大学の図書館のなかでどれだけ集めるかとい\nうものでした。時間がある時は常に図書館にいるという形でした。探してみるとどんどん出てくるんですよ\nね。自治体史を見ると必ずというほどありますから、それをコピーして見ていると論理も浮かんできます。\nQ“義民研究に関しては、義民年代表を出す八五年に横山十四男さんが「義民伝承の研究」を三一書房から出して\nいますけど、その影響はありましたか。\nA》義民研究というよりは、事例を知る上で重要でした。それよりも、安丸さんらが打ち出している怨霊の論理を\nどう克服するかということを意識していました。私が最初に義民を意識したのは加賀藩の道閑の事例でした。\n道閑にはあまり怨霊話はありません。寛文の一摸の顕彰を文化の打ちこわされる対象のような人間がやったの\nだということは大きい。同時にその時にもう一つ進めていたのは、越訴の法的位置の研究で早稲田の史学会報\n告で、越訴論をやりました。越訴が非合法ではないと主張し始めたのはちょうどこの頃でした。\nQ》やはりそれは義民論を突き詰めた結果ですか?\nQ芸義民群像」を見ると、\nてきています。惣五郎\n進めていたのですか?\nQ沖連載の経緯はどういったものだったのですか?\nA》義民年代表と民衆思想の報告があってということだと思います。それで、深谷さんあたりが話し合ってやらせ\nようかということだったのではないでしょうか。\n群像」を見ると、論点はかなり拡がりがあるなと感じます。すでに、強訴から越訴への部分について出\n五郎の影響力についても指摘されています。収集力がすごいなと感じましたが、地方調査を\nすよ。\n50\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nA》いいえ違います。史料に見られた闘争形態論から導き出しました。例えば、編年のなかに掲載している越訴\nに、処罰されていないというものがありました。処罰はされていても、その処罰内容は、手鎖といった軽微な\nものでした。そこから、越訴とはなんだったのかということを考えました。横山さんは義民伝承の研究のなか\nで、越訴の件数を確認するために義民の一覧を作っていました。越訴の件数がわかれば、義民の件数がわかる\nという論理でした。彼にとって義民Ⅱ越訴、越訴Ⅱ義民なのですから。そこで私は横山さんが越訴と規定した\nものを改めて検証しました。そうすると、越訴とはいえないというものが多く見つかりました。そこからそれ\nまで言われていた代表越訴型一摸は件数的に少ないという結論にいたりました。\nQ“それまでは、大平祐一さんの駕篭訴論があったりしましたけど、越訴といえば非合法という認識だったのです\nQ》お話を戻すようですが、今お話にあった八○年代のそれまでの一撲論の再編への大きな流れがあったと思うの\nですが、その契機となったのはどういったものがあったのでしょうか?講座の。摸」など、それまでの研究\nの蓄積がまとめられ、そこから転換していくというものだったのでしょうか?\nA酔あの三摸」はそこまで新しい研究視覚が打ち出されたものではなく、それまでの研究蓄積をまとめたもので\nQ⑪そうなりますと、史料を読みながら越訴の事例を見ていて、後期から前期まで確認していこうということから\n史料調査に入って、越訴イコール義民という主張に対して再考するということにつながったのですか?\n「扉\nしたから。\nA“そうです。\nA”そうですね。\n力、\n?\nラ\nQ叩そうなりますと、先生のお話のなかでは、史料を読み直すというお話が続いたように感じましたが、八○年代\nはちょうど自治体史編纂が多く行われましたが、そういったなかで史料の掘り起こしが進められた結果という\nA“それは大きかったと思います。「百姓一摸と義民の研究」でも書きましたが、全国の地方史家が発掘してきた\n成果だと思います。私の研究を支えているのは、全国の地方史家が集めてきたものであって、著名な一摸史料\nだけに眼を落とすのではなく、せっかく集めてきてくれた全国の史料を克明に読みたいという考えでした。こ\nの姿勢は、「回顧と展望」(史学雑誌、八一年)でもできる限り各地の論文を掲げようとしました。普通「回顧\nと展望」には載らないような地方雑誌を載せました。それが私の研究を支えてくれているのだと思います。戦\n後の近世史はそうだったと思うのですよ。