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"硬式野球部OB職員として\n137\n二〇一七年国士舘大学は創立一〇〇周年記念日を迎え\nることとなり、すでに一年を切って記念行事が動き出し\nている。三五年前に野球部OB職員が今年リオ・オリン\nピック開催地ブラジル国に入り、サンパウロ市、アマゾ\nン川流域マナウス市へも行き野球交流をしていたことを\nお伝えしておきたい。\nこの『楓厡』への寄稿は、高校野球球児で野球の話に\nなると止まらなくなる、国士舘史資料室福原一成氏か\nら、ブラジルで野球指導をしていた事実を是非とも書い\nてほしいとの熱い言葉に、少しためらいがあったがお受\nけして、一九八二(昭和五七)年に『国士舘大学新聞』\nに寄稿したものを現在の思いも少し入れながら書くこと\nにした。\n私が灼熱とサンバ、そしてサッカーの国ブラジルへ行\nく機会を得たのは、一九八一(昭和五六)年七月上旬、\n当時「少年野球国際交流協会」(W・B・B・A)、現在\n「少年軟式野球国際交流協会」(I・B・A‐boys)、\n当時代表であった江藤慎一氏(元プロ野球選手)がブラ\nジル中央協会の紹介で柴田梵天総長を訪ねた際、近く二\n回目のブラジル親善少年野球使節団を訪伯するという話\nがあり、国士舘大学もその時期に第五次ブラジル訪問団\nが訪伯することと合い重なり、柴田総長からその少年野\n球使節団のコーチとして同行するよう緊急に特命を受け\nた。\n少年野球使節団のコーチ任務終了後は第五次ブラジル\n訪問団に参加することの指示を受け、初めてブラジルに\n行くことになった。\n政経学部経済学科一一期生 田所 清人\n硬式野球部OB職員として\n ―少年野球でブラジル国際交流―\n国士舘の思い出\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n138\n一九八一年七月二八日、少年野球使節団より先にサン\nパウロに向け、成田空港を出発した。一人旅の気楽さと\n不安と寂しさが入り混じっての空の旅だったが、隣り合\nわせた日系人男性や窓側のブラジル女性と、すぐ話が弾\nみサンパウロ・カンピーナスヴィラコッポス国際空港ま\nで楽しい空の旅が出来、思いがけない旅の出会いを楽し\nんではいたが、私はポルトガル語が話せなかったので、\n隣の日系人男性が窓側の女性との通訳をして頂いて助\nかったことを覚えている。\n長い長い空の旅も終り、いよいよブラジルである。空\nから初めて見るブラジルは緑色のジャングル、乾ききっ\nた赤色の土、赤色の屋根瓦でそれぞれのコントラストが\nとても暑さを感じさせた。そして上空から見る広大なブ\nラジルの領土は、さすが日本領土の二三倍もある領土感\nを改めて深くした。ブラジルの気候は冬であったが内陸\n性気候のため日中はかなり温度が上がり半袖姿の人が多\nく見受けられた。\n翌日、少年野球使節団のサンパウロ到着を迎えるた\nめ、コンゴーニャス空港に向かったがサンパウロも車が\n多く、ちょうど午後六時半ごろの帰宅ラッシュにかか\nり、普通二〇分くらいの行程を一時間三〇分もかかって\nしまい焦り、冷や汗をかいていた。やっとのことで空港\n空港でサンパウロの少年野球チームの歓迎を受ける使節団\n硬式野球部OB職員として\n139\nに着いたが、少年野球使節団一行が搭乗した飛行機が二\n時間遅れたため、空港で長い時間待つことになってしま\nいタクシーの中で冷や汗が出る焦りは何だったか、出迎\nえの日伯野球連盟関係者も待ちくたびれてしまってい\nた。しかし江藤団長を先頭に少年達が空港のゲートから\n顔を見せると歓声を上げて走り寄り、お互いしっかりと\n手を握り合っていた。\n歓迎夕食会では、少年達は食欲旺盛で元気な姿を見せ\n旅の疲れなどどこ吹く風の様子、ホテルのロビーなどで\nふざけたり走り回ったりしていたが、団長と小沢コーチ\nの消灯の声で全員あっという間に寝てしまった。元気で\n素直な良い少年達であった。\n少年野球国際交流協会は、一九七七(昭和五二年)年\nに設立している。青少年野球の育成に努力し、特に少年\n野球は勝つことよりも精神面を重視し、チームワーク・\n忍耐力などを養うことを指導方針として、国内でも全国\n各地を巡回して野球教室を開き、心身及び技量の向上を\n図っている。現在は「少年軟式野球国際交流協会」とな\nり、一九八二(昭和五七)年に笹川良一、佐川清両氏ら\nの支援を得て、文科省の認可を受け社団法人として受け\n継いでいる。