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(形を与えること)」化である。「文学」と「映画」という、異なった「文化」を比較するにあたっては、「文学」という文字媒体による「かたちform」の表現と「映画」という映像+音響媒体による「かたちform」を、それぞれの媒体の特質の差異に着目しつつ、比較研究する作業を行わなければならない。\n この「かたち」への注目という点で、極めて興味深いのが、日本古典文学の研究者であった文献学者、比較文学者小西甚一 (一九一五-二○○七) の存在である。東京文理科大学を卒業し、東京教育大学教授を経て、教育大の筑波大学への移転改組を推進し、筑波大学副学長も務めたが、空海の『文鏡秘府論』の文献学的研究で文学博士となり、遺稿も含めれば五巻別巻二冊にも及ぶ大著『日本文藝史』が代表作といえよう。また、受験生向けの参考書『古文研究法』で教育者として有名である。「日本 (古典) 文学」という文化の価値を、比較文学により保守的ではあるが極めて広い国際的視野で守り、文献学で原典を確定することで保証し、文学史で階層化し、その価値を守る研究者の後継育成するための教育方法と教育制度にいたるまで、かくまで一貫した組織的プロジェクトとして貫徹した日本文学研究者はまれであろう。\n もちろん、その活動・業績の全貌や意義を明らかにすることは、筆者の能力と意図の埒外ではあるが、文学教育の方法として「かたち」の分析方法を重視し、アメリカで一九四〇年代から六〇年"}, {"subitem_textarea_value": "本稿は、「翻訳」を、単に異言語間の翻訳という字義的な意味\nにとどまらず、他の文化や他の文化ジャンルの移入や書き換え、\n混清といった広義の文化現象を含むものととらえる方法論の構築\nをめざす試みの一部をなすものである。人間の生の発露Ⅱ発現\nとしての「文化」は、同時に「文」化Ⅱ「形象(形を与えるこ\nと)」化である。「文学」と「映画」という、異なった「文化」を\n比較するにあたっては、「文学」という文字媒体による「かたち\nざ同日」の表現と「映画」という映像十音響媒体による「かたち\nざ[日」を、それぞれの媒体の特質の差異に着目しつつ、比較研\n究する作業を行わなければならない。\nこの「かたち」への注目という点で、極めて興味深いのが、\n日本古典文学の研究者であった文献学者、比較文学者小西甚一\nはじめに\n小西甚一における「離れ」の方法\n二九一五‐二○○七)の存在である。東京文理科大学を卒業し、\n東京教育大学教授を経て、教育大の筑波大学への移転改組を推進\nし、筑波大学副学長も務めたが、空海の『文鏡秘府論』の文献学\n的研究で文学博士となり、遺稿も含めれば五巻別巻二冊にも及ぶ\n大著『日本文藝史』が代表作といえよう。また、受験生向けの\n参考書『古文研究法」で教育者として有名である。「日本(古典)\n文学」という文化の価値を、比較文学により保守的ではあるが極\nめて広い国際的視野で守り、文献学で原典を確定することで保証\nし、文学史で階層化し、その価値を守る研究者の後継育成するた\nめの教育方法と教育制度にいたるまで、かくまで一貫した組織的\nプロジェクトとして貫徹した日本文学研究者はまれであろう。\nもちろん、その活動・業績の全貌や意義を明らかにすることは、\n筆者の能力と意図の埒外ではあるが、文学教育の方法として「か\nたち」の分析方法を重視し、アメリカで一九四○年代から六○年\n田代真\n132(1)\n代にいたるまで、文学作品の研究・解釈の方法として、教育の場\nで支配的であった、新批評zのョO三亘のBを、要領よく、取捨\n選択して、咀囑適用して導入した業績については、筆者の構想す\nる「文化」の「かたち」の横断的比較文化的分析の方法論の構築\nにあたって、批判的に検討する必要のある喫緊の課題である。\nこうした観点から、かねてより、小西の批評理論の方法論的概\n論ともいえる『日本文藝の詩学l分析批評の試みとして」(一)に\n頻出する「離れ」という概念(というか方法論的観点)を中心に\n検討を進めているところであり、その研究の成果の一部として、\nすでに、日本古典についての小西の解釈の方法論の分析として、\n「〈理論〉から遠く〈離れ〉てl小西甚一における「離れ」と〈架\n橋〉」(二)(『新時代への源氏学」第九巻『架橋する〈文学〉理論』\n所収。竹林舎二○一六年四月)を発表している。\nこのたび、その研究をより拡張、充実させるべく、大学より平\n成二八年度学外派遣研究員として、六月から九月の初めまでの約\n三ヶ月間小西甚一の母校であり、のちに彼が教鞭をとることにも\nなった東京文理科大学の後身である筑波大学の人文社会系で集中\n的に上記の研究を深める機会を与えていただいた。幸いなことに\nこの派遣期間中に、すでに進めていた研究にとって、画期的といっ\nてよい資料発見に立ち会うことができた。\n七月末に派遣受け入れ教員であるアメリカ文学研究者宮本陽一\n以下、一九四○年代から六○年代アメリカでの文学作品の研\n究・解釈の方法として支配的であった、新批評zの葛Q三口の白\nが、小西によって、『詩学』において、どのように摂取されたか\n郎教授から、受け入れ先機関である人文社会系所属の斉藤一准教\n授から小西甚一の東京文理科大学文理学部国語学国文学専攻卒業\n論文らしきものを含む資料を発見したとの報告があったとのご連\n絡をいただいた。\n早速宮本教授に閲覧の機会を設けてくださるようにお願いした\nところ、ご尽力いただき、発見者である斉藤一准教授のご厚意で、\n八月の大学閉鎖期間明け後、上記卒業論文「梁塵秘抄研究」(ご)\nを閲覧する機会を得た。\n閲覧後日が浅いため、途中経過段階ではあるが、上述の「離れ」\nなる方法概念との関連で、上記卒業論文「梁塵秘抄研究」を含む\n小西の『梁塵秘抄』研究の意義についての若干の考察を報告する\nことにしたい。なお、「離れ」については、前掲の拙論「〈理論〉\nから遠く〈離れ〉てl小西甚一における「離れ」と〈架橋とで、\nいささか詳しく論じたが、本論の行論の前提となるので、読者に\nおかれては、重複の煩を容赦されたい。\n「分析批評」における「離れ」とキーワード\n131(2)\nを検討してみることにしたいが、この著作を読み進めるうちに、\n想起されたのは、フランスの文学批評家であり、一九六○年代の\nいわゆるフランスの構造主義、ポスト構造主義の代表的存在とし\nて知られていた、ロラン・バルト用・一目□団自弓①の(一九一五-\n一九八○)である。小西とは同年生まれであるが、経歴的には対\n極といってもよいかもしれない。