WEKO3
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楓厡\n150\n郎)による一九二九(昭和四)年パラ州アカラ植民地へ\nの第一回日本人移民一八九人に始まる。\nブラジル国アマゾナス州政府からの日本人移民の要請\nは、当時衆議院議員であり国士舘理事であった上塚司\n(ブラジル移民の父といわれた上塚周平の従弟) が中心\nとなり、一九三〇(昭和五)年四月、アマゾン開拓の指\n導者養成を目的とした国士舘高等拓植学校の設立へとつ\nながった。その後、国士舘内部で発生した意見対立によ\nり上塚は国士舘から離れ、新たに日本高等拓植学校(昭\n和七年五月三一日認可)を登戸に設立した。国士舘高等\n拓植学校は一九三四年(昭和九)一一月一日に廃止さ\nれ、国士舘によるアマゾンへの開拓指導者派遣事業は\n一九三二年(昭和七)年四月一六日に同校二回目の卒業\n生(高拓生)をアマゾンへ送り出したのを最後に幕を閉\nじた。\n五〇年後の一九七九(昭和五四)年一一月五日、アマ\nゾン日本人移住五〇周年記念祭に慶祝使節団を送った国\n士舘は、同記念祭での高拓生との再会を機に日伯の武\n道・スポーツ・文化交流を目的とした支部の設置を決め\nた。\n一九八〇(昭和五五)年七月、国士舘大学はパラ州立\n大学、サンパウロ州立大学(以後USPと呼ぶ)との間\nでそれぞれ武道スポーツ教育交流協定を締結し、その年\nの九月には国士舘大学からの派遣教官山本英雄がベレン\n支部とパラ州立大学で空手道の指導を開始している。時\nを同じくしてサンパウロでもUSP等で剣道と柔道の指\n導が開始されている。\n高拓生\n私の学生時代、アマゾン開拓に関しては多くの本が出\n版されており開拓の苦労が筆舌に尽くしがたいもので\nあったことは承知していた。ベレン支部責任者の越知栄\n先生は、国士舘専門学校の前身である国士舘高等部の卒\n業生で国士舘高等拓植学校第一回卒業生(高拓生)の引\n率監督者として一九三一(昭和六)年五月二〇日神戸港\nを出航し、アマゾンに渡った国士舘の大先輩であった。\nアマゾン日本人開拓五〇周年祭で国士舘が高拓生と再会\nした事を機にベレン支部の責任者を越知先生にお願いす\nることとなったのである。\nある日、越知先生のご自宅に夕食の招待を受けた時、\nアマゾンに渡って間もないころのお話をされたことが\nあった。入植当時、その自然環境の厳しさから作物が根\n付き成長することの心配よりも人間が生きて行けるかど\n国士、海を渡りて\n151\nうか分からない環境であったことや、全くの原始林での\n伐採作業の過酷さを聞くことができ、日本人移民がどれ\n程の苦労と努力の末に今日の隆盛を得たのかと考えさせ\nられ心に深く残った。開拓団の生活について高拓生を引\n率し監督的立場にあった越知先生から直接当時のお話を\n聞けたことは貴重なことであった。\n越知先生は殆ど毎日のようにベレン支部武道館の道場\nに顔を出され稽古を見学することを日課とされていた\nが、体力の衰えからか、だんだんとお顔を拝見する機会\nが少なくなっていった。当時越知先生はブラジルへ渡っ\nてきてからの歴史をまとめていると話されていたが私の\nベレン在任中に完成されることはなかった。\n私はその後サンパウロへ移り、一九九五(平成七)年\nにブラジルでの任務を終え日本へ帰国したため、越知先\n生とはベレンを離れて以来お会いすることはなかった\nが、その後、越知先生が亡くなられた事を知り、まさに\n巨星が堕ちた脱力感を覚えた。開拓者として海を渡った\n先輩方の歴史を留めておくことは後世に残された後輩の\n責務であろう。\n転換\n母校国士舘からブラジルのベレンへ行って空手道の指\n導をしてくれないかと相談を受けたのは大学卒業後、会\n社勤めを始めて間もないころであった。私は子供のころ\n占い師にみてもらったことがあり、将来親元を離れ外国\nで暮らすようになると言われたそうである。いつごろか\nらか外国で暮らしてみたいという漠然とした願望を持っ\nていた私は、ブラジル赴任の依頼を受け大きく心を動か\nされ運命のような流れを感じた。アマゾン川河口の町ベ\nレンという、その当時の生活からはあまりにかけ離れた\n世界に、当初戸惑いはあったが、心の整理をつけるのに\nそれ程時間はかからなかった。\n私は一九八二年四月一日付けで国士舘に奉職した。前\n年には空手道部同期の大木陽悦と鈴木克彦が国士舘に奉\n職し後輩の指導にあたっており、私はベレンへ出発する\nまで渡航準備を進めながら大学の道場で稽古を続けてい\nた。日本を出国する数日前、国士舘の海外事業を統括し\nていた国際部の教職員の方々に大学の近くにあった「花\n壇」というレストランで壮行会を開いていただいた席\nで、当時国際部副部長だった柴田德文先生から「骨は私\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n152\nが拾う」と餞別の言葉を頂いたことが忘れられない。\nベレン着任\n一九八二年六月一七日深夜、飛行機のタラップからベ\nレン空港に降り立った。熱帯特有の熱気に包まれ、緑に\n囲まれた飛行場に大きく「BELEM」とネオンに光る\n文字を見た時の何ともいえない気持ちを今でも忘れるこ\nとが出来ない。\nこの後、一九九五年三月にブラジル勤務を解かれ日本\nへ転勤帰国するまでに日伯間を八往復し延べ一三年間の\nブラジル赴任生活を送ることとなった。\n私のベレン赴任の目的はベレン支部の前任空手道指導\n員が帰国することに伴う後任空手道指導員として空手道\nの指導に当たることであった。ベレン支部は国士舘が現\n地に設置したパラ国士舘大学協会(SOCIEDADE\nKOKUSHIKAN DAIGAKU DO PARA 一九八〇年六\n月三日ブラジル国認可)を実体とする組織であり、越知\n栄理事長、東久一理事(高拓生)、町田嘉三理事(空手\n道師範)の責任体制で運営管理されていた。日本からの\n派遣空手道指導員は山本英雄、続いて車田享一、伊井克\n己、飯田隆男、川口雄大と続いた。山本英雄はパラ州立\n空手道部同期の仲間(4 年生時)(後列左端が筆者)\n国士、海を渡りて\n153\n大学でも客員教授として週一回空手道を指導していた。\nベレン支部では汎アマゾニア日伯協会から山科守剣道師\n範を迎え剣道指導も行われており、後に日本から剣道指\n導員として浅野誠一郎、柔道指導員として後藤啓之が赴\n任しベレン支部にて指導が行われた。\n日本からの指導員は就労ビザが取得出来ず観光ビザで\n入国しているため、六か月ごとに帰国し再度観光ビザを\n取得して再渡伯するやり方を繰り返していた。前任者の\n車田享一がビザの切替えで一時帰国し再渡伯するのに合\nわせて、同じ航空機で私もベレンに赴任した。\nベレンでの生活\nベレン到着直後は時差ボケ、現地生活への対応、着任\n後手続き等もあり町田先生から一週間くらいはゆっくり\nするようにと長旅を労わられた。ベレン支部武道館一階\n道場脇の一部屋が指導員用の部屋であったが、二人の指\n導員が生活するには無理があったので武道館から歩いて\n一〇分くらいの所に車田指導員と二人でアパートを一室\n借りて共同生活を始めた。\n同武道館はベレン市のキンチーノ・ボカイウーヴァ通\nり一六五七番にあり、大きなバス通りに面した市の中心\nベレン支部武道館看板\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n154\nに所在し生活には大変便利なところである。ベレン市中\n心街の街路樹は樹齢三〇〇年を越すマンゴー並木で雨季\n(一二月~五月)になると街中のマンゴーが実をつけ、\n風に吹かれて実を落とし街中がマンゴーの香りで覆われ\nる。この時期はバスに乗っていても屋根にマンゴーがゴ\nトンと落ちると運転手はバスを止めて拾いに行くが乗客\nは文句を言わない。