\n今回の使節団は、一〇歳から一二歳までの熊本県出身\n学童を中心に編成されており、他に埼玉県から二人、東\n京都から一人が参加し選手は一五名であり、同行者は団\n長の江藤慎一氏と熊本商業高校時代の同期で九州電力株\n式会社野球部監督の藤井正氏 、W・B・B・A専属コー\nチの小沢良亮氏、名誉副団長の深水慎一氏、総務局長の\n植田三四吉氏、母の会代表の江藤トヨ女史(江藤氏の\n母)そして私の総勢二二名である。\n七月三一日、休む間もなく早速練習を開始した。私も\n少年達とは初めての野球練習である。集合した子供達の\n目はキラキラと澄んでいた。この時期に正しい本当の教\n育をし、人造りをしなければと強く感じたのを今でも覚\nえている。そして、このブラジル国内遠征試合の一三日\n間は少年達に全力でぶつかって、少しでもよい思い出と\nなるような野球が出来ることを願った。一方、ブラジル\n野球関係者及び少年達は、スタンドで日本の少年達がど\nの様な練習をするのかじっと見つめ、日本野球を吸収し\nようと練習が終わるまで立ち上がる者はいなかった。当\n時ブラジルの少年野球では、プレーするのはほとんどが\n日系人であり、しかも学校単位のチームでは無く、各市\n町村で野球が好きな少年が集まりクラブ形式で野球チー\nムをつくっていた。少年の部は年齢により三チームに分\nかれており、七歳~九歳までと、一〇歳から一二歳ま\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n140\nボンレチーノ球場での試合を終えて\n試合後は必ず地元チームの選手と交歓する\n硬式野球部OB職員として\n141\nで、そして一三歳から一五歳までとなっていた。\n各部門で地区大会、州大会及び全伯大会への出場を目\n標に熱を入れてプレーしている。そしてこの大会が日系\n移民の親睦にも大いに役に立っている。今回は日本少年\n野球チームの来伯で、各地の試合球場周辺はかなり盛り\n上がっていた。\n八月一日、カンピーナス・インダイアトゥーバ球場で\nのスドエステ選抜軍を皮切りに、オエステ選抜軍と合わ\nせて二試合、サンパウロ市ボンレチーノ球場でのサンパ\nウロABC軍、カピタル選抜軍との二試合、マリンガ市\nマリンガ球場でのパラナ選抜軍と二試合、プレデンテ市\n球場でのプレデンテ選抜軍と二試合などと、一〇日間連\n日移動しながらの試合であったが、子供達は良く頑張\nり、敗け知らずに一〇連勝することが出来て内心ほっと\nしていた。\nブラジルの少年達は、日本の少年に比べ体力に恵まれ\nているので、練習方法を改善し技術のレベルアップをは\nかれば、かなり強いチームが出来あがると思われた。し\nかし当時は、ブラジル野球界には優秀な指導者が不足し\nているため地方チームのレベルアップはなかなか困難の\nようであった。少年達は、一生懸命プレーをしているに\nもかかわらずポイントをついた指導がなされてないた\nめ、練習も試合も、しまりがない野球になってしまって\nいた。また、礼儀作法や精神面の指導もまだまだ出来て\nいないチームが多かった感をもちながらの転戦であっ\nた。\n次の球場への移動は専用大型バスで動いたが、バスか\nら見える、はるかかなたの地平線や広大な牧場、コー\nヒー農園などが長時間移動の私達を和ませ飽きさせな\nかった。移動中の子供達との話及び行動を見ているとお\nもしろい。地方遠征では子供達は民宿(ホストファミ\nリー)した。ある少年は次の町へ移動のバスに乗る前に\nホストファミリーのお姉さんに別れのキスをされ、バス\nの中でそのことを興奮気味に話していた。また、大人顔\n負けのことを話す少年の部屋へ行ってみると、一人で風\n呂に入るのが怖いと見えて、二人で入り並んで顔だけ出\nしていた少年もいた。ツインベッドであるのに、寂しい\nから片方のベッドに二人で寝ていた少年もいた。やはり\n幼い小学生であり、かわいいものである。子供達にとっ\nて私は教育実習の先生の様な存在であったように思え\nた。すっかり溶け合ってしまったので兄の様な存在でも\nあった気がする。\n遠征中、健康を損ねた子供も若干いたが全日程を終\nえ、サンパウロに帰ってきた時は全員元気であった。\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n142\n別れる最後の夜は、全員私のところ来てサインや名刺\nを下さいと言ってきた。年賀状を出しますからとか、東\n京に行った時には必ず連絡しますから会ってくださいと\nか言って、全員が来てくれたので感激してしまった。願\nわくば将来この少年達の中から、大選手が一人でも出て\nほしいと思いながら別れを惜しんだ。\n八月一一日いよいよ少年達と分かれる日が来た。何と\nなく私も寂しくなった。