WEKO3
アイテム
{"_buckets": {"deposit": "0c61e51a-9634-4772-baf6-a9e332fa71c1"}, "_deposit": {"created_by": 17, "id": "11356", "owners": [17], "pid": {"revision_id": 0, "type": "depid", "value": "11356"}, "status": "published"}, "_oai": {"id": "oai:kokushikan.repo.nii.ac.jp:00011356", "sets": ["996"]}, "author_link": ["18723"], "item_10002_biblio_info_168": {"attribute_name": "書誌情報", "attribute_value_mlt": [{"bibliographicIssueDates": {"bibliographicIssueDate": "2017-03-15", "bibliographicIssueDateType": "Issued"}, "bibliographicPageEnd": "96", "bibliographicPageStart": "112", "bibliographicVolumeNumber": "7", "bibliographic_titles": [{"bibliographic_title": "国士舘人文学"}, {"bibliographic_title": "Kokushikan journal of the humanities", "bibliographic_titleLang": "en"}]}]}, "item_10002_description_151": {"attribute_name": "著者ID", "attribute_value_mlt": [{"subitem_description": "J-GLOBAL ID : 200901005013161330", "subitem_description_type": "Other"}]}, "item_10002_description_180": {"attribute_name": "フォーマット", "attribute_value_mlt": [{"subitem_description": "application/pdf", "subitem_description_type": "Other"}]}, "item_10002_publisher_169": {"attribute_name": "出版者", "attribute_value_mlt": [{"subitem_publisher": "国士舘大学文学部人文学会"}]}, "item_10002_relation_173": {"attribute_name": "論文ID(NAID)", "attribute_value_mlt": [{"subitem_relation_type": "isIdenticalTo", "subitem_relation_type_id": {"subitem_relation_type_id_text": "40021147729", "subitem_relation_type_select": "NAID"}}]}, "item_10002_source_id_170": {"attribute_name": "ISSN", "attribute_value_mlt": [{"subitem_source_identifier": "2187-6525", "subitem_source_identifier_type": "PISSN"}]}, "item_10002_source_id_172": {"attribute_name": "NCID", "attribute_value_mlt": [{"subitem_source_identifier": "AA12519434", "subitem_source_identifier_type": "NCID"}]}, "item_10002_subject_177": {"attribute_name": "NDC", "attribute_value_mlt": [{"subitem_subject": "921.5", "subitem_subject_scheme": "NDC"}]}, "item_10002_text_185": {"attribute_name": "異なりアクセス1", "attribute_value_mlt": [{"subitem_text_value": "VOL.49 March 2017"}]}, "item_10002_textarea_184": {"attribute_name": "注記", "attribute_value_mlt": [{"subitem_textarea_value": "通巻49号 (国士館大学人文学会紀要からの通号)\n雑誌変遷情報 : 国士館大学人文学会紀要→国士館大学文学部人文学会紀要→国士舘人文学"}]}, "item_10002_textarea_186": {"attribute_name": "異なりアクセス2", "attribute_value_mlt": [{"subitem_textarea_value": "Academic Society of the Humanities Kokushikan University 鷲野正明 わしのまさあき Masaaki Wasino"}]}, "item_10002_textarea_187": {"attribute_name": "異なりアクセス3", "attribute_value_mlt": [{"subitem_textarea_value": "はじめに\n 中国の詩は、詩人によって強弱の違いはあっても、その政治性を抜きにしては語れない。詩文を作る者は政治家・官僚を目指し、科挙では詩文の技量が試される。隠者であっても、社会と政治を見る眼は常に開かれている。弱い一個人の立場から権力者を「白眼視」する阮籍のような「詩人」もいた。\n ところが明代の中頃から、呉 (蘇州) を中心におよそ政治とは無関係に詩・書・画・演劇などに耽り日々を楽しく過ごす、いわゆる文人たちが出てくる。沈周 (一四二八~一五〇九) を初め祝允明 (一四六一~一五二七)、唐寅 (一四七〇~一五二三)、文徴明 (一四七〇~一五五九) などである。その一人に徐禎卿 (一四七九~一五一一) がいた。\n 徐禎卿の生涯は呉で過ごした青春時代と科挙及第後の官僚時代とに分けられる。青春時代には文徴明や唐寅などと親しく交遊し、詩・書・画に親しみ、詩で一目置かれる存在であった。文徴明との詩の応酬、唐寅との書画を通しての交わり、文人達との「落花詩」の和韻などは風流韻事の極みとして高く評価されている。