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続』(大場家歴代史編集委員\n会、一九八四年)に拠ってみていくこととする。\n信續は、一八七九(明治一二)年一月四日、東京府荏\n原郡世田谷村二三六番地(現東京都世田谷区世田谷一丁\n目二九番一八号)に、父信愛、母以佐の長男として生ま\nれた。大場家は、江戸時代、近江彦根藩世田谷領の代官\nを務めた家柄であり、数えて一四代であった。\nここで大場家の由緒についてみておきたい。世田谷の\n地は、江戸時代初期の一六三三(寛永一〇)年に、近江\n彦根藩の飛び地領(二三〇〇石)とされた。その理由\nは、当時の藩主井伊直孝が幕府の要職を務めており、\nそうした者へは便宜上江戸近くにも所領が与えられる\n慣例からであった。その後、江戸時代を通して世田谷は\n井伊家が領していた。ちなみに、世田谷の豪徳寺は、\n一六三三年に直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し\n整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英\n居士」による。こうして世田谷を治めることとなったも\nのの、藩主自らが治めることは困難であったため、代役\nとして代官がたてられた。その代官に任じられたのが大\n場家であった。大場家は江戸時代以前より在地してお\nり、戦国期には小田原北条氏傘下の吉良氏に仕えてい\nた。ところが、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、吉良氏も\n滅亡すると、野に下って帰農していた。しかし、世田谷\nの地が彦根藩領となった際、井伊家より召しだされ、武\n士身分に戻され、以後、明治維新に至るまで世田谷の地\nを治めることとなった。江戸時代の郡代および代官は広\n域支配をあずかることもあったが、世田谷領は極めて小\n規模であったこともあり、農民との接点が近く、代官所\nの掃除人足・風呂番・障子張替などの雑用は、役人では\nなく領内の農民があたった。こうしたことから農民の実\n情も察しやすく、また、歴代の当主たちも自らを律し、\n農民からも尊敬の念を得られるよう努めていたことが、\n『大場家家督心得』はじめ歴代代官が伝えた家訓などか\nら読み取れる。\n一八八三(明治一六)年、四歳となった信續は、世田\n谷村経堂在家村連合村立桜小学校に入学した。これは村\nの子供より二年早く、当時散見される例とはいえ、信續\nにそれだけの能力があってのことだろう。第二学年から\nは赤坂小学校に移り、赤坂小学校高等科を卒業後、東京\n府立尋常中学校(現日比谷高等学校)、第一高等学校\n(現東京大学教養学部)へと進学した。五歳で小学校へ\n上がってからの信續は、今も昔も困難なこのコースを順\n調に進んでいった。\nこのように順風満帆であった信續に、第一高等学校在\n大場信續\n181\n学中の一八九九(明治三二)年、不幸が襲う。父信愛が\n亡くなったのである。信續は物心のつく頃から、父から\n上に立つ者としての薫陶を受けた。また、母や祖母から\nも歴代代官が伝えた家訓によって厳しく躾けられてい\nた。したがって、ゆくゆくは第一四代を継ぐ心構えは出\n来ていたものの、直ちに父の跡を継ぎ、当主としての義\n務と責任を負って立たねばならなかった。\n信續が戸主になった当時、大場家の主な収入源は、小\n作料を中心とする農業収入であったが、大きな所帯には\nそれなりに出費も多い。そのうえ借金も背負っていた。\nしかしそのために先祖伝来の土地はたとえ僅かでも手放\nすことはしなかった。当時はまだ山林がかなりあったの\nで、松や杉などを切り出して売り、借金返済に充て、急\n場を凌いでいった。\n一九〇〇(明治三三)年四月、信續は第一高等学校か\nら東京帝国大学農科大学(現東京大学農学部)農学科に\n進んだ。法科や工科ではなく、あえて農学科を選んだの\nは、父信愛の意志を継いで世田谷農家の指導者となり、\n村人と共に生きる覚悟からであろうか。\n在学中の一九〇三(明治三六)年二月には結婚もして\nいる。生涯の伴侶となったのは、神奈川県高津村上作延\n(現川崎市高津区上作延)の地主、三田正綱の長女琴子\nである。信續二四歳、琴子一八歳であった。生涯を通し\nて仲睦まじい夫婦であったという。また、同年七月には\nめでたく東京帝国大学農科大学農学科を卒業するも、同\n年の日露開戦によって、一年志願兵に召集。近衛野砲兵\n聯隊留守隊にあって日露戦役勤務に服したが、戦争の終\n息に伴って召集解除となった。\n除隊後は想うところあってか、再び学徒となった。