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"教育の「土台」としての宗教・文化\n11\nはじめに\n現代において、大学教育の場においても、社会福祉に\nおいても、方法論が重視され、本質論が軽視されている\nように感ずる。しかし、渡辺・長谷川・柴田に通じる脈\n筋は、必ずしもそうではない。\n本論文の目的は、一つはこれまで触れられることのな\nかった仏教社会事業家の嚆矢である渡辺海旭\n(1)\n、淑徳大学\nの創設者であり、宗教と社会事業と教育の三位一体論を\n唱えた長谷川良信\n(2)\n、国士舘の創立者である柴田德次郎の\nつながりを発見することである。もう一つは、同時期に\n論じられた福祉や教育の「土台」として仏教に役割が与\nえられたことを考察することである。渡辺と長谷川は浄\n土宗の僧侶であるが、柴田は、必ずしも仏教徒であると\n位置づけられていない。しかし柴田は、日本が明治維新\n後、西洋文明を積極的に受容し、社会の近代化を急速に\n推進するなかで、伝統文化を破壊し、軽視することに憂\nいを感じていた。そして柴田とその有志たちは、日本の\n「革新」をはからんと、「社会改良」と「青年指導」を目\n的として「青年大民団」を組織し、一九一七(大正六)\n年に、「活学を講ず」の宣言とともに、私塾「國士館」\nを創設した。「国士舘創設趣旨」で謳われているのは、\n吉田松陰の精神を範とし、日々の「実践」のなかから心\n身の鍛錬と人格の陶冶をはかり、国家社会に貢献する智\n力と胆力を備えた人材を養成することにあった。\nすでに述べたように日本が明治維新後、西洋文明を積\n極的に受容するなかで、渡辺・長谷川・柴田らは、日本\n菊池 結\n論文と資料紹介――論文\n教育の「土台」としての宗教・文化\n ―渡辺海旭から、柴田德次郎および長谷川良信に受け継がれたもの―\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n12\n的な道徳として、さらには教育などを支える精神的なよ\nりどころとして、仏教の重要性を主張したと考えられ\nる。彼らのなかで、欧米諸国のキリスト教的な思想体系\nと、日本古来の仏教的なものの考え方という二つの対抗\n軸があったと考えられる。\n一 日本の仏教教育\n日本の仏教教育は、日本天台宗の開祖・最澄(七六七\n― 八二二) の山家学生式あるいは空海( 七七四―\n八三五)の綜芸種智院から語られることが多い。現在で\nも、日本の仏教系大学は数多くある。「仏教系大学会議」\nという組織も存在し、同会議は建学の理念を仏教におく\n全国の仏教系大学(短期大学を含む)が、それぞれの個\n性を尊重しつつ各大学間の連携を密にし、もって各大学\nの充実発展をはかるとともに高等教育機関としての社会\n的責務を遂行することを目的とし、一九九四(平成六)\n年に設立された。仏教系大学会議加盟校は、以下の通り\nである(二〇一六年現在)。\n愛知学院大学\n愛知学院大学短期大学部\n足利工業大学\n足利短期大学\n大阪大谷大学\n大谷大学・大谷大学短期大学部\n九州大谷短期大学\n岐阜聖徳学園大学・岐阜聖徳学園大学短期大学部\n京都華頂大学\n華頂短期大学\n京都光華女子大学・京都光華女子大学短期大学部\n京都嵯峨芸術大学\n京都嵯峨芸術大学短期大学部\n京都女子大学\n京都文教大学\n京都文教短期大学\nくらしき作陽大学\n高野山大学\nこども教育宝仙大学\n駒沢女子大学・駒沢女子短期大学\n駒澤大学\n埼玉工業大学\n札幌大谷大学・札幌大谷大学短期大学部\n四天王寺大学・四天王寺大学短期大学部\n淑徳大学\n教育の「土台」としての宗教・文化\n13\n淑徳短期大学\n種智院大学\n相愛大学\n大正大学\n筑紫女学園大学・筑紫女学園大学短期大学部\n鶴見大学・鶴見大学短期大学部\n東海学園大学\n同朋大学\n東北福祉大学\n苫小牧駒澤大学\n名古屋音楽大学\n名古屋造形大学\n花園大学\n兵庫大学・兵庫大学短期大学部\n佛教大学\n身延山大学\n武蔵野大学\n立正大学\n龍谷大学・龍谷大学短期大学部\n飯田女子短期大学\n大阪千代田短期大学\n帯広大谷短期大学\n京都西山短期大学\n正眼短期大学\n聖和学園短期大学\n高田短期大学\n東京立正短期大学\n函館大谷短期大学\n余談だが、日本仏教社会福祉学会の団体会員(大学・\n短期大学以外も含む)は、叡山学院、大谷大学、京都文\n京短期大学、高野山大学、駒沢大学、札幌大谷大学・札\n幌大谷短期大学部、淑徳短期大学、淑徳大学、種智院大\n学、浄土真宗本願寺派社会福祉推進協議会、真宗大谷派\n宗務所教育部、浅草寺、増上寺、大正大学、知恩院、筑\n紫女学園大学、同朋大学、東北福祉大学、日蓮宗現代宗\n教研究所、花園大学社会福祉学部、佛教大学、身延山大\n学、立正大学社会福祉学部、龍谷大学である(二〇一四\n年現在)。