しかし、徐禎卿は、そうした文人達とは異なっていた。科挙を目指し、及第した二十七歳から亡くなる三十三歳まで官界の人となる。官場を目の当たりにして、文学に対する意識が変わり、また唐寅との間に誤解が生じることもあった。\n 徐禎卿の文学の新たな方向を導いたのは李夢陽 (一四七二~一五二九) である。が、徐禎卿が自らの文学について明確に意識したのは、江南から瀟湘への旅を通してであった。この旅で、徐禎郷は李夢陽へ「重與獻吉書」(重ねて獻吉に与ふるの書)を寄せ、"}, {"subitem_textarea_value": "\n中国の詩は、詩人によって強弱の違いはあっても、その政治性\nを抜きにしては語れない。詩文を作る者は政治家・官僚を目指し、\n科挙では詩文の技量が試される。隠者であっても、社会と政治を\n見る眼は常に開かれている。弱い一個人の立場から権力者を「白\n眼視」する玩籍のような「詩人」もいた。\nところが明代の中頃から、呉(蘇州)を中心におよそ政治とは\n無関係に詩・書・画・演劇などに耽り日々を楽しく過ごす、いわ\nゆる文人たちが出てくる。沈周二四二八~一五○九)を初め祝\n允明(一四六一~一五一一七)、唐寅(一四七○~一五一一三)、文徴\n明二四七○~一五五九)などである。その一人に徐頑卿(一四七九\n~一五一二がいた。\nはじめに\n明代徐頑卿の江南・滿湘への旅\nl言志文学の決意I\n徐頑卿の生涯は呉で過ごした青春時代と科挙及第後の官僚時代\nとに分けられる。青春時代には文徴明や唐寅などと親しく交遊し、\n詩・書・画に親しみ、詩で一目置かれる存在であった。文徴明と\n(1)\nの三両の応酬、唐寅との書画を通しての交わり、文人達との「落花\n(2)\n詩」の和韻などは風流韻事の極みとして吉向く評価されている。し\nかし、徐頑卿は、そうした文人達とは異なっていた。科挙を目指\nし、及第した一一十七歳から亡くなる三十三歳まで官界の人となる。\n官場を目の当たりにして、文学に対する意識が変わり、また唐寅\n(3)\nとの間に誤解が生じることもあった。\n徐頑卿の文学の新たな方向を導いたのは李夢陽二四七二~\n一五二九)である。が、徐頑卿が自らの文学について明確に意識\nしたのは、江南から繍湘への旅を通してであった。この旅で、徐\n頓卿は李夢陽へ「重與献吉書」(重ねて献吉に与ふるの書)を寄せ、\n鷲野正明\n112(21)\n「言志」文学への決意を明らかにする。そして、その実践の作品\nとも言える、五十韻の長編の詩「於武昌懐献吉五十韻」(武昌に\n(4)\n於て献士口を懐ふ五十韻)を李夢陽に送る。\n徐頑卿は二十七歳の弘治十八年(一五○五)二月進士に挙げら\nれ、三月廷試、大理左寺副を授けられた。科挙に及第した年の五月、\n孝宗が崩御し、武宗が即位する。翌、武宗の正徳元年(一五○六)\n二十八歳の徐頑卿は、命を受け外史を編纂するため江南・瀧湘に\n赴く。外史は、蟹夷の図書・文書を掌る役人である。\n武昌での「重與献吉書」(重ねて献吉に与ふるの書)は、旅程\nと折々の感慨が詳しく記され、その当時の風景l徐頑卿の見た風\n景Iと徐頑卿の「おもい」を知る好個の資料である。一年余りの\n旅で、徐頑卿は何を得て何を思ったのか。本稿では、その手紙の\n全文と関連の詩を読みながら、徐頓卿の江南・繍湘への旅の足跡\n(5)\nと、心の軌跡を辿ってゆきたい。\n外史編纂のための旅は、京師を出発して故郷の呉(蘇州)に立\nち寄り、杭州から富春江を遡って都陽湖へ出、長江を遡って武昌\nへ、という行程である。\n徐頑卿は、正徳一兀年(一五○六)一一月十三日、京師を出発し、\n、京師から蘇州・会稽へ\n淵河から舟に乗り、直沽、衛水、汝水、浦、徐州を経、三月、故\n郷の蘇州に着いた。李夢陽への手紙「重與献吉書」(重ねて献吉\nに与ふるの書)には次のように云う。\n僕摂提格の歳の仲春を以て南に祖く。齊魯の郊を出で、准\n柿の鱸を経。平原を直視するに、請条たること千里。時に於\nなつとむみ\nて錐野に稚き、麦秀でて杣油たり。日月の勤るを膳、東山の\n膜に感ず。宵砂として神を傷ましむると難も、未だ以て心を\n振はして揚慮するに足らざるなり。既にして道は東呉を指し、\n故都を傍樫するも、棲棲焉として仲尼の魯を去るが若きなり。\n僕以攝提格之歳仲春南但。出齊魯之郊、經准浦之嘘。直視平原、\n藷條千里。於時維雅於野、麥秀油油。轄日月之勤、感東山之\n嘆。難盲砂傷神、末足以振心而揚慮也。既而道指東呉、傍僅\n故都、棲棲焉若仲尼之去魯也。\n(6)\n「東山の膜」は『詩経」幽風「東山」、道中の苦しきと帰郷の喜\nびを詠う。『詩経」では北方人の嫌う雨が描かれているが、徐頑\n卿は月の当たりにした風景を「蒲条たること千里。時に於て錐\n野に帷き、麦秀でて油油たり」と描く。見渡す限り請条とし、時\nに錐が鳴き、麦が茂っていて、まるで国が亡んだあとのようであ\nる。だから「盲砂神を傷ましむ」のであるが、これには劉理ら「八\n虎」の「亡国の振る舞い」が影を落としているであろう。しかし、\n「未だ以て心を振はして楊盧するに足らず」、おののき恐れるほど\n111(22)\nではない、とも言う。徐順卿には、この頃まだ時勢を楽観視する\n余裕もあったのである。しかし、旅の途中で李夢陽が投獄された\nことを聴き、武昌では「蜴慮」して「於武昌懐献吉五十韻」(武\n(7)\n日日に於て献士口を懐ふ五十韻)が作られるのである。\n故郷の蘇州では、「故都を傍復し」、治平寺に行ったり、山塘、\n虎丘に遊んだりしている。四月には唐寅の「王公出山図」二名\n「拝相図」)に祝允明らと題詠したりしている。故郷で楽しんでい\nるように見えるが、しかし「登治平寺」(外集)では\n只自迷人世只だ自ずから人の世に迷ひ\nゆるやか\n宛エ令歳月畭空しく歳月をして畭ならしむ\nと、俗世に迷いこみ、歳月が空しく過ぎ去る焦燥を詠い、「登半\n塘寺閣」(迪功集巻三では\nつと\n夙有山水慕夙に山水を慕ふ有り\nはなは\n苦為形役拘苦だ形の為に役拘せらる\n(8)\nと、陶淵明の「性本愛丘山」や「既自以心為形役」を踏まえ、官\n界での苦悩を吐露している。官界を去って隠棲したいという思い\nは、この後何度も詠われる。詩的措辞ではなく、本心からの願い\n(9)\nであったのだろう。政界ではすでに暗雲が垂れ込めていた。\n任を帯びての旅ゆえ「棲棲焉として仲尼の魯を去るが若きなり」\nと、孔子があわただしく故郷の魯を去ったように、自分も蘇州を\n去った。「五月五日」(『正集この詩にはその頃の思いが次のよう\nに〈詠われる。\n怡悦經故園怡悦故園を経\nあ\n芳非値良節芳非良節に値ふ\n風俗猶自存風俗猶ほ白から存し\n念我久離別我の久しく離別するを念ふ\nつらなしげ\n葵榴綴時膿葵榴綴りて時に膿く\n蒲荷散幽例蒲荷散じて幽例たり\nしげ\n莫謂喧景滋謂ふ莫れ脂一星皐滋しと\nめいけつ\n湘江坐鳴鴫湘江坐るに鳴嶋\n湘江へ行くことには気が進まなかったようである。「鳩」は無\nか\n風流な鳥で、屈原の「離騒」に「恐らくは鴫嶋の先づ鳴きて、夫\n(旧)\nの百草をして之が為に芳しからざらしめん」とある。