生涯アカデミシャンにして教育\n者として、教育制度内にとどまった小西に対し、バルトはジャー\nナリズム的な性格の強いフランス的な文化知識人であった。しか\nし、テクストに対するとき、同じような問題に遭遇していたので\nはないか?結論的に言えば、ほとんどネガとポジのような反応を\nしているように思われるのだが、バルトという補助線を引くこと\nで、英米文学研究の文脈とは若干「離れ」たアプローチを試みる\nことにしたい。\n「分析批評」なる語をタイトルに含む前述の『詩学』は、\n一九九八年に刊行されるのだが、収録された論文は、一九六三年\nから一九七七年にかけて発表されたものである。\n巻頭の論文「分析批評のあらましl批評の文法」は分析批評の\nプログラムであり、「ニュウ・クリティシズムの立場」と題する\n一節から始まる。そこで、文学教育の方法として「表現」の分析\n方法を重視する、ニュー・クリティシズムがアメリカで一九三○\n年代から四○年代に隆盛したこと。そこに淵源を持ちながら、様々\nな改良を加えられ、より実践的な文学作品の研究・解釈の方法と\nして、六○年代にいたるまで、教育の場で支配的であった「分析\n批評」目巳菖8}&斤冒の日を、要領よく、取捨選択して、咀囑適\n用して導入したのが、彼の唱える「分析批評」であることが説明\nされる。「批評の本質」について、「ある作品から強い感動を受け\nたとき[…]誰かに、ぜひその感動を語りたい」という「「語り\nあい」ではないかと思う。」と述べているが、このことは彼の批\n評論の根底にあるコミュニケーションへの志向として留意してお\nくべきであろう。同時に、「その際、互いの間に語りあえるよう\nな「共通のことば」が無いと、語ろうにも語れない。」とも述べ\nている。\nこのような志向から、「語りあえるような「共通のことば」」は、\n批評のもう一つの働きである作品の価値評価を無視するものでは\nないが、むしろ「分析」こそ、それに先行するべきであるという\nことから、「分析批評」が要請されるということになる。その基\n本的な特質は、ニュー・クリティシズム由来の「表現にぴたりと\n添った「精細な読み(の」・の①[8sロ、)」こそ文学研究の第一義」\nとする点にある。「分析」とは、一般に複雑な事象をそれを構成\nする要素に分け、その構成を解明することを意味する。小西の「分\n析批評」において、「「語りあい」のための「共通のことば」が、「分\n析」という、〈距離〉を生み出す営為と表裏一体である点は、強\n130(3)\n調してもしすぎることはないと思われる。(『詩学』一○-一二\nさて、そのニュー・クリティシズムは、一九四○年代大いに隆\n盛を誇ったものの、一九五○年代には「表現への過度な密着」と\nいう弊害が生まれ、「作品そのものだけを対象とした結果、その\n作品を支える歴史的・社会的条件も疎外され、結局はニュウ・ク\nリティシズム自身がやせ細っていくことにな」(『詩学』一二)り、\nそれへの反省から、「分析批評」は、歴史的・社会的コンテクス\nトのなかで表現をとらえ、精密な本文批判を採り入れ、深層心理\n学や人類学から原像(胃sのロロ①)の観点をまなび、[…]つまり、\n様々な角度よりする研究を尊重しながら、それらを統合する中心\nに表現分析を置くのである」(『詩学」一四’一五)としている。\n小西は、それを、このように折衷化しつつも、「その中心に表現\n分析の据えられた批評」、「かつてのニュウ・クリティシズムを超\nえるものではあるけれど、また、決して別ものでもない」s詩学』\n一五)と規定している。そして、従来のニュー・クリティシズム\nの日本への紹介が「理念についての解説」であるのに対して、こ\nこでは、理念よりも、表現の分析にあたっての「実際の分析技術」\nの紹介がなきれるということが述べられる。\n実際、続く「表現分析のめやす」という章では、前章を受けて「作\n者・意図」にはじまり「評価」にいたるまでの簡潔な概念規定が\nなきれる。第三章「どう分析するか」では「ジャンルさだめ」か\nら「韻文のあつかい」まで実践的な分析の手順が示される。第一\n部を構成するもう一つの論文は、「日本のニュウ・クリティシズ\nム」では、「ニュウ・クリティシズム」Ⅱ「分析批評」における「表\n現分析」の観点と類比できるような日本古典文学の批評的系譜が、\n藤原俊成から本居宣長まで辿られる。第二部・第三部は、この分\n析の実践、適用例といえる。第二部は、日本古典文学への適用例\nで、「芭蕉発句分析批評の試み」という副題のものを含む、囚篇\nの芭蕉論で構成され、「分析批評」における、芭蕉と漢文学の比\n較文学的アプローチの意義がよく理解できる。また、「分析批評」\nの原型である、ニュー・クリティシズムの草創期の代表的批評\n家、たとえば、アレン・テイト]○百○己①】シ一}①ご月日①(一八九九\n’一九七九)やジョン・クロウ・ランサム]9口、【○コ①内目の。白\n(一八八八’一九七四)、ロバート・ペン・ウォレン用gの1℃のロロ\n三回目目(一九○五-一九八九)は、同時に詩人でもあり、この\n派の批評の対象としてもっとも重きが置かれたのが詩であったこ\nとを念頭におくと、まずは、俳譜というジャンルを対象とするこ\nとは、当を得た選択といえる。第三部は、同時代の文学作品への\n適用例であり、古典との関係で一一一島由紀夫の三つの作を扱ってい\nる。\n以下に見るように「離れ」という概念は、「作者(四三ヶ・[)」、「享\n受者(目日の貝の)」または「素材(白昌の畠」の)」の関係に関わる。\n129(4)\n「詩学」のなかでこの「離れ」①の岳①号日の【目の①という概念が\nはじめて登場するのは、第二部の「「鴨の声ほのかに白し」l芭\n蕉発句分析批評の試み」においてである。\n小西は、貞亨期に蕉風が確立したという定説にもかかわらず、\n従来、その表現の具体的な説明がなされてこなかったことを受け\nて、貞享期の代表的発句「海暮れて鴨の声ほのかに白し」を取り\n上げて論じ、貞亨期の特徴を、「景色を景色として描くゆきかた」\nすなわち、分析批評の用語で「描写型(このの已已くのBaの)」に\n当たるものと考え、それまで俳壇では心情表白を旨とする「説示\n型(の壱・の一s二日・」の)」や「表明型(』の、一胃昌ぐ①日。この)」が支\n配的で、なぜそうした「描写型」の発句が出現しなかったのかと\nいう問題にぶつかる。そして、「芭蕉が接していたはずの古典で\nなにか描写型への傾倒を動機づけそうなもの」を探るうちに、南\n宋末期の周弼が編集した、中晩唐の詩がほとんどを占める『三体\n詩」に行き当たる。