\nニ 道徳と教育(明治から大正、昭和初\n期にかけて)\n日本では一八七二(明治五)年の学制以後、初等教育\nの義務就学の方策がとられ、一八八六(明治一九年)の\n小学校令では明確に尋常小学校四年間の就学を父母・後\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n14\n見人などの義務と定めた。その後一九〇七(明治四〇)\n年に義務教育修学年限を二年延長して六年とした。井上\n哲次郎も一九一二(大正元)年、国民教育は「小学校か\nら中学校及び中学程度の教育を込めて云ふのでありまし\nて、これは国民として必ず受けて置かんければならぬ教\n育\n(3)\n」であると述べ、いわゆる義務教育をもって国民教育\nと考えられるようになる。\nそれとともに国民道徳も学校中心となり、第一期小学\n教則時代(明治初年から一二、三年ごろ)、第二期小学校\n教則綱領時代(明治一四年頃より二二年頃)、第三期改\n正小学校令時代(明治二三年頃より三六年頃)、第四期\n国定修身書時代(明治三七年以降)とされる\n(4)\n。\n第一期は外国の修身書を教科書または参考書とし、第\n二期は儒教による修身教授が行われ、第三期は教育勅語\nによる徳目が教えられ、第四期は物語を基本として徳\n目、人物を配したものとなっている。\n一八九〇(明治二三)年一〇月三〇日には、国民道徳\nの基本を示し、教育の得本理念を明らかにするために、\n教育勅語が発布された。政府は勅語の謄本を全国の学校\nに配布し、天皇、皇后の写真の礼拝と勅語奉読を核とす\nる学校儀式を案出し推奨した。この頃、三教合同、神道\n優先、教育勅語の国民道徳のもとで、仏教界も勅語への\n歩みよりと仏教人生論により生涯教育化、国民道徳化を\n進むこととなる。\nまた、大正期から昭和期にかけ、教育界に宗教教育の\n必要性が叫ばれ、一九二五(大正一四)年には宗教教育\n叢書が刊行され、日曜学校協会から月刊「宗教教育」が\n刊行されるに至った。大正中期には、全国小学校教員大\n会でも、全国高等女学校長会でも、高等師範学校長会で\nも、全国師範学校長会議でも、宗教の必要性が叫ばれ\nて、全国師範学校長会議では、宗教教育を教科のなかに\n取り入れることを決議した。これは道徳教育の不徹底\nを、宗教情操教育という形で補うということが主となっ\nている\n(5)\n。\n三 渡辺海旭の教育論\n( 6 )\n次に渡辺らの教育論についてみていく。長上深雪は、\n仏教社会福祉の特徴は「目に見える活動の姿にではな\nく、実践を支える仏教精神にある\n(7)\n」と述べる。同様に、\n渡辺らの教育論は、教育を支える土台となるのが仏教で\nあると論じている。以下、それぞれの教育論について述\nべる。渡辺らの教育論の根底にある基本的精神は、大乗\n仏教の精神である。\n教育の「土台」としての宗教・文化\n15\n1.誕生と家庭環境 \n渡辺海旭は、一八七二(明治五)年一月一五日、東京\n市浅草区田原町三丁目一一番地に父・啓蔵、母・と奈の\n長男として誕生した。幼名は芳蔵である。\n父の啓蔵は東京小伝馬町の「まごめ」の番頭をしてい\nたらしいが、生活は相当に困窮していたことが伝えられ\nている。経済的な理由のためか、一八八一(明治一四)\n年、渡辺が九歳のときに抜嫡のための改名届を提出、翌\n年一月一九日に許可されている。このとき浅草にある\n「満照寺」に入寺したといわれているが、この満照寺に\nいた期間は短く、一八八四(明治一七)年には寺をで\nて、博文館の小店員となっている。\nしかし満照寺の住職と東京・小石川の源覚寺の端山海\n定(西光寺前住職)とが懇意だったことから、一四歳で\n端山海定について得度を受けている。出家した動機やそ\nのきっかけについては明らかではないが、当時渡辺家は\n経済的に困窮しており、なにか経済的理由によるもので\nあったと考えられている。渡辺海旭論文集『壺月全集』\n下巻の「伝記」には、「偶々、頓悟の質を當時小石川浄\n土宗源覚寺に在りし西光寺前住職端山海定和尚に見出さ\nれ、一四歳にして和尚の室に入り薙髪得度す」とある。\n2.青年期の学び\n幼少の頃から聡明であった渡辺は、一八八七(明治\n二〇)年、一五歳で浄土宗第一教校(現芝中学高等学\n校)に入学する。その後、浄土宗学本校に進み、高等予\n科と高等本科の全科を修め、一八九五(明治二八)年、\n学年第二位の優秀な成績で卒業している。学友には、望\n月信亨(一八六九―一九四八)や荻原雲来がいる。高等\n予科では宗余乗学、哲学、国語、漢文、英語、羅甸、数\n学、地理、歴史、博物、理財学などを学び、高等本科で\nは倶舎、唯識、華厳、天台の専門分野があり、渡辺は、\n倶舎部を卒業している。この在学中に、西欧の仏教研究\nにも注目し、ドイツの研究者の文献をもとに『西蔵仏教\n一班』(一八九五年)を研究し発表している。\n卒業後すぐに、関東各県下浄土宗寺院連合第一教校教\n諭を任命される。また、『浄土教報』の主筆に就任して\nいる。その他、浄土宗内地留学生に任命され、三年間比\n較宗教学を学んでいる。一八九八(明治三一)年には、\n師僧の海定が隠退したため、その後を継いで西光寺の住\n職となる。