屈原は、鴫\n嶋が鳴くべき季節に先立って鳴くことを、議言が騒がしいことに\n職え、そのためもろもろの花が落ち尽くし、香りがかおらないま\nまに尽きてしまう、つまり忠直の士が罪過を被る、と暗示する。\n徐祓卿はそれを踏まえ、繍湘ではすでに鴫鴫が鳴いていて不穏な\n情況であるという。今回の旅、外史編纂の命を受けての旅に気乗\nりがせず、隠棲に心がかたむいたりするのは、そうした状況だっ\nたからである。\n五月、銭塘江から、会稽山を望む。李夢陽への手紙。\nせま\n乃ち銭唐(塘)に遵ひ、薄りて〈云稽を眺むれば、湖山を控へ\n110(23)\nて以て郭と為し、江海を環りて以て池と為す。昔日の神宮・\n嶢關(高い門)、椒房・綺樹の余、或いは魯甸(魯の郊外)\nに歸然(山が一つだけ誓えるざま)とし、徒らに丘夷(廃嘘)\nを髻露す。周道(大路)を顧謄(顧みる)するも、之が為に\n哀しみを興さざる能はず。傍ら桐江の黙を引き、富春の渚を\n遡洞するに、豈に惟だ風を望んで其の人を恩ひ、抑そも以て\n焉を楽しみて其の身を終ふ可けんや。\n乃遵銭唐、薄眺會稽、控湖山以為郭、環江海以為池。昔日神\n宮嶢關、椒房綺樹之餘、或歸然於魯甸、徒髻講於丘夷。顧謄\n周道、不能不為之興哀也。傍引桐江之硲、遡洞富春之渚、豈\n惟望風而思其人、抑可以樂焉而終其身芙。\n都の跡は荒廃し宮殿は廃嘘となっており、大路をふり返っては\n一反しい思いにとらわれる。\nこのころの詩、断江駅での作(「漸江騨下作」)を見てみよう。\n自嘆南浮客自らら嘆膜ずず南南のの浮浮客客と\n崎嘔騨嶺遙崎嘔駅嶺遙かなり\n川途濾斜日川途鱈として斜日\nようどう\n鉦鼓遠揚榛鉦鼓遠く揚僥す\n目勢含槍海目勢槍海を含み\n山形折落潮山形落潮を折る\n夷嘘不可間夷嘘間ふくからず\n徐頑卿はいよいよ銭塘江、すなわち富春江を遡る。桐盧瀬での\n作、「桐盧瀬中」(『外集乞。\n千峰詰曲來松猯千峰詰曲來松の猯\nげきめぐ\n石激波榮走迅灘石は激し波は繁る走迅の灘\n只道孤帆天際韓只だ道ふ孤帆天際に転ずると\n徒使旅心揺徒らに旅心をして揺るがしむ\n徐頓卿は、科挙及第後希望していた選館に入れられず、親友と\n別れて南方を放浪している。そのため「南の浮客」と詠い出す。\nその眼に映る風景は、淡い夕霧の立ちこめる川が遠くまで続き、\n時を知らせる鐘鼓が遠くから起こるわびしくさびしいものであ\nる。目には緑溢れる山々が映るが、その山は「落潮が折り重なる\nようだ」と言う。京師や蘇州では見られない異様な風景。落魂感\nが漂う。だから、夷嘘、穏やかな村里には行くまい、行けば旅心\nがゆらぐから、と。\nところが、手紙では、桐江の渓水から富春の渚を遡る舟の中で、\n「風を望んで其の人を恩ひ」「楽しみて其の身を終ふ」るだけでよ\nいのか、と、人としてこの世に生きて何を為すぺきか、と疑問を\n抱き始める。\n二、銭塘江を遡り彰露・庸山へ\n109(24)\n耶知明月峡中看卿ぞ知らん明月峡中に看るを\n流れが速く屈曲した川。峡中に明月が耀いていたことも知らず\nに、舟が早瀬を抜けたことを喜んでいる。激流に我を忘れたので\nあろうか。俗念も打ち払われたのであろうか。巌子陵の祠に謁し、\n方山人を送った「送方山人」(迪功集巻三)。\n巌子灘頭花落時嚴子灘頭花落つる時\n水清雲碧浄漣騎水は情く雲は碧く漣騎浄し\n孤舟相逐飛花去孤舟飛花を相ひ逐ふて去り\n一日看山到武夷一日山を看て武夷に到らん\n詩形の違いもあるが、蘇州を離れるときや漸江駅での作と異な\nり、自然のなかに身をゆだね、沈麓な思いも消えていったかのよ\nうである。方山人は方太吉、字元素、蘭溪の人である。\n舟はさらに西南へと進む。李夢陽への手紙は、四字句を中心に\n対句を連ね歯切れがいい。\n又西南に行き、穀水を渡り、常山を捗り、余干を越へ、七陽\nしんし\nに沿ふ。山鶏澗汕の浜、王水徴徹なれば、則ち参差の毛、丹\nゆうゆうみが\n碧の石有り。勝傭翔泳し、白鳥棲み止まり、以て神を螢きて\nほうれい\n、心を悦ばしむくし。横には彰義を捗り、仰いでは盧岳を贈る。\n其の波濤は則ち騰涌奔伏して、日月に噴薄し、其の峰鰐は則\nち盤廻蛸絶して、亘に霄漢に接す。香炉五老の形、爆布青峡\nあふ\nの観、特に卓論と為す。雲亟芝異草、山に彌れ谷に布き、金符\n玉冊、幽を窮め玄を極む。信に赤霄(赤い雲のたなびく)の\n神都、老氏の玄宮なり。\n又西南行、渡穀水、除常山、越餘干、沿七陽。山籍澗汕之慣、\n王水徴撤、則有参差之毛、丹碧之石。勝傭翔泳、白鳥棲止、\n可以螢神而悦心也。横渉彰譲、仰謄盧嶽。其波濤則騰涌奔伏、\n噴薄日月、其峰鰐則盤迦蛸絶、亘接霄漢。香艫五老之形、爆\n布青峡之観、特為卓諭。露芝異草、彌山布谷、金符玉冊、窮\n幽極玄。信赤霄之神都、老氏之玄宮也。\n舟は谷水を渡り、常山を経、余干を越え、七陽に沿って椰陽湖\nを横切り、魔山を仰ぎ見る。「勝傭」は「荘子』秋水篇を踏まえる。\n何物にもとらわれないのびのびとした心持ち。隠棲にあこがれて\nいた徐頼卿は「赤霄の神都、老氏の玄宮」にやってきた感慨にひ\nたる。\n六月、贋山に登った。「避雨五老峰下」「魔山」「曉下慮山」の\n詩がある。「曉下慮山」S正集乞は、東林寺を訪ねての帰り、月\nが虎渓を照らしてくれ無事に橋を渡ることができた、とのびのび\nとした思いを詠う。\nごそ\n下山髄鼠啼山を下れば鼬鼠(むきさび)啼き\n藤竹使人迷藤竹人をして迷はしむ\n多謝東林月多謝す東林の月\n股勤過虎溪段勤(親切にも照らしてくれ)虎渓を過ぐ\n108(25)\n心の充足を詠う一方で、鄙陽湖を詠った「彰蕊」(「迪功集」巻\n二)では次のように、心のモヤが詠われる。\nみなと\n←に莊彰蕊口莊荘たり彰議の口\n陰陰都陽岑隠隠たり都陽の岑\n地湧三辰動地湧いて三辰(n・月・星)動き\n江連九派深江連なって九派(九つの支流)深し\n揚給武昌客揚給(揺れ動く舟)武昌の客\n興發豫章吟興発(興が起こる)豫章の吟\nいと\n不見垂論里見ず論を垂るるの嬰\n煙波空我心煙波我が心を空しうす\n「豫章」は江西省の郡名。「豫章吟」は陸機「撞舟清川渚」、謝\n(Ⅲ)\n雲巫運「州宿告密親」などの別離を詠う楽府詩。揺れ動く舟に乗る\n武昌の旅人は別離の悲しい思いにとらわれ、心が空しくなる。手\n紙では、何物にもとらわれないのびのびとした心持ち、隠棲の地\nにやって来た喜びを表現していた。が、この詩では、釣り糸を垂\nれ悠々自適に暮らす老人もいず、景色を見晴るかすこともできな\nい「煙波」が漂っている。\n李夢陽に宛てた長文の手紙は、これまで見てきたように、旅程\nと心の軌跡を述べるが、次の段落では「全楚の地勢」のすばらし\nさを述べ、それを承けて「民の俗・人の世」を歎く構成になって\nいる。それ故に、この段落では、何物にもとらわれないのびのび\nとした心持ち、隠棲の地にやって来た喜びを表現しているのであ\nる。\n一方、詩では、旅愁や孤独感を素直に詠う。澪陽に停泊した次\nの詩もそうである。「夜泊澪陽」(『外集乞。