小西は、芭蕉における貞享期の表現上の転換\nに比較しうる中国古典詩史上の表現上のモードにおける転換を、\nここでは、特に、「作者(四三ケ。【)」と「素材(日呉の【国一の)」の関\nわりに焦点を当てて、その概念について検討してみたい。\n「離れ」の⑪→ゴの一一○Q-の釘.○のの導入\n「実」Ⅱ説示型に「虚」Ⅱ「説示型」「表明型」よりも重きを置く\n周弼の詩観や南宋末期の詩壇に見るわけである。\n「離れ」という概念が導入きれるのは、この貞享期の蕉風の特\n徴である「描写型」と、近代俳句的な「写生」の違いを明確にす\nるにあたってのことである。\n貞享期における芭蕉の描写型表現は、ともすれば、正岡子\n規流の意味での客観写生と混同されやすい。が、両者は決し\nて同じではない。子規及びその継承者たちがふりかざした客\n観写生なるものは、作者が経験したとおりを忠実に写しとる\nことだと考えられる。それは、批評用語でいう「離れ」(のms①弓\n臼の己冒①)を持たない表現にほかならない。「離れ」とは作\n者(四三言【)と享受者(四三一①貝の)あるいは素材(日昌の昌一の)\nとの関わる距離を一一一一口う。享受者に対する「離れ」がゼロであ\nれば、たとえば、子規の作った句において享受者に何かを語\nりかけてくる話主(巴の畠の【)は子規本人だということにな\nり、素材に対する「離れ」がゼロであれば、その句で述べら\nれている事実はすべて作者子規の経験と一致し、少しも仮構\nをまじえないことになる。\nこのような意味での写生論は、実は、欧米のリアリズムに\n対する明治期文化人たちの誤解もしくは認識不足から生ま\n128(5)\n文脈上、子規の「客観写生」的な観点で「貞享期における芭蕉\nの描写型表現」を解釈することに対する批判であることは、明\nらかである。ここで小西は、のの岳①言日の画冒①という原語に対し\nて、「離れ」という訳語を与えている。字義どおりには、「美的距\n離」あるいは「審美的距離」とでも訳される言葉である。先取り\n的に指摘しておけば、この翻訳からは、小西のこの概念に対する\n解釈や彼の分析批評の理論的特質、さらには、代表作『日本文藝\n史」における独自な展開にいたるまで、極めて多くを示唆してい\nるように思われる。原語の①のgの弓とは、〈美的な〉、〈美学の〉〈審\n美的な〉という意味だが、語源的には、〈感覚によって知覚する\nこと〉を意味する古典ギリシア語巴のs①二・のに由来し、〈感覚性〉\n〈感受性〉を含意している。〈審美性〉といえば、芸術・技術にか\nかわるという意味で〈人工的なニュアンス〉を持つであろうし、〈感\n覚性〉といえば、より知覚の鋭敏さという〈自然的・身体的なニュ\nアンス〉を持つであろう。また〈風雅〉〈雅〉といった両方を媒\n介し包括する美的・文化的存在様式の意味合いでも用いることの\nできる言葉である。のの弓①号臼の(目の①とは、語義的には、こうし\nた向義性を帯びているという点では〈架橋〉的な形容詞と、分析\nれたもので、もちろん芭蕉の知ったことではない。(『詩学』\n九四-九五)\nの本質ともいえる〈距離〉sの百口の①[ラテン語の動詞&の【胃のⅡ\n日の「分離して」+の画[の「立っている」から由来する]という名\n詞の接合ととらえることができよう。この言葉を「離れ」と翻訳\nすることで、小西が、そこからいかなる「離れ」を産み出したの\nかというのが、拙論の主たる関心事となるであろう。\nニュー・クリティシズムの創設者であるジョン・クロウ・ラン\nサムは、この概念について、次のように述べている。拙論で展開\nされるこの概念の基本的な意味合いを理解するうえで重要な規定\nである。\n『趣味に関する多数意見が、芸術家はフォームによって自己\nを表現すべし、と定めているとするなら、それは明らかに、\n芸術家をして自己を直接に表現させまいという意図に出たも\nのである。言いかえれば、フォームの伝統が、芸術家を対象\nへの直接のアプローチからまもってくれるのである。この伝\n統の背後には、直接のアプローチは芸術家にとって危険であ\nる、時には命取りになるかも知れぬ、という意識があるので\nあろう。[…]したがって私は、芸術はつねに、たぶん必然\n的に、一種の回り道である、と言おうと思う。固定した芸\n術のフォームが、芸術制作の回り道を、調契的圃蝋を保証し\nてくれるのである。」(尋①ご胃量吋回〕&、所収二可・『白の四目\n127(6)\nとする当時の左翼に対する批判的な態度を含意するものであり、\n分析批評も「あくまでも作品自身に密着する」という点でそれを\n引き継ぐものであったといえるだろう。\n他方、「美的距離」は、左翼の作家の方法論にもなりえた。拙\n論の補助線であるロラン・バルトについて言えば、一九五○年代\nに、一時ブレヒト演劇に熱中していた時期があり、当時書かれた\nいくつかのブレヒト論および演劇評を読むと、ニュー・クリティッ\nこのような、表現Ⅱフォームと芸術家の「思想」を切り離す態\n度は、ニュー・クリティシズムが直面していた、先行あるいは対\n立する文学上の批評態度への対抗的な必要に起因するものであっ\nた。\n一九二○年代から一一一○年代にかけて、文藝を社会的な観点か\nら意義づけるゆきかたが流行し、[…]このゆきかたが、い\nちばん鮮明な形をとるのは、唯物史観を尺度にして作品を評\n価する場合である。それは、当然「思想」を思想として重視\nする態度に傾くが、作品から抽出された「思想」は、もはや\n文学研究の対象ではないs詩学」九)\n、】(旨のロのニレ{れり。)(Ⅲ)\n「「離れ」とは作者(目言・『)と享受者(四三一の胃①)あるいは\n素材(ヨニの昌一の)との関わる距離を言う。」というすでに引用し\nた「離れ」の二つのベクトルの内、「作者」と「素材」の「離れ」\nについては、小西はどのように扱っているのだろうか。小西は、\n貞享期の蕉風を特徴を、分析批評の用語で「描写型」に当たるも\nのと考え、それまで俳壇で支配的であった心「説示型」や「表明\n型」から「描写型」への移行に相当する、中国古典詩史上の表現\n上のモードにおける転換を、「芭蕉が接していたはずの古典」を\n探るうちに、南宋末期の『三体詩』の編集者周弼の詩論における\nクたちとは思想的には逆に、以下のようにブレヒトの〈異化効果〉\nを通じて、〈美的距離〉を〈政治的距離〉として摂取していたざ\nまが見て取れることは興味深い。\n、、、、、\nブレヒトのドラマトゥルギーのすべては距離をとるという\n必要性に従っており、この距離の実現にこそ演劇の本質的部\n分が賭けられている。