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生没年は、一九二六(大正一五)年三月三〇日―二〇一二(平成二四)年八月一九日、享年八六。一九四七年三月、至徳専門学校を卒業した小野は、同年五月、荒川区立第六中学校教師となる。翌年には國學院大學に通学し、新制度のもとでの公立中学校教諭(国語)の免許を得ている。\n 他方、父の小野十生は、小野派一刀流の相伝者で、剣道九段範士。国士舘専門学校でも教鞭を執るなど、剣道界における重鎮であったことから、小野自身も九歳頃より剣道を始めていて、熱い思いも持ち合わせていた。\n そうした背景もあって、一九五四(昭和二九)年になると、世田谷豪徳寺商店街中にあった躋壽堂道(せいじゅどう)場師範を委ねられる。これは、世田谷区剣道連盟初代会長であった伊籐京逸氏により、剣道教育の実践を高く評価され、世田谷区剣道連盟の少年指導を任されたことにある。その教え子たちは世田谷区剣道連盟傘下の団体リーダーになるなど、人材の育成にも手腕を振った(二〇〇七[平成一九]年頃まで勤めたという)。また、一九七四(昭和四九)年には、小野派一刀流免許皆伝。剣道界および世田谷地域を中心とした教育、人材育成に大きな足跡を残した生涯であった。\n さて、「小野寅生日記」(以下、「日記」と略す)であるが、記録期間も長く、その多くが残されている。そのうち、今回使用させていただくのは、B5判の大学ノート四冊、記録期間は、一九四三(昭和一八)年二月一〇日から一九四八(昭和二三)年三月二九日のものである。すなわち、専門学校生時代と卒業してからの約一年間である。詳しくは後述するが、小野は、卒業後、中学校教師を任じることになるが、その最初の年度までの記録である。\n 「日記」からは、専門学校における教員からの訓話、学徒勤労動員、新たな教育制度のもとでの教員生活、組合活動などの諸相がリアルに記されている。また、今まで伝聞でしかなかったCIE(民間情報教育局)局長ニューゼントが国士舘に来訪していたことについても確認できた。そこで、そうした事項について法令等を確認すると共に、そこからはみることができない実態を「日記」によって迫ってみたい。\n\n一 国士舘での教え\n「日記」は、一九四三年一二月一〇日から記されているが、時局の影響もあり、授業そのものに関する記載は見当たらない。しかしながら、「小川先生御話」、「館長先生御訓示」等々、教員の教えは少なからず書き留められている。これは、学生を集めての講話が日常的に行われていたことを示すものであり、一九四五(昭和二〇)年三月の「決戦教育措置要綱」の発令により、一年間の授業停止(小学校を除く)、学徒は軍需生産・食糧増産・防空防衛に総動員となった以後も続いている。\n 小野は、先に紹介したような家柄ゆえ、勉学の中でも剣道に重きを置いており、とくに直接指導を受けた小川忠太郎の教えは、日記にも数多く登場する。内容は、剣道を通しての精神的訓戒といったものが多い。たとえば、「日記」一九四五年三月二日には、次のようにある。\n劍道と云ふものは妙なもので相手に打たれて怒る者は無い、打れると云ふのは自分の悪るい所を打たれるのである。打たるれば、あ!あそこが悪るかつたのだな今度こそは打たれぬ様にしようと直すが、外で自分の悪い所を注意されると腹が立つ、そんな事では駄目である、常に道場に居る時と同じく、悪い所を注意されたら、すなほに直ほさなければいかぬ、何時も道場に居る時の心を心として。(小川先生御注意)\n 要するに、剣道では、自分の隙を突かれ、打たれることにより欠点を見いだせる。これを日常生活にも置き換えて、人から注意を受けることにより、足らないところを見いだせるのであるから、素直に応じなさいとの教えである。\n また、現在、国士舘では、学ぶ者自らが不断の「読書・体験・反省」の三綱領を実践しつつ、「誠意・勤労・見識・気魄(きはく)」の四徳目を涵養(かんよう)することを伝統として教育理念に掲げているが、柴田德次郎の訓話にはそれが盛り込まれている。\n 三綱領については、「礼儀を持つて、何事にも置すれば諸人懌(よろこ)び幸あり、之に加ふるに誠意を持つてし見識を持つてす、気魄は見識の生む所也、故に見識を磨く為大いに勉強しなければならない」(「日記」一九四五年三月一九日)と述べ、四徳目については「国史を読め、国史を読めば昔の人が如何にして上に仕へ如何にして事を処したかゞ分る、而(しか)して見識を養ひ、持つて読書する事に依り反省をし体験をして立派な国士に成らなければならぬ」(「日記」一九四五年五月九日)とそれぞれ日常生活の中で活かせるよう導いている。