\n草色漏陽江草色溥陽江\n鐙前武昌客鐙前武昌の客\n燭坐秋風來独り坐せば秋風来たり\n兼葭時撤械兼葭時に械械たり\nいわゆるか\n「詩経」「兼葭」に「兼葭蒼蒼として、白露霜と為る。所謂伊の人、\n水の一方に在り」とある。「兼葭」は異郷の地で友を思うことの\n暗示である。「械械」は兼葭の触れあって鳴る音。\n七夕は風雨だった。「七夕江上風雨有懐」S外集乞\n溥陽江頭人未歸溥陽江頭入未だ帰らず\n溥陽音信雁來稀澪陽の音信雁来たること稀なり\nゆうべ\n不知風雨くう何夕知らず風雨くう何の夕ぞ\n唯見隻愛鳥鵲飛唯だ見る双双烏鵲の飛ぶを\n七夕の夜には牽牛と織女の二人が会えるように烏鵲が相連なっ\nて橋を架けるのに、今日は風雨のため橋も架けられず、二羽の烏\n鵲が空しく飛んでいる、と会いたい人と会えない悲しさを詠う。\n「溥陽」「武昌」の語から、この辺地に左遷され、あるいは放浪し\nた悲劇の文人が立ち現れてくる。\n107(26)\n徐頑卿を乗せた舟は西に九江を遡り、溥陽、江夏を経て、武昌\nに到着した。季節は秋。少年時代を過ごした蘇州への思いを強く\nしている。「在武昌作」(自訂『迪功集」巻二)。\n洞庭木葉下洞庭木葉下り\n繍湘秋欲生繍湘秋生ぜんと欲す\n高齋今夜雨高斎今夜の雨\n濁臥武昌城独り臥す武昌城\n重以桑梓念重ぬるに桑梓の念を以てし\n凄其江漢情凄たり其れ江漢の情\n不知天外鳫知らず天外の鴫\n何事樂南征何事ぞ南征を楽しむ\n旅愁と望郷のおもいは、いよいよ澄み、表現はますます清らか\nになっている。詩と手紙文との相違は前節でも触れたが、手紙で\nは、旅愁・孤独感は見られない。\n手紙文の中核をなす部分では「全楚」の情況を概観する。対句\nによる簡潔で歯切れのよいリズム、素朴でかつ力強い。六朝の\n「四六餅麗文」、唐宋の「古文」を経てたどり着いた文体、四六文\nと古文を融合して編み出した「復古の文」と言ってよいのではな\nいか。\n三、武昌にて-全楚の地勢1 この段落部分は、さらに三節に分けられる。第一節は楚の地の\n概要。第二節は楚が天の中心に位置し、天帝が居るにふさわしい\n地であること。第三節は楚の水陸の自然と気候、物産の豊かなこ\nと、を述べる。\n又西して九江を遡り、南のかた全楚を望む。夫れ其の巴蜀の\n喉舌を犯し、呉会(呉と会稽すなわち呉と越)の上流に拠り、\n五嶺(大鹿、始安、臨賀、桂陽、掲陽の五嶺)の門戸に通じ、\n雍梁(雍州と梁州)の要枢に接す。此れ其の大勢なり。\n又西遡九江、南望全楚。夫其拒巴蜀之喉舌、擴呉會之上流、\n通五嶺之門戸、接雍梁之要榧。此其大勢也。\n楚は巴蜀の喉もとをおさえ、呉と越の上流に位置し、大庚、始安、\n臨賀、桂陽、掲陽の五嶺に通じ、雍州と梁州の要枢に接している。\nと、まず楚の位置関係を明らかにする。広大な地域である。その\n中心には衡陽山があり、表門にあたる位置に武当山がある、と次\nの段落。\n若し乃ち鎮むるに衡陽の阜を以てし、表するに武当の山を以\nてすれば、五峯(紫蓋、天柱、芙蓉、石廩、祝融の五つ)森\n(吃)\n抜し、一二門(太岳にある天に通じる門)凌啓し、雲霞絢絵、\n紫気燭耀す。其の中に四候蚤に暮れ、七曜(日・月・金星・\n木星・水星・火星・土星)運り行き、往往人間と殊に別なり。\n髪に黄金の堂、白玉の所有り、琉璃を鋪と為し、檀桂を柱と\n106(27)\nひとしおか\n為し、制は天居に悴/、、勢は海嶽を礫し、ロロの希に見る所に\nして、窃窕として説き難し。\n若乃鎮以衡陽之阜、表以武當之山、五峯森抜、三門凌啓、雲\n霞絢繪、紫氣燭耀。其中四候蚤暮、七曜運行、往往輿人間殊\n別。髪有黄金之堂、白玉之所、琉璃為鋪、檀桂為柱、制桙天\n居、勢礫海嶽、目所希見、窃窕難説。\nもし衡陽山を楚の地の鎮めとし、武当山を表門とするなら、紫\n蓋、天柱、芙蓉、石廩、祝融の五峯は高く聟える柱に相当する。\n天に通じる三つの門が開いて、雲霞は絢欄と輝き、紫の気が明か\nるく耀く。その中を四季が巡り、日・月などの七曜が運って、人\nの世とはまったく様相を異にしている。ここに黄金の堂、白玉の\n室があり、琉璃を敷石とし、栴檀や蘭桂の香木を柱とし、構えは\n天子の居に等しく、勢は海嶽を侵して、そのすばらしさは窃窕と\nして説き難い。\n天にも等しい楚。この楚に拠点を置いたなら、天下を得ること\nもできる天然の要害である、ということでもある。\n又江漢の波、玩湘の流れ、洞庭の湖、雲夢の沢有り。千条万\n派、原を混じ塗を同じうし、縦貫脈理、其の間に経帯し、極\nせま\n望浩漫、際天海に薄る。陽春献じて草芳し/、、涼風至胸りて兼\n葭落つ。猿子嗽哺し、鴻鴫華を成し、魚龍候忽(風雨が忽ち\n起こり)、陽晦互に分かち、以て天地の変化を観、時序の栄\n悴を験す可きなり。故に水族の饒かなるを徴し、材木の珍な\nあつ\nるを革む。舟撒の利及び敗漁の楽しみを論ずれば、九州の内\n未だ此を瞼ゆる者有らざるなり。\n又有江漢之波、況湘之流、洞庭之湖、雲夢之澤。千條萬派、\n混原同塗、縦貫脈理、經帯其間、極望浩漫、際天薄海。陽春\n献而百草芳、涼風至而兼葭落。猿子職噸、鴻嶋成菫、魚龍候\n忽、暘晦互分、可以観天地之愛化、験時序之榮悴也。故徴水\n族之饒、革材木之珍。論舟撒之利及敗漁之樂、九州之内未有\n蹴於此者也。\nまた江漢の波、玩湘の流れ、洞庭の湖、雲夢の沢がある。千条\n万派、源も流れも混ぜ合わきり、連なり続き、その間に水が湛え\nられ、遠く望めば浩蕩漫漫とし、天の際は海に迫るほどである。\n春には暖かな光がさして草は芳しく萌え、秋には涼しい風が吹い\nて兼葭が散る。猿がⅢえ叫び、鴻鴫が章をなし、風雨が忽ち起こ\nり、晴れと雨、昼と夜がはっきりしている。ここから天地の変化\nを察することができ、時序の移り変わりの兆候を捉えることがで\nきる。水に住む魚類も多く、めずらしい材木も多い。水運の利と\n狩や漁の楽しみを論ずるなら、九州の内でこの楚を越える所はな\nいO\nこの楚には南北を結ぶ漢水や玩湘の川がある。また洞庭湖、雲\n夢の沢があり、食糧や物産が多く、中国のなかで最もよい所だ、\n105(28)\nL一一百》う。\n天下の要害で風光明媚、物産も豊かな優れた楚の地方であるが、\n民の俗・人の世はどうであったのか。李夢陽への手紙は、次のよ\nうに続く。\nはなはかるき人\n然れども其の民の俗苦だ椿せ、利を尚び義を薄んず。|Pに扇\nりんかたまじ\n廩(穀物倉庫)の食無く、人に相ひ固きの、心無し。雑ふるに\n山夷の軽躁動き易きを以てし、久安長治の国に非ざるなり。\n又其の山川四要を包絡し、固より武を用うるの場、争ひを聚\nむるの地なり。故に東のかた奨口を望めば、則ち周瑞の雄を\n慕ひ、西のかた蜆山を顧みれば、則ち叔子の恵みに感ず。載\nながめ\nち荊門を観れば、則ち昭烈(劉備)の績を悲しみ、眺を中原\nぜ\nに極むれば、則ち武穆(岳飛)の中しに痛む。山河は垂日是なる\nも、人物は巳に非なり。心は傷み嘆じ、懐として其れ漣如た\nああかぎ\nり。嵯乎死生は命なり、理乱は時なり。〈叩に渋り有るも士心に\nかぎあ\n涯り無く、時に遣ふべきも身は逮ばす、此れ屈原の江夏に流\n亡する所以にして、買誼の長沙に蔓傷する所以の者なり。