また、革新的な仏教改革を目指した「仏教清\n徒同志会」(後の新仏教徒同志会)の設立に参加するな\nど、活発な活動をみせている。\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n16\n3.ドイツ留学\n渡辺は、一九〇〇(明治三三)年五月五日、浄土宗第\n一期海外留学生として、ドイツのストラスブール大学に\n留学し、E・ロイマン教授(Leumam, Ernst. 1859-\n1931)に師事している。そこで、パーリ語、サンスク\nリット語を学習し、それらによる比較研究に取り組んで\nいる。一九〇七(明治四〇)年、『普賢行願讃』の研究\nで、ドクトル・フィロソフィーの学位を取得している。\n一方で、欧米の社会や宗教情勢を視察している。「日\n想観樓雑感」(浄土教報四三三号)には、「日本の今日よ\nり将来を推すと、どうしても吾党の士が一肌ぬいで、社\n会が健全の発育を遂ける為国家に報効(ママ)する為、\n是非とも社会事業や、慈善事業に眼をつけて頂かねはな\nらない」と書いている。一九一〇(明治四三)年に、帰\n国すると、ただちに宗教大学(現大正大学)、東洋大学\nの教授となる。また、正式に『浄土教報』の主筆にも復\n帰する。\n4.仏教社会事業家へ\nドイツ留学中に暖めていた考えを実践するように、帰\n国翌年の一九一一(明治四四)年、「浄土宗労働共済会」\nを設立する。また、一九一二(明治四五)年五月には、\n研究機関である仏教徒社会事業研究会を主催する。\n一九一八(大正七)年五月には、宗教大学社会事業研究\n室の開設に尽力している。\n5.渡辺の教育論\n渡辺は、芝中学校校長(一九一一年九月就任、以後死\n去までの二〇余年間勤める)などを務め、多くの教育事\n業に携わっている。彼の教育論の一つに、「四つのL\n(8)\n」\nがある。四つのLとは、卍のことである。卍は四つのL\nが上下左右に組み合わされて成り立っており、渡辺は四\nつのL とは「Light, Love, Life, Liberty である。光明\nと、愛と生命と自由は現代人の理想としてまた生活とし\nて誰とて是認せぬものはあるまい。また仏教といひ基督\n教といひ神道といひ、何れの宗教、何れの教養に於ても\n此四つを主眼とせぬものはない。卍字が仏教の代表記号\nとして適当であることは勿論、広く各宗教を通して之を\n標示としても差支えない」と述べている。\n四 長谷川良信の教育論\n1.誕生と家庭環境\n長谷川良信は、一八九〇(明治二三)年一〇月一二\n教育の「土台」としての宗教・文化\n17\n日、茨城県西茨城郡南山内村字本戸(現笠間市内)に生\nまれる。六歳で浄土宗・得生寺の住職小池智誠の養子と\nなる。一五歳で上京し、浄土宗第一教校(現芝中学高等\n学校)に入学する。一九一〇(明治四三)年に、浄土宗\n第一教校を卒業し、宗教大学(現大正大学)に進学す\nる。在学時より生涯の師である渡辺海旭や矢吹慶輝と知\nり合う。\n宗教大学卒業後に、渡辺の薦めもあり、東京市養育院\nの巣鴨分院(現石神井学園)に勤務するが、病気により\n退職する。その後、『浄土教報』の記者として再出発\nし、宗教大学に「社会事業科」の開設を訴えるなど、再\nび活動を始める。一九一八(大正七)年に、東京府慈善\n協会の救済委員制度が創設されるに伴い、長谷川は、巣\n鴨方面の救済委員を委託される。徹底した調査のなか\nで、個人としての活動よりも、組織的な事業の必要性を\n痛感し、西巣鴨にある通称「二百軒長屋」に、「マハヤ\nナ学園」(一九一九年)を創設した。長谷川が、若干\n二八歳でマハヤナ学園を創設するときに、創立委員に柴\n田德次郎も名を連ねている。国士的な豪傑さと、日本的\nな精神を重視する点は、渡辺・柴田・長谷川の三者に共\n通する。\n2.宗教・社会事業・教育の三位一体論\n長谷川は、宗教・社会事業・教育の三位一体論を提唱\nした。三位一体は、通常はキリスト教で、父・子・精霊\nの三位は唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元\nは一体であるとする教理のことを指す。転じて、三つの\n異なるものが一つになること、また三者が心を合わせる\nことを意味する。また、代表的な著書である『社会事業\nとは何ぞや』のなかで、長谷川は、「社会事業とは社会\nの進歩人類の福祉の為めに社会的疾病を治療し社会の精\n神的関係及経済的関係を調節する機能をいふ―定義」と\n述べている\n(9)\n。\n3.長谷川の教育論\n一九一八(大正七)年に創設された「マハヤナ学園」\nは、「社会福祉法人マハヤナ学園」として、二〇一〇\n(平成二二)年に創立九〇周年を迎えた。また、教育事\n業としては、淑徳大学が昨年(二〇一五年)創立五〇周\n年を迎えている。淑徳大学は、大乗仏教の理念を建学の\n精神としており、長谷川は、「for him(彼のために)で\nはなく、together with him(彼と共に)でなければな\nらない」と述べている。