問題なのはなんらかの劇的スタイルの\n成功ではなく、観客の意識そのものであり、したがって歴史\nをつくるその力である。Z\n「素材離れ」を媒介する比較文学的間テクスト性\n126(7)\n「虚」Ⅱ「説示型」「表明型」に対する「実」Ⅱ描写型の優位とい\nう主張に見出す。そして、「芭蕉が接していた」可能性が考えら\nれる、寛永期に刊行された禅僧紫陽素隠の『三体詩』の講詩書『’一一\n体詩紗』や同時期の他の禅僧による「抄物」の訓釈と原詩、そし\nて、芭蕉の句の表現を比較検討して以下のよう述べている。\n問題になっているのは、古典研究でいう、いわゆる典拠の厳密な\n解明だけではない。むしろ、前節で引用したランサムでの言葉で\nいえば、「芸術家を対象への直接のアプローチからまもってくれ\nる」「フォームの伝統」、。種の回り道」の意識であろう。ここでは、\n「典拠」の「穿鑿」よりも、そういった〈審美的〉センスによる「迂\nこの類の詩がほかにも少なくないであろうから、芭蕉は「何\nかシナの詩で見かけたようなとりあわせ」といった程度の\n意識で構成したのかもしれない。が、いずれにもせよ、拠り\n所になったのが何の詩であるかlという穿鑿は比較文学の立\n場から見れば、たいした問題ではない。注目されてよいの\nは、それよりも芭蕉が実際の経験にかならずしも拘泥せず、\nシナ詩の世界を頭におくことにより、素材との間に「離れ」\n(以下「素材離れ」と称する)を持った点である。S詩学』\n九四)\n回」の意識が「比較文学の立場から」提起きれているという点で\nあり、享受者の比較文学的素養Ⅱ〈間テクスト性〉が問われてい\nる点である。\nこういう立場での「伝統」の参照枠を、〈文化〉一般にまで拡大し、\n一般化、原理化すれば、いわゆる、〈作者〉・〈読者〉・〈テクスト〉\n全体を循環するテクスト現象という過程と考える、前述のロラン・\nバルトのような〈テクスト論〉に逢着することになろう。小西の\n場合、参照枠が〈文学Ⅱ審美性〉〈学問的制度性〉の埒内である\nという制限がかかっているとはいえ、態度的にはほとんどテクス\nト論といってよいのではないか。\n〈テクスト〉とは、操作しうる対象ではなく、書物を開き文字\nに視線を落とすときにしか成立せず、そのたびごとに異なったテ\nクストとしてのみ反覆されうる現象Ⅱ経験である。〈読者〉とは、\n既に読むという体験としての〈テクスト〉というハビトゥスの産\n物として、いわばすでに断片化した〈間テクスト〉の肉化した存\n在であり、〈作品〉とは、そうしたく読者〉を織り込むあるいは\n/かつ読者が織り込まれるテクストの口実に過ぎない。\nここから、読むことのいわゆる〈間テクスト性〉の問題を考え\nることが出来る。〈間テクスト性〉とは、すでに肉化した間テク\nスト断片である読者と、新たなテクストとの相互触発と考えられ\nる。読むという経験を通じて、読者と読まれるテクストは、相互\n125(8)\nの内なるテクスト(の開口部)を発見するわけで、その時間的順\n序は、書かれた順序とは無関係といってよいことになる。\nプルーストに時代的に先行するスタンダールや、フローベール\nの作品の一節を読むと、プルーストのテクストが想起されてくる\nという経験を述べながら、バルトは次のようにいっている。\n「曼茶羅」とは空海の文学理論の専門家であった小西にはもっと\nも親しいものではないか。そもそも、彼が研究校訂した『文鏡秘\n府論」自体、空海が編集した複数の漢詩文の理論からの抜粋要約\n私は常套句の支配、起源の逆転、先に書かれたテクストを後\nに書かれたテクストから由来させて読む気楽さを味わう。プ\nルーストの作品は、少なくとも私にとっては、参考書であり、\n[…]文学の宇宙開關説の曼茶羅である[…]。これは私がプ\nルーストの《専門家》であるという意味では全然ない。プルー\nストは私にやって来るのであって、私が呼び寄せるのではな\nい。それは《権威》ではない。単に、循環する記憶なのである。\nそしてこれこそ間‐テクスト、すなわち、無限のテクストの\n外で生きることの不可能性であるlこのテクストがプルー\nストであろうと、日刊新聞であろうと、テレビの画面であろ\nうと構わない。本が意味を生む。意味が生命を生むのだ。(六)\n小西は、具体的に、「海暮れて鴨の声ほのかに白し」という句\nの表現レヴェルの何をもって「素材離れ」と〈感じた〉Ⅱのだろ\nうか。つまり、〈審美性〉の指標の問題である。結論的にいうと、\nの点綴であり、バルトにおけるプルーストのテクストに当たるも\nのと相同的関係にあると考えることもできよう。すなわち、テク\nストとして読むこととは、他の断片と横断的に〈比較〉すること\nを通じて、元のテクストの枠組みからある部分を析出し、それを\n織り合わせることによって、断片としてのテクストから新たなテ\nクストを生成することにほかならない。地口好きなバルトの言葉\nを借りれば「比較〈コンパレゾン〉は理〈レゾン〉である」E\nということになろう。小西の解釈は、対象とするテクストの時間\n的順序こそ逆転してないものの(但し次節で見るようにその解釈\nが「素材離れ」や「共感覚」いったニュー・クリティシズム経由\nの方法概念から着想きれていると考えれば、やはり逆転している\nことになろう)、『三体詩」と「一一一体詩紗」と芭蕉の俳句を点綴す\nることによって、新たな〈間テクスト性〉を産み出す作業といえ\nるのである。\n「素材離れ」の指標としての「共感覚」\nlイメージの「離れ」と「翻訳」\n124(9)\nこのように「イメィジ」は、「感覚」による〈事物表象〉として\n規定されている。では、問題の芭蕉の句の共感覚技法とはいかな\n小西は、この句のイメージの用法を検討して、それを欧米の批評\n用語でいう「共感覚(の百四ののsのの国)」に求めている。〈共感覚〉\nとは心理学用語としては、〈色聴〉のように、音を聞くと色が見\nえるというように一つの感覚への刺激が異なる領域の感覚をも引\nき起こす現象のことを言う。だが、それを論じるにまえに、分\n析批評におけるキーワードとして、「イメィジ」と「イメジェリ」\nについてみておこう。彼の規定を引用しておく。『詩学」の「分\n析批評のあらまし」のなかでは、詩の分析の用語として取り上げ\nられている。「共感覚」との関連で重要な規定は以下の部分であ\nろう0\n詩において、さらに重要なのは、イメジェリすなわちイメィ\nジの用法である。批評用語としての「イメィジ」は日常的な\n使いかたといくらか違う。すなわち「事物の感覚による具体\n的な提示」が、イメィジである。