\nQ強先生ご自身は自治体史との関わりはあったのですか?\nQ》その時はどなたが取りまとめだったのですか?\nA二番上の代表が水野裕さんでした。近世の代表は杉仁さんでした。水野さんが杉さんに「頼むよ」ということ\nA韓昭島市史だけです。\nQ“やはり八○年代の史料の集まり方というのは影響が大きかったのですね。\nAやそうですね。それと編年の編集をやっているということから、コピー代金を三一書房が出してくれたのは大き\nかったです。専任になる前は、やはり厳しいですから。調査も同様でしたね。\nQ二一一一書房からの調査費用でどういったところに調査に入られたのですか?継続的にされたのですか?\nことでしょうか?\nで依頼が来ました。\n52\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nA函途中から、「年表』の科研費のお金と「編年」のお金を使えるようになるのですが、|番最初にやったのは、\n三重県尾鷲市に入りました。あとは、福井や熊本にも入りました。山口や鳥取・島根にも入りました。土佐や\n伊予、阿波、讃岐と四国は全部回りました。本郷高校の友人と紀伊にも行きました。紀伊の時は、大塩平八郎\n関連でいきましたから、大阪の中之島に入ってから紀伊にという旅程でした。\nQ“執筆されたものを時代順に見ていくと、八二年から義民年代表ですとか、「歴史と地理」の論文が八七年です\nけど、その間の飛躍、関心の推移があると思うのですが、具体的には、政治史から日常性に比重を置くような\n分析で、幕藩制国家・社会に位置付けようという動向だと感じます。先生ご自身のなかで、そうした転換とい\nうものは、どういった認識だったのでしょうか。やはり史料を見ながら、一つ一つを確認してく、例えば、義\n民であったり闘争形態論であったりというものを史料から確認してくというように感じるのですが。うまく説\nA”ですね。理論が先に来ていたというものではなかったです。そういう研究者のタイプではないです。史料\nにある実態から従来言われている理論の方がおかしいのではないかということです。青木美智男さんが、生前\n最後の頃の講演で、保坂の研究には政治史が無い、それをやれ、と言ったと大庭さんから聞きました。報告を\n聞いていませんので、なんともいえないのですが。それはやはり最終的には結びつけなければならないと思い\nます。でも、結びつける前に、一摸という概念があまりにも暖昧すぎるのではないかと考えています。それ\nは、今一摸年表の編集をやっていて、概念規定が揺れます。どこまで一摸に入れていいのかということで大き\nく揺れます。それは、概念で規定しなければいけないということと同時に現実としてはどうなのかということ\nのなかで考えていかなければならないと思います。\n明できないのですが。\nそうですね。理論が牛\n53\nQ輌ちなみに越訴に関する早稲田大学史学会の報告内容は、岩波の論文につながっていくと思うのですが、「歴史\nと地理」の作法論の論文はどこかで報告されたものですか?\nA昌一摸について」の報告がそれに連がります。\nQ芸歴史と地理」の論文は、どういった経緯で依頼が来たのですか?\nA皿全くわかりません。だいたいのものは顔が浮かぶのですが。\nQ“依頼を受けた段階で、出で立ちや旗とか得物や動員方法といったものをデータで分類されて分析されたのです\nA”そうです。そしてもう一つの研究のピークが、九○年頃に岩波書店と中央公論社からほぼ同時に同じ百姓一摸\nというテーマで依頼が来たのです。今になって良かったと思いますが、きつかったですけどね。そして鍛えら\nれたのは、大学の講義ですね。。摸について」の報告は、東海大の講義と連動しています。本学での講義、\n早稲田の非常勤の講義、そしてもう少し後の東大の講義ですね。講義は一回限りですから、思い切ったことを\n言えるのですね。ですから、講義に録音マイクを持ってこられると困るのですよ。大体の論理はこれでいい、\nしかし実証しきれないという部分があるけれども一回話してみる。これは研究を進める上でも大きいです。特\nに大学院の講義はそういうものですよ。\nQ芸歴史と地理」の論文を出した時の学界の反応はどうでしかたか?\nA亜あまりありませんでした。研究者仲間も同様でした。