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雛\n皇\n騨\n鰹燕\n日\n、\n聖濤二乏逵壺晶こ自\n》’\n‐今\nニゾ \u003c『ー 一一一一一\n=一\n■U二\nー\nIa期雑 ==』夢\n蕊=Iトー卜\n戸\n一\n一\nー\n了可\nU -\n一一\nI 一宇\n、芦\n綱一国副副図ゆ報仲喜国\n夢ク、\n一\n一\nヘ電、\nb舎一÷一一一‐一二三\n-Z]\n一\n了.\n汎仰00f‐〃\n5JI(\n」\n〆\n一\nーIb・Ic期\n・造寺計画の変更\n; 蘓卜〆、、?\n注型\n●\n1\n1\n\u003cI。JI~IE\nf一L一\nL~\nー\n1 1\nノ\n\"_廷グー、一ン壷菫ナ》ニ肩二急\n、一口へ\n認}\n三\n』\nノ I\nH\n難『N\n縄\n』?■UQ1U\nr、\nー\nI 悪\n/\u00271/\n〃\n〆\n一一一\n(\nK\n〆\n易〆蕊〆\nに\n一=\n/ 〃 I\n定地11A 1\n修理院推定地 1 ー-\nM ジ\n! -、lC! . \u003c }、r\"IIi 冨荊灘\nI\n, -\nーー\ni\n---d 、\n! LI7\n満宿\nL五一声I哩\n司直竿“聖L菫L一200m\n函\n一\n三\n一十一も目\n千\n’C\n一一\n一一二jG\n回\n1\n×南北五町半(中軸線上)の寺院地を基本としながら中心に僧寺金堂を据え、寺院地中央北寄りに三町半四方程の\n僧寺伽藍地、南西隅に一町半四方にほどの尼寺伽藍地を配置する計画に変更される。計画変更にあたっては、Ia\n期の寺院地区画溝は僧寺伽藍地に重なる西辺溝(AD)のみを埋め戻し、他の三辺はそのまま残したうえで、北西\n隅(E)及び南西隅(D)から推定東山道まで溝を延長し新たな寺院地(IBCJ)としている。さらに、寺院地\n南辺の西延長線上の推定東山道を超えた地点に尼寺伽藍地の南東隅を設定し、推定東山道と西方の武蔵野段丘の間\n(1)\nに伽藍地を収めている。したがって、尼寺伽藍地と推定東山道はほぼ同方位であり、真北に一致する。\n武蔵国分寺は全国の国分寺の中でも類を見ないほど文字瓦による瓦の生産が盛んな国分寺である。出土する文字\n瓦は、記載方法によって押印・ヘラ書き・叩き具・萢面・模骨・墨書・指書の七種類に大別される。その中でも、\n押印・ヘラ書きの出土鼠は圧倒的に多い。記載内容は国名・郡名・郷名・文章等があり、郡名・郷名の出土量が圧\n倒的に多い。郡名は、天平宝字二年(七五八)に建郡された新羅郡を除く二十郡が出土しており、一郡を表すもの\n(ワニ\nが多いが、久良郡と賀美郡、多麻郡と久良郡等、二郡を併記したものがある。\n(3)\nさて、人名瓦に関する歴史的評価は主に知識説、貢納説、雑揺の代納説等、様々な学説が挙げられる。まず、知\n識説であるが、宮崎糺氏が人名瓦をその郡郷に居住する人物と判断し、国分寺造営時に百姓が関わったと考察し\nた。この現象を天平十五(七四八)年一○月に発願された「大仏造立の詔」にあたる百姓への知識の呼びかけに通\nじるとした。知識の呼びかけは国司から郡司への命令で、命を受けた郡司が所管の各郷へ伝え、戸ごとに瓦の寄進\n二武蔵国分寺の文字瓦\n16\n武蔵国分寺人名瓦の造瓦組織に関する研究\n(4)\nを促進したととらえた。石母田正氏は知識について、①純粋で本来的な形、②貢租的知識であり、擬制的な知識、\n③在地首長層が国家の内部にその地位を得るためのもの、と三つの形態を指摘した。その内、人名瓦は②の貢租的\n〈↑③)\n知識であるという見解を示した。上原真人氏は、郡l郷1戸という行政単位に基づいて瓦を貢進したことを認めつ\nつも、それは律令制を法的根拠としたものではなく、知識に名を借りた収奪であり、寄進の強要、「強制された知\n一、大川清氏は人名瓦を利用し、税を納める貢進説を唱えている。大川氏は「秩父郡瓦長」の記銘から瓦長が\n(7)\n瓦屋に瓦の発注を行なったとして、発注に対する瓦屋での瓦の仕分けや識別ととらえた。その上で、文字瓦の郡l\n郷l戸主という記銘が正倉院宝物の庸調布における貢進者名の記銘と共通することから、造瓦にあたっては戸主、\n又はそれに準ずる個人の負担によるもので、その酸出方法は、税制の負担体系を採用され実施されたものと理解し\n(6)\n識物」であるとした。