商店やオフィスの前にマンゴーが落\nち人々が拾いに家から飛び出す光景は南国らしく微笑ま\nしい。私も早朝早起きしてマンゴーを拾ったこともあっ\nたが、子供達がマンゴー拾いをして小遣い稼ぎをしてい\nる邪魔をするような気がして止めた。マンゴーの季節に\nは、一日中マンゴーの木の下で、落ちてくるマンゴーを\n売って暮らしているような者も現れる。\nベレンの気候は、雨季では三〇度~三二度くらいで湿\n度は八〇~九〇%と高温・多湿だが、日中にスコールと\nいう三〇分くらいの一時的な雨が降り気温が下がる。植\n物が多く茂っているため日陰に入ると涼しく夕方は風も\nありしのぎ易い。このような気候なので普段は短パンに\nビーチサンダル、上はTシャツかランニング、くつろい\nだところでは上半身は裸ですごしていた。しかし、日中\nの日差しは強烈で、昼時間一二時~一四時ころは特定の\n商店街以外は店を閉めている。着任直後、そうとは知ら\nずに昼に買い物に出たところ、探しているものを売って\nいる店はどこも閉まっており二時間近く炎天下を探し回\nり、結局諦めて帰ったが熱中症のようになり寝込んでし\nまったことがあった。\n武道館二階には町田先生が家族と暮らしていた。町田\n先生にはベレン滞在中の生活全般に渡りお世話になり、\nその後一九九五(平成七)年に日本へ転勤した後も空手\n道を通じて交流を続けている。町田先生は日本大学卒業\n後、一九六八(昭和四三)年「あるぜんちな丸」で農業\n技術者としてブラジルへ移住、その後、学生時代から志\nしを持っていた空手道を極める道に進んだ。\nNHKはこの「あるぜんちな丸」で渡伯した乗船者を\nその後一〇年ごとに追跡取材し、移民ドキュメンタリー\nシリーズとして「移住三十一年目の乗船者名簿 前編・\n後編」(二〇〇〇年三月放映)まで制作してTV放映し\nており町田先生も毎回出演している。町田先生は何かと\n食事に誘ってくださり、武道館二階の自宅でビールや地\n酒ピンガを飲みながら先生の話を聞くのも楽しいひと時\nであった。休日にはベレン名物のカニを食べに行った\nり、先生が会員となっている軍隊将校クラブのプールサ\nイドでビールを飲んだりした。\n町田先生にはブラジル人の奥様との間に四人の子供た\n国士、海を渡りて\n155\nちと養子が一人いて全員男の子である。それぞれ個性的\nではあるが特に三男のLyoto は父親の血をひき格闘技\nの道に進み、二〇〇九(平成二一)年五月にはアメリカ\nのUFC(アメリカ最大の総合格闘技団体)でライトヘ\nビー級チャンピオンとなった。私のベレン在任中、\nLyoto はまだ四歳で他の兄弟と一緒によく私と遊んでい\nたが、その頃から物怖じしないところがあり、近所の子\n供たちと喧嘩をしても度胸が据わっていた。二〇〇〇\n(平成一二)年には、アントニオ猪木にスカウトされ、\n新日本プロレスに所属し世界の格闘技界で活躍するよう\nになり日本で再会したが、私の車に乗るにも体を屈めな\nければならない程の巨体ながら幼かったころの人なつっ\nこい笑顔は相変わらずだった。\n北京オリンピック柔道金メダリストの石井慧が総合格\n闘技へ進み、二〇〇九年三月にLyoto Machida を頼り\nベレンの町田道場(旧国士舘ベレン支部武道館)で修行\nしたことは有名な話である。\n熱帯での稽古\n一週間ほどして体も慣れたところでベレン支部武道館\nの空手道指導を開始した。武道館の指導体制は町田先\n1982 年10 月頃 軍隊将校クラブプールサイドにて(右より町田師範、筆者)\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n156\n生、車田、伊井ともう一人現地雇いの指導員カルロスの\n四人で、月曜日から金曜日まで七時〜八時の指導員稽\n古、九時〜一〇時のレッスン、一六時〜二〇時まで一時\n間ごとの四レッスンをシフトを組んで指導していた。毎\n週木曜日の午後は地方のカスタニアールという町の公民\n館のような場所を借りて出張指導も行った。\n毎朝七時からの時間は町田先生による指導員稽古で、\nベレンの他流派道場の指導員も稽古に参加していた。熱\n帯地域での稽古は気温も湿度も高く、とにかく発汗がは\nげしく道着はもちろん帯からも汗が滴るほどだ。車田指\n導員は既に半年以上熱帯で稽古していて体が適応したの\nか平気な顔で黙々と体を動かしている。\n毎回の指導員稽古が終わると疲労困憊した体を引きず\nり道場並びにある日系の食料品店で冷えたココナッツ椰\n子を買い求めた。店主で日系人の瀬戸さんが大刀でココ\nナッツの上部を切り開けてストローを添えてくれ、その\n場でいっきに飲み干すと体中にココナッツジュースがし\nみわたりホッと一息生き返る。着任した当初はとにかく\n暑さとの闘いで他のことはあまり考えられず体もいっき\nに痩せていった。\nアサイ\n熱帯のベレンは普通に生活しているだけでも疲れると\nころ、稽古と指導でいきなりバテテしまった。町田先生\nからアサイを食べたら元気になると教えてもらい、早速\n食べたところ翌日には元気が出てきた。それからは疲労\nが重なりしんどい時は、近所でアサイを買って食べるこ\nとにしていた。\nアサイはアマゾン特有のヤシ科の果物で鉄分が多く含\nまれており、最近では日本でも評判になっている。直径\n二㎝に満たない位の大きさで、殆どが種で回りが薄皮の\nブルーベリー色の実でアマゾン河流域の湿地帯に茂って\nいる。妊婦が食べると胎児が成長し過ぎて出産出来なく\nなると云われているほど栄養価が高く、熱帯雨林の厳し\nい環境下で労働する現地の人たちには欠かせない食べ物\nである。\nアサイは普通の商店では売られておらず、アサイ専門\nの店で午前中だけ売られていた。街のところどころにバ\nラック小屋のような売店があるが必ず開店しているとは\n限らず開店しているときは店の前に四角の赤い旗が出て\nいる。売店ではアサイの実を、中が攪拌機になっている\n国士、海を渡りて\n157\n専用の機械に入れ、ゆっくりと回転させ薄皮が擦れ合い\nどろどろの液体となって下に溜まるジュースを原液のま\nまや水で薄めて売っている。奥地で暮らす現地の人達は\n大きなタライのような器にアサイの実をいれて手で実を\n擦り合わせアサイのジュースを作るらしい。買ってきた\nアサイを器に移し砂糖をくわえてスープのようにして食\nべるかファリーニャというマンジョーカ芋で作った粉を\n混ぜて食べる。水に薄めてジュースのようにして飲む人\nもいる。厳しい気候風土の環境下に与えられた天の恵み\nといえる果物アサイに感謝である。\n武道館の増築工事\n一九八二年当時、ベレン支部武道館は表通りに面した\n門から入ると建物正面入口に受付、建物左脇に真直ぐ裏\n庭までの路地があり、路地に見学者用の椅子が並べて\nあった。路地から入れるワンフロアの板の間道場があり\n奥にはシャワールームとトイレ、部屋が二室あり一室は\n女中部屋でもう一室が指導員部屋である。路地を突き当\nたると裏庭があり巻き藁が二本たててあった。\n一九八三(昭和五八)年一月三〇日、日本でビザを取\nり直して再度着任したとき、武道館は前年暮れから増築\n工事が始まっており、前年一時帰国前にアパートを引き\n払っていた私は工事の間、武道館から少し離れた旧市街\nにある日本人経営の鈴木旅館に宿泊して武道館に通うよ\nうになった。鈴木旅館は長年に亘るこの地での日本人へ\nの貢献により日本政府から表彰され、感謝状がサロンに\n飾ってあった。この旅館には前任の車田指導員も帰国前\nに二か月ほど道場の増築工事のため宿泊している。部屋\nは六台ほどのベッドが横一列に並んだ病院のような共同\n部屋で、他の客も宿泊しておりプライバシーは殆ど無\nい。\n鈴木旅館では毎朝、「オ、ミラベル!」と地元新聞の\n名前を張り上げながら売り歩く子供の声で目が覚める。