この際、感覚は、視覚・聴\n覚・嗅覚・触覚・味覚のどれでもよいけれど、もともとイメィ\nジの原義が「肖像」ということなので、自然視覚がいちばん\n多く使われるようである。(「詩学」二四))\n前述した心理学用語〈色聴〉の現象の詩的表現としたようなも\nのである。小西は、こうした技法が、欧米の詩に見られるのが、\nロマン派からポードレールを代表とする象徴詩においてである\nことから、十七世紀後半の芭蕉の句にこのような表現が見られ\nることを高く評価するわけだが、重要なのは「感覚」との関連\n性で、支配的なのは「視覚」であるが複数の感覚(五感)にわ\nるもの●なのか。\nの「白し」などに見られる用法が、禅的な表現と無縁ではな\nいようだからである。本来「白し」は、色彩について言われ\nるはずの語であるのに、右の句では、鴨の「声」に対して用\nいられている。このように、不可視の対象について「白し」\nといった例は、天和期より前には存在しないけれど、元禄期\nの句には見える。(『詩学』一○八))\n海暮れて鴨の声ほのかに円し\n貞亨期の作品におけるトーンが禅的なものに関わりを持つと\nすれば、それは、イメィジの用法を検討するうえにも、すぐ\nなからぬ示唆をあたえそうである。\n123(10)\nたることである。実は、「離れ」①の言の号昌の己冒のの①のS①弓が\n〈感覚的な〉であることを想起すれば、の宮口のの言のの白く「複数の)\n感覚」四ののBのの国が「共存」の言すること〉は、同じ語源の語根\n四ののs①の国を含み、「イメィジ」の感覚性とが通底しやすいことは\n容易に見てとることができる。「共感覚技法」の百四のの旨のの国を、「離\nれ」①の弓の号日の(旨の①の指標として着眼した小西の手際のよさを\nうかがえる点である。\nここでも、小西が、「イメィジ」の「離れ」という技法自体が\n何から影響を受けたのかという点に関しての推論において拠り所\nを求めるのも、比較文学的な「審美的迂回」Ⅱ「離れ」である。\n日本文学の伝統において和歌にも先立つ共感覚技法の例があるこ\nとはみとめつつも、俳句よりも和歌の表現を摂取することに積極\n的であった連歌において、共感覚の例が見つかっていないことを\n理由に、それからの影響関係を退けて、その代わりに小西が導入\nするのも、やはり、禅林を通じて移入された「シナの詩」の影響、\nより精確に言えば、前出の禅僧紫陽素隠の講詩書『三体詩紗」や\n同時期の禅僧によるの「抄物」にみられる、「禅僧による詩の「よ\nみかた」」の美学①の弓の号のである。問題の句の「鴨の声ほのかに\n白し」は、『三体詩紗』における司空図の「寄永嘉崔道融」の一\n節「戊鼓和潮暗」についての素隠の釈「其ノ声ガ潮ノ音一一和シテ、\n暗中ニキコヘタゾ」を媒介に、その訓「戊鼓潮に和して暗く」を\n共感覚技法としてよみ、摂取したのではないかと推測している。\nでは、禅林における詩の「よみかた」の美学のmS①号のはいかな\nるものなのだろうか。小西はこれを以下のような、外国語を翻訳\nするにあたって見られる現象を手掛かりに説明している。\nところで、共感覚技法は、日常語のなかに融けこみ、それ\nと意識きれなくなることが稀ではない。たとえば、フランス\n語でぐ・宮ウ一目s①といえば快活な声を、また昌一(す一目&の\nといえば眠れない夜を意味するが、フランス人にとっては、\nこれらの「白い」(ご目&の)が共感覚技法だとは意識されに\nくいかと思われる。われわれが「黄色い声」を共感覚技法だ\nと気づきにくいようなものである。だから共感覚技法が詩の\n技法として効果を示すためには、日常語法との間にそうとう\n「離れ」が無くてはならない。すなわち、あまり見かけない\n共感覚技法であることを必要とするわけだが、この「あまり\n見かけない」という感じは、外国語の共感覚技法であるぱあ\nわたしの問題とするところは、禅僧による詩の「よみかた」\nが芭蕉に共感覚技法を媒介するひとつの要因だったろうとい\nうことなのである。(『詩学』一一三)\n122(11)\nつまり、外国語の日常語法にみられる共感覚技法、たとえば口昌\nご自呂のを、字義通り和訳した場〈川の表現「白い夜」と、その外\n国語の共感覚技法の日常的な比嶮的意味「眠れない夜」との落差\nⅡ「離れ」を、フランス人よりも和訳する日本人のほうが意識し\nやすいということである。それは、そうした翻訳の過程で意識し\nた表現に、禅林詩においては、いわば意識的に、本国人における\nのとは違った意味づけが与えられるということを意味する。こう\nいった指摘は、ほとんど、ベンヤミン的と言えないだろうか。ド\nイツ・ロマン派の詩人へルダーリンにとって最後の作品となった、\nギリシアの悲劇詩人ソフォクレスの翻訳が、その過度なまでの逐\n語性ゆえに、意味の再現が困難になった事態について、「翻訳は、\n原作の意味にみずからを似せるのではなくて、むしろ愛をもって\n細部に至るまで、原作の持っている志向する仕方を己れの言語の\nなかに形成しなければならない。」という言葉を想起させられな\nいだろうか。(△\nちなみに、小西の代表作『日本文藝史」には、英訳が存在する\nい、いっそう顕著である。[・・・]シナ詩にそれほど共感覚技\n法が多いわけではないのに、室町時代の禅林詩でそれがこの\nまれた理由のひとつも、禅僧たちがシナ詩に本国人よりも多\nく共感覚技法を認めたからではないか。(『詩学』二一一)\nのだが、ここで問題にしている「離れ」は、引用符も付けらず何\nの違和感もなく英文のなかにおさまりかえっており、ニュー・ク\nリティシズム由来の標準的文学教育を受けた読者は、原文にある\n特別なキーワード的としての強調の意識を感じることもなく、読\nみ進めることだろう。むしろ、もとの日本語原文のほうが〈翻訳〉\nであるかのように感じられるのもこのような〈翻訳〉の観点から\n興味深い。(&\nさて、芭蕉の共感覚技法は、禅僧たちが外国語の詩の表現を翻\n訳し摂取する過程で発見したく異化効果〉、このような言葉に対\nする意識的な態度、小西の言い方では「よみかた」を採り入れる\nことで、自国語を意識的に見直し、新たなポエジーに転生させた\nといえるだろう。小西は、こうした禅僧たちの「よみかた」のう\nちに、〈不立文字〉を旨とする禅の悟りの、言葉を超えた境地「閑\n寂」「静寂」の美学を見ているように思われる。\nわれわれが日常ありふれた事がらとして気にとめない事物\nを、思いもかけない在りかたにおいて提示し、その日常意識\nが破れる瞬間に永遠なる真理を感得きせようとするわけだ\nが、こういった禅のゆきかたは、どことなく共感覚技法に共\n通する。