もちろん斎藤洋一さんや藪田さんの反応はありました\nが、他はほとんどありませんでした。\nQ》薮田さんの「国訴と百姓一侯」に対する書評のなかでも、国訴の方ばかり書評の対象となっていて、総体とし\nね\n?\n54\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nて書評されていませんでしたね。\nA“そうでしたね。薮田さん自身もその点を嘆いていましたね。あとは、百姓一摸の定義論についてですね。同時\nに最終講義のテーマになろうと思います。\nQ》では、全体についてお話をお聞かせいただきたいと思います。これまでのお話で気になったことでは、九三\n年.九四年の岩波講座の「百姓一摸」・中公の「百姓一摸」のお話があったのですが、これらは早大史学会で\n報告された「越訴」の論理がここで結実するというものが興味深かったです。特に岩波の方では、「百姓一摸\n研究のまとめ」では、もちろん深谷さんや林基さんも取り上げられていますが、ここで注目したいのは堀江英\n一さんの研究も取り上げられていて、堀江さんの百姓一撲論・シェーマを乗り越えようという意図が見えまし\nた。私のそれまでの百姓一摸と義民の研究に対する印象では、代表的な研究者としては黒正巌さんがすぐにあ\nげられると思うのですが、そこから堀江さんの論に連続する経過といいましょうか、佐々木渦之介・林基の流\nれに傾斜しそうなところを、堀江さんを取り上げたというのは興味深いなと思ったのですが、先生のなかでは\nどのように意識されたものなのでしょうか。前にお話がありましたが、百姓一摸の定義というものが暖昧だと\nのご指摘でしたが、その点を突き詰めていくと、越訴というものは何なのか、という疑問を解明するなかでそ\nれまでの百姓一摸のシェーマが崩れていくというものだったのでしょうか。\nAmそうなんだろうと思います。ただ堀江理論については、早くから意識していました。高校教科書にも載ってい\nる理論を克服しなければ、一櫟研究は進展しないと考えていました。結論が見えているわけですから。越訴が\nその突破口になると考えたわけです。自分でもあまりどういった意識だったのかということは分からないで\nす。あまり佐々木さんのことは意識していなかったということは前にもお話ししたと思います。今考えてみま\n55\nすと、やはり百姓一模の定義が暖昧だということを一番意識していたと思います。\nQ坤当時の時代状況から考えますと、八○年代から九○年代初頭にかけて佐々木諭を乗り越えようとする、例えば\n地域社会論などが学会に提出されてきますが、そうしたなかで一摸と騒動を区分けして捉えようとする方法に\n対してはどのように認識されていたのですか。\nA二摸と騒動を区分けするという考え方には疑問がありました。やはり「編年」を編纂したり「年表」を編もう\nとする時、全体を流れで捉えようとする時にああいった手法をとられるとなにもできないと思うのです。「史\n料集なんて出来ない」と思いました。\nQ函九三年.九四年に百姓一摸の作法論と義民の虚像という部分に取り組まれてますが、その後九九年あたりから\n民衆運動史の流れが動きだしますが、その間の問題関心はどういったものだったのですか。\nA函素直にいいますと、頭と論文と少し分離している部分がありまして、民衆運動史という認識はあまり好きでは\nありませんでした。そのように言うと「自分のやっている論文と違うじゃないか」と言われるかもしれません\nが、「階級闘争史」と言われる方が自分としていいかなと思います。ただ研究の内容としては民衆運動史論的\nな形なんだろうと思います。民衆運動史はかなり広範囲にわたっていますけれども、百姓一摸を民衆運動史と\nして相対的にとらえるのではなく、百姓一摸という一つの運動構造をきちんと解明すべきだという気持ちが強\nQ永それは民衆運動史が花開くまでのなかで、八○年代中頃からそういった潮流が大きく展開していったと思うの\nですが、その傾向についてはどのようにとらえていたのですか。\nA皿そうした研究史の潮流をあまり意識していませんでした。「編年」の編纂を通してだったりのなかで史料がい\nくありました。\n56\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\nQ》それは意外ですね。