\n宿泊客の半分以上が日系人である。この時期の生活は、\n鈴木旅館から武道館へ朝稽古に行き、午前中のレッスン\nがある日はそのまま残り指導。昼はいったん旅館に戻り\n昼食後、また武道館へ戻るという日課であった。\n旅館では夕方、食事の準備が出来ると宿泊客が食堂に\n集まり大きな食卓を囲む。港町ベレンの食卓は、刺身に\n始まり煮魚、焼き魚、揚げ魚と魚三昧である。日本から\n移民として渡ってきた人が多く、特に独り身の男性が目\n立った。大学出たての日本の若者が珍しいのか、何かと\n話しかけてくれた。それぞれの人がいろいろな思いで日\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n158\n本から地球の裏側に渡ってこられ、成功した人、農業が\nうまくいかず都会へ流れてきた人など戦前戦後の日本か\nらの移民の人達の生き様を垣間見ることが出来た。\n四月か五月頃武道館の増築工事も終り、一階奥にあっ\nた二部屋、シャワー室、裏庭までをつぶして板の間道場\nを拡張し、二階には町田先生の住居の他に指導員宿泊室\nが二室、トレーニングルーム、シャワー室、トイレ等を\n新設した。私は鈴木旅館を引き払い武道館二階に新設さ\nれた指導員宿泊室に入った。\n港にはベロ・ペーゾという野外市場があり、食べ物か\nら日用品、怪しげなものまで何でも売っていた。ある日\n散策していると市場の奥で小さな猿が私の目にとまりす\nぐに気に入った。シャツの胸ポケットに入ってしまう位\nの小さな焦げ茶色の猿で道場生の人気者となり、一人暮\nらしの私の心も和ませてくれた。外に出るときは肩にの\nせたりポケットにいれたりして可愛がっていたが、素人\nの私には飼育は難しく、いつのまにか逃げてしまった。\n稽古仲間\n一九八二年一二月、車田指導員が帰国した後、練習生\nへの指導は町田先生、伊井、カルロスの三人でシフトを\n組んで行っていた。カルロスは年齢三〇代中頃、身長\n一八〇㎝くらい、褐色の肌をもち、がっちりした体格で\n空手道の指導を職業としていた。\n私がベレン支部に赴任し、指導を開始したころ、私と\nカルロスはコミュニケーションがうまくとれていなかっ\nたが、ある日の稽古をきっかけに心を通わせることが出\n来るようになった。その日の夕方は、練習生が多く、カ\nルロスが担当するレッスンに私が補助でつき、練習生と\n一緒に私も汗を流していた。当時、道場は多くの練習生\nや見学者で活況であった。増築前の道場は一レッスンに\n練習生が三〇人も来ると道場は一杯で全員揃っての移\n動、基本などは隣と接触しないように気を使っていた。\n稽古の後半に二人ずつ向かい合い自由組手が始まり、\n何順目かに私とカルロスが向かい合い拳を合わせること\nとなった。カルロスは馬力があり組手稽古で向かい合う\nと、その力強い技に押し込まれることも多々あった。前\n任者の車田指導員は五本組手でカルロスの前蹴りを受け\n損ない右手を骨折したこともあり、基本稽古でも油断は\n出来なかった。\n自由組手が始まって暫くは互いに様子をみながら技を\n出していたが、カルロスが背後の練習生に気をとられた\n瞬間、私の上段回し蹴りが彼の左側頭部をとらえた。彼\n国士、海を渡りて\n159\nの形相が変わり次の瞬間、右の肘打ちを私の頭部に打ち\n込んできた。私は蹴り技を繰り出した後、連続した逆突\nきでカルロスの懐に入っており、カルロスの肘打ちは技\nがつまり肘の先端ではなく小手の部分が私の頭部に当\nたった。続けて左の肘打ちが打ち込まれてきたので体を\n相手にあずけてかわし、そのままつかみ合いとなり、も\nつれて互いに倒れこんでしまった。互いに起き上がった\nが、回りの練習生たちは指導員同士の組手に注目し、動\nきを止めてしまっていたのでカルロスは組手稽古を終わ\nらせ、整列させ稽古を終了させた。\nその日、練習生が全員帰り、着替えをしている時、カ\nルロスが私に話しかけてきた。稽古中に蹴り技を頭部に\n受け冷静さを失ってしまったことを反省していると、私\nに打ち明けてきたのだ。ポルトガル語が不十分な私に理\n解出来るようにゆっくりと話すカルロスの態度に誠意を\n感じ、この時から私とカルロスは互いに信頼関係を築け\nたと思っている。\n肘打ちという技は現在の空手道の試合では有効技とし\nては認められず、普段の稽古においてもコントロールが\n難しく危険な技であるため型稽古以外で使うことは少な\nい。しかし、反射的にこの様な技を繰り出してくるとい\nうのは、空手道をより実戦的にとらえ稽古のなかで身に\n1983 年4 月 ベレン支部武道館増築後の空手道大会(左手前よりカルロス指導員、筆者)\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n160\nつけてきていることの現れである。世界的に競技として\nの空手道が広まる中、この地では武術としての空手道が\n根強く息づいていることを強く感じた。\n巻き藁一〇〇〇本突きを始めたのもこの頃である。拳\n頭の皮が破れ、拳に手拭いを巻いて巻き藁を叩き続けた\nのも、地力を高める必要性を教えてくれた稽古仲間のカ\nルロスがいたからである。\n銃社会\nブラジルでは条件を満たせば国民は銃を携行所持でき\nるということは聞いていたが、それがどのような社会を\n意味するかまでは全く実感としては捉えていなかった。\nベレンに着任して間もない一九八二年八月頃、指導を\n終え剣道師範の山科守先生と日本食レストラン「博多」\nで夕食をともにしていた時のことである。店の奥にある\nカウンター席で山科先生とビールを飲んで雑談をしてい\nると、入口近くのテーブル席にいたグループが口論を始\nめた。大きな声を出していたので注目していたところ、\n一人の男が店の外に出て暫くすると何かを振りかざして\n戻ってきたのである。そのグループから悲鳴が聞こえる\nと同時に店内にいた客の殆どはテーブルの下や調理場へ\n姿を隠し、山科先生と私だけがカウンターに腰掛けてい\nた。\n私は何か考えがあって逃げなかったのではなく、入口\nのほうで何が起こっているのか理解出来ていなかったの\nである。しかし、一緒にいた山科先生は何が起きている\nか理解しており、私に男が銃を持っていると教えてくれ\nた。それでも私は動こうとしなかった。横にいた山科先\n生がまったく落ち着いた様子で椅子に座っていたからで\nある。男は銃を持ち怒鳴り続けていたが、おもむろに山\n科先生は立ち上がって平然とその男の前へ進み出た。何\nか話している様子であったが、暫くすると男は銃を下に\n向け入口から出て行った。\nただ唖然として眺めていた私は戻ってきた先生に「大\n丈夫ですか?」と尋ねると、「ん、本気で撃とうとする\n者はあんなに銃を振りかざしたりしないものだよ、脅し\nで振り回していただけだ」と事も無げに言われたのだっ\nた。先生のとった行動の是非はともかく、銃をもった相\n手に素手で向かい合い、事を片付けてしまった先生のそ\nの胆力には驚かされた。\nこの後、いろいろなところで銃社会の現実と向き合う\nこととなる。ベレンからサンパウロへ勤務が異動した後\nに、サンパウロ支部武道体育館で合宿を行った際、食堂\n国士、海を渡りて\n161\nでミーティングをしていた時に何の弾みか銃の話題とな\nり、参加者各自の車や合宿バッグから銃が集まり、食堂\nの机の上に一〇丁位の銃が並んだ時には、市民が普通に\n銃を携行している事に正直驚かされた。\nまた、郊外の国道を車で移動していた時、前を走って\nいた友人の車が行きずりの車に抜かれたのをきっかけに\n抜きあいが始まり、相手の車が前に出たところで路肩に\n止まれと合図をしてきたようで友人も路肩に停車した。\n私も何か嫌な予感がしたが仕方なく後方に停車して様子\nを伺うと、相手側の車から銃を持った男が降りてきて車\nの窓越しに友人の頭に銃を突きつけた。