(『詩学」一二一-一一四))\n121(12)\n日常一一一一口語から詩的言語への「離れ」、そしてその「離れ」を介し\nてのこのような言語自体からの「離れ」Ⅱ日常意識の破れへとい\nう二重構造が、ここでは、「禅」という仏教思想とのかかわりで\n明らかにされているといえるだろう。\nこのような日本中世仏教における宗教的体験の表現から芭蕉に\nいたる、ほとんどモダニズムを思わせる詩的言語実験の伝統にお\nける「離れ」との関連で考えると、小西の研究の出発点となった\n今回発見された東京文理科大学文理学部国語学国文学専攻卒業論\n文を含む『梁塵秘抄」研究は、どのような意義をもつものなのだ\nろうか。\n今回発見された東京文理科大学文理学部国語学国文学専攻卒業\n論文「梁塵秘抄研究」は、閲読の限り同一文を含むことから、間\n違いなく小西甚一の学士卒業論文と確認された。二年後の昭和\n十六年十一月に三省堂から公刊された、小西甚一の処女単行本「梁\n塵秘抄考」(|gの原形と推察される。内容的には、全七章構成に\n本文校訂と注釈を含む『梁塵秘抄考』の最初の三章の原形である\nと思われる。『梁塵秘抄考」との関連でいえば、同書は、戦中出\n版状況が厳しいなか、学部卒業後二年に満たない新進の研究が、\n文献学的研究から表現研究への「離れ」\n梁塵秘抄の断簡等の発見者であり、近代日本の大歌人・国文学者\nであった佐佐木信綱の序を得て出版されたことになり、小西甚一\nが極めて異例の早熟にして将来を嘱望された存在であったことの\n証左であるといえる。\n興味深いことに、小西は、後年、東京高等師範学校から東京文\n理科大学にまで指導教授であった日本中世.近世文学研究者の能\n勢朝次二八九四‐一九五五)に、十三世紀初頭から十五世紀末\nという通常の日本文学史の時代区分でいうところの「中世」に相\n当する時代の巻である『日本文藝史」第三巻(二}を捧げ、謝辞\nのなかで、その師弟関係について次のように述べている。\n昭和八年、東京高等師範学校に入ったわたくしは、指導教\n授たる能勢朝次先生のもとで叱られどおしだった。こんな\n調べでは駄目だIと叱られるばかりで、いわゆる指導を受\nけたことが、いちども無かったのである。[…]能勢先生の\nお叱言は私が東京文理科大学に入ってからも根気よく続けら\nれ、いっそう厳しさを増す。当時「能楽源流老』に没頭して\nいられた先生は、研究への情熱と気蝋が充実しきった時期で\nあって、そばに寄ると、鬼気めいたものさえ迫るほどだった。\nその先生と闘論するのに、相手の土俵ではとても相撲になら\nないから、卒業論文として「梁塵秘抄考」をまとめたわたく\n120(13)\nここでの証言によれば、ここに見られるのは、史料を駆使する伝\n統的な実証主義的な能楽研究の泰斗として知られた師の圧倒的な\n影である。小西にとって、梁塵秘抄研究は、「離れ」の初動の契\n機であったことになる。師の研究領域である日本中世文学からの\n「離れ」としての日本漢文学研究、師の研究方法である実証主義\n的文献学からの「離れ」としての「分析批評」導入。現今流行の\nFDからは考えられないアカデミック・ハラスメントそのものの\nよ》うっなな「正指導」だが、師の証言も聞かなければ片手落ちというも\nのだろう。\nしは、研究科に進むのを機に、なるべく先生から遠い領域に\n限ると考え、日本漢文学史へ転向した。\nそれでも、いくら遠い領域の事であろうと、調査の方法、\n資料の扱いかた、論の組み立てに怪しい点があると、やはり\n先生の眼光から逃れるわけにはゆかず、具体的な指摘のかわ\nり「こんどの論文は出来が悪い」とか「詰めがあまい」とか\n言っては叱られた。叱られるほど、遠くに逃げたくなる。昭\n和三十年、先生が長逝されたあと、領域だけでなく、方法の\nうえでも先生の実証主義を離れ、分析批評に傾倒したのは多\n分その余波だったろう。[…]。(『日本文藝史」第三巻謝辞)\n弟子もさる者である。主著である『能楽源流考』を執筆中の師に「闘\n小西君は伊勢の産である。高師一年の時代に、郷里の関係か\nら伊勢神楽歌の研究を国漢会誌に発表したのが、君の研究\nの手始めであった。次いで歌謡史に興味を感じ、伊勢神楽歌\nの源流として梁塵秘抄の研究を志したのが高師二年のころで\n[・・・]その副産物として白拍子考を如月会誌に発表した。こ\nの白拍子考は、私の旧稿の誤謬を手痛く批判したものであっ\nて、実に堂々たる論述であった。[…]この書の法文歌の部\nには実に移しい経典が引用せられてゐるが、君は秘抄のこの\n部の研究のために、一切経を悉く読破したのである。何がさ\nうさせたかといへば、法華経によった歌だという事になって\nゐる歌の典拠が、法華経には見えないで維摩経にあったとい\nうような事実が、君をして自ら一切経を全部読み、まのあた\nりに其の典拠をつきとめねば、安ぜしめなかったのである。\n[…]きうした事について相談を受けたり報告を聞いたりし\nて、そのあまりに多方面な行き方に対して、私が不安げな顔\nつきをしていゐと、「先生大丈夫です。木乃伊取りに行って\nも木乃伊にはなりませんから」と先手を打って、私をして口\nを利かせないで、瓢々として帰ってゆくのである。S梁塵秘\n抄考」序七‐八頁)\n119(14)\n梁塵秘抄は、「梁塵秘抄口伝集」巻第十のみ群書類従に収めら\nれて知られていたが、明治四十四年の秋に歴史学者和田英松に\nよって東京下谷の古書店で発見され、友人の国文学者にして有名\nな歌人でもあった佐々木信綱がそれを委ねられて学会に紹介した\nのが世に州たきっかけであった。佐々木信綱は、大正元年八月、\nこの巻第二の本文を、これも新しく発見きれた綾小路家本の巻第\n一、『梁塵秘抄口伝集」巻第一の断簡の本文を添えて公刊したこ\nとによって、広く世に知られるようになった。\n小西の『梁塵秘抄考」の内容と意義については、その梁塵秘抄\n研究の権威、佐々木信綱が与えた同書の序につくに若くはないだ\nろう。まず、文献学的実証の部分については以下のように要約評\n価している。\n献学的研究から表現研究へという方向性である。\n論」を仕掛けようと考えるだけでも相当なものである。究極のア\nクティヴ・ラーニングといえようか。\n卒業論文を閲覧し、公刊された『梁塵秘抄考』の構成との関連\nを見てみると、弟子の「離れ」の方向性がうかがえる。即ち、文\n[…]現存の本文が少なくとも三段階の変遷を経た混合本で\nあること、また梁塵秘抄の御撰述が保元二年から治承三年の\n間にあることを明らかにし、御撰述の御目的が今様歌謡の文\nしたがって、上述のように、「卒論」は内容的には、全七章構\n成に本文校訂と注釈を含む『梁塵秘抄考』のほぼ最初の三章の原\n形であると考えられる。