それまでの学生運動や共同研究といったものがその潮流に乗ってというふうなことで捉え\nA恥共同研究論を考えると、史料集、年表、事典といった基礎的研究については、共同研究で拡げて皆で研究を進\nめようとしてもなかなか成果があがらないというのが強烈な実感です。個人の研究や仕事が皆ありますから、\n例えば原稿はなかなか集まらなかったです。こういった基礎研究は難しいんだと思います。討論はしっかりや\nる。その上で、その共同研究をささえる特定の個人の努力が必要なのだと思います。百姓一摸については、史\n料集・文献目録・事典・そして年表と、私はその役割を果たしたという自負はあります。\nQ卯話題を百姓一摸の定義や捉え方ということに戻したいと思うのですが、百姓一摸そのものをもっと研究すべき\nだというお話だったと思うのですが、その点についてもう少しお話しいただけますか。\nA》それは非合法運動を起こすということは、多様な異議申立の事例とは決定的に違う、死を賭して行う運動であ\n二摸研究の課題〉\nろいろな論理を提示してくることを重視していました。私の研究の質を転換させていくのは「個と集団」を執\n筆するまでに「編年」が一二冊出ているのですが、そのなかで得た史料の蓄積がそうさせたと思います。それ\nまでの論文とか講演で得たものではなく、・史料だったと強く思います。ですから、研究史の潮流がどうとかと\nいう話にはならなかったと思います。これまでの経歴で書評が少ないのはそういったことを示しているのかも\nしれません。\nていたのですか。\n57\nA“もちろんそれぞれの要素は大きいと思うのですが、例えば村間相論などで扱っているのは初期の事例ですよ\nね。初期の村間相論もやはり死を賭すような運動でしたよね。階級間の矛盾でおきるのが一摸であり、農民内\n部の階層矛盾でおきるのが村方騒動である、という考えは基本的には正しいと思います。そして後者は、おお\nむね訴訟l内済という合法的世界に収まったといえます。しかし、兵農分離制を原則とする幕藩領主の権力を\n基盤でささえる村役人制度に対する闘争は、常に非合法運動へ転化する可能性があり、現実にそういう闘争が\n発生したのです。特に九州では、転村庄屋制の問題もあり激化しやすかった。代表的なのは天保九年肥前国幕\n領の事例ですが、庄屋非分から闘争が発生し、数か村が連合して佐賀藩領へ逃散し、山に根拠地を作り立寵り\nます。当然極刑に処され、義民も排出します。これは階層間矛盾によって発生したものであるから一摸から排\n除する、と考えるのではなく、逆に階層間矛盾を含めて社会的政治的環境の中で発生する諸矛盾から生じた、\n集団的非合法運動の総体を百姓一摸として把えたいと思います。その方が近世人の感覚に近いのではないか。\nQご」れは時代がというものではなく、全般的なことなのですが、例えば義民論を展開していく時に義民論のなか\nで構成している事項では、必ずしも百姓一摸だけではなくて村方騒動だったり村間相論だったりと多様な構成\n要要素素ががあありり、、そそれれだだ」け問題があると思うのですが、その上で百姓一摸の重みといいますか、そういった点につ\nいてはいかがですか。\nげて、多様なものをやれ》\nにすればいいと思います。\nるということは決定的に違うことを核にしなければならないと思うのです。ただし、闘争主体もなるべく死な\nないように努力はするわけで、現実に死なない一摸はたくさんあるのですけれども。ですから、民衆運動に拡\nげて、多様なものをやればいい、とはならず、やはり百姓一摸を押えた上で多様なものに取り組むというふう\n兜\nく対談〉百姓一摸・義民研究を語る\n藩政改革に対する闘争も、村の中での庄屋制をめぐる運動も、村をあげてみんなで非合法運動をやったという\n感覚なのではないでしょうか。\nQ”そでは、これまでの研究史のなかで分析視覚をもって定義付けされたものをフラットにして再考していこう\nA“そうですね。都市騒擾と百姓一摸がどうやって区別できるのかというのは、江戸や大坂の打ちこわしが都市騒\n擾だというのは分かります。それ以外はどうやって区別するのかという疑問があります。さらにいうと、江戸\nの打ちこわしだって百姓は参加していますし、大坂ではもっと入っています。少なくとも百姓身分が主体の一\n部であることは確かなのですから。それは都市周辺の都市化した人民だと定義することは可能でしょうけれど\nも、身分的には彼らは百姓として参加しています。