\n方、大川清氏は‐\n(9)\nその他に、「雑揺の代納」の負担という意見、女性名の人名瓦があることから、女性も課税対象に含めた臨時課\n(叩)\n税であるとする意見、などがあげられる。また、負担が郡単位であることは、知識であることと矛盾しないとし、\n「強制的知識」は、法的規定や伝統に束縛されることなく、女性、僧侶からも物資や労働力を徴収できる仕組みだ\n(皿〉\nという指摘も述べられている。\nた3\n0\n人名瓦には人名のほかに郡名の押印や郷名が記され、人名の表記法はグループによって様々である。記された人〃\n一一一人名瓦の造瓦体制と特徴\n一台叡謬\n露\n鱈\n第2図第1群標識人名瓦(S=1/4)\n物は「戸主」層に関する人々が記銘されたと考\nえられる。男性名がほとんどであるが、「荒墓\n郷戸主宇遅マ結女瓦」のように女性名の人名瓦\nもみられる。\n人名瓦を生産した窯跡は現在のところ金沢窯\n跡のみ確認されたが、後述する二群・三郡に分\n類されるグループは金沢窯跡とは別の窯跡で生\n産された可能性が高いと考えられる。\n今回の分析では、対象となった郡や人名の表\n記形式、押印の有無、郷名の表記位置、書き手\nから三群八種に分類れる。ここでは、各グルー\nプごとに表記形式や特徴などを記述したい。\n・第一群\n第一群の人名瓦はA・B.C種の三名により\n記名され、埼玉県鳩山町大字泉井に所在する金\n沢窯跡で生産されたものである(第二図’四・\n五・六)。金沢窯跡は東西に延びる泉井地区丘陵\nの東端南側に位置し、南側には泉井川が流れて\n18\n武蔵国分寺人名瓦の造瓦組織に関する研究\n蕊奇\n睡潅\n‐\n1\n3\nA種4\nC種6 、種7\n5\nB種\nG種l0\n9\nF種\n8\n11\nH種\nE穂\n第3図押捺された押印と各種書き手\n19\nいる。二次にわたる発掘調査で五基の登窯が確認された。金沢山一号が地下式無階無段登窯、金沢山二号と金沢二\n号が無階無段登窯、金沢一号が地下式有階有段登窯、金沢三号が有階有段登窯の構造である。これらの窯跡から須\n恵器・文字瓦等の瓦類・博が出土し、金沢二号窯からの出土が最も多い.金沢二号窯の須恵器分析をみると八世紀\n第1四半期前後に始まり、『国分寺建立の詔」発布以前の段階では、瓦陶兼業で操業していたと考えられる。押印\n文字瓦との関係から、天平十九年の「国分寺造営の督促」以降に瓦を中心とした体制に移行したため、須恵器生産\nを一時中断したと想定されている。この中断した時期は八世紀第Ⅲ四半期と考えられる。その後、九世紀中頃に一\n時的に操業されたことが推定され、それ以降、生産停止したと思われる。\n瓦類は男瓦・女瓦・宇瓦が出土した。その中でも、武蔵国の郡名に関する押印やへラ書きされた文字瓦、豊島郡\nに関する人物が記銘された人名瓦が出土している。文字瓦の総点数は二○一点にのぼる。郡名瓦は押印やへラ書き\nにより豊島・那珂・秩父・埼玉・比企郡の五郡が確認された。また、判読不明の押印が一種類確認された。押印が\n(肥)\n示すもの多くは郡名を示すことが多く、武蔵国のいずれかの郡名である可能性が高い。また、郡名瓦とは別に豊島\n郡のに関する文字瓦が出土している。この瓦は人名のほかに、豊島郡の押印や白方、荒墓、湯島、廣岡郷といった\n豊島郡の郷名が瓦の端部に記銘されている。\n金沢窯跡で出土した人名瓦は五八点である。人名の表記はいずれの工人も「戸主十氏十名」のみの形式で表記さ\n(、)\nれた。人名の中にで「マ」と書かれているものは「部」の異体字である。また、豊島郡の郡名押印が瓦の凹面に押\n捺されている(図三’一)。この押印は第一群の人名瓦のみに使用され、一般的に使用された郡名押印とは使用用\n途が違い、人名瓦専門印として使用されたものである。端部には白方、荒墓、廣岡、湯島、日頭郷といった豊島郡\nの郷名が表記されている。人名瓦に伴って書かれた郷名の内訳は、白方郷二点、荒墓郷七点、湯島郷二点、廣岡20\n武蔵国分寺人名瓦の造瓦組織に関する研究\n郷二点、日頭郷一点の計二三点である。