一九六五(昭和四〇)年に、社\n会福祉学部社会福祉学科から始められた淑徳大学は、\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n18\n「“together with him” の実践を通じての理想社会の建設\nと真実な人間の育成」を目指すものとしている。それら\nは、仏教でいう自利利他の精神であり、今日の「共生」\nの思想といえる。\n五 柴田德次郎の教育論\n1.誕生と家庭環境\n柴田は、一八九〇(明治二三)年一二月二〇日、福岡\n県那珂郡別所村(現筑紫郡那珂川町別所)に生まれる。\n一四歳で上京し、苦学の末に早稲田大学専門部を卒業。\n在学時より同郷の頭山満、野田卯太郎らと知り合う。\n一九一七(大正六)年一一月、二六歳で同志とともに国\n士舘を創設した。国士舘は、現在では中学・高校・大\n学・大学院を一貫する学校法人国士舘となっている。建\n学の精神は、「日本の将来を担う、国家の柱石たるべき\n眞智識者「国士」を養成する」である。\n2.柴田の教育論\n『大民』大正六年一一月号に、宣言「活学を講ず」が\n巻頭に掲げられた。以来、国士舘はこの「活学」を教学\nの理念とし、学ぶ者みずからが不断の「読書・体験・反\n省」の三綱領を実践しつつ、「誠意・勤労・見識・気魄」\nの四徳目を涵養することを教育指針に掲げてきた\n( (\n1 (\n。この\n「活学を講ず」は、「国士舘設立趣旨」として、新たな教\n育機関の設立を世に訴える宣言文となった。注目すべき\nは、「精神文明なくして国家豈に一日の安きを得んや」\nと高らかに謳い、「活学を講ず」ではさらには、昨今の\n日本文化のありようを「猿真似の文化」であると批判し\nている。このような柴田らの思いが国士舘と渡辺・長谷\n川らとの結びつきとなったのではないかと考えられる。\n六 柴田德次郎と国士舘\n―渡辺海旭との関係について―\n本節においては、柴田德次郎が仏教者である渡辺海旭\nに「思想問題」の授業を依頼した経緯について述べる。\n資料は、主に青年大民団の機関紙『大民』を使用する\n(資料1)。これまでに、柴田と渡辺の関係を指摘した例\nはほとんどない。渡辺海旭研究では、「国士舘完成長老\n懇談会記念写真」として、柴田、渡辺、徳富蘇峰、渋沢\n栄一、野田卯太郎、頭山満らとともに写された写真が現\n存しているが(資料2)、どういう経緯で撮影されたの\nかは不明であった。これまで指摘されたことのない、柴\n田と渡辺との接点を述べるだけでも価値はあると思う。\n教育の「土台」としての宗教・文化\n19\n第1巻第1号大正5年6月\n15\n日発行\n欠\n第2巻第3号大正6年3月\n10\n日発行\n第2巻第4号大正6年4月1日発行\n第2巻第5号大正6年5月1日発行\n第2巻第6号大正6年6月1日発行\n第2巻第7号大正6年7月1日発行\n第2巻第8号大正6年8月1日発行\n第2巻第9号大正6年9月1日発行\n第2巻第\n10\n号大正6年\n10\n月1日発行\n第2巻第\n11\n号大正6年\n11\n月1日発行\n第2巻第\n12\n号大正6年\n12\n月1日発行\n第3巻第1号大正7年1月1日発行\n第3巻第2号大正7年2月1日発行\n欠\n第3巻第4号大正7年4月1日発行\n第3巻第5号大正7年5月1日発行\n欠\n欠\n第3巻第8号大正7年8月1日発行\n欠\n第3巻第\n10\n号大正7年\n10\n月1日発行\n第3巻第\n11\n号大正7年\n11\n月1日発行\n欠\n第4巻第1号大正8年1月1日発行\n第4巻第2号大正8年2月1日発行\n第4巻第3号大正8年3月1日発行\n第4巻第4号大正8年4月1日発行\n第4巻第5号大正8年5月1日発行\n第4巻第6号大正8年6月1日発行\n第4巻第7号大正8年7月1日発行\n第4巻第8号大正8年8月1日発行\n第4巻第9号大正8年9月1日発行\n第5巻第1号大正8年\n10\n月20 日発行\n第5巻第2号大正8年\n11\n月1日発行\n第5巻第3号大正8年\n12\n月1日発行\n第6巻第1号大正9年1月1日発行\n第6巻第2号大正9年2月1日発行\n第6巻第3号大正9年3月1日発行\n第6巻第4号大正9年4月1日発行\n第6巻第5号大正9年5月1日発行\n第6巻第6号大正9年6月1日発行\n欠\n欠\n欠\n第6巻第\n10\n号大正9年\n10\n月1日発行\n第6巻第\n11\n号大正9年\n11\n月1日発行\n第6巻第\n12\n号大正9年\n12\n月1日発行\n欠\n第7巻第2号大正\n10\n年2月1日発行\n第7巻第3号大正\n10\n年3月1日発行\n第7巻第4号大正\n10\n年4月1日発行\n第7巻第5号大正\n10\n年5月1日発行\n第7巻第6号大正\n10\n年6月1日発行\n第7巻第7号大正\n10\n年7月1日発行\n第7巻第8号大正\n10\n年8月1日発行\n欠\n欠\n欠\n欠\n欠\n欠\n欠\n第8巻第4号大正\n11\n年4月1日発行\n第8巻第5号大正\n11\n年5月1日発行\n第8巻第6号大正\n11\n年6月1日発行\n欠\n第8巻第8号大正\n11\n年8月1日発行\n第8巻第9号大正\n11\n年9月1日発行\n第8巻第\n10\n号大正\n11\n年\n10\n月1日発行\n第8巻第\n11\n号大正\n11\n年\n11\n月1日発行\n第8巻第\n12\n号大正\n11\n年\n12\n月1日発行\n欠\n欠\n欠\n欠\n第9巻第5号大正\n12\n年5月1日発行\n第9巻第6号大正\n12\n年6月1日発行\n第9巻第7号大正\n12\n年7月1日発行\n第9巻第8号大正\n12\n年8月1日発行\n資料1 