たった十数日間であったが一年\nくらい野球指導をしていたような気がしていた。サンパ\nウロ・コンゴーニャス空港で少年達最後の「コーチさよ\nうなら……」の声で私は涙がどっと溢れてしまった。\n私も当時「少年軟式野球国際交流協会」の指導方針に\n共鳴した一人であり、大学職員として微力を尽くしたの\nではないかと思っている。\nサンパウロ州サン・ロケ\n国士舘大学協会サンパウロ分校にて\n八月一四日からは、柴田梵天総長を団長とする国士舘\n大学ブラジル第五次訪問団とともに行動したが、訪問団\n最後の予定が終了した席で、柴田総長から新たな業務指\n示があり、私と柴田小次郎顧問は訪問団と別れることに\nなった。アマゾン上流のマナウスから八月三〇日、サン\n少年野球使節団の少年達と筆者\n硬式野球部OB職員として\n143\nパウロ州サン・ロケにあるブラジル国士舘大学協会サン\nパウロ分校へ行き、そこに宿泊することになった。後に\n業務指示を確認すると、サンパウロ市とリオデジャネイ\nロ市の中間地点に農業学校(牧場)の跡地があるので国\n士舘大学がその土地を購入出来たら直ぐその地に入って\nもらいたいとの業務指示であった。結果的にはその土地\nは購入出来なかったが購入していたら、かなり長い間ブ\nラジルに滞在することになったかもしれない。半信半疑\nでサン・ロケで待機していたが、私はその様に記憶して\nいる。\nサンパウロ分校には広大な敷地の中に雑木林があり、\nまた元別荘地であったためきれいに整地された芝生も\nあった。ユーカリの防風林が整然と並び、ゆるやかな起\n伏のある土地であった。\n海抜八〇〇メートルもありブラジルでは気候に恵まれ\nている地方でもある。サンパウロ中心から西へ車両で約\n四五分の所にある。途中の街道沿いには、民家や工場が\n軒並み建てられており、近い将来この分校の周辺も大変\n賑やかになると思われる。分校の周辺には牧場や畑や\n林、別荘などあり、すばらしい景色である。そのすばら\nしい環境の中に国士舘大学武道館を建設していた。\n当時の道路状況を思い返すと、幹線道路は整備されて\nいたが、分校の敷地に入る道路は雨が降るとドロドロに\nなる土を固めた道であって、大雨の日はヴァルジェング\nランデ商店街に行くのが困難な状況であった。現在聞く\nところによると細い道まで舗装され環境が整っていると\nのこと。サンパウロ市のベットタウン化して大きく発展\nしている住宅街になっているという(※国士舘大学武道\n館は完成したが現在はブラジル日本文化福祉協会へ譲渡\nしサン・ロケ市がスポーツ大会等に使用している)。\n以来、私はこの分校に三八日間滞在し、朝は囀る小鳥\nの鳴き声で目を覚まし、夜はユーカリの葉が擦れるささ\nやきで寝るという生活をしていた。しかし、あまりにも\n静かすぎて犬の遠吠えが聞こえる妙に不気味な夜もあっ\nた。ヘビも居るという話を聞いていたが、季節が冬で\nあったため残念ながらなかなかお目にかかれず、管理使\n用人が敷地内で野焼きをしていた時に約一メートルのガ\nラガラヘビ(カスカベール)を見た。初対面なのでうれ\nしいようなこわいような。その後も校内を歩いている時\nに、二回緑色のヘビ(ジャラクスー)と対面、また池の\n淵にいた黒いヘビなど彼らとも忘れずに交流した。\nこの間私は、図らずも近くの町ヴァルジェングランデ\nにある日本語学校の少年野球チームを指導することに\nなった。この日本語学校には先に剣道指導で大学職員の\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n144\n上地康夫氏が入っており、稽古に厳しくも愛がある指導\nで、全生徒さんの人気先生になっていた。\nこの日本語学校の少年野球チームで一か月間、一三歳\nから一五歳を指導することになった。この選手達には礼\n儀作法や協調性(チームワーク)、野球をプレーするに\nあたっての精神面などについて週三回の割合で指導し\nた。\n基本練習を徹底的に行うことにより、このチームの選\n手達の技術は、始めて見た時とはずいぶん違って、チー\nムのレベルは見る見るアップし、ご父母から感謝され\nた。特に私が最初に選手に伝えたことは、グランドの出\n入りは常にグランドに対して感謝の気持ちをもって、一\n礼をすることを実行させたが、これはご父母から喜ばれ\nた。このようなことは日本ではあたりまえであるが、ブ\nラジルの三世・四世では理解できない点もいろいろあっ\nたろうと思われる。しかし、このような些細なことでも\nヴァルジェングランデから周辺の町及び他チームへ伝\nわってくれればと願った。\n九月五日、この少年達と別れるときが来てしまった。\nマナウス総領事から柴田梵天総長に、野球指導員の派遣\n依頼が届いたからである。