時間にして数分\nだと思うが友人は無抵抗でやり過ごし、運よく何事も無\nく相手の車は走り去ったという出来事があった。\nさらに、サンパウロのリベルダーデという日本人街に\nあるブラジル日本文化福祉協会ビルの角にある公衆電話\nで通話をしているときに、背後からいきなり二人組に脇\n腹に銃を突きつけられた事があった。ホールドアップで\n銃を突きつけたまま背後からGパン後ろポケットの財布\nを抜き取り走り去って行った。ブラジルの公衆電話は頭\nが隠れる程度の笠のようなものがあるだけで、通話に集\n中していると体が無防備になる。この出来事以降、外出先\nでは路上の公衆電話を使うことはなくなった。人の家を\n訪ねるときは遠くから手を叩いて近づく合図をする、い\nきなり近づくと発砲される危険があるからだ。ブラジル\nではお互いが銃を所持している可能性があるため、日頃\nからの危機管理意識は日本にいる頃とは全く異なった。\nブラジルの国技サッカー\n私がベレンに赴任した一九八二年はサッカーワールド\nカップ・スペイン大会(イタリア優勝)の年で私が着任\nする四日まえに開催されたばかりでブラジル国内はまさ\nにサッカー一色。街中の道路、壁にはブラジル国旗が描\nかれ、家の周りや電線には紙製の国旗が飾られ、ブラジ\nルを鼓舞する音楽がどの街角からも流れていた。ブラジ\nルの試合がある日は誰もがテレビ観戦するため商店、会\n社、役所までも開店休業状態で、街頭には人が全くいな\nくなる。ブラジルが試合に勝つと街全体がカーニバル状\n態となり大きなブラジル国旗を振り回す車と音楽が街中\nにあふれ、夜半まで騒ぎ通しとなる。\nこの大会で優勝したイタリアチームとブラジルが対戦\nした日、私はテレビもラジオもないアパートで、近所か\nら聞こえてくる実況放送を聴きながら窓の外を眺めてい\nた。実況放送で流れてくるポルトガル語の内容は理解出\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n162\n来なかったが、ブラジルに点が入ると街中に歓声が湧き\n起こると同時に花火と爆竹が鳴り響き、逆に点を取られ\nると彼方此方から大きな悲鳴と叫び声が聞こえるので実\n況の内容は分からなくても点数だけは分かった。この\nワールドカップでのブラジル代表は、後に日本でも活躍\nしたジーコをはじめ歴代最高のチームと呼ばれていた\nが、このイタリア戦で敗れてしまった。\nカランゲージョとタカカ\n武道館前のバス通りをはさんだ真向かいにはレストラ\nンがあり稽古の後に生徒たちがビールを飲んでいた。誘\nわれることもあったが仕事場である武道館の真ん前で酔\nう気にはなれず一、二杯付き合う程度にしていた。\n休日の昼はセルピーニャ(ビール)を飲みながらカラ\nンゲージョ(泥カニ)を食べるのが楽しみであった。日\n本で食べる淡白な蟹と違い独特な味わいがある。私はヘ\nイ・ド・カランゲージョ(カニの王様)という店が好き\nで通っていた。作家の開高健さんもその著作「オーパ!」\nで紹介しているカニの専門店である。\n店内には古ぼけた作業台のような四人掛けの木製机が\n並んでおり、注文すると茹でた熱々のカランゲージョが\n丸ごと机の上に無造作に盛られ、木の棒を使い直接机の\n上で殻を叩き割り指や歯を使ってかぶりつくのである。\nビザの切替えで日本に帰国する晩、空港へ行く前に山\n科先生の家でカランゲージョを食べることになり、市場\nで買ってからタクシーで先生の家へ戻る途中で、カラン\nゲージョを結んであった紐が切れて二〇匹くらいの元気\nなカランゲージョがタクシーの中で逃げ出し、車の中で\nあっちこっち挟まれながらカランゲージョを追いかけた\nのは懐かしい思い出である。\nタカカとは街角の屋台で売られているインディオから\n伝わる伝統料理である。\n街角でよくみかけていたが、屋台で売られている変\nわった食べものだったのでなかなか手をだせなったが、\nある日思いきって注文してみた。\nマンジオッカという芋を絞ったトゥクピーという黄色\nい汁にゴマという同じくマンジョーカで作ったドロっと\nした澱粉を入れ、噛むと口の中が痺れるジャンブーいう\n葉っぱと干しエビを加えたスープのような食べ物。木の\n実をくり抜いて作ったお椀のような容器に入れてすすり\nながら食べる。好みでピ メタ・ド・シェイロという香辛\n料を加える。最後に何か調味料を入れていたので瓶を見\nたら「AJINOMOTO」と書いてあったので思わず笑っ\n国士、海を渡りて\n163\nた。しかし、この食べ物がやたらと後を引き、食べたく\nなると屋台の夜鳴きラーメンを探すように街に出たこと\nもあった。多分、痺れる葉っぱや香辛料に習慣性がある\nのではないかと思う。\nマラジョー島\n武道館の増築工事はサンパウロ武道体育館と同じ戸田\n建設が請負っており、サンパウロから来た日系建築士の\nSさんが担当していた。ある日、仲良くしていたSさん\nとアマゾン川のみえるレストランでランチをしていた\n時、河のはるか向こうにかすかに岸が見えており話に聞\nいたマラジョー島かと思い、「さすがにアマゾン川は大\nきいな」といったところ、あの岸はアマゾン川河口の中\n洲に位置するマラジョー島との間にある多くの小島の一\nつだと教えてもらい、アマゾンの大きさに驚くと同時\nに、マラジョー島に大きな興味を抱いた。アマゾン川の\n河口幅は最大三六〇㎞といわれ、マラジョー島はその中\n州にある島で面積は九州より広く、日本人の感覚からは\n桁違いの規模である。\nその後、休暇をとってSさんとマラジョー島へ遊びに\n行くことになった。出航当日、港のフェリー乗り場は多\nくの人でごった返しており、出航時間が過ぎてもなかな\nか出航しない。どうみても満員なのに乗船は続いてお\nり、定員数以上の切符を販売しているようだった。前の\n年、アマゾン川で観光フェリーが定員を超過して出航し\n途中沈没して二〇〇人以上が肉食魚の餌食になった\nニュースが頭をかすめた。船内は押すな押すなの大混雑\nで、しまいにフェリー二階のデッキから一人足を踏み外\nして転落し運び出される騒ぎが起きたりしたが、なんと\nか遅れて出航、三時間くらいでマラジョー島へ着いた。\nSさんの発案で、私たちはホテルには入らず奥地の民\n家に泊めてもらうことにしていた。土で造られた本当に\nシンプルな民家だったが本当のマラジョーを感じること\nが出来たと思う。ベッドはなくハンモックを吊るして寝\nたが、蚊が多いのにはまいった。\n朝は家の人達と一緒に朝食をとり、その後ゆっくりと\n島を回った。民家の近くにはマンゴーの樹がいっぱい\nで、あたり一面に実を落としており、採る人もいないの\nか、野豚があちこちで実を食べていた。昼間は農場へ行\nきバッファローや馬に乗ったりして過ごした。夕方、宿\n泊した民家の裏の野原に出て仰向けに寝そべり夜空を見\n上げた時、辺り一面人工の明かりが全く無く、広がる草\n原の地平線から星が上がってくる満天の星空は、今でも\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n164\n脳裏に焼きつき忘れることが出来ない。\nサンパウロへ\nベレンでの生活も徐々に慣れてきた頃、一九八二年七\n月二五日のサンパウロ支部武道体育館落成式で日本から\nの国士舘訪問団(第六次)と合流するように指示を受\nけ、ベレンからサンパウロへ向かった。サンパウロ到着\n後、一旦サンパウロ武道体育館のあるサンパウロ支部に\n着任した。\nサンパウロ支部は国士舘が現地に設置したブラジル国\n士舘大学協会(SOCIEDADE KOKUSHIKAN DAIGAKU\nDO BRASIL 一九八〇年四月二九日ブラジル国\n認可)を実体とする組織であり、柳森優理事長、サムエ\nル吉田理事(弁護士)、佐々木康之理事の責任体制で運\n営管理されていた。