現存する『大民』一覧(二〇一三年現在)\n巻 数発行日巻 数発行日巻 数発行日\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n20\n筆者は、柴田が、渡辺に道徳のよりどころとしての仏教\n(あるいは宗教一般)を教えるよう依頼したのではない\nかと推測している。特に、一九二三(大正一二)年に、\n大民倶楽部が「佛教各宗派聯合海外布教団」の発会を図\nるなどは、仏教各宗の連携と大乗仏教を土台にした社会\n問題への取組みという渡辺の思想の影響を受けていると\nいってもよい。\n柴田は、芝中学校\n( (\n1 (\nで、渡辺の修身の授業を受けたこと\nがあるともいわれている\n( (\n1 (\n。芝中学校で、渡辺の「修身」\nの授業を受けた柴田が、その人柄に感服し、関係がつな\nがったのではないかとも考えられる。そして、もう一\n人、柴田と渡辺の接点を考えるにあたって重要な人物が\nいる。それは、渡辺の弟子であり、マハヤナ学園の設立\n者である長谷川良信である。柴田と長谷川は、共に後に\n渡辺が校長を務めることになる芝中学校の学友であり、\n「二人で社会国家を論じたり、酒を酌み交わしたりして\nいた\n( (\n1 (\n」という。しかし、同様に、これまで国士舘や柴田\nと長谷川のつながりを指摘するものはほぼない。\n1.柴田德次郎と渡辺海旭との接点\n柴田は、芝中学校で、渡辺の修身の授業を受けたこと\nがあるともいわれているが、これまで、柴田と、浄土宗\n1926(大正15)年6 月3 日 国士舘長老懇談会(於渋沢栄一邸)\n(前列左より頭山満、野田卯太郎、渋沢栄一、徳富猪一郎(蘇峰)、後列左より花田半助、渡辺海旭、柴\n田德次郎)\n教育の「土台」としての宗教・文化\n21\n僧侶であり仏教社会事業家である渡辺との関係を指摘す\nるものは少ない。\nここでは、まず渡辺と、頭山満や徳富蘇峰らとの関係\nを挙げておく。渡辺の甥である作家の武田泰淳は、渡辺\nが晩年に頭山や徳富らとのグループと付き合ったのは失\n敗であったと述べている\n( (\n1 (\n。渡辺が彼らといつ交際をはじ\nめ、どのような影響を受けたのかを明確にすることは、\n今後の渡辺海旭研究の課題だと思われる。なぜならば、\n太平洋戦争中の植民地政策と、植民地での仏教者の社会\n事業とがある種の密接な関係にあることがしばしば指摘\nされ始めているからである。しかし、ここでは本論文の\n論旨から外れるため述べない。渡辺と頭山、徳富らとの\n接点は二つある。\nひとつは、すでに述べたように、一九二六(大正\n一五)年に「国士舘完成長老懇談会記念写真」として、\n頭山や徳富と一緒に写る渡辺の写真がある(『壺月全集』\n下巻には、この写真は、私塾國士館の設立を協議する有\n志として、一九一六(大正五)年のものとして収載され\nているが、甥の泰淳が四四歳の渡辺を晩年というのはい\nささか若すぎる気がするので、年号の誤りであろう)。\nふたつめは、新宿中村屋の相馬夫妻\n( (\n1 (\nとボース、それと\n頭山との関係からの接点である。新宿中村屋の相馬夫妻\nは、長女俊子の死をきっかけにして、渡辺の信奉者と\nなったことは有名な話である。特に、妻の黒光は、壺月\n会という渡辺の法話会を主催するほどであった。ボース\nとは、中村屋のボースとして日本に初めてインドカレー\nを伝えたインド独立運動の指導者のラス・ビハリ・ボー\nスのことである。ボースは、一九一五(大正四)年にイ\nギリスの追及を逃れて訪日し、頭山満の支援を受け、新\n宿中村屋の相馬夫妻の自宅に匿われることになった。そ\nの後、相馬夫妻の長女敏子と結婚したが、敏子は\n一九二五(大正一四)年に亡くなっている。相馬愛蔵\nは、渡辺の哀悼文のなかで、「私の婿のボースの處へ、\n三周忌の墓参りに行きました。頭山翁と先生とは初対面\nでした」と書いている。したがって、愛蔵のいう三周忌\nとは、一九二七(昭和二)年のことであろう。この時点\nで渡辺は、五五歳を迎えている。渡辺は、太平洋戦争を\n迎える前の一九三三(昭和八)年一月五日に六一歳で敗\n血症により逝去している。\nそうすると、愛蔵の記憶違いという可能性もあるが、\n柴田と渡辺との出会いはそれよりも遥かに早いことにな\nる。次に、柴田と渡辺との接点をみていく。柴田が上京\nし、渡辺が死去するまでの、彼らの接点を年表にすると\n左の通りになる。\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n22\n一九〇五(明治三八)年上京。