つづけて佐々木信綱は表現研究の部分に\nついては以下のように要約評価している。\nこの部分に対応するのは『梁塵秘抄考」第一章から第三章であり、\n「卒論」の章立ては順序と章題および節見出しに若干の異同がみ\nられるものの、内容はほぼ対応関係にある。\n献的集成にあること、また御撰本の原形が歌集十巻・口伝集\n十巻に当たる部分に今様歌集以外の巻がありとすれば、それ\nは今様譜であることを論証してゐる。(『梁塵秘抄考」序三’\n四頁)\n「梁塵秘抄考』第一章「現存本の検討」\n(↓「卒論」第三章「本文批評」+第一章第一節)\n「梁塵秘抄考』第二章「成立の年代および事情」\n(U「卒論」第一章「成立および成立年代」\n「梁塵秘抄考』第三章「御撰本の巻次と内容」\n(U「卒論」第二章「組織内容の検討」\n118(15)\nつまり、卒論は徹頭徹尾能勢朝次的な実証主義的な文献学的方\n法に依っており、第四章以降は、表現研究に向かっているという\nことである。『梁塵秘抄考」の公刊は卒論提出の二年後に過ぎな\nいことを考えれば、表現研究も並行して進行していたことは想像\nに難くない。\n実証主義的な文献学的からの「離れ」としての表現研究の部分\nを、小西自身の言葉に即して要約すれば、以下のようになる。\n秘抄歌謡の表現は、声明系・神歌系・民謡系の三系統を、形式.\n「梁塵秘抄考」の「総合的研究部」の次の第四章から第七章に相\n当する内容の要約であり、卒論には対応する記述は存在しない。\nまた、今様歌謡の形式及び表現からして、今様の特質と梁塵\n秘抄の歴史的地位を明らかにし、全体において従来の諸研究\nを網羅し、その研究の進展のざまを殺し、将来研究きるべき\n方向をも示してゐる。s梁塵秘抄考』序四頁)\n『梁塵秘抄考」第四章「秘抄歌謡の形式」\n『梁塵秘抄考」第五章「秘抄歌謡の表現」\n『梁塵秘抄考」第六章「歴史的批判」\n『梁塵秘抄考」第七章「研究史」\n様態・様式の関連において検討しなければならない。中でも、同\nじ四句式の歌謡でありながら、思惟的傾向の強い声明系の法文歌\nは形式的に整形であり平叙的形態をもち連続的な様式がみられる\nのに対して、現実的傾向の強い四句神歌は形式的に不整形的傾向\n強く、列救的形態をもち非連続的な様式がみられ、特に中心的な\n歌謡圏においては、対照的ともいえるほど著しく異なった表現で\nある。\nしかしながら、その二つの歌一謡圏は周辺的には相互に浸透関係\nにあり、形式的な制約ゆえにそのことがそれぞれに真に深い表現\nを達成することを妨げた。即ち「流れるものを流れるがままにま\nかす」法文歌における四連形式は表現を弛緩ざせ余情が希薄する\n結果を招いたのに対し、不整的な形式の傾向をもつ四句神歌は、\n「余情の流れを容れず、表現の硬化を招いた」が、このような関\n係は二句形式歌謡の一一句神歌と神社歌との関係にも見られ、「秘\n抄歌謡の表現は、声明系・神歌系・民謡系の表現が互いに浸透し、\n芸術的表現と伝承的表現とが深く交錯しているところにその特質\nがある」と結論する。(『梁塵秘抄考」一四一‐二頁)\n「離れ」という観点からすると興味深い点は、四句神歌の扱い\nであろう。「わが子十余になりぬらん、巫してこそ歩くなれ、田\n子の浦に汐ふむと、如何に海人つどふらん、まだしとて、間いみ\n間はずみなぶるらん、いとほしや、」という四句神歌を、「幽蓬閑\n117(16)\n寂な余韻」を感じさせる有名な法門歌「仏は常にいませども、現\nならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ、」\nと対照しつつ、法門歌を「流動的・連続的といふならば、これは\n飛躍的・非連続的」として、この四句神歌を「表現の仕方から見\n、、\nるならば[…]句と句の間に切れがあ」り、「それぞれの句は互\n、、、、\nいに切れをもち、離れをもちながら次句へ転じてゆく」としてい\nる。\nしかし、四句神歌の非連続的表現は「多く現実の事象や心情と\n密着している」ものの、「実は単に連続的でないといふのみの非\n連続であって、蕉風俳譜などに見る連続的なものを超えた深い非\n連続表現ではない」。\nこのように、法門歌の表現における弛緩した余情に埋没する連続\n性と四句神歌における現実と密着すぎた非連続性をともどもに批\n真に現実を表現するためには、現実から或る離れをもつこと\nが必要であり、現実において現実を超えることを要するので\nある。そこに深い非連続的な表現が成就されるのであるが、\n四句神歌の表現にはそのような非連続性は見られない。[…]\nこのような表現は、民衆的な郷士的な唱和に深いつながりを\nもつものである。(『梁塵秘抄考』一三一一一’四頁)\n注\n(二小西甚一『日本文藝の詩学I分析批評の試みとして』みすず書房\n一九九八年・以下「詩学」と略記して頁を表示する。\n(二)「新時代への源氏学」第九巻『架橋する〈文学〉理論』所収。竹林\n舎二○一六年。\n(三)小西甚一の東京文理科大学文理学部国語学国文学専攻卒業論文(昭\n和Ⅲ年度)発見経緯と私の閲覧の報告は以下の通りである。\n・斉藤一准教授による発見の経緯の説明血斉藤一准教授は英文学研\n究者で、同時に英学・英文学の近代日本への移入という観点から\n近代日本文学を研究されている。以下、斎藤准教授のお話の概要\nである。\n七月の教育会議(田代注率派遣先学系の会議四本学でいえば学\n判することによって、表現という審美的な次元にとどまりつつ現\n実から「離れ」るという批評的な距離の取りかたのうちに、前節\nでみたような、日常一一一一口語から詩的言語への「離れ」、そしてその「離\nれ」を介してのこのような言語自体からの「離れ」Ⅱ日常意識の\n破れへという二重構造との相同的な運動の萌芽を見ることができ\nるとともに、当時の歴史的状況に対する小西の或る種の抵抗の身\n振りを見て取ることができるのではないだろうか。\n116(17)\n部教授会)で、人文社会学系の下部組織である文芸・言語学系の\n資料室閉鎖に伴い、そこに所蔵された未整理の資料の処理が議題\nになった。会議では、廃棄処分が提案され、決まりかけたが、斎\n藤准教授と吉原ゆかり准教授(英文学・ジェンダー論)が未整理\nの資料の確認を提案され、提案者が確認作業を行うことを条件に\n認められた。そこで、夏休み期間中、斎藤准教授、吉原准教授、\n和氣愛仁准教授(図書館情報学)の三人で確認作業を行ったところ、\n斎藤准教授が、段ボールの箱に未整理のまま放置されていた小西甚\n一の当該論文を、国語学者・言語学者で一九九八年から二○○四\n年まで筑波大学学長であった北原保雄筑波大学名誉教授(現新潟\n産業大学学長)らの卒業論文とともに発見した。