状態の良い人名瓦には凹面に押印と人名、端部に郷名を記銘されており、\nこれらのすべてが表記さるのが第一群の特徴であると考えられる(第二図)。次に、書き手の特徴や瓦の製作技法\nから見た分析を行ないたい。\nまず、A種はB・C種に比べ文字が小さく、「戸主(図三l四この「戸」の一画目が表記されない。筆跡は、滑\nらかな運筆で入筆部やはらいはしっかりしているが、はねがない。B種は、文字のとめやはねが暖味で流字のよう\nな印象を受ける。また、運筆の際に文字の太いものや細いものが見受けられ、文字全体の安定感に欠ける(図三’\n五)。C種は、B種と同じような文字の大きさであるが、文字のとめやはらいがしっかりしており、運筆も滑らか\nで文字のバランスもよい(図三’六)。\n人名が書かれた瓦の製作技法はいずれの瓦も、男瓦が粘土紐巻き上げ作り、女瓦は粘土板一枚作りである。女瓦\nの凸面には六種類の斜格子叩き具による整形が確認できた。叩き具を見ると書き手ごとに特定の叩き具の使用が認\nめられないことから瓦工人と書き手は別々の人物であると考えられる。また、男瓦の隅落とし等の技法から見ても\n瓦の特徴と書き手に統一性や偏りが見られないことからも瓦工人と書き手は別々であることがわかる。また、同一\n人物の人名瓦は同じ書き手によって記名されたことがわかる。一部の人名瓦には、文字を記名する位置の布目を指\nまた、書き手ごとに人名が記銘された位置や文字の大きさ、郷名の記銘比率について分析した結果、それぞれに\n特徴があることが分かった。まず、人名の記銘位置と押印の押捺位置の関係を表したものが第四図である。矢印方\n向は文字の天地を示し、太い矢印は押印、細い矢印は人名を表す。図を見ると、A種は人名・押印ともに天は広端\n部を向いている。B種は基本的に狭端部側が天になるが、何点か広端部が天になるものがある。これは、金沢窯跡\nでナデ消したものもある。\n21\n狭端部\n、\n↓\nへ\n広端部\nAm*B種傘C稲ネ太矢印は押日,。矢印先が天。\n第4図人名と押印の位圏関係\nで生産された豊島郡の女瓦は広端部と狭端部幅\nの差がなく判別しにくいものが多いことが挙げ\nられる。そのため、書き手が狭端部と広端部を\n反対に捉えたものと考えられる。B種も押印を\n押す人と人名を書く人は同一人物であったと考\nえられる。ただ、第四図l①は同じ瓦に記され\nた押印と人名だが、天地が逆であることを考慮\nすると押印を押す人と書き手は別々であった可\n能性も否定できない。C種は押印と人名ともに\n狭端部を向いている。こうした文字の天地がす\nべて同一方向を向いていることや一定の範囲に\n人名と押印が収まることから、押印を押す人と\n人名の書き手は同一人物であったと考えられる。\n次に、文字の大きさや線の太さからも書き手\nごとに特徴があることが分かった。いずれの書\nき手にも共通する文字である「戸」を基準に文\n字の縦幅と横幅の長さと文字線の太さを測定し、\nその平均値を求めた。まず、A種の「戸」の平22\n武蔵唾1分寺人名瓦の造瓦組織に関する研究\n均は縦幅九皿横幅九m、文字の太さ一・一mであった。B種は縦幅一五皿横幅一二皿文字の太さ二.○mで\nあった。C種は縦幅一・五皿横幅一・一而、文字の太さ一・五mであった。しかし、参考にできる資料が少な\nく、筆記具の入れ方、粘土の硬さなどで文字の大きさや太さが変化する可能性があるので参考程度と考えている。\nまた、書き手ごとに記名されている郷名を分類したところ以下のように分類された。A種が記名した瓦には、荒\n墓郷七点、廣岡郷一点、白方郷一点が記名された。B種は荒墓郷二点、湯島郷一点であった。C種は白方郷九点、\n藤岡郷一点、日頭郷一点、湯島郷一点であった。書き手によって記名された郷名に偏りが見られることから、書き\n手ごとに記名する郷が決まっていたと考えられる。また、B種とC種が記名した湯島郷の表記に違いがみられるこ\nとから人名の記名時期に時間差があると考えられる。C種は湯島郷を「湯」と記名しているのに対し、B種は「吉」\nと記名している。倭名類聚抄では、湯島郷を「湯島」と表記されていることから端面に「吉」と記名された瓦は古\nく、「湯」と書かれた瓦は新しいものと考えられる。