学\n校は同じ東京帝国大学農科大学だったが、今度はそこに\n新しく設けられた耕地整理講習、後の農学部農業土木科\nの第一回生になったのである。在学期間はわずか一か年\nであったが、この再就学がきっかけとなり、以後、耕地\n整理ないし区画整理の先駆けとして活躍していくことと\nなる。\nこのように率先意欲に燃え、次から次へと新しい学問\nと知識を身につけていくと、同時に村の青年たちのこと\nも思いやられた。彼らのほとんどは貧しいがゆえ上級学\n校へ行けずにいるわけだが、何とかして彼らにも勉強の\n場を与えてやりたいと考えていたという。その手始めと\nして行ったのが、一九〇六(明治三九)年の夜間補習学\n校の開校であった。これは世田谷村の知識人として知ら\nれていた実相院の和尚佐々木義宣の協力も得て、とりあ\nえず桜小学校の教室を借りて、週三日行った。元より産\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n182\n業、農業実務教育が中心だったが、その他の学科も教え\nて、実業学校卒業に準ずる学力をつけさせようと努め\nた。この夜学は、一九一一(明治四四)年に、世田谷村\n立桜農商補習学校が正式に発足するまで続いた。こうし\nた信續の青年たちへの温かな眼差しが、後の国士舘商業\n学校設立へと繋がっていったのである。\n一九〇八(明治四一)年一〇月、信續は大学の教授や\n先輩の推薦によって農商務省に入り、農商務技師に任じ\nられた。当時は農業の合理化と増産のための耕地整理が\n国の急務であった。したがって、信續の仕事は、政府の\n命令に従い、都道府県庁へ出張して講習会を開き、また\nは現場に臨んで実地指導をし、耕地整理の専門家を増や\nすことにあった。その後、一九一三(大正二)年四月に\nは宮内省林野局に栄転する。またその一方、当局の了解\nを得て、地元に荏原郡第一土地区画整理組合を創設、組\n合長に就任し、一九二四(大正一三)年一〇月、組合設\n立の認可を受けた。早速全国に先駆け、現在の世田谷\n一、二、三、四丁目及び弦巻二、三丁目、若林、赤堤、上馬\nの一部にわたる地域の大規模な区画整理に着手した。こ\nの組合は多方面から注目をされたが、とくに全国に先駆\nけてメートル法を採用したことで脚光を浴びた。この整\n理事業の計画は、一九二一(大正一〇)年四月のメート\nル法採用後早々のもので、一間をメートルに直した単位\nではない純メートル単位など、今日でも十分に普及され\nているとはいえないものである。\n一方で信續は、一九二〇(大正九)年一二月に、相原\n永吉世田谷村長をはじめ、有志と図り、世田谷村の地主\n一六〇人の連署を添付した勝光院西線敷設に関する「電\n車線路延長願」を玉川電気鉄道株式会社に提出するなど\n率先して事に当たった。勝光院西線とは、現在の下高井\n戸から三軒茶屋までの東急世田谷線のことである。\nまた、一九二一年二月、一部には相談もしていた産業\n組合法による有限責任世田谷信用販売購買組合の設立案\nを発表した。信續は宮内省林野局に奉職していたが、公\n共事業のことであったので快諾された。また、地元有志\nからも是非にとの声が高かった。古くからの慣習で、信\n續の代になっても大場家へ金を借りに来る地元民が絶え\nず、その上永い間続いた惰性で、期日が来ても双方何も\nせず放置しているので、借金は増えるばかりという状態\nであった。そこで今後は一切組合を通しての貸借にして\nその悪習を断ちたい、というのが見かねた有志たちの希\n望であったという。\nまた、時代の趨勢に眼を転ずると、大正末期の世田谷\n地域は、関東大震災以降、郊外への私鉄開通も相まっ\n大場信續\n183\nて、従来の農耕地は住宅となり商家も増え、急速に市街\n地化が進んだ。そうした状況の中、地域では商業教育の\n必要性が高まりつつあった。\nこうしたなか信續は、一九二四年、官界を去る決断を\nした。すなわち、これからは一介の民間人として地域の\n発展のために全てを捧げる覚悟を示すものであった。そ\nれまでも地域の発展に尽くすべく、官職では世田谷地域\nの区画整理に尽力し、その傍ら電車線路延長運動、そし\nて地域経済発展の基盤となった世田谷信用販売購買組合\nの創設も実現させた。このように信續の関心は地域の問\n題全般にわたっていたが、純民間人となって最初に手掛\nけたものは教育事業であった。元来信續は、向学心の厚\nい青年に対して、進んで手を差し伸べ、引き上げてやる\n援助を惜しまなかった。書生として大場家に住み込ま\nせ、学校に通わせるなど、信續の庇護、引き立てを蒙っ\nた青年は枚挙に暇がない。