\n一九〇七(明治四〇)年東京市・芝中学校第三学年に\n入学。(一九〇八(明治四一)年三月同校全科卒\n業)。\n※一九一〇(明治四三)年渡辺海旭芝中学校長就任。\n一九一二(大正元)年早稲田大学政治経済学科(専門\n部)に入学。(一九一五(大正四)年七月同校全\n科卒業)。\n一九一三(大正二)年「青年大民団」結成。\n一九一六(大正五)年機関誌『大民』創刊。\n一九一七(大正六)年麻布区麻布笄町(現西麻布、ご\nく一部は南青山)に、私塾「國士館」を設立。\n日・祭日を除き夜七時から九時まで、政治・経\n済・社会・宗教・哲学・武道などのほか、外国語\nを教える。\n※臨時補講として、渡辺海旭「思想問題」を教える。\n一九一九(大正八)年財団法人国士舘を設立。\n※財団法人国士舘の理事に、渡辺海旭就任。\n一九一九(大正八)年松陰神社隣接地(現世田谷キャ\nンパス)に移転、国士舘高等部設置。(昭和五年\n三月廃止)。\n一九二六(大正一五)年国士舘完成長老懇談会を開\n催。\n※渡辺海旭、徳富蘇峰、渋沢栄一、野田卯太郎、頭山満\nらとともに写した写真が現存(前掲した資料2)。\n一九二三(大正一二)年国士舘中等部設置。(一九二五\n(大正一四)年三月廃止)。\n一九二五(大正一四)年国士舘中学校設置。(一九四九\n(昭和二四)年三月廃止)。\n一九二六(大正一五)年荏原郡西部六町村合同経営の\n国士舘商業学校設置。(一九四九(昭和二四)年\n三月廃止)。\n一九二九(昭和四)年国士舘専門学校設置。(一九五五\n(昭和三〇)年三月廃止)。\n一九三〇(昭和五)年国士舘高等拓植学校設置。\n(一九三四(昭和九)年一一月廃止)。\n一九三二(昭和七)年満洲鏡泊湖畔に鏡泊学園を設\n置。\n※鏡泊学園総長に、渡辺海旭就任。\n※一九三三(昭和八)年渡辺海旭死去。\nこのように、柴田と渡辺の出会いは、少なくとも\n一九一七(大正六)年の国士舘設立以前であることが分\nかる。しかし、柴田が芝中学校に入学したとされる\n教育の「土台」としての宗教・文化\n23\n一九〇七(明治四〇)年は、渡辺は、ドイツ留学期間で\nあり、柴田の学友であった長谷川が紹介したのだろうと\nいう推測の域をでない。\n2.国士舘担当課目について\nしかし、前述のとおり、渡辺は、財団法人国士舘の理\n事や、渋沢栄一邸で行われた国士舘長老懇談会に、頭山\nや野田らと同席するなど、相談役としてかなりの位置に\nいたと考えてよい\n( (\n1 (\n。本節では、『大民』に書かれている\nものを中心に、渡辺が担当した科目を記述する。\nこれらをみるかぎり、渡辺に期待されたのは、「修身」\nや「思想問題」である。仏教者である渡辺に、思想問題\nの授業を担当させたのは、設立趣旨の冒頭にあるよう\nに\n( (\n1 (\n、当時の「唯だ科学智を重んじて、徳性涵養を忘る」\n教育に対する反旗であったと考えられる。これは、「宗\n教・社会事業・教育の三位一体」を唱えた長谷川にも共\n通する考え方であり、一方で、教育なり、社会事業があ\nり、一方でそれを精神面で支える、強化する、より良い\nものにする、または日本的なものにする、大乗仏教の思\n想があるとするのである。この点において、仏教思想と\nは、社会的なものを内面的な精神として支えるという役\n割を与えられるのである。また、柴田は、母親がかなり\nの信仰心に篤い女性であったらしく、その影響は小さく\nはないと述べている。『大民』をみるかぎり、渡辺の担\n当課目は以下のようである。\n一、『大民』三巻二号大正七年二月一日「国士舘設立趣\n旨」 講師 芝中学校 渡辺海旭 補教として 思想\n問題。 \n二、『大民』三巻一号大正七年一月「国士舘講座一月分」 \n佛教哲学 椎尾弁匡 社会問題 長谷川良信。\n三、『大民』三巻五号大正七年五月一日 補教として \n思想問題 渡辺海旭。\n四、『大民』三巻八号大正七年八月一日「国士舘移設趣\n旨」 補教として 思想問題 渡辺海旭。\n五、『大民』三巻一〇号大正七年一〇月一日「国士舘講\n座九月分」 思想問題 渡辺海旭。\n六、『大民』五巻一号大正八年一〇月二〇日「一週間に\n於ける学科の配当左の如し」 宗教 渡辺先生。\n七、「国士舘規則(高等部)」「一週間に於ける学科の配\n当左の如し」 宗教 渡辺海旭。 \n八、『大民』六巻五号大正九年五月一日「国士舘第一学\n期に於ける一週間の学科配当左の如し」 仏教史上に\n現はれたる東洋思想(二時間)渡辺先生。\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n24\n九、『大民』七巻四号大正一〇年四月一日 宗教(火、\n二時間)渡辺先生 社会学及社会問題(水、二時間)\n長谷川先生。\n一〇、『大民』八巻九号大正一一年九月一日「国士舘夏\n期講習会記事」 第一期 宗教心に就いて ドクトル \n渡辺海旭 第三期 宗教に就いて ドクトル 渡辺海\n旭。\n一一、大正一二年三月三〇日から四月四日「国士舘春季\n講習会開催」 思想問題に就いて 渡辺海旭。