よって、B種よりもC種が人名を記名した時期が古いと考え\n第二群に所属した書き手は,.E・Fの三名である(第三図’七・八・九)。これらの書き手は金沢窯跡とは別の\n窯場で生産されたもので、人名の表記や瓦の製作技法は金沢窯跡で生産された人名瓦とは大きく異なる。これらの\n瓦を生産された窯跡はいまだ不明である。まず、各書き手の特徴であるが、D種は先の細い鋭利な筆記具を使用\nし、一見、B種かC種に似る筆跡である。しかし、第三’七図のように「瓦」の字がB種が記名した「瓦」と比べ\n一画多いのが特徴である。また、B種に比べ、字体のバランスがよく、C種と比べるとはねの部分や字体のバラン\nスは似ている。ただ、B種より運筆全体に直線的ではねがない(第三’七図)。E種は、U字状の筆記具を使用し\n(M)\nられる。\n第二群\n23\n人名の表記は「氏十名」と「名」のみの二種類確認されている。そのため、豊島郡のように「戸主」を冠してな\nいのが一つの特徴でもある。出土した点数は少量だが、豊島郡と同様な趣旨のもとで製作された考えられ、那珂郡\nも「戸主」層を対象とするものと考えているが、今後詳しい分析が必要である。人名は前述したように凹面以外に\n端面にも記名されたものある。また、那珂郡の人名瓦には二種類の郡名押印が使用されているが、郷名を記名した\n瓦の製作技法も縄叩きや平行叩き具を使用している。また、瓦の色調も褐色系で軟質のものが多く、灰色系で硬\n質である金沢窯跡とは大きく異なる。よって、瓦の製作技法を見ても金沢窯跡とは異なる窯跡で生産されたことが\n(喝)\nわかる。\n・第三群\n第三群は那珂郡に関する人物を記名しており、人名瓦を記名していた書き手はG種、H種の二名である(第三\n図’十・十一)。まず、G種は端面に人名を記名しており、第三’十図にあるように「呂」の二画目以降が一筆書き\nされているのも特徴である。H種は全体的に筆記具を浅く入れて記名しており、払いがなく終筆部をすべてトメて\nす押印もない。\n記名している。運筆は比較的ブレがなく直線的だが「鴫」の八画目で二回目の折れから湾曲気味に運筆し、その画\nのはねも大きく弧を描くように運筆する特徴がみられる。また、「刑」の六画目を斜めに運筆し、そのトメから直\n接「マ」を記名している。F種は先の細いU字状よりも四角い筆記具を使用していると考えられる。運筆はブレが\nなく直線的だが、ハネがない。人名の表記は「郷名十戸主十氏十名」、「名」のみなど、五種類が確認され、金沢窯\n跡で生産されたものとは大きく異なる。郷名が端面に記名されたものは一点もなく、凹面に記名される。郡名を示\nいる(第三’十一図)。\n24\n武蔵国分寺人名瓦の造瓦組織に関する研究\nものは確認されていない(第三図’二・三)。女瓦凸面の叩き具には縄目叩き具を使用し、色調は褐色系で軟質であ\nへ随)\nる。また、那珂郡の人名瓦は末野窯跡から採取されていることから、この窯跡で生産された可能性があるが、今\n(灯}\n後、詳しい分析が必要である。\n以上のように、武蔵国分寺に関する人名瓦は全三群八人の書き手によって人名が記名されたことが明らかになっ\nた。簡潔に要約すると、第一群に所属した書き手はA・B.C種の三名で、金沢窯跡で生産された。人名の表記は\n「戸主十氏十名」のみである。豊島郡の郡名押印を凹面に押し、端面に郷名が記されている。瓦の凸面は斜格子叩\nき具による整形がされ、灰色系の色調で硬質であることが特徴である。第二群に所属した書き手は,.E・F種の\n三名で未だに発見されていない窯跡で生産されたと考えられる。人名の表記は「郷名十戸主十氏十名」等、五形式\n確認され、郡名押印はなく、端部に郷名は記名せず、凹面に人名の前に記名する。瓦の凸面は縄目或は平行叩き具\nによる整形がされ、褐色系の色調で軟質であることが特徴である。第三群は那珂郡の人名瓦を生産したグループで\nG・H種の二名が所属した那珂郡の人名瓦は末野窯跡で生産されたと推定している。人名の表記は「氏十名」また\nは「名」のみで表記され、二種類の郡名押印が使用された。瓦の製作技法は、凸面に縄目叩き具による整形がさ\nれ、褐色系の色調で軟質であることが特徴である。\n人名瓦を記名する際の特徴で、人名の周辺を布ケシするものがあるが、ほとんどが男瓦にありこれは人名を書き\nやすくするためと考えられる。