頼\nむ所は豪賢発憤して、帯礪(川と山)に映じて以て名を垂れ、\n章逢(儒者)道を楽しみて、竹帛を仮りて以て志を昭らかに\n四、民の俗・人の世\n則感叔子之惠。載観荊門、則悲昭烈之績、極眺中原、則痛武\n穆之忠。山河昔是、人物已非。心傷嘆突、棲其漣如。嵯乎死\n生命也、理凱時也。命有挨而志無涯、時可邇而身不逮、此屈\n原所以流亡於江夏、買誼所以憂傷於長沙者也。所頼豪賢發憤、\n映帯礪以垂名、章逢樂道、假竹帛以昭志。生人之業、庶為不\n朽耳。\n民の俗は劣り、利を尊び義を軽んじ、食糧庫には食糧もなく、\n人に恒心がなく、野蛮で軽率、長く平和を保てる国ではなかった。\nまた要害の地であるため、たえず戦場となってきた。東の奨口を\n望んでは三国呉の周職の雄を慕い、西の嶋山を顧みては晋の羊\n帖(叔子)の墜涙碑の故事を思い、荊門を観れば蜀の劉備(昭烈)\nの事績を悲しみ、中原を遠く眺めると宋の岳飛(武穆)の忠に心\nを痛める。山河は昔から変わらないが、人はすでにいない。死と\n生は命運であり、理と乱は時運である。命に限りはあるが志は限\nりがない。時運に廻り逢っても身は及ばない。屈原が江夏に放浪\nして亡くなったのも、買誼が長沙に流され憂いに沈んだのも、そ\nのためである。頼む所は、豪賢が発憤して山水に託して名を垂れ、\nこいねか\nせんことを。生人の業、為に朽ちざうっを庶ふのみ。\n然其民俗苦情、尚利薄義。戸無困廩之食、人無相固之心。雑\n以山夷輕躁易動、非久安長治之國也。又其山川包絡四要、固\n用武之場、聚争之地。故東望焚口、則慕周職之雄、西顧岨山、\n104(29)\nでは、詩文は具体的にどうあるべきか。李夢陽への手紙は前段\nを承け、次のように結ぶ。\nみずかおもたくらくれいかく\n僕自ら惟へらく、卓筆の材無く、礪鍔の用寡く、進んでは眉\nを天下に場ぐる能はず、退いては心を丘墾に甘んずる能はず、\nあ\n徒らに情を江海の間に放ち、士心を宇宙の表に抗ぐ。将に以て\n奇を捜り秘を猟し、華を岨み霊を納れんとすれば、則ち水士\nか人うんのつとの\nにして函蕊し、景曜に法りて以て文を橋べ、柳か子長の風を\nこいねかこいねが\n希ひ、虞卿の志を庶幾はん。乃ち子役の云豫を知り、弦に之\nいたずおもい\nに遊ぶこと]皇に徒らならんや。惟だ是れ足下と吾と懐を同じ\nうするも、時の鮒鶴するに遭ひて、良図遂げられず、膝を空\n学者が道を楽しんで竹帛を仮りて志を昭らかにせんことを。今を\nこいねか\n生きている人の営みが朽ちないことを庶うだけだ。\nはかない人の命と人の世に思いを致し、文学の永遠性に期待す\nるのである。二十歳ころ、徐頑卿は文学への思いがなくなったな\n(囮)\nら、仏教に帰依しよう、などと一一一口っていたが、官僚となり、雄大\nな楚の地を旅し、歴史を顧みて、文学のあるべき姿をあらためて\n認識したのである。\nこいねがこいねか\n五、卿か子長の風を希い虞卿の士心を庶幾う\nI’’’一口志の決意-\nしんそうゆ\n林の中に抱き、神を窮跡の境に棲ましむ。槍楡を之れ楽1‐)と\n為すと錐も、固より大鵬の道遥を知るなり。故に脚か其の略\nを述べ、以て祇掌に当つ。方に簿牒有れば、言ふ所を尽くさず。\n僕自惟無卓榮之材、寡礪鍔之用、進不能場眉於天下、退不能\n甘心於丘塾、徒放情於江海之間、抗志於宇宙之表。將以捜奇\n猟秘、咀華納露、則水士而函穂、法景曜以檎文、肌希子長之\n風、庶幾虞卿之志。乃知子役之云豫、舷遊之豈徒哉。惟是足\n下與吾同懐、遭時馴酷、良圖弗遂、抱膝空林之中、棲神窮跡\n之境。雛槍愉之為樂、固知大鵬之道遥也。故卿述其略、以當\n祇掌。方有簿牒、不壼所言。\n徐順卿は云う、自分は「卓筆の村」、ずばぬけた才能もなく、「礪\n鍔の用」、やいばを研ぎ磨いたような鋭さもなく、したがって進\nんでは官界で活躍することもできず、退いて山野に隠棲すること\nもできない。いたずらに情を江海の間に放ち、志を宇宙の間に漂\nわせている。奇を探り秘を渉猟し、華を噛み霊を我がものにしよ\nうと、山水を観察し、自然に法って文を綴り、いささか「子長」\n司馬遷の『史記』の風韻と、「虞卿」の『虞氏春秋』の志に倣い\nたい。旅は楽しいもので、無駄ではない。あなた(李夢陽)と思\nいは同じであるが、時宜に逢わず、はかりごとも遂げられず、空\nしく空林に膝を抱き、心を奥深い境地に棲まわせている。楡枯に\n到るまでの小旅行も楽しいが、もとより大鵬の道遙の志も知って\nlO3(30)\n手紙は一篇の論文であり、徐頑卿は李夢陽に向かって「言志」\nを明らかにした。一方で、個人の思いを詠う詩は、これまでの引\n用詩からも窺えるように、情を発露し、心の平衡を保つ重要な働\nきがあったと思われる。別離の詩となればさらに杼惰性が前面に\n出てこよう。旅中、李夢陽を思う詩は九首作られている。詩題を\n挙げると以下のようである。\n①往歳中秋、與献吉子容飲、幽吟於月下。飛蓬一矢、載離寒\n暑、今舷之夕、時異事非、對月畢膓、帳然有作(五言律詩\n『外集乞\nいる。そこで卿か旅の行程を略述し、楽しみに供した、と。\n朝廷では、武宗の奇行が止まず、政治を補佐した劉理を筆頭と\nする「八虎」が専横を極めていた。糾そうとした李夢陽は獄に下\n(Ⅲ)\nされた。もとより詩文を能くし科挙を目指す者は、些皇かで平和な\n世の中を実現きせようと望みを抱く。自らの手で実現できないな\nらば、その思いを詩文に託すことが責務と意識されていた。李夢\n陽は官場に留まり実行に移したが、徐頑卿は楚へと追いやられた。\nが、楚の旅によって、徐頑卿はその責務をあらためて認識したの\nであった。\n六、李夢陽を思う旅中の詩\n②九日期登大慈恩寺閣不果寄献吉(五言排律『迪功集』)\n③秋日懐李郎中及邊熊一一君子五首(五言律詩『迪功集」)\n④於武昌懐献吉五十韻(五言古詩『迪功集』)\n⑤寄献吉(七言律詩『迪功集』)\nの⑤は正徳二年二五○七)の作である。徐頑卿は繍湘地方で\n年を越し、正徳二年二五○七)四月いったん蘇州に行ってから\n十月に京師に戻っている。\n①「往歳中秋」の作、題名中の「載離寒暑」は『詩経」小雅「小\n明」の「二月初吉、載離寒暑」を踏まえる。一年が忽ち過ぎ友人\nが離ればなれになることを言う。\n今夜中秋月今夜中秋の月\n清輝異往時清輝往時に異なる\n終知萬古色終に知る万古の色\n不受片雲欺受けず片雲の欺くを\n走魅應含涙走魅応に涙を含むぺし\n潜鮫一奮篝潜鮫一に篝を奮ふ\n遙憐澤畔客遙かに憐む沢畔の客の\n千里正相思千里正に相思ふを\n同じ中秋の月でも今見ている月の清輝は去年と違う。万古の愁\nいを帯び、片雲に隠されることもなく愁いは募るばかり。愁いの\nために走魅はきっと目に涙をため、潜鮫も書を振るわせているに\n102(31)\n違いない。沢畔をさまよう旅人は千里かなたの友人を思っている。\n②は九月九日に大慈恩寺で会う約束をしたのに果たせず、会え\nなかった無念を詠う。十六句の排律である。「太白・摩詰の境に\n合うに似たり」S皇明詩選』韓文の評)と評されている。