\nその後、サンパウロ市内で柴田梵天総長を団長とする\n国士舘訪問団と合流し、私はとりあえずリベルダーデ区\nの日本人街にある万里ホテルに宿泊した。このとき、空\n手道チームと久々の再会をし、その時にCEPEUSP で\n空手道を指導している佐々木康之先生に初めて紹介され\nた。\n佐々木先生は、支部の設立から運営にご協力頂いた先\n生であり、私にとってはブラジル赴任生活を通じ公私と\nもに最も関係の深い友人となった。佐々木先生は幼いこ\nろに両親と共にブラジルへ渡り、日本人指導者から空手\n道を学び、USP卒業後、USP体育教官として就職し\nている。空手道の流派林立する中、ベレンの町田先生と\n共にブラジルでの松濤館流代表者として国士舘のブラジ\nルでの活動を支えて頂いた。先生は細身の体ながら力強\nい技を持ち現役時代はプロレスラーとの他流試合で勝利\nするなど実戦派の猛者として知られた。\n国士舘訪問団はサンパウロでの武道体育館落成式を終\nえた後、ブラジリアを経由してベレンへ回り演武会、大\n会を開催した後に日本へ帰国した。私は国士舘訪問団と\n共に行動し、ベレン空港で見送った後、ベレン支部の道\n場で足かけ一年半の空手道指導後、後任の空手道指導員\n飯田隆男と交代しサンパウロへ移動することとなる。\nこの年一九八三年七月に日本の国士舘で当時の理事が\n学内で刺殺されるという大事件が起きた。この事件を機\nに国士舘は学園の運営体制が変わり、海外事業も見直さ\nれ徐々に縮小されていく事になる。\n一九八三年一二月、私はベレン支部からサンパウロ支\n部へ異動。支部内の職員用宿泊施設D1に入り、支部の\n国士、海を渡りて\n165\n運営・管理業務に当たった。この当時、支部では須藤磐\n主事のもと、長谷矗、神戸洋一、相田勉、三嶋邦裕、川\n口雄大、小原政信、そして私が、時期は前後しながら日\n本から赴任し支部に常駐勤務していた。後に倉田幹雄が\n現地で専任職員として採用され加わった。三島邦裕は後\nに、サンパウロを離れポルトアレグレ市へ剣道指導員と\nして派遣されている。川口雄大も後にベレン支部へ空手\n道指導員として派遣された。\nサンパウロ市内では右田重昭、鳥飼利行、岩崎雅仁が\nUSPと剣道連盟等で剣道指導、中野雅之がUSPと柔\n道連盟等で柔道指導、細田三二、五百部浩一がUSPほ\nかサッカークラブ等でサッカー研修、三雲千賀子、山口\n慶司がUSPで新体操指導、上地康夫はバルゼン・グラ\nンデ・パウリスタ市の日本語学校で剣道指導というよう\nに活動しており、当初、月に一度くらいサンパウロ支部\n武道体育館に集まり支部会を開いていた。それ以外に峯\n経治、鈴木輝一、苫米地示路、櫻田博、鷹取寛行、本藤\n直浩、薬師寺幸、野村加奈子がそれぞれジャカレイ日本\n語学校、松下サンジョゼ補習校、クリチーバ日本語教室\n等へ日本語教師として赴任していた。\nサンパウロ支部全景\n(右上方に武道体育館とA池、右中央にB地区宿泊施設とB池、左上方にC・D地区を望む)\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n166\nサンパウロ支部\nサンパウロ支部はサンパウロ市の中心からラッポー\nゾ・タバレス街道へ入り、四五㎞地点のバルゼン・グラ\nンデ・パウリスタ市を左折し、バンデイランテス街道へ\n入り、三㎞進んだ四八㎞地点のバス停を右折し、舗装さ\nれていないカルモ街道を五㎞ほど進んだ回りを農場や別\n荘地に囲まれた場所にあった。道が空いていればサンパ\nウロの中心から車で一時間半くらいの距離であろうか。\nカルモ街道は舗装されていない土道で雨が降るとぬか\nるみ、車の通行は困難を極めることとなり支部を運営し\nていた全期間にわたり大きな障害となった。雨が降ると\n途中の小川が氾濫し、一時車の通行が出来なくなった\nり、途中の坂道がぬかるみで普通の車では通行出来なく\nなることもあり、そのような時は陸の孤島のような状態\nとなる。\nサンパウロ支部の所在地はサンパウロ州サンロッケ市\nカルモ区イタコロミー農場五番で土地面積は\n五九万一三四三㎡、敷地内は四地区に分かれておりAB\nCD地区と呼び管理していた。\nカルモ街道沿いに正門があり武道体育館まで一本の道\nが敷地内を貫いていた。正門を入ると最初に広々とした\n芝生の広がるD地区、下り坂を下りきると左手にシュラ\nスコ施設や遊戯施設がある。D地区を過ぎるとC地区に\n入り左手にC池、右手に丘、さらに進むと左手にB池が\nあるB地区、突き当たりを左折して少し上り坂を上がる\nとA地区で、左右に丘が広がり、武道体育館前で道は行\nき止まりとなり、武道体育館裏手にはA池が佇んでい\nた。\nD地区には支部職員用住居D1があり一階建ての4L\nDKで柴田総長用の部屋、来客用の部屋、須藤磐主事の\n部屋、支部職員用の部屋と大きな居間があった。外には\nプールがあり広々とした芝生の庭が広がっており前の所\n有者が別荘として建てたものであった。\nC地区にはC池と道を挟んだ向い側に日本から来た支\n部職員のための宿泊施設C1と食堂が作られ、日本から\n派遣されて来る支部職員と現地採用の日本人料理人が住\nみ込んだ。C1の裏手には一〇本以上の柿の木が茂って\nいた。\nB地区には合宿用宿泊施設に改築した宿舎B1があ\nり、支部施設を使った合宿利用時の宿泊所となった。四\n部屋に二段ベッドが合計一二台備え付けられ二四人が宿\n泊出来、シャワー室・トイレ・食堂・台所があった。B\n国士、海を渡りて\n167\n地区には他にも二段ベットだけを設備した宿泊所B3が\nあり三〇名の宿泊が出来た。B1の裏手を上がって行く\nと日系人の使用人ネルソンと家族が住む住居があった。\n専任料理人が住込みで雇われるまで支部職員は使用人ネ\nルソンの妻に内々の契約で昼食と夕食を作ってもらいネ\nルソンの家で食事をしていた。\nA地区には武道体育館と体育館裏手に支部職員用住居\nA1があった。A1は3LDKで、各支部職員が入れ替\nわりで宿泊した。\n使用人\n支部には地区ごとに使用人家族が四家族住んでおり、\n芝生・道路整備・建物の補修等の作業を行っていた。使\n用人達は陽が昇る前には自宅の鶏や畑の世話をして、七\n時ころには作業に入っていた。午前中に一回休憩をと\nり、昼休みは昼食前に池で釣りなどをして昼食を入れて\n二時間くらい休憩する。午後の作業が終わると釣りをし\nたり狩りに出かけたりして、夕食後暗くなると寝るとい\nう太陽の動きに合わせた生活をしている。\nこの地域にはいろいろな動物が棲息し、支部敷地内を\n出入りしており、ときどき使用人たちは仕事が終わると\n狩りに出かけていた。使用人たちは年に数回、休日を\n使ってカピバラを狩りに出る。子豚くらいの大きさでネ\nズミ科に属するという。彼らにとっての狩りは商売目的\nではなく生活の一部となっており、食用は勿論、毛皮の\n利用から煮込んで摂った油は特効薬として家で保存さ\nれ、塗り薬、飲み薬として重宝される。一度、使用人頭\nマニエルの家の前で大きな鍋でカピバラを煮込んでいる\nところを見た事がある。大体このカピバラの油で作った\n薬で何でも治してしまうようで、彼らは滅多なことでは\n医者に行かない。\nしかしある時、マニエルが具合が悪く医者に行きたい\nので車を出して欲しいという。連れて行った先は普通の\n民家で、表で車を停めて待っていると三〇分位して出て\nきたが、体中から異様な臭いがしており、どうやら卵と\n何かを混ぜたものを背中に塗られお祈りを受けたよう\nで、一週間体を洗ってはいけないという。その後、一週\n間くらいで体は治ったようで有難がっていたが、私には\n自然治癒しただけのように思えた。\nそんな彼らと蛙を狩りに行ったことがある。C地区と\nB地区の境に小さな沼地があり夕方近くを通るといつも\n蛙の啼き声が聞こえる。