\nヴァルジェングランデの少年達と一〇月五日最後の練\nサン・ロケ国士舘大学協会サンパウロ分校にて\n(左から須藤磐サンパウロ分校職員、柴田小次郎顧問(当時)と筆者)\n硬式野球部OB職員として\n145\n習終了後、ブラジル国旗に全員が署名して心を込めた記\n念としてプレゼントしてくれた。主将の伊藤君が「田所\n先生から野球についての心構えや礼儀作法、基本技術を\n教えていただき本当にありがとうございました。先生の\nことは忘れません。是非またヴァルジェングランデに来\nてください」と挨拶されたとき、また目頭が熱くなって\nしまった。\nマナウスアマゾンにて\n一〇月九日、再びマナウスへ飛んだ。\nマナウスアマゾンに日系人が地域に移住したのが\n一九二九年(昭和四年)今年で八七年になる。現在は人\n口一九〇万人。日本企業の工場も数多く進出。ホンダ、\nヤマハ、パナソニック、ソニーの会社その他が進出して\nいる。当時、好景気を支えたゴムの木を栽培しようと試\nみるも、既に土地はやせ細っていたと聞く。土地は石こ\nろや砂だらけ。作物が育たなかった。畑への水汲みが大\n変で遠く離れたところから運んでいたとも聞いている。\n一九八一年一〇月その地で、第一回西部アマゾン野球\n大会が開催されることになった。同年八月に第五次訪問\n団が訪れて以来、親密になった本学との関係から、マナ\nコロニアチームは大人もチームメイト、前列中央筆者\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n146\nウス総領事も本学に要請してきたものと思われる。\nこの大会への参加チームは、ベレンチーム、ポルト\nベーリョA・Bチーム、マナウス対岸のカカオペレチー\nム、マナウスコロニアチーム、マナウスA・Bチームお\nよび商社選抜チームの計八チームである。大森淳正総領\n事も出席し、始球式をやるほどの熱の入れようであっ\nた。一〇日・一一日の両日にわたる激戦の結果、第一回\nの優勝を飾ったのはパラ州のベレンチームであった。私\nは両日にわたり審判及び進行係を務めたが、終始和やか\nな雰囲気の中で野球大会を無事終了することが出来た。\n大会の翌日から大森総領事と日伯文化協会会長寺野氏\nから各チームの指導を依頼され、ポルトベーリョチー\nム、マナウスの対岸にあるネグロ川(アマゾン支流)を\n四五分かけて渡河した所のカカオペレチーム、マナウス\nコロニアチームおよびマナウスBチームの四チームを約\n一週間にわたり指導した。\nどのチームも私の指導事項を真剣に聞いて頂いて一生\n懸命プレーしてくれた。暑い中の三・四時間の指導で\nあったが基本練習は身に付いたと信じている。どのチー\nムも一日だけの指導であったが別れるときは、お互いに\n再会を約束していつまでも手を振っていた。\nブラジルの休暇\n三ヶ月のブラジル滞在中に、私が唯一ゆっくりできた\nのはイグアス瀑布への観光とマナウスにおけるネグロ川\nでの川遊びであった。\nイグアス瀑布観光はヴァルジェングランデ日本語学校\nで剣道指導していた上地康夫氏との珍道中であった。細\nかいことは書かないことにするが今思い出すと楽しいス\nリリングな数日であった。イグアス瀑布はアルゼンチン\n国とパラグアイ国が接する国境にあり、直線距離にして\n約四㎞、ゆるやかな曲線を描いて瀑布をつくる。落差約\n八〇メートル、三百余の滝が一大半円形劇場を造る。実\nに壮観であり水量は北米のナイアガラ瀑布や南アフリカ\nのビクトリア瀑布をもはるかにしのぐと言われていた\nが、まさしくその通りであった。特に「悪魔の喉」と言\nわれている一番奥にある滝は、しばらく我を忘れさすよ\nうな魔力を持っている。\nマナウスでの川遊びは、ネグロ川(黒色)とソリモイ\nンス川(茶褐色)がY字に合流する場所にあるが、水温\nと流れの速さが違うため下流二五キロメートルくらいま\nで、混じり合わないで平行する二条の流れを小舟に乗っ\n硬式野球部OB職員として\n147\nイグアスの滝、背後が悪魔の喉\nネグロ川(黒色)とソリモインス川(茶褐色)の合流地点\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n148\nて見て回った。自然が描く見事なそして不思議な一大\nキャンバスであった。その合流地点には淡水イルカが飛\nび跳ねておりこれにはびっくりしたが、五〇センチもあ\nるナマズが釣れた時にまたびっくり。次は少し上流の奥\nへ行ってみるとピラニアが釣れ、ピラニア収穫は二匹\nで、肩を落として帰ってきた。