\nこうしたなか国士舘では、一九二五(大正一四)年三\n月三一日、中学校令に基づく認可申請を行い、同年四月\n八日に設置認可を受け、国士舘中学校を創設した。ま\nた、新築の中学校校舎などの施設を公共的に活用したい\nと考え、世田谷地域の青少年のための無償活用を提言す\nる。これを受けた世田谷町長山崎四六の斡旋により、\n一九二五年四月に農商補習夜間塾が開校された。ここで\n塾長に推されたのが信續であった。入学者数は二〇余名\nで、普通学と農業大意が講義された。前者を国士舘の教\n員が分担し、後者は信續が担当した。\n開講から約一年後、荏原郡長宮城栄三郎、目黒町長土\n生文之助などを中心に「組織ある中等程度の商業学校」\nの設立が希望され、世田谷町・駒沢町・松沢村・玉川\n村・目黒町・碑衾町の「荏原郡西部六か町村」と国士舘\nの協議により商業学校の創設が図られた。やがて、学校\nの経営主体・財政負担は六か町村とし、校長を大場信續\nとすること、独立経営が不可能になった場合は国士舘が\n経営の任にあたること、学校名を国士舘商業学校とする\nこと、国士舘の校舎・施設を利用することなどが決定し\nた。これを受けて、一九二六年二月五日に「実業学校\n令」に基づく認可申請を行い、同年三月四日に設置認可\nを受け、国士舘商業学校が創設された。\n以上の経緯を以て信續は国士舘商業学校の校長に就任\nすることになったのだが、当初から国士舘を理解し、進\nんで校長の任に就いたわけではなかった。実のところ、\n初めはかなりいぶかしんでいたことが、信續が『国士\n舘々報』二巻三号(一九二六年四月一日)に寄稿した\n「私が国士舘を理解する迄」と題する一文(『国士舘百年\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n184\n史』史料編上、四六五~四七二頁)に記されている。ま\nずは、当初思っていた国士舘のイメージについて、\n出来た当時の国士舘の噂は、全く設立者の趣旨とは\n天地の差でありまして、なんでも壮士を養成すると\nころだらうといふことに、附近の人々は噂をその\nまゝ肯定して怪しみもせなかつたのであります。従\nて誰も強いて近寄らうとせず、どちらかといへば敬\nして遠ざけるといふ主義で居たやうであります。\nと述べている。しかし、国士舘から農商補習夜間塾の講\n義依頼があり、実際に国士舘を訪れ、学生と接するにし\nたがい「聞くと見るとは正反対」であったとして、驚き\nを含めて次のように語っている。\n元来石井君(筆者註―澄之助、国士舘商業学校主\n事)が私を目掛けて補習学校に講義を受持つてくれ\nと頼みにきた経路が未だに判らぬのでありますが、\nこんな縁故で、私が追々国士館に接近するの機会を\n得、その後時日を経過するに従つて、国士館内部の\nことも少しづゝ判るやうになつて見ると、この附近\nの人々の噂や、私が当初考へて居た国士館なるもの\n1926(大正15)年2 月2 日 商業学校創立相談会\n(後列左より5 人目が大場信續、6 人目が柴田德次郎)\n大場信續\n185\nとが、寧ろ正反対であるのに驚き且つ喜んだやうな\nわけであります。いかにも国士館の学生は破れ袴や\n破れ洋服で、決してきれいではありません。(中略)\n国士館の学生のきれいでないのは、一に質実といふ\n主義から発足したものであるやうであります。現に\nこれは学生ばかりでなく、職員や役員達に至るまで\n同一であります。(中略)私は附近の人々の風説\nや、自分一己の想像から、国士館といへば、壮士\n―豪傑―酒と、こんな風に聯想して、定めて酒\n呑童子のやうな人が多いだらうと思ふて居ましたの\nに、事実が全く反対なのに驚きもし、又感心もした\nのであります。(中略)こんな風に眼や耳で、機会\nある毎に国士館なるものが漸次理解さるゝやうにな\nりましたと共に、柴田館長やその他の諸君と接近す\nる機会の度重なるに従ひ、国士館の精神方面に就て\nも、次第に理解がつきまして、理解すればするほど\n世間の想像と相反して、その精神たるや、至つて健\n実のものであり、又今日の時勢では、当にさうなく\nてはならぬものと痛感するやうになつたのでありま\nす。\nまた、信續の校長就任は国士舘側も歓迎している。国\n士舘舘長柴田德次郎は、国士舘支援者である麻生太吉へ\n商業学校創設の経緯を伝えた書簡(『国士舘百年史』史\n料編上、四五六~四五七頁)のなかで「校長には宮内省\n農務課長農学士大場信續氏とて四十数代当世田谷の名家\nにて徳川時代の代官、現在も荏原郡一の大地主(五十三\n才)一寸野田翁(筆者註―卯太郎)の如き人物に御座\n候」と記している。