ある時マニエルがその蛙はハン\nという食用蛙だと教えてくれた。そこである晩、マニエ\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n168\nルを誘ってハンを狩りに出かけることにした。竹で作っ\nた小さな銛のような道具と懐中電灯を持ち、暗くなって\nから沼地に入るといつもの啼き声が聞えてくる。マニエ\nルは懐中電灯をパッと蛙に照らすと目眩しの効果か一瞬\nうごかなくなり、その瞬間に銛で一突きである。何匹が\n獲りマニエルが慣れた手つきでさばき、皮を剥ぎ粉をま\nぶし、油で素揚げにしてくれた。そのみてくれとは正反\n対にフランスでの高級料理のような上品な食感と味で絶\n品であった。\nサンパウロ支部での指導業務\n翌年の一九八四(昭和五九)年にサンパウロ学生会\n(一九四九年社団法人としてブラジル政府認可)の運営\nするアルモニア学園から空手道の指導依頼が寄せられ、\n週二回サンパウロのサンベルナルド・ド・カンポ市にあ\nる同学園へ指導に行く事となった。\nこの頃、支部では少しでも採算性を上げるため支部施\n設の有効活用を最優先課題として検討を重ね、外部の団\n体に施設を貸し出し施設使用料として収益を上げる事\nと、武道体育館で空手道・剣道を指導し月謝を徴収する\n事などを実施した。生徒は主に地元バルゼン・グラン\nデ・パウリスタ市の住民で、約八㎞の道程を週三回通っ\nてきてくれた。支部での空手道と剣道の指導はその後、\n指導職員が日本へ転勤帰国するまで一〇年以上続いた。\nその間、日本から四人の空手道師範を講師として招き、\n全伯から参加者を募り、支部内宿泊施設と武道体育館を\n使い、支部主催の空手道講習会及び空手道大会を四回開\n催した。剣道も同様の講習会・大会を開催している。\n支部の活性化と少しでも収益を上げるため、ベレン支\n部の施設売却益をサンパウロ支部へ再投資し武道体育館\n二階にトレーニング機器を導入してウエイトトレーニン\nグ、ボディビル、エアロビクス等を合わせた教室を開始\nし、サンパウロでジムに通い指導教本を取り寄せ、見様\n見真似で指導に取り組んだ。また、武道体育館にあった\nレクレーション用具のバドミントンセットをヒントに数\n組のバドミントンラケットを購入し、武道体育館にあっ\nたバレーボールネットを使ってエアロビクスに来ていた\n空手道生徒の親たちに遊びでやってもらったところ評判\nが伝わり人気となったことから、正式にバドミントンク\nラブとして発足させ月謝制とした。正規規格のバドミン\nトンポールとネットを特注で作り、サンパウロのCPB\nというバドミントンクラブに入会し指導を受け、その内\n容を受け売りで、そのまま支部で指導した。国士舘バド\n国士、海を渡りて\n169\nミントンクラブとして連盟に登録し、最盛期には会員数\nも四〇名を数え、武道体育館いっぱいに四面の正規コー\nトを作り、選手からは後にサンパウロのクラブに移籍\n後、ブラジル選手権で優勝する選手まで輩出した。連盟\n公認の年間バドミントントーナメントに国士舘カップが\n加わり、支部武道体育館にサンパウロ州各市からの代表\nクラブを迎え開催するまでになった。\nこのバドミントンを通じて一人のブラジル人Y氏か\nら、私は大きな影響を受けることとなった。Y氏は医師\nを職業とし、CPBというバドミントンクラブの役員で\nあり、私が支部でバドミントンクラブを開設する為にC\nPBに入会し練習を重ねていた時、バドミントンの技術\nからクラブの運営方法にいたるまで親身に指導してくれ\nた友人であった。支部バドミントンクラブの設立から二\n年くらい経ち、会員数も毎月三〇人~四〇人前後で推移\nするようになりクラブの運営も軌道に乗っていたある\n日、私はY氏にこれまでの協力に謝意を表すと同時にお\n礼をしたいと申し出た。この時Y氏は、感謝の気持ちは\n私にではなく他の人や社会に向けてくださいとお礼の申\nし出を辞退された。誰かから受けた恩を直接その人に返\nすのではなく別の人、社会に送るというY氏の考え方に\n私は静かな感動を覚えた。この日以来、今日に至るま\n1984 年9 月9 日 第1 回国士舘大学サンパウロ支部空手道大会\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n170\nで、このY氏の教えは私の課題となっている。\n本場のシュラスコ\nアルゼンチンのエルドラード市で南米親善バドミント\nン大会があり、国士舘からも数人ブラジル代表で選ばれ\nており、国士舘バドミントンクラブの仲間達と一緒に連\n盟のツアーに参加したことがあった。大会最終日には\nシュラスコパーティーがあり大いに盛り上がった。\nブラジル同様牛肉生産では世界的に有名なアルゼンチ\nン、その食べ方も豪快である。その日は朝からシュラス\nコパーティーの準備で焼き場周辺は大忙しであった。直\n径三~四㎝、長さ一五〇㎝位の生木の枝が一〇〇本以上\n用意され、女性たちがナイフで枝の皮を削いでいる。焼\nき場付近には五メートル四方くらいのビニールシートが\n敷かれており、そこへ荷台に牛肉を積んだトラックが\n入ってくると、荷台が上がりシートの上にザーと肉が下\nろされた。その量たるや何百キロ?見当もつかない。そ\nの肉を朝から用意した木の枝で串刺しにする。焼き場は\nレンガ造りの高さ八〇㎝位、幅は一五〇㎝位の串刺しが\nセットできる幅で二列あり、長さは二〇mくらいという\n規模で既に炭が敷いてあった。\nシュラスコパーティーの準備を手伝う筆者\n国士、海を渡りて\n171\n男たちが炭火を調整し始め、辺りに煙が立ち込めてく\nると串刺しの肉がセットされ、焼き場いっぱい肉で埋め\n尽くされた眺めはまさに壮観であった。その後、焼き上\nがった肉は会場へ運ばれビールと共に平らげられてし\nまった。南米での焼肉はしっかりした歯ごたえと岩塩だ\nけの味付けという豪快さが持ち味である。戦績はさてお\nき、シュラスコパーティーと共に忘れられない南米大会\nであった。\n永住権\n渡伯後何年目だったか、私のビザは三か月を更新して\n六か月の滞在が認められる観光ビザから、一年を更新し\nて二年間滞在できるテンポラリビザへと変わっていた。\n当初から心の内では永住覚悟の赴任だったので永住権\n取得関連の情報収集には気を配っていた。\n何回目かのテンポラリビザ更新のとき、いつも手続き\nをしてくれる弁護士が「今年は不法滞在者に永住ビザを\n出す年だ」という。ブラジルでは正規の入国手続きを経\nずに密入国した不法滞在者が多く、パスポートもIDも\n無く正規の職に就く事も出来ずに地下に潜り犯罪社会を\n構成している。政府はこのような不法滞在者に対し一〇\n年に一度、永住ビザを発給して基本的権利を与え正規の\n職に就かせ、犯罪社会を少しでも減らそうとしている。\n今年はその年だから、ビザの更新期限が来ても更新手\n続きをせずに不法滞在者になれば永住ビザを貰えるはず\nという。さすがに考えてしまった。日本の国士舘にこん\nな説明は通りそうもない。結局正規の更新手続きをし、\n並行して永住ビザの申請もした。案の定、数か月後に不\n法滞在者に対し永住ビザが発給される事となった。私も\n弁護士を通じて申請を出すと、法務局から「あなたは不\n法滞在者ではなく正規の更新手続きをしているので出せ\nない」という。この国での生き方をまた一つ勉強した。\n小学校入学\nベレン支部でもそうだったが、サンパウロ支部でも生\n徒は殆んどブラジル人で日本語は通じないので、拙いポ\nルトガル語を駆使して指導していた。しかし自己流では\n限界を感じ始めていた頃、支部主催の空手道大会を開催\nした際に地元バルゼン・グランデ・パウリスタ市の市議\n会議員で地元小学校校長の村山シゲアキ氏を招待したこ\nとから村山校長と親しくなり、ある時小学校を訪ね入学\nを願い出た。