\n一二、『大民』一〇巻八号大正一二年八月一日 東京在\n住の佛教各宗派の僧侶と会談し、佛教各宗派連合海外\n普教団の発会を図る。\n一三、大正一四年夏(発行日付なし)国士舘要覧「国士\n舘専門部組織」 哲学 ドクトルフィロソフィエ 渡\n辺海旭 社会問題 マハヤナ学園 長谷川良信 「(中\n学校)講師」 倫理 芝中学校 ドクトルフィロソ\nフィエ 渡辺海旭。 \n一四、大正一四年八月一六日から二〇日「国士舘第四回\n夏季講座」 一七日 世界列国の社会事業に就いて \n長谷川良信、二〇日 補講 渡辺海旭。\n一五、大正一四年一二月二日から五日「興国青年大演習\n開催」 講師 渡辺海旭。\n一六、昭和四年三月一一日「文部省国士舘専門学校設置\n許可」 修身 渡辺海旭。\nその他に、『大民』には、大正一一から国士舘学長を\n務めた長瀬鳳輔の国士舘々葬や、野田卯太郎追悼会にお\nいて、渡辺が導師を務めたことが報じられている。\nおわりに\n以上、渡辺に影響を受けた柴田と長谷川の社会事業お\nよび教育事業について述べてきた。そこから明らかなこ\nとは、欧米諸国の近代社会事業あるいは教育事業を学ん\nだ彼らが、それぞれに仏教に精神的な重要性を見出して\nいることである。\nまた、これまでに、渡辺と柴田あるいは柴田と長谷川\nとの関係を指摘されることはまれであった。しかし、こ\nのように彼らの思想は、仏教は社会事業と教育事業を支\nえる重要な精神的基盤であるという点で共通する。日本\nは、明治維新後、西洋文明を積極的に受容した。彼ら\nは、仏教的な慈悲業や、慈善ではない近代社会事業など\nを学び、吸収し、日本的な土壌のなかでそれを解釈した\nのである。\n教育の「土台」としての宗教・文化\n25\n註\n(1)(2)渡辺や長谷川に関する文献は多い、例えば、\n次のものがある。芹川博通『渡辺海旭研究 その\n思想と行動』(大東出版社、一九七八年)、長谷川\n匡俊『長谷川良信』(シリーズ福祉に生きる/\n24\n)\n(大空社、二〇一五年)、『仏教と社会事業と教育と\n長谷川良信の世界』( 長谷川仏教文化研究所、\n一九八三年)。\n(3)井上哲次郎『国民道徳概論』(三省堂、一九一二年)\n付録二九頁。\n(4)(5)齊藤昭俊『仏教教育論集』(仏教教育研究所、\n二〇〇九年)、齊藤昭俊『仏教教育選集1 慈悲の\n教育』(国書刊行会、二〇一一年)、斎藤昭俊『近\n代仏教教育史』(国書刊行会、一九七五年)。\n(6)渡辺の教育に関する論考に、次のものがある。「漫\n言数則―米峰―への私信」(『新仏教』一〇巻六号、\n一九〇九年)、「女子教育機関の充実を計れ」(『浄\n土教報』一三五七号、一九一九年)、「中等教育私\n見」(『浄土教報』一三八三号、一九一九年)、『教\n育の欠陥とその責任者』(『浄土教報』一二一三号、\n一九一六年)、「教育界の醜状」(『浄土教報』\n一五〇〇号、一九二二年)。\n(7)日本仏教社会福祉学会編『仏教社会福祉入門』(法\n藏館、二〇一四年)一三頁。\n(8)『壺月全集』(壺月全集刊行会、昭和八年改訂版、\n一九七七年)三七〇頁~三七三頁。\n(9)長谷川良信『社会事業とは何ぞや』、『長谷川全集』\n上巻、二~二六七頁。\n( 10 )『国士舘九十年』(学校法人国士舘、二〇〇七年)。\n(\n11\n)浄土宗第一教校は、一九〇六(明治三九)年に「男\n子に須要なる高等普通教育を為すを以って目的と\nす」として、宗門外の一般子弟の教育に門戸を開\n放。私立芝中学校となる。初代校長に松濤賢定就\n任。一九一一(明治四四)年、第三代校長に渡邊\n海旭就任。\n(\n12\n)国士舘中学校設置認可申請書。一九二五(大正\n一四)年三月三〇日に添付された柴田の履歴には、\n一九〇七(明治四〇)年四月東京市芝区私立芝中\n学校第三学年へ入学、一九一二(大正元)年九月\n一日早稲田大学政治経済科(専門部)へ入学、\n一九一五(大正四)年七月同校全科卒業とある。\n(\n13\n)長谷川匡俊『シリーズ福祉に生きる 長谷川良信』\n(大空社、二〇〇五年)二二頁。\n(\n14\n)吉田久一『著作集二』(川島書店、一九九三年)に\n国士舘史研究年報2016 楓厡\n26\n著者(吉田)宛の武田泰淳氏の書簡が採録されて\nいる。\n(\n15\n)相馬愛蔵・黒光。相馬夫妻は、東京本郷に小さなパ\nン屋中村屋を開業、一九〇四(明治三七)年には\nクリームパンを発明した。一九〇七(明治四〇)\n年には新宿へ移転、一九〇九(明治四二)年には\n現在地に開店した。中華饅頭、月餅、インド式カ\nリー等新製品の考案、喫茶部の新設など本業に勤\nしむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、荻\n原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚\n江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、\n「中村屋サロン」と呼ばれた。