\n同資料は、斎藤准教授や宮本教授の尽力で、|時的に人文学類\n資料室に保管されることになったが、最終的な移管先はまだ決まっ\nていないとのことである。\n・閲覧の報告》管理体制も決まっていない段階のため、斎藤准教授\nに案内していただき、八月二十五日人文学類資料室で現物を閲覧\nさせていただいた。現物は、クロース装順で背表紙に金文字で「梁\n塵秘抄研究」と書かれ、縦二五字×横一○字の大学指定と思われ\nる原稿用紙で、\n・頁の付されていない表題二枚、\n・昭和十四年十一一月三日の日付の入った「小序」1枚、\n・月次二枚\n・頁の付された本文一一○三枚、\n・頁の付されていない参考文献表四枚、\n.遊び紙一枚、\n・昭和十五年一月の日付の入った指導教授の閲了のサイ\nンの記された1枚、\nの全二一四枚、本文で五○七五○字の労作である。本論でも述べ\nたとおり、閲読の限り、何の一文を含むことから、二年後の昭和\n十六年十一月に三省堂から公刊された、小西甚一の処女単行本『梁\n塵秘抄考」の原形と推察される。東京文理科大学は昭和二1年\nつ九四五年)五川の東京大空襲で大塚の施設の大部分が焼失した\nことを考えれば、この論文の残存していたこと、斎藤准教授らの\n手によって廃棄を免れたことを確認できたことは、非常な僥倖と\nいうしかない。\n(四)小川和夫、橋口稔共編「ニュークリティシズム辞典』研究社\n一九六一年。一一一三頁四のの言の胃&の国どのの(審美的距離)項月から\nの引用。\n(五)ロラン・バルト「ロラン・バルト著作集五批評をめぐる試み」吉\n村和明訳みすず書房二○○五年。七三頁「盲目の〈肝っ玉\nおっ雌〉」という一九五五年のブレヒト劇評。傍点部分の原語は白\nへ詳町R①。\n115(18)\n申し上げたい。\n謝辞率学外派遣研究の受け入れ教員として研究の様々な便宜を図ってく\nださったのみならず、研究のレヴューをしてくださった宮本陽一郎教授\n同じく小西の卒論発見者のおひとりで、同論文の発見の経緯をお話しい\nただき閲覧の便を図ってくださった斉藤一准教授をはじめする筑波大学\n関係者の方々、研究の貴重な機会を与えてくださった日本文学・文化専\n攻の同僚の先生方をはじめとして本学の関係者方々に深く感謝の言葉を\n(六)ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳\n一九七七年。六八頁一部行論に即して変更した。\n(七)ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』佐識\nず書房一九七九年。七五頁〈〉内は引用者によ守\n(八)ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクショ〉\n思」浅井健二郎編訳筑摩書房一九九六年。「一\n(||)「日本文藝史』第三巻一九八六年河出書房新社謝辞\n(’○)『梁塵秘抄考』一九四一年。三省堂以下『梁塵秘抄考』として\n(九)【○日の芦]日,一つ巨匹吊由吋冒〔『&」四℃四口のいのト畳四国(ミ、「&自己の弓「§\n・..・R目》)のの扁騨陶罠旦(『「ミ】昌ニ岑号号』己ぬ而、匹叱い、シい】シ」】」のの①①ロロのの胃((①①ロごロ耳ロロ目のの..pp昌胃一一三白のR&・拙\n論で扱った範囲の仮構物語の該当箇所は、DC・』宗‐窪①。\n想』浅\n四○五頁\n頁を表示する。引用文中、原文の旧字は新字に改めた\nン・バルト』佐藤信夫訳\n内は引用者による補足。\nコレクション2エッセイの\nL九六年。「翻訳者の使命」\nみすず書房\nみす\n114(19)"}]}, 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小西甚一における「離れ」の方法
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
---|---|---|
本文 (2.0 MB)
|
|
Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
公開日 | 2017-08-30 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | ja | |||||
タイトル | 小西甚一における「離れ」の方法 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | A comparative study of “Esthetic Distance (HANARE)” in Jun’ich Konishi | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
著者 |
田代, 真
× 田代, 真 |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 200901030158268528 | |||||
書誌情報 |
国士舘人文学 en : Kokushikan journal of the humanities 巻 7, p. 132-114, 発行日 2017-03-15 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学文学部人文学会 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | PISSN | |||||
収録物識別子 | 2187-6525 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12519434 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40021147755 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 901.01 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 902.06 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
主題 | 小西甚一 | |||||
注記 | ||||||
通巻49号 (国士館大学人文学会紀要からの通号) 雑誌変遷情報 : 国士館大学人文学会紀要→国士館大学文学部人文学会紀要→国士舘人文学 |