\n恨憶青蓮宇帳として億ふ青蓮の字\n今朝黄菊開今朝黄菊開く\n遥知遠公笑遥かに知る遠公の笑ふを\n不見白衣來見ず白衣の来たるを\n窃窕人天閣窃窕たり人天の閣\n峰蝶日月廻峰嶢として日月廻かなり\n山川粉楚望山川粉として楚を望み\nやや\n城關動秋哀城閼動もすれば秋に哀しむ\n岨首羊公石岨首羊公の石\n准陰戯馬臺准陰戯馬の台\nつ\n風烟那可即風烟那んぞ叩く可けん\n逸興杏難裁逸興杏として裁し難し\n弧負登模作強ひて登楼の作を負ひ\n虚傳落帽才虚しく落帽の才を伝ふ\n此時遥燭酌此の時遥かに独り酌み\n念爾重悠哉爾を念ひて重ねて悠なる哉\n大慈恩寺では今朝菊の花が開いたことであろうが、行かれない\nのが恨めしい。「遠公」、慧遠とも言うべきあなたは笑っているで\nあろうし、「白衣」、在家の私の行けないことを知って残念に思っ\nているであろう。「人天の閣」、衆生の天に誓える慈恩寺塔は美し\nく、その高い塔には日や月が懸かっていることだろう。と、仏教\n用語を多用して李夢陽と塔を詠う。以下は自分のいる濡湘を詠う。\n山川の多い楚を望み、城閼を見て秋を哀しむ。襄陽の岨首山に\nは羊枯の堕涙碑があり、准陰には項羽の築いた戯馬の台があるが、\n美しい景色をめでることもなく、逸興を詩にすることもできない。\n自分は「登楼の賦」を作った王桀のような才能があると言われ、\n落帽の故事の孟嘉のような才能があると言われてきたが、それは\n柾げられて言われ、空しく伝えられたものである。今は遥か繍湘\nの地で独り酒を酌み、あなたを思って悲しみを重ねている。\n別離の情が街いもなく素直に詠われている。以下も同様である。\n③「秋日懐李郎中及邊熊二君子五首」の其の一では(頷聯から\n尾聯)\n山川思不極山川恩ひ極まらず\n雲樹葬蒼蒼雲樹葵蒼蒼たり\n對酒知時鐘酒に対して時の変ずるを知り\n看花感別長花を看て別れの長きに感ず\n如何霜後雁如何ぞ霜後の雁\n猶未達繍湘猶ほ未だ繍湘に達せず\n101(32)\nと長く別れていること、便りのないことを言い、其の二では(首\n聯・頷聯)\n借問關中友借問す関中の友\n新詩近韓多新詩近ごろ転た多からん\n風煙興難憲風煙輿尽くし難く\n揺落意如何揺落意如何ん\nと近況を問い、其の三では(頷聯)\n未妨文字癖未だ妨げず文字の癖\n祇益簿書忙舐だ益ます簿書忙しからん\nと李夢陽の繁忙ぶりを気づかっている。其の四は「邊廷實」邊\n貢(一四七六~一五一一三)を思ってともに詩を作り合いたいこと\nを、其の五では「熊子」熊卓はどうしているかと心配する。\n④の「寄献吉」では\n豈是乘桴客豈に是れ桴に乗る客\nきた\n棲棲楚水陽棲棲たり楚水の陽\n故人多放斥故人多く放斥せられ\n吾道韓凄涼吾が道転た凄涼\n寵辱今如此寵辱今此くの如し\n沈憂不可忘沈憂忘る可からず\nと、友人が多く排斥されたことに触れ、やるせない思いを詠う。\n⑤は李夢陽が草堂を築いた知らせを聞き(尾聯)\n詩は情を杼べるものであるが、では、徐頑卿は、杼情と言志と\nをどのように両立させ、実践していったのであろうか。\n官界に身を置く徐頼卿は、科挙の及第者がそうであるように、\nよりよい社会の実現を目指した。思いは李夢陽も同じである。朝\n廷では劉理を頭とする「八虎」が賊属し、徐順卿が江南・繍湘へ\n(腸)\n赴任している間に、李夢陽は獄に下された。\n徐頑卿は、旅立ちの当初は、官場に留まることのできない不遇\n感と官界の不穏な動きとによって愁いを懐き、時に隠棲の思いを\n吐露していた。が、旅を続けて壮大な自然に触れ、「風を望んで\n荒村豹虎眠難穏荒村射虎眠り穏やかなり難し\n好共槍江學釣魚好し共に槍江に釣魚を学ばん\nと政界の動きと友の災難を思い、ともに隠棲しようと一一一一口う。徐\n頑卿にとって李夢陽の存在がいかに大きかったか窺えよう。\n「言志」とは社会とどのように対時するかという人生哲学に通\nじる。本稿で取り上げた「重與献吉書」(重ねて献吉に与ふるの書)\nは、散文における「言志」の一つの形であり、「於武昌懐献吉五十韻」\n(武昌に於て献吉を懐ふ五十韻)は、韻文における「言志」の一\nつの形である。どちらも李夢陽がいなくては生まれなかった。\nおわりに-「竹帛を仮りて以て志を昭らかにす」I\n100(33)\n其の人を恩ひ」「楽しみて其の身を終ふ」るだけでよいのか、人\nとしてこの世に生きて何を為すべきか、と疑問を持ち始める(第\n一節)。\nさらに、武昌では、楚の国が地理的にも歴史的にも枢要の地で\n風光明媚であるが、戦が繰り返され、民の俗の卑しさと人の価の\nはかなさに思いを致し、個人的な愁いから国家に対する憂いを強\nく抱くようになった。左遷にも等しい繍湘への赴任によって、徐\n順卿は志を遂げるには文学に頼るしかなく、「川か子長の風を希\nい、虞卿の志を庶幾う」と、「言詩」の文学をあらためて認識し\nたのであった。(第五節)\n「言志」の文学の認識はすでに漢代の『詩経」解釈にあらわれ、「志\nを言う」という意識は多くの詩人達の共有するものであった。徐\n順卿が特に珍しいというのではない。が、明代蘇州の文人社会に\n育った徐順卿がこの「’’一一口志」を意識したことは注目に値する。で\nは具体的にどのような詩によってそれを実現するのか。李夢陽の\n手紙には、次のように言っていた(第四節)。\n頼む所は豪賢発憤して、帯礪(川と山)に映じて以て名を垂\nれ、章逢(儒者)道を楽しみて、竹帛を仮りて以て志を昭ら\nこいねか\nかにせん一)とを。生人の業、為に朽ちざるを庶塵へのみ。\n所頼豪賢發憤、映帯礪以垂名、章逢樂道、假竹帛以昭志。生\n人之業、庶為不朽耳。\n儒者であれば、「竹帛を仮りて以て志を昭らかにす」ることが\nその願いである、と。\n徐頑卿は、文学理論を展開した『談藝録」で、詩の理想を「卿\n雲」、「江水」、「蒸民」「麦秀」などの古歌と、その流れをくむ『詩\n経』雅頌・国風に求めている。これらはみな(詠歌されていた。\n先王之を宮徴に協へ、之を賛絃に被むらしめ、之を郊社に奏\nし、之を宗廟に頌し、之を燕会に歌ひ、之を房中に楓す。蒜\nただ\nし之を以て以て天地を格し、鬼神を感ぜしめ、風教を腸し、\n庶情に通ずべし。此れ古詩の大約なり。\n先王協之於宮徴、被之於蓄絃、奏之於郊社、頌之於宗廟、歌\n之於燕會、弧之於房中。恭以之可以格天地、感鬼神、暢風教、\n通庶情。此古詩之大約也。\n「情」から生まれた詩は、先王が宮徴(メロディー)に合わせ\nて楽器で演奏できるようにし、宗廟で頌し、宴会で歌い、房中で\n猟した。それ故に、天地を格し、鬼神をも感動させ、風教を広め、\nさまざまな情に通じることができた、と。\n詩と音楽とが結びついた古代の詩は、雅頌と国風に受け継がれ、\n更に次のように発展したと言う。\nおこな\n漢鮓って鴻朗、文章作すこと新たなり。安世の楚声は、温純\n厚雅、孝武の楽府は、壮麗宏奇。結紳先生、成な従ひ附きて\n作る。通を古風に規ると雛も、各おの剖剛を懐く。美なるか\n99(34)\nな歌詠、漢の徳雍揚たり、雅頌の嗣と為すぺきなり。夫の興\n懐触感するに及び、民各おの情有り、賢人逸士、下里に坤吟\nし、棄妻思婦、中閏に嘆詠し、鼓吹して軍曲を奏し、童謡間\n巷に発するは、亦た十五国風の次なり。