\n一九二六年四月、授業を開始した商業学校であった\nが、準備期間が短かったこともあり、当初の生徒数は定\n員に満たず、また、生徒は職業に従事しながら学ぶため\nに、休暇期間にも課題が生じた。そこで一九二六年六月\n一日に、前期・後期に入学可能な二期制の導入と長期休\n暇の短期化、選科生の設置などを骨子とした学則変更を\n申請した。\nその後は時代の要請もあり、一九二七(昭和二)年二\n月一五日には、高等程度の学校などへの進学者が増加し\nたことによる学科課程の改善や受験料の減額を主な要旨\nとした学則改正を申請している。さらに、一九二八(昭\n和三)年一二月には、青年訓練所規定第八条に基づく教\n練時間などの学科課程変更のため学則改正願を提出し、\n翌一九二九(昭和四)年一月一六日に認可を得た。これ\nにより商業学校の卒業生は、徴兵猶予と在営年限短縮の\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n186\n特典を得ることとなった。さらに、急増する就学希望者\nに対応するため、一九三二(昭和七)年一〇月二六日、\n修業年限を五年と改め、入学を尋常小学校卒業程度満\n一二歳に引き下げ、収容定員を五〇〇人とする学則改正\n願を申請し、同年一二月二七日に認可を得た。\nこのようにほぼ順調に歩みを進めていった商業学校\nは、一九三六(昭和一一)年に一〇周年を迎えた。それ\nを記念して同年一〇月四日に商業学校主事関野直次の編\n集で『商業学校十年小史』が刊行された。巻頭の「祝\n辞」において、信續の学友で、東京帝国大学教授(農学\n博士)であり、世田谷区教育会長の佐藤寛次が、信續の\n人となりについて述べている。\n氏は豊富な常識を有つた円満なる人格者であり、又\n一郷の信望を集めた郷土の先輩であることは、私が\n特に茲に贅するまでもないことであるが、就中一言\nしたいのは、氏の性格の極めて恬淡なことである、\n氏は名誉の念にも淡く、利欲の情にも甚だ薄い、そ\nの名利に淡白なことは、氏が官途を退くまで、一技\n術官の職に安んじて他の栄達を顧みなかつたのでも\n知ることができよう。氏がこの学校の校長として、\n十年一日の如く孜々として子弟の育成に没頭してゐ\n1940(昭和15)年頃 国士舘商業学校・中学校校舎夜景\n大場信續\n187\nるのも、全く氏の信念の一つの発露であつて、一身\nの名声利得を考慮に置くものでないことは、私の熟\n知する所である。\nこうした賛辞は他からも寄せられており、信續もまた\n自分の信念について、同誌「十周年を顧みて」にて次の\nように示している。\n恰も祖先がこの土を培ひ育み来つたやうに、私も微\n力の限りを郷土の為に捧ぐる事は、祖先に対し郷土\nに対して当然の報恩、天与の義務と思つてゐる。然\nしそれが私の器であるか否かは知らず、少くとも私\n一箇はしかく信じてゐるのである。私が今現に幾多\nの公共事業に微力を捧げて、日々多忙の日を送つて\nをるのも、結局この信念に基く行動に外ならないの\nである。但し私は凡そ議員と称すべき公職の何物に\nも席を列してゐないといふのは、さういふ方面には\n自然人才が多いからであつて、又自らその器でない\nことをも知つてゐるからである。要するに私は飽く\nまで側面的な、質素な方向に向つて、郷土を培ひ、\n郷土の為に尽して行かうといふのが、私の主義でも\nあり方針でもある。私は名誉や利益に対して寸豪の\n欲望もない、唯この郷土愛の信念に始終するのが私\nの生命である。私が学校長として語り得るものは唯\nこの一事であると思つてゐる。\n本校は示上の如き私の主義方針の下にあるのである\nから、その経営乃至教育方針も飽くまで質実堅剛に\n郷土の発展向上を主眼として、主として地方の子\n弟、それも多くは農商家の子弟をして、家業の傍簡\n便に自由に修学し得しむることの以外には、一歩も\n踏出してをらぬ。故に甚だ質素な、甚だ平凡な、一\n面から言へばあまりに見映えのせぬ学校ではある\nが、これが私の主義であり方針であり、又この学校\nの存在する所以でもあるのである。\n一九四一(昭和一六)年一〇月、信續は校長の任を柴\n田德次郎に譲っている。ただし、その後も地域、そして\n青少年への援助は生涯を通して続けていった。\n一方、信續が組合長を務める世田谷信用販売購買組合\nは、一九五一(昭和二六)年六月に公布・施行された信\n用金庫法に伴い、翌一九五二(昭和二七)年七月に世田\n谷信用金庫となった。信續は生涯にわたり組合長を務め\nたが、最後まで「金を出しても口は出さない」態度を貫\nいた。\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n188\n一九五四(昭和二九)年五月三日、信續に緑綬褒章が\n授与された。