例えば難波から入ってくる集団は明らかに百姓です。江戸\nの場合は渋谷村の事例ですかね。そこは悩んでいるのですが、渋谷村の打ちこわしは江戸の打ちこわしとして\n捉えるのか分離するのかという点がありますが。権力は分離していますね。異なる裁き方をしています。で\nも、渋谷村は町化していることもありますけれども、村は村ですし、百姓なんですよね。それが江戸の打ちこ\nわしの影響を受けてきて、渋谷村でも闘争が起きる。あまり注目されていませんけど、片倉さんも一つにまと\nめていますけれども、あの事例をまとめるとすると、都市騒擾という江戸の打ちこわしの要素のなかに百姓の\n運動という要素を見る必要が出てきます。さらにこの問題は、在郷町の運動と百姓一摸をどのように区別する\nのかということになります。「年表」的には区分けはできません。在郷町で起きるという時に、町というのは\nどこからどこまでなのか、という決定的な規定がなければなりません。ただ言えることは、身分的には百姓身\n分がやっているのははっきりしているということです。都市と農村がそれぞれ立ち上がってきて、どこまで連\nれでは、これまで(\nとお考えなのですか。\n”\n合して、あるいはどのように乖離してというのは、国家権力を倒していく上で非常に重要な要素だと思いま\nす。ですから、都市騒擾という問題と農民運動の問題は、それぞれ論理的には区別する必要はあろうかと思い\nますが、しかし具体的な運動になるとそう簡単に区別できないと思います。今取り組んでいる三摸年表」で\nは、そういった区別は絶対にできません。これまでの都市騒擾の年表というのは、例えば、騒擾が起きた町を\n単位にしていますが、今度の「年表」は参加主体から書いていますので、そうすると村が並んでいて「なにな\nに町の米屋打ちこわし」という話になります。それは都市騒擾なのでしょうか。都市化してくる社会がもって\nいる矛盾である、ということはわかります。現実に分析していったうえでは、やはり切って論理化するより\nも、もう一度大きく拡げて考える必要があると思います。\nQ二摸の定義についてのお話に戻りたいと思いますが、重視されているのは闘争形態のことだと思うのですが、\n徒党という概念をどのように捉えていらっしゃいますか。\nA》徒党という捉え方で一番問題になるのは、闘争概念ではないということですよね。岩波の論文では徒党という\n文言でまとめられる運動が出てきたという形にしましたが、多様な運動が徒党としてまとめられている。例え\nば寛永五年下野国薬師寺村では集団的に重臣に訴願したのを徒党と表現している。一方、寛永一五年出羽国白\n岩一摸は訴えには出ず、村に権力が入り込めない状況を作った運動ではないかと推測しています。幕府の代官\nではどうしようもなく、山形藩主の保科に鎮圧を依頼します。保科は甘言で百姓を釣り、城下に出て来たとこ\nろを捕え、処刑します。岡山藩でも同様な運動を徒党としています。五人組前書の徒党は対村役人闘争を想定\nしています。幕府がこれら多様な闘争を徒党とまとめたことが重要だと思っています。\nQ函その他の事例のなかで今ある闘争形態には当てはまらない事例は確認していますが、どのように考えるべきな\n60\nく対談〉百姓-摸・義民研究を語る\nA“今ある闘争形態ではなく、新しい形態を作ればいいのではと思います。強訴・逃散は幕藩権力が闘争形態を規\n定したわけですから、それが基本であるということは確かだとも思います。ただそうはいかない事例というも\nのがありますね。闘争形態論でいま困っているのは、強訴はどこまでなのかということです。どちらかわから\nない、集団的訴願、というものがある。強訴とまではいえないものがあるという感じがしています。いまは\n「集団訴」と書いていますが、それを思いついたのは、関東の農村で百数十名が江戸に向かっている事例があ\nります。普通は門訴だと思います。ただ、門訴という証拠がないのです。強訴の意思を持っているのかもしれ\nない。そもそも強訴と門訴はどこで区別するのかという問題もありますが。ですから、仕方なく「集団訴」と\nいう用語をつかっています。また、強訴も門訴も集団訴の一つであると考えればいいとも思います。幕府は門\n訴を、強訴より罪一等軽くして、頭取遠島にします。非合法な闘争形態なのです。