\n漢称鴻朗、文章作新。安世楚聲、温純厚雅、孝武樂府、壯麗宏苛。\n緒紳先生、成從附作。難規迩古風、各懐剖剛。美哉歌詠、漢\n徳雍揚、可為雅頌之嗣也。及夫興懐鯛感、民各有情、賢人逸\n士、坤吟於下里、棄妻思婦、嘆詠於中閨、皷吹奏乎軍曲、童\n謡發於閏巷、亦十五國風之次也。\n安世の楚声と孝武時代の楽府は、それぞれ温純厚雅、壮麗宏奇\nという特色があり、緒紳先生たちはみなその古風にならって詩を\n作り、各々が剖剛をいだいていた。その詠歌は美しく、漢の徳は\n雍揚とし、雅頌を継ぐものであった。一方、国風を継ぐものは、\n民はそれぞれ情によって詠った。賢人逸士は下里に叩吟し、棄妻\n思婦は中閨に嘆詠し、軍曲を鼓吹演奏し、童謡が閻巷に起こつ\n(脇)\nた、と。\n『談藝録』は弘治十一年二四九八)徐頑卿二十歳のときに書\nき上げられていた。「竹帛を仮りて以て志を昭らかにす」る詩は、\n『詩経」雅頌・国風やそれを継ぐ楽府である。徐頑卿は、官界に\n身を置き、繍湘に旅することによってその重要性を切実に認識し\nたのである。徐頑卿の楽府は、「志を言う」実践的な作品として、\n自選詩文『迪功集」の巻頭に、詩の配列に意を用いて置かれてい\n(Ⅳ)\nる。\n徐頑卿の楽府以外の詩は、繍湘の旅を通じてより透明感を増し\nた。李夢陽を思う詩は、情の溢れる素朴な詩である。徐頑卿の詩\n(旧)\n評によく一一一一口われる「清椀」詩が多くなるのもこの旅中である。以\n下に引用する詩も「清遠」あるいは「清椀」と評されるものである。\n祷湘へ向かう途中、巴楡(四川省)へ行く同年の藷若愚(藷世賢、\n字若愚)を見送った詩「送藷若愚」(『迪功集』巻三)。\n送君南下巴楡深君の南に下るを送れば巴楡深し\n予亦逼逼湘水心予も亦た追追湘水の心\n前路不知何地別前路知らず何れの地にて別れん\n干山萬塾暮猿吟千山万塾蟇猿吟ず\n諸家の評は以下のようである。\n。『皇明詩選』韓文「江寧(王昌齢)・太白(李白)の間に在\nり(在江寧太白之間と\n.『明詩別裁集』「何大復の太華終南の篇と双美と云ふくし(輿\n何大復太華終南之篇可云隻美と\n・宗子相「直ちに是れ供奉(李白)・龍標(王昌齢)の風調なり。\n(宗子相云、直是供奉龍標風調と\n・徳啓「情遠能く太白の妙境を得たり(清遠能得太白妙境と\n李白や王昌齢の詩の特色は、個別性を捨象し、テーマをより突\n98(35)\nき詰めて純化している点にある。理屈を述ぺず、感情を詩句の中\nに封じ込め、詩的空間にその完結性をもとめる詩風である。徐順\n卿の詩の特色もまたそこにある。\n徐頑卿は『談藝録』で「清圓」を詩の理想とした胸、繍湘への\n旅を経て、詩はより研ぎ澄まされて清新さを増し円やかになった\nと言えるだろう。\n注\n(1)拙稿「明代徐頑卿の江南時代1文徴明との交遊と洞庭唱和詩I」\n(「国士舘大学人文学』3号、二○一三年一一一月)\n(2)拙稿「徐頑卿‐江南時代の詩I」(「中國古典研究」第二十七號、\n’九八二年十二月)\n(3)拙稿「徐順卿‐唐寅との交遊I」(「漢学紀要』第十八號、二○’六\n年三月)\n(4)拙稿「徐頼卿の「於武昌懐献吉五十韻』について」(「漢学紀要」第\n十七號、二○一五年一一一月)\n(5)テキストは、「迪功集」(欽定四庫全書、電子版)に拠り、適宜『徐\n迪功詩集四巻外集三巻附録一巻』(大立出版社、一九八一年)、「徐\n頑卿全集編年校注』(萢志新編年校注、人民文学出版社、二○○九\n年)を参酌する。なお本論中『正集』と記すのは徐頑卿自選の「徐\n迪功詩集』を指す。\n(6)『詩経』關風「東山」に「我狙東山、惜稻不歸。我來自東、零雨其濠。\n我東日歸、我心西悲。制彼裳衣、勿士行枚。蛸蛸者蝿、蒸在桑野。\n敦彼燭宿、亦在車下。/我祖東山、稻稻不歸。我來自東、零雨其濠。\n果扇之實、亦施干宇。伊威在室、蟻蛸在戸。町腫鹿場、摺曜宵行。\n亦可畏也、伊可懐也。/我沮東山、稻憎不歸。我來自東、零雨其濠。\n鶴鳴子姪、婦嘆干室。泗婦弩窒、我征聿至。有敦瓜苦、蕪在栗薪。\n自我不見、干今三年。/我祖東山、恰惜不歸・我來自東、零雨其濠。\n倉庚干飛、摺曜其羽。之子干歸、皇駁其馬。親結其縞、九十其儀・\n其新孔嘉、其薑如之何。」とある。\n(7)注(4)参照。\n(8)陶淵明の「歸園田居」其一に「少無適俗韻、性本愛丘山。誤落塵網中、\n|去三十年。鵜鳥懸薑林、池魚思故淵。」とあり、「歸去來今瀞」に「歸\n去來号、田園將蕪、胡不歸。既自以心為形役、実凋帳而濁悲。」とある。\n(9)注(4)。\n(皿)屈原「離騒」に「恐鴫鵤之先鳴今、使夫百草爲之不芳」とある。\n(Ⅱ)「樂府詩集』巻三十四「相和歌辞情調曲」豫章行に「古今樂録日、\n豫章行、王僧虐云、筍録所載古白楊一篇、今不傳。樂府解題日、陸\n機汎舟清川渚、謝露運出宿告密親、皆傷離別。言壽短景馳、容華不久。\n傅玄苦相篇云、苦相身爲女、言議力於人、終以華落見棄。亦題日\n豫章行也。豫章、漢郡邑、地名。」とある。\n97(36)\n(Ⅲ毫大明一統史』巻六十「襄陽府」に「太嶽大和山、在均州南一百二十里。\n山有二十七峰、一一一十六巖、。:一一一潭、三天門、三洞天、|福地。初\n(p)拙稿「『談藝録」にみる詩の理想」(『中国文化』第六八号、二○’○\n(ご拙稿「徐頑卿の『談藝録』について」(宝\n記三\n(『中国文化』第六八号、二○一○年六月)\n(Ⅳ)拙稿「徐頑卿の重薦』について」S中国一\n(ご拙稿「徐頑卿の評価をめぐって」S漢学、\n〆 ̄へ〆 ̄へ/ ̄、\n161514\n-.-、-〆、-〆\n名仙室山、又名太嶽山」とある。\n(皿)拙稿「徐頓卿の「文章煙月』を.\n拙稿「徐頑卿の『談藝録』について」s大東文化大学創立六十周年\n念中国学論集』、一九八四年十二月)、「『談藝録』にみる詩の理想」\n注(4)\n注(4)\n年六月)\n年三月)\n二○一四年三月)\n圧(4)参照。\nをめぐって」(『漢学紀要」第十六号、\n(『中国文化』第四○号、一九八三\n(『漢学紀要』第十一一一号、一一○二\n96(37)"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "鷲野, 正明", "creatorNameLang": "ja"}, {"creatorName": "ワシノ, マサアキ", "creatorNameLang": "ja-Kana"}, {"creatorName": "Washino, Masaaki", "creatorNameLang": "en"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "18723", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", "dateValue": "2017-08-30"}], "displaytype": "detail", "download_preview_message": "", "file_order": 