村山校長は驚かれたが快く許可を出してく\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n172\nださり、その後何かと支援していただいた。業務の合間\nを縫って通学し何とかお情けで小学校卒業資格を取得し\nた。更に上級学校へ進みたいと相談したところサンパウ\nロ市にある、日本でいえば中学校にあたる学校の速成\nコースを紹介していただき紹介状を書いてくれた。アル\nモニア学園に空手道指導に赴く前後や、その他何かと都\n合をつけて学校に通い、何とかコースを修了する事が出\n来た。おかげでポルトガル語をはじめブラジルの、歴\n史、社会、科学、その他の基礎的な学習をする事が出来\nた事は勿論であるが、小さな子供たちに冷やかされ、か\nらかわれ冷や汗をかきながら勉強したことは忘れられな\nい思い出である。\nブラジル空手道事情\nブラジルの空手道は、日本から渡った各流派所属の日\n本人指導員によって広められ、日本人指導員主導の各流\n派団体組織が作られてきた。しかし、一九七〇年代後半\nから日本人に学んだブラジル人の弟子たちが独立して各\n組織の主導権を持つようになり、唯一政府から認められ\nる公式の組織も弟子であったブラジル人空手家が主導権\nを持つこととなる。\n日本で生まれた空手道が世界で広まり、それぞれの国\nで組織が成熟する過程において、現地の弟子たちへバト\nンが引き継がれていく段階で既得権益を失うこととなる\n日本人指導者と、新たに権益を得ることとなる現地人指\n導者との間に、しばしば確執が生まれることとなる。同\n様の流れは一九八〇年代のブラジルでも顕在化してい\nた。また別の問題として、空手道が普及するにつれて起\nこる空手道のスポーツ化に対し、一部の日本人指導者た\nちは伝統的空手道の存続をはかり、独自の思想・技術体\n系に則った組織作りも行っていった。\nそのような事情のなか、国士舘はスポーツと伝統武道\nの両面を重視した人格陶冶に結びつく空手道を模索する\nこととなる。\nブラジルの経済と生活\n私が赴任した一九八二年当時、ブラジルは国際社会に\n対し債務返済が不能となりモラトリアムを発表し、その\n後IMFによる国家経済への介入、国際銀行団との債務\n返済繰り延べ交渉と国中が混乱し、マラリア熱に侵され\nたようにインフレ熱に侵されていた。一九九〇(平成\n二) 年には年間インフレ率は生活必需品では年間\n国士、海を渡りて\n173\n五〇〇〇%を超えていたといわれ、国民生活は限界に達\nしていたように思われた。政府の発表する公式インフレ\n率はデタラメで、国は国民の信頼を失い、スーパーマー\nケットでは毎日のように価格が書き換えられ、映画館の\n料金が午前と午後に値上がりして書き換えられた時には\n最早これまでかと思った。\n現金を持っていると価値が下落して、指の間から現金\nが落ちて無くなっていくように感じられ、こうなると現\n金を持ち歩くものはいなくなり何を買うにも小切手を使\nうようになる。銀行口座を常に運用し、振り出した小切\n手の支払日にその金額だけ運用口座から普通口座に入れ\nるという忙しい毎日である。それでも通貨の目減りが激\nしく、銀行で運用したり、闇ドルや中古車市場、その他\n庶民で出来る運用では、全てインフレの数字に勝てるも\nのはなかった。\nそのような状態の中、一九九〇年三月一五日、政府は\n突然一定額以上の銀行預金凍結を発表したのである。青\n天の霹靂とはまさにこのことで、国中が混乱の極みに達\nしたことはいうまでもない。\n数年後に凍結が解除された時、政策の失敗によりハイ\nパーインフレーションが続き、預金者の手元に返された\n預金額は、実際のインフレ率とはかけ離れた政府発表の\n公式インフレ率を基にして利子が計算されており、中間\n層の多くは財産を失い、企業倒産と多くの失業者を生み\n出す結果となった。\nマチュピチュ\n一九八三年一二月の末、リベルダーデ区の日本人街に\n出かけた帰り、万里ホテルへ寄りいつものようにマネー\nジャーの千葉さんと世間話をしていた。万里ホテルは国\n士舘訪問団で団体利用して以来馴染みにしており、リベ\nルダーデにきた時にはレストランやロビーを利用してい\nた。\nソファに座り何気なく壁の南米地図を眺めていると目\nに止まったのがペルーのマチュピチュである。以前から\n興味を持っていたところでもあり、せっかく南米に来て\nいるのだから足を伸ばそうという気が湧いてきた。\n翌日から情報を集め、一二月三一日の朝には旅行カバ\nンを背にブラジル内陸への基点となるルース駅の前に\n立っていた。何時間列車に揺られたのかはっきりとは憶\nえていないが、途中列車が故障しトレースラゴーアスと\nいう駅で止まったまま動かなくなり、三時間くらいした\nらとうとう列車から降ろされてしまった。この先のカン\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n174\nポグランデという駅までバスを用意するので乗ってくれ\nという。カンポグランデといえば小野田寛郎さんが牧場\nを開いたことで聞いたことのある地名である。\n南半球の一二月は夏で、特にこの日は暑かった。全員\nエアコンも付いていないオンボロバスに乗り込み舗装さ\nれていない土道をカンポグランデへ向かった。\n五台のバスが連なって走り土煙で前のバスがかすんで\n見える。あまりの暑さに窓を開けると土煙で体中砂だら\nけになった。\nこの辺りは見渡す限りの大草原で延々と景色は変わら\nない。三時間くらい走りカンポグランデに着くと列車が\n待っており、直ぐに乗り込みボリビアとの国境に向かっ\nた。既に夜になり辺りは真っ暗だったが湿地帯を走って\nいるのは分かった。ブラジルとボリビアとにまたがる世\n界最大の湿原地帯といわれているパンタナールである。\nいつまで走っても湿原で景色は全く変わらなく、いつ\nの間にか眠っていると突然列車が止まり汽笛を上げた。\n車掌が「feliz ano novo(happy new year)」と声を上\nげながらワインと紙コップを持って車両を回って振舞っ\nている。気さくなブラジル人は車内でワイワイと楽しん\nでおり、私も乾杯を受けいつの間にか身振り手振りで輪\nのなかで仲間に加わっていた。\n1984 年1 月 マチュピチュにて\n国士、海を渡りて\n175\n翌朝、終点のコルンバに着きタクシーで国境に向かっ\nたが何処が国境か分からない。運転手が、ここが国境だ\nという素振りなので降りると、辺りには草むらの平原と\n平屋建ての建物が数軒あった。そこがホテルのようで、\n私がパスポートを見せるとハンコをおしてくれた。これ\nで出入国手続きは完了?…。\nこの後、ボリビアのサンタクルスからラパスを経てア\nンデスのチチカカ湖をバスで周りペルーのプーノからク\nスコに着き、列車でマチュピチュへ登りインカの遺跡に\n辿り着くまでに片道一週間の旅であった。この間、置引\nきにあったり、高山病に罹ったり、騙されたり、素晴ら\nしい出会いがあったり、と思い出の尽きない旅ではあっ\nたがとても本稿には収まりそうもなく割愛させていただ\nく。\nその後\n一九八〇年四月二九日、サンパウロ市に国士舘サンパ\nウロ支部が、同年六月三日、"}, {"subitem_textarea_value": "ベレン市に国士舘ベレン支\n部がそれぞれブラジル国から認可を受け発足、途中\n一九八六(昭和六一)年三月三一日の理事会決定による\nサンパウロ支部とベレン支部の統廃合によりベレン支部\nは閉鎖され、同支部資産は町田嘉三氏へ売却された。サ\nンパウロ支部資産を引き継ぐ組織として学校法人国士舘\nブラジル支部(FUNDACAO ESCOLAR KOKUSHIKAN)\nが同年三月一九日ブラジル国から認可を受け発\n足。