\n(\n16\n)国士舘設立趣意書(一九一七年)の「先生及講座時\n間」によると、すでに渡辺は、思想問題の臨時講\n話を担当している。一九一九(大正八)年の国士\n舘落成式および開会式では、芝中学校校長として、\n渡辺は祝辞を述べている。また、一九二一(大正\n一〇)年七月に、創設された「財団法人国士舘維\n持会」に名前は見当たらないものの、同年築地精\n養軒で行われた「国士舘相談会」に撮影された写\n真に、渡辺の姿が写っている。\n(\n17\n)国士舘の設立趣旨冒頭は、このように述べられてい\nる。「物質文明の弊日に甚だしく、人は唯だ科学智\nを重んじて、徳性涵養を忘る今日に於て教育とは\n唯だ科学智の売買たるのみ此の如きは唯だ物質文\n明に終る、精神文明なくして国家豈に一日の安き\nを得んや、蓋し精神文明は物質文明を統一指導す\nるものなり」。"}]}, "item_10004_version_type_20": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "菊池, 結"}, 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (1.3 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2017-05-27 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 教育の「土台」としての宗教・文化 : 渡辺海旭から、柴田德次郎および長谷川良信に受け継がれたもの | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
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資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | article | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文と資料紹介 | |||||
小見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
菊池, 結
× 菊池, 結 |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | DA18420764 | |||||
関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘百年史編纂委員会専門委員会 | |||||
姓名 | コクシカンヒャクネンシヘンサンイインカイセンモンイインカイ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘史資料室 | |||||
姓名 | コクシカンシシリョウシツ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
著作関係者詳細 | ||||||
大正大学綜合仏教研究所研究員 | ||||||
書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 8, p. 11-26, 発行日 2017-03-10 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
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収録物識別子 | AA12479001 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
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関連識別子 | 120006237364 | |||||
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主題 | 188.62 | |||||
所蔵情報 | ||||||
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関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol8.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第8号(2016) | |||||
フォーマット | ||||||
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著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
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キーワード | ||||||
渡辺海旭 柴田德次郎 長谷川良信 | ||||||
注記 | ||||||
淑徳大学 |