しかし、後期になると特別\nな場合を除いてほとんど越訴と同じ扱いで、処罰しません。これをどう考えるかという問題もあると思ってい\nQ“江戸の都市民が門訴のことを詠った川柳がありましたよね。\nQ》話を変えますが、講演等で原稿化されていないものはどれくらいあるのですか。\nA唖講演も含めていくつか挫折した研究があります。講演では、さかんに義民の話をしていますが、まとまってい\nません。それは大きな問題かなと思います。本当に義民について書いたのは、「義民物語の構造」だけです。\n中央公論での義民は越訴論が中心でした。\nA“ありましたね。\nます。\nのでしょうか。\nCl\nA恥そうですね。あの報告は逃散論は別として自分でも気に入った報告です。\nもう一つは逃散論をまとめきれていないということです。逃散論を研究したくて、齋藤純さんと高知と愛媛\nに調査に行ったことがあります。大変な調査でしたがまとめきれませんでした。逃散について具体的にまとめ\nる意思をもって取り組んだのは二○○’一一年の義民サミットの講演で、「三閉伊一摸と田野畑村」でしたが、最\n終的に百姓意識論という形になってしまいました。\nQ》その講演の内容は冊子にはなっていますが、あまり広がっていませんから何かに採録すべきなのではと思いま\n(聞き手)二応、このあたりで今回の企画の目的は達したかと思います。聞き手側が不慣れなために先生にご迷惑\nをおかけしたかと思います。お詫び申し上げますとともに、これまで全五回に渡っていろいろなお話をお聞か\nせいただきありがとうございました。\nすが。\n62\n「今回保坂さんの研究の足跡を記録として残すことになったからそのインタビューを頼む」。一言一句を記憶して\nいるわけではないが、このようなことを文学部教授の勝田政治先生に言われた。「なぜ私なのですか?」と返事を\nすると「私もそう思うが本人のご指命だ。」とのことであった。私はもちろん、勝田先生も「なぜ堀内が?」と\n思ったことは当然であった。そもそも私の専門は昭和史である。保坂智先生は近世百姓一櫟研究の第一人者である\nことはそのような私も承知している。その先生の研究の記録を目的としたインタビューを私が行うことは重任すぎ\nるどころか、同分野の研究者、はたまた多くの歴史学者にたいして冒涜に近い行為であるとまで思ったことは過ぎ\nたことではないであろう。ともあれ「ご指命」ならばと、拙い知識を少しでも増やすべく、関係の論文などを読み\nつつその時に備えた。しかしながらどのように足掻いてみても、付け焼き刃にもならないことは明白であった。結\n局、保坂先生のもとで長らく研究してきた林進一郎氏と合同で聴取することとなり、私は二番手として録音データ\nの筆耕などのサポートに近い役回りとなり、安堵した次第であった。\n今回のインタビューは二○一六年五月一三日から同年一○月一四日までの全五回(場所はいずれも国士舘大学\n梅ヶ丘キャンパス三四号館保坂智研究室)にわたって実施した。毎回一時間の制限を付けることで出来る限り聴取\n事項を絞ることにより、端的な内容となるよう心がけた。その意図が結果に反映されているかは読者の判断に委ね\n研究者保坂智のインタビューを終えてl凡例に代えて\n堀内暢行\n63\nインタビューは会毎にテーマを設定し実施したが、聴取側の不得手さゆえに話が前後することがたびたびあっ\nた。先生・林・堀内の三人でこの問題について話あった結果、本誌に掲載するにあたり読者に負担をかけないよう\nにすることを企図し、録音データを筆耕した後にできる限り聴取時の話語を損なわないよう注意しつつ再構成し\nた。校正は上記の三人でおこなったことも付記しておきたい。\nまた、第一回目以外の四回のインタビューでは、林・堀内以外にも先生の指導を受けた伊藤夏子・中尾あゆみ・\n西村安奈の三氏が参加してくれた。彼らの存在により、インタビューの際にとかく固くなりがちな空気が和らぎ、\n先生もリラックスしてお話されているように感じた。お三方には、この場を借りて感謝申し上げたい。なお、各人\nの参加した日程については左記のとおりである。\nさらに、番外編として一一月二六日から二八日にかけて長野県青木村で最後のインタビューを上記の六人で実施\n●●●●●●\nした。同地は先生の教え子や関係者ならばお馴染みの地であり、いろいろな想い出を語り合う場となった。