ピラニアはマナウスでは\n美味しいと言われ、日本ではまずいと聞いていたので食\nべてみたが、私の味覚が鈍感なのかもしれないが、とて\nも美味しかったことを皆さんに伝えておきたい。\nブラジル滞在中のことをいま静かに振り返って見る\nと、懐かしい想い出が走馬灯のように胸中をよぎる。少\n年達との別れに幾度か流した熱い涙は、たとえ言葉が通\nじなくとも真心は通じるものという貴重な体験を得た。\n日本に居るときに抱いていたブラジルのイメージは現地\nに行って全く新しく塗り変えられてしまった。人も景色\nもスケールが大きく、全てを抱擁し尽す。まさに世界一\nの大河を抱く大国ブラジルである。\n最後に今回の寄稿に関し、故柴田梵天先生にブラジル\n行きを命じられ、三か月の体験・経験を与えて頂いたこ\nとに心から感謝申し上げたい。先生にこの声がもう一度\n届くことを願う。また冒頭に申し上げた国士舘史資料室\nの福原一成氏に寄稿を薦められ、永久に『楓厡』に文字\nとして残すことが出来たことを御礼申し上げ、国士舘大\n学硬式野球部OBの一人がブラジルの地に野球の苗木を\n植えられたことを誇りに思うとともに、ブラジル人から\n大選手が出てくることを期待する。\nマナウス川遊びの船頭と筆者(左)"}]}, "item_10004_version_type_20": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": 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硬式野球部OB職員として : 少年野球でブラジル国際交流
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.2 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2017-05-27 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 硬式野球部OB職員として : 少年野球でブラジル国際交流 | |||||
言語 | ||||||
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資源タイプ | article | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 国士舘の思い出 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
田所, 清人
× 田所, 清人 |
|||||
関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘百年史編纂委員会専門委員会 | |||||
姓名 | コクシカンヒャクネンシヘンサンイインカイセンモンイインカイ | |||||
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関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘史資料室 | |||||
姓名 | コクシカンシシリョウシツ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
著作関係者詳細 | ||||||
政経学部経済学科一一期生 | ||||||
書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 8, p. 137-148, 発行日 2017-03-10 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
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関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40021153699 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.2136 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 901.4 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol8.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第8号(2016) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 |