御年七五歳の折の栄誉であった。これは宮\n内省林野局に勤めながら、地域振興のため、産業組合精\n神に基づく世田谷信用販売購買組合を創設し、以来三三\n年間、組合長および理事長を任じ、併せて地域内中小企\n業の育成と地域住民の生活向上への尽力が認められたの\nである。\n次いで、一九六二(昭和三七)年一〇月一日の世田谷\n区制三〇周年記念式典において、世田谷区で最初の「名\n誉区民」の称号が授与された。これは、第三回定例区議\n会で決議され、実施された名誉区民条例による表彰で、\n区政の発展に著しい功績のあった区民に贈られる称号で\nあった。永い間ひたすら郷土の発展を願い、力を尽くし\nてきた身として「最高の贈り物」と喜んだという。信續\nの性格からして先の緑綬褒章よりこちらの方が嬉しかっ\nたのではなかろうか。\n世田谷名誉区民第一号の称号を受ける頃までは、元気\nでいた信續であったが、やはり寄る年波からか、その後\nは体調をくずし、一九六四(昭和三九)年一〇月七日、\n黄泉の客となった。享年八五歳の大往生であった。\n戦後、国士舘では、勤労青年にも門戸を開くべく、\n一九四八(昭和二三)年に至徳高等学校定時制商業科\n(新制四年制)を、一九五三(昭和二八)年に国士舘短\n期大学経済科二部(二年制)を設置している。両校は共\nに夜間定時制で、昼間に職業をもつ者が多く入学してい\nる。こうした地域住民を支える姿勢は、戦前の国士舘商\n業学校、ひいては大場信續の精神が受け継がれたものと\n言えるのではないだろうか。"}]}, "item_10004_version_type_20": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (1.4 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2017-05-27 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 大場 信續 | |||||
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言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | article | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 国士舘を支えた人々 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
浪江, 健雄
× 浪江, 健雄 |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | 9000343354105 | |||||
関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘百年史編纂委員会専門委員会 | |||||
姓名 | コクシカンヒャクネンシヘンサンイインカイセンモンイインカイ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘史資料室 | |||||
姓名 | コクシカンシシリョウシツ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 8, p. 179-188, 発行日 2017-03-10 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12479001 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 120006237358 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.2136 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.13 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 289.1 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol8.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第8号(2016) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 |