\n今回のインタビューに参加した経緯やその当初の感慨は冒頭に示したとおりであるが、今それを終えてみて、私\nを指命してくださった先生に感謝している次第である。七○歳という年齢を感じさせることなく、それどころか自\nらの研究テーマをやり遂げようとする熱意を感じることができたことは、私にとって今回のインタビューで最大の\n収穫であった。それは自らの研究への姿勢を省み、恥じることでもあった。\nることとしたい。\n64\n研究者保坂智のインタビューを終えて-凡例に代えて\n第五回\n第四回\n第一回\n第二回\n第三回\n〈聴取参加者〉\n同同同同\n○一六年五月\n年一○月一四日”林進一郎・堀内暢行・中尾あゆみ・西村安奈\n年八月\n年七月五日⑪林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子\n年六月七日坤林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子\n日⑪林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子・西村安奈\n日坤林進一郎・堀内暢行\n③"}]}, 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (3.1 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2017-10-17 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 百姓一揆・義民研究を語る | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | article | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 対談 | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | conversation | |||||
言語 | en | |||||
著者 |
保坂, 智
× 保坂, 智× HOSAKA, Satoru |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 200901099407508739 | |||||
著作関係者詳細 | ||||||
聞き手 : 林進一郎、堀内暢行、伊藤夏子、中尾あゆみ、西村安奈 | ||||||
内容記述 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | pp.63-64「研究者 保坂智のインタビューを終えて ― 凡例に代えて」堀内暢行 第一回 : 二○一六年 五月一三日 : 林進一郎・堀内暢行 第二回 : 同 年 六月 七日 : 林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子 第三回 : 同 年 七月 五日 : 林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子 第四回 : 同 年 八月 一日 : 林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子・西村安奈 第五回 : 同 年一○月一四日 : 林進一郎・堀内暢行・中尾あゆみ・西村安奈 |
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書誌情報 |
国士舘史学 en : Kokusikan-shigaku 巻 21, p. 9-65, 発行日 2017-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学日本史学会 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40021146657 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.1304 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 |