また、この特徴は第一群のみでみられる第二群には見られない。人名は男瓦・女瓦\n四人名瓦の造瓦組織\n25\n国分僧寺・尼寺から出土する人名瓦の出土傾向から各群の出土傾向が明らかになった。第一群で生産された人名\n瓦は国分尼寺を中心に出土する。国分尼寺の遺構から三二点中二二点もの第一群の人名瓦が出土している。第一群\nの人名瓦は金堂跡や講堂跡から五点出土しているが、第一群の人名瓦を生産していた金沢窯跡は国分尼寺を中心に\n瓦を供給したと考えられる。第二群の人名瓦は尼寺では出土せず、塔跡や現仁王門付近で確認される。点数による\n比率は求めることはできなかったが、第二群の人名瓦を供給した窯跡は塔跡と現仁王門付近に存在したと思われる\n(鳩)\n基壇建物に供給したと考えられる。\nまた、瓦工人と文字の書き手の分析から人名瓦と郡名瓦の造瓦体制に相違点がみられることが分かった。まず、\n人名瓦は前述したように瓦工人と人名の書き手は別々であり、官人によって記銘されたことが明らかになってい\nる。一方、ヘラ書きの郡名瓦は瓦工人と郡名の書き手は同一人物である可能性が高いと考える。金沢窯跡で出土し\nた那珂郡と秩父郡の書き手はそれぞれ二人から三人存在したと推定している。ヘラ書き群名瓦は女瓦の造りはすべ\nて粘土板一枚作りで、凸面の整形は書き手ごとに共通の叩き具が使用された。このことから、郡名瓦の書き手と瓦\n工人は同一人物である可能性が高い。大川氏は、郡名瓦と人名瓦は税制負担体制の表れであると指摘している。人\n名瓦の製作理由に関しては諸説あるが、郡名瓦に関しては、私も同様の意見である。これらの文字瓦を用いた造瓦\nえられる。\nの凹面に原則記名されるが、男瓦の凸面、博の側面に各一点ずつ記名されたものが例外的に確認された。\nまた、第一群と第二群の記名開始時期に時間差が生じると考えられる。前述したように湯島郷の表記が「吉嶋」\nと記名するのが古く、「湯島」と記名するのが新しい時期のものと指摘した。第二群ではすべて「吉嶋」のみで記\n名されており、第一群から「湯島」と記名することを考慮すると人名瓦の生産の開始時期は第二群が先行すると考\n26\n武蔵国分寺人名瓦の造瓦組織に関する研究\n体制にはは国や郡の公の組織が関わっていると考えられるが、郡名瓦は瓦工人、人名瓦は官人が記名していること\nから製作理由に相違がみられると考えられる。このこについてはより詳しく分析し、次の機会に触れたいと思う。\n武蔵国分寺で出土する文字瓦に関する研究は江戸時代から現代までに数多くの研究者によって分析された。本稿\nでは、人名瓦における造瓦体制について分析し、郡名瓦とは異なる組織や趣意のもとで製作されたことが明らかに\nなった。未だ、人名瓦の製作背景、豊島郡と那珂郡のみ製作された歴史的背景など課題は山積みであり、今後の課\n題としたい。\n註\n(1)有吉重蔵「武蔵国分寺」『聖武天皇と国分寺」雄山閣一九九八\n(2)有吉重蔵「武蔵国分寺・武蔵国府」「文字瓦と考古学」国士舘大学実行委員会二○○○\n(3)知識とは、本来は僧侶の知人を指すが、仏教の特にあずかるため写経や寺院の造営などの仏教事業に財物や労働力を提供して\n結縁することを意味する。(速水侑「行基」吉川弘文館二○○四)\n(4)宮崎糺「武蔵国分寺の研究」「国分寺の研究」上巻考古学研究会一九三八\n(5)石母田正「国家と行基と人名」「日本古代国家論」第一部岩波番店一九七三\n(6)上原真人「東国国分寺の文字瓦再考」「古代文化」四一’十二古代学協会一九八九\n(7)大川満『武蔵国分寺古瓦博文字考」小宮山書店一九五八\nおわりに\n27\n付記\n本論は、国士舘大学考古学研究室で編集した\n当たっては須田勉先生よりご指導ご鞭燵を賜り、\n日々ご指導いただき、今の私があると存じます。\n図図図図引\n四三二一用\n註註註註図\nへへへへへへへへへへ\n18 17 16 15 14 13 12 11 10 9\nーーー-………… …\n(8)大川清「東国国分\n学人文学会一九七三\n「東国国分\n註(7)に同じ。\nこの建物は有吉重蔵氏に御教授いただいた。