0, "filename": "2187_6525_049_06.pdf", "filesize": [{"value": "1.8 MB"}], "format": "application/pdf", "future_date_message": "", "is_thumbnail": false, "licensetype": "license_note", "mimetype": "application/pdf", "size": 1800000.0, "url": {"label": "本文", "url": "https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/record/11356/files/2187_6525_049_06.pdf"}, "version_id": "a1ecd765-6222-4a5f-a58a-dfb5df02eebb"}]}, "item_keyword": {"attribute_name": "キーワード", "attribute_value_mlt": [{"subitem_subject": "徐禎卿", "subitem_subject_language": "ja", "subitem_subject_scheme": "Other"}]}, "item_language": {"attribute_name": "言語", "attribute_value_mlt": [{"subitem_language": "jpn"}]}, "item_resource_type": {"attribute_name": "資源タイプ", "attribute_value_mlt": [{"resourcetype": "departmental bulletin paper", "resourceuri": "http://purl.org/coar/resource_type/c_6501"}]}, "item_title": "明代徐禎卿の江南・瀟湘への旅 : 言志文学の決意", "item_titles": {"attribute_name": "タイトル", "attribute_value_mlt": [{"subitem_title": "明代徐禎卿の江南・瀟湘への旅 : 言志文学の決意", "subitem_title_language": "ja"}, {"subitem_title": "In the Ming (明) period, Xu Zhen-qing (徐禎卿) ’ travels around Jiang-nan (江南)・Xiao-xiang (瀟湘) : to be mind of write “Yan-Zhi (言志) ” literature", "subitem_title_language": "en"}]}, "item_type_id": "10002", "owner": "17", "path": ["996"], "permalink_uri": "https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/records/11356", "pubdate": {"attribute_name": "PubDate", "attribute_value": "2017-08-30"}, "publish_date": "2017-08-30", "publish_status": "0", "recid": "11356", "relation": {}, "relation_version_is_last": true, "title": ["明代徐禎卿の江南・瀟湘への旅 : 言志文学の決意"], "weko_shared_id": -1}
明代徐禎卿の江南・瀟湘への旅 : 言志文学の決意
https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/records/11356
https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/records/11356a5a79dea-5f34-48f1-a15f-a29216442796
名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
---|---|---|
本文 (1.8 MB)
|
|
Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
公開日 | 2017-08-30 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | ja | |||||
タイトル | 明代徐禎卿の江南・瀟湘への旅 : 言志文学の決意 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | In the Ming (明) period, Xu Zhen-qing (徐禎卿) ’ travels around Jiang-nan (江南)・Xiao-xiang (瀟湘) : to be mind of write “Yan-Zhi (言志) ” literature | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
著者 |
鷲野, 正明
× 鷲野, 正明 |
|||||
著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 200901005013161330 | |||||
書誌情報 |
国士舘人文学 en : Kokushikan journal of the humanities 巻 7, p. 112-96, 発行日 2017-03-15 |
|||||
出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学文学部人文学会 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | PISSN | |||||
収録物識別子 | 2187-6525 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12519434 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40021147729 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 921.5 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
主題 | 徐禎卿 | |||||
注記 | ||||||
通巻49号 (国士館大学人文学会紀要からの通号) 雑誌変遷情報 : 国士館大学人文学会紀要→国士館大学文学部人文学会紀要→国士舘人文学 |