その後、理事会によるブラジル支部閉鎖決定によ\nり、一九九七(平成九)年同支部資産はブラジル日本文\n化福祉協会へ寄贈された。最盛期の一九八三(昭和\n五八)年には、二九人の専任教職員を派遣した国士舘に\nよるブラジルへの海外事業はここに幕を閉じた。\nブラジル日本文化福祉協会に寄贈された旧学校法人国\n士舘ブラジル支部の広大な施設は、現在同協会により運\n営管理され、「国士舘大学スポーツセンター」としてブ\nラジル日系人社会の憩いの施設として活用されている。\n同協会ホームページに掲載されている同スポーツセン\nターの案内ページ(http://www.bunkyo.org.br/ja-JP/\ncentro-esportivo-kokushikan-daigaku-ja)〈アクセス:\n二〇一七年一月一三日〉を紹介し、本稿を閉じることと\nする。\nあとがき\n赴任生活の実態を紹介することで国士舘によるブラジ\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n176\nル海外事業の理解に繋がれば、との思いから国士舘史資\n料室の求めに応じ筆を執った。\n二〇代中頃から三〇代の終わりにかけた一三年間にわ\nたるブラジル赴任生活を振り返ってみると、仕事上のこ\nとは勿論、プライベートでも多くの出来事が思い起こさ\nれ、与えられたスペースにはとてもおさめることは出来\nなかった。\nこの間、中南米に民主化運動が巻き起こりブラジルの\n政治経済は、一九八五(昭和六〇)年三月に二一年間に\n及ぶ軍事政権の終焉、一九八七(昭和六二)年二月対外\n国債務金利支払停止、一九八九(昭和六四)年一一月大\n統領直接選挙、一九九〇年三月銀行預金凍結等、国民生\n活の大混乱が続き、五回におよぶ一〇〇〇分の一規模の\nデノミという経済金融台風が吹き荒れ、赴任生活も大変\n不安定なものとなった。\nしかし、ブラジルはそのような状況を乗り越え、今日\nBRICSを構成する大国となり、オリンピック・パラ\nリンピックを開催するまでになった。リオパラリンピッ\nクでの報道でブラジルの人々が「ブラジルではバリアフ\nリーのインフラ整備は不十分だから私たちがそれを補い\n助け合うんだ」という趣旨の発言が流れていた。\n日本の社会はインフラ整備に頼るだけではなく、ブラ\n国士舘大学スポーツセンター\n サンパウロ市から51 キロ西方面に位置するサンロッ\nケ観光指定都市にある国士館大学スポーツセンターは、\nブラジルと日本の交流のすばらしい光景をわたしたちに\n見せてくれる施設です。\n 日本の国士館大学によって設立されたスポーツセン\nターは、1997 年に文協に寄贈され、58 ヘクタールとい\nう広大な敷地の一部は、いまだに大西洋岸森林地帯に属\nする原生林で覆われています。自然に囲まれたスケール\nの大きな土地で多くの人たちが心地よい時間を過ごして\nいます。\n 主な建造物は武道各種の稽古場として建てられた体育館ですが、その他にも、マレットゴルフ用\nのホールやテニスコートが設営されています。この国士舘大学スポーツセンターを魅力的なものに\nするのはなんと言っても400 本の桜の木々です。美しく咲き誇る満開のサクラを愛でるためにサン\nパウロ州南部の日系諸団体と共催する7 月の桜祭りは、文協の主要行事の一つとなっています。桜\n祭りは毎年、1 万人を超える人たちで大変賑わいます。まだ一度も桜祭りに参加したことのない\n方、今年の桜祭りに是非お越しください!また大自然の中で癒されたい方も是非こちらまで足をお\n運びください。\n場所:Rodovia SP-250, km 48, São Roque-SP\n時間:月曜から土曜-9 時から17 時\n情報:(11)3208-1755 com Wilson ou patrimonio@bunkyo.org.br\nブラジル日本文化福祉協会ホームページより\n国士、海を渡りて\n177\nジルの人々のように人間性による社会づくりを模索する\n必要性があると思う。国士舘は武道・スポーツ・文化交\n流を目的としてブラジルへ渡ったが、外国人が日本の武\n道を通じて探し求める人間性は、ハイテク社会の発展と\n共に、実は日本人自体が失いかけているのかもしれな\nい。\n犯罪が多発する反面、庶民による相互扶助社会が根付\nくブラジル。赴任生活を通じて豊かな人間性に触れるこ\nとが出来た事は何にも代え難い経験だった。このような\n経験の機会を与えていただいた国士舘と諸先生方、そし\nてブラジルの人たちに感謝を申し上げ本稿のあとがきと\nしたい。\n本稿を書き上げるにあたり国士舘とブラジルの関係情\n報の調査にご協力頂いた国士舘史資料室と図書館・情報\nメディアセンターレファレンスの皆様方にお礼を申し上\nげます。\nそして最後に、ブラジル赴任中から今日に至るまで私\nを支えてくれた妻と息子にこの場を借りて感謝を伝えた\nいと思います。\nムイト オブリガード!"}]}, "item_10004_version_type_20": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.4 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
公開日 | 2017-05-27 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 国士、海を渡りて : 国士舘ブラジル支部の回想 | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | article | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 国士舘の思い出 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
伊井, 克己
× 伊井, 克己 |
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関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘百年史編纂委員会専門委員会 | |||||
姓名 | コクシカンヒャクネンシヘンサンイインカイセンモンイインカイ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘史資料室 | |||||
姓名 | コクシカンシシリョウシツ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
著作関係者詳細 | ||||||
法学部一一期生 | ||||||
書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 8, p. 149-177, 発行日 2017-03-10 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12479001 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40021153707 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.2136 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 901.4 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol8.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第8号(2016) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 |