\n山路直充「文字瓦の生産」「文字と古代日本」三吉川弘文館二○○五\n荒井秀規「武蔵国分寺の戸主瓦をめぐって」「シンポジウム国分寺の創建を読む」国士舘大学二○○八\n古尾谷知浩「文字瓦と知識」「文献史学・物質資料と古代史研究」塙書房二○一○\n「白方瓦」等、郷名を示す押印もあるため一概に郡名のみとは言い難い。\n異体字の「部」はカタカナの「マ」で打ち出している。\n須田勉ほか「文字瓦」「金沢窯跡」国士舘大学考古学研究室\n須田勉ほか「武蔵国分寺の人名瓦」「金沢窯跡」国士舘大学考古学研究室\n註(鴫)に同じ。\nへへへへ\n14 14 14 1\nーーーー\nより引用\nより改図引用\nより改図引用\nより改図引用\n寺造営時における造瓦組織の研究1瓦坤文字を中心としてl」「国士舘大学人文学会紀要」五国士舘大\n「金沢窯跡」と卒業論文「武蔵国分寺人名瓦論考」を修正、改変し再録した。分析に\n感謝申し上げます。須田先生には、公私ともに大変お世話になり、不真面目な私に\n今後の益々のご健勝とご活躍を心から祈念しております。\n28"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "香川, 将慶"}, {"creatorName": "カガワ, マサノリ", "creatorNameLang": "ja-Kana"}], "nameIdentifiers": 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武蔵国分寺人名瓦の造瓦組織に関する研究
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (1.3 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2017-10-17 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 武蔵国分寺人名瓦の造瓦組織に関する研究 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | The Organization to Make Tiles Signed The Maker's Names on at Musashi Kokubunji Temple. | |||||
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言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | Article | |||||
言語 | en | |||||
著者 |
香川, 将慶
× 香川, 将慶× KAGAWA, Masanori |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | CiNii ID : 9000318620342 | |||||
著作関係者詳細 | ||||||
公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団 (p.117 執筆者紹介より) | ||||||
書誌情報 |
国士舘史学 en : Kokusikan-shigaku 巻 20, p. 13-28, 発行日 2016-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学日本史学会 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40020770765 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 751.4 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 213.65 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
武蔵国分寺 文字瓦 人名瓦 | ||||||
注記 | ||||||
本論は、国士舘大学考古学研究室で編集した『金沢窯跡』と卒業論文『武蔵国分寺人名瓦論考』を修正、改変し再録した。 |