\n\n二 学徒勤労動員\n一九四四(昭和一九)年三月、政府は「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、中等学校生徒以上の全員を工場に配置することとなり、全国の学徒は通いなれた校舎を離れて続々と軍需工場へ動員された。\n しかしながら、全く学校に行かなくなったわけではなく、前章で述べたように、学生を集めての講話等は日常的に行われており、また、その日その日の勤務についても学校の方から指示が出ていたことがうかがえる。また、「日記」一九四五年四月二一日には「中学生百名の多人数の作業監督を命ぜられ、五挺のシヤベルで処置なかりし所、小川先生から長短一如(味)大勢を使ふも小人数も同じであると云ふ暗示を与えられ大いに眉宇(びう)の開いた感が致した。(生徒を遊さぬ使役法)」とあり、中学生を指導しての作業も行っている。\n かくして、日々勤労動員による作業が続いたのであるが、その心情は複雑なものであったようである。「日記」一九四五年二月一一日には思いのたけが記されている。\n銃後勤労生産戦の怠惰を憤激し、田中先生に贈るを悪筆の為中止するの文。\n謹啓 長い間御無沙汰致しました、時局柄とは申すものゝ、勤労奉仕で何にも成す事なく徒に年ばかり喰ひ誠にお恥しき次第であります。勤労も仕事甲斐の有る事であればよいのですが、だらしない会社で自分の修業迄打ち捨てゝ来る程の事もないと思へば仕事も嫌に成ります。\n戦局愈々(いよいよ)急を告げる時、現今の様な事をやつてをつて好いのであらうかと疑ざるを得ないのであります。口に道義を唱えながら、其を行ひ得ない今日正に社会秩序の怠乱今に勝る時はありません、一見秩序正しくなつた様に見えますが裏面に於ては覆ふべからざる者が多数あります。これ等のものは戦前のものより、悪質なものであると云ふ事が覘(うかが)へるのであります。亦勤労学徒の熱意敵慨心たるや一般に於て零であると申しても過言ではありません。社会の中堅層たる青年が斯の如きでありますから、日本国の者の敵慨心の程度が凡(およ)そ想像されます。但し農民及び軍部又は自分の父兄を戦死させた家の者は別であります。日本国中残らず農民の精神に依らねば戦争貫遂はむつかしいのではないかと思ひます。今日を置いて日本国の危急存亡の時はありません、正に国家興亡の岐路に立つてをるの感が致します。\n今年の始め頃京都に行き先生に拝顔致したく思ひましたが切符が買えず思ふ通にならず誠に残念に思つております。其の節はよろしくお願ひ致します。厳寒に向ひます折から増々御自愛下さい\n頓首再拝\n二十年一月六日\n 冒頭に「田中先生に贈るを悪筆の為中止するの文」とあるように手紙の案文である。そこには勤労奉仕のやり甲斐のなさや時局に対する不安が訴えるように記されている。\n 一方、学校では、勤労も学問の一つとして捉えるよう諭している。「日記」一九四五年五月三〇日には「工場に行き或は壕堀や便所作りでも立派な学問である、其の事に精神を打込んで一心に真剣に行へばである、斯は事上練磨と云ふて精神教育を主とする東洋の教育法である。(中略)(小川先生の御話を承つて呑空迷ふ)」と小川忠太郎の訓話を聞き、複雑な心境になった旨が記されている。\n\n三 終戦\n 終戦後、「日記」の記載はしばらく途絶える。再開は一九四五年九月一二日である。次のようにある。\n八月十五日以降筆を取らず亦当ても無く考へも起らず只管(ひたすら)日本の前途を案じ小生の身の振方を考ふれど好き考へ浮ばず、只々生死に任すの他無く日に昼夜の有る如く、如何に頑張るとも死の脱るべからざるを見えど、死に至る迄徒食(つれづれ)する訳にもゆかず如何にして生計を樹立すべきかを迷ふ。\n 世の中が百八十度変わってしまった訳であり、この心境は察して余りある。戦争末期には、先輩や同輩が戦地へ召集されていく姿をみており、小野自身も死を覚悟していた。「日記」一九四六(昭和二一)年九月五日には、戦中での思いを振り返り、「戦争が起り上級学校に進む事を断念した為勉強をせず如何に死ぬべきか対策を練つてゐた、戦ひの終りたる今日、学部に進むの力なきを如何せんや、死ぬ時が判つてゐても従容(しょうよう)として本を読んでゐた古武士を見習はなければならない、今迄が違つてゐた」と記している。\n ところで、学校の状況はというと、前年三月に政府が「決戦教育措置要綱」を決定して、四月一日以降の授業は停止されていた。そうした事情もあったことから、終戦後、学校からは、学生・生徒に対し、戻れる者は帰郷し、その後の連絡を待つようにとの指示がなされた。しかしながら、文部省としてもできるだけ速やかな授業の再開は急務としたことから、終戦間もない八月二八日には、次官通達「時局ノ変転ニ伴フ学校教育ニ関スル件」(専一一八号)により「学生生徒ヲ帰省セシメタル学校ニ在リテモ遅クモ九月中旬ヨリ右ニ依リ授業ヲ開始スルコト」と令している。\n 国士舘においては、授業開始に先立って、学生によるストライキをともなう要求申し入れがあり、その結果、通学の許可、寮は学生による自治制、服装の自由化、土日は作業日とせず、といった要求が受け入れられ、一九四五年一〇月一八日より授業が再開されたという。\n 残念ながら「日記」には再開後の授業の様子などは記されてはいないが、勉学への前向きな姿勢は徐々に取り戻していったようである。\n 授業再開後間もない一〇月二三日の「日記」には、「学校へ教へて貰ひに行くのではない、自分でやるのである、教師は利用すべきであつて鵜呑すべきではない。自分で工夫してやらねば話しにならぬ」とあり、翌一九四六年六月一七日には、「戦死した先輩同輩に対しても怠けてはゐられない、優秀な彼等は愚鈍な小生を残して行かれた、生き残つた我々の双肩に日本の運命が託されてゐるのだ、諸魂の冥福を祈る、我努力奮闘せん」とその決意が示されている。\n その後、一九四七年三月二一日、至徳専門学校を卒業した小野は、就職に向けて動いている。しかしながら、就職難の時期でもあり、容易なものではなかった。当初、大船の水産学校や千葉の農学校にあたっているが、結果は記されていない。\n そこで、様々な気持ちの整理をするためか、一九四七年四月一三日から同年五月一四日まで、一か月に亘る旅に出ている。行く先々で友人や親戚を頼りながらの旅である。その経路は次の通りである。\n 東京―神戸(友人)―岡山(伯母、鴨方の後輩、笠岡の友人)―倉敷―門司―熊本県高瀬(親戚)―佐賀(先輩宅泊)―肥前白石―大牟田―高瀬―宮崎県妻(知人)―宮崎―門司(友人)―岡山―尾道(知人)―大阪(伯父)―神戸(友人)―東京\n\n四 教員生活\n そして、東京に戻ってきた五月一四日には、好事が待っていた。小野の留守中に中学校教師としての招聘(しょうへい)がなされていたのである。\n前日と重複したが、本日十八時半に東京に着いたのである。実に国を出てから三十一日目である。振返れば、今度の旅は恵まれた旅であつた。総て計画してゐる事が実行された故に。一、留守中、幾度となく訪れたと言ふ先生の所に夕食後出掛ける。昨夜から一睡もせず、一口も食事をしてゐないが、人生気風に感ずである。数ならぬ小生を熱心に招聘されたのである、と両親から聞き、不才であるが荒川区立第六中学校の教師を承知した。\n こうして小野は、中学校教師として社会人の第一歩を踏み出すこととなった。\n ここで、その後をみていく前に、当時の教員資格・免許について概観してみたい。\n 文部省は、学校教育法の制定を目前にして、「新制中学校教員に関する暫定措置案」(一九四七年三月一二日)を立案し、採用資格については、「都道府県監督庁に於て適当と認めた者」と規定している。その後、一九四七年三月三一日、学校教育法(法律二六号)が制定され、四月一日より施行されることとなり、従来の免許制度に拠っていた国民学校令、幼稚園令、中学校令などの勅令は廃止された(法律九四条)。しかし、教員免許状の効力、授与その他に関しては、「文部大臣の定めるものの外、なお従前の例による」(法律第九九条)とし、移行措置については、同年五月二三日「学校教育法施行規則」(文部省令一一号)によって定められた。そこでは、教員免許状の効力、授与その他に関しては、「〔前略〕当分の間、別に定めるものの外、なお従前の例による」(法律第九五条)ものとし、校長・園長・教諭・助教諭について、それぞれ「仮免許状を有する者とみなす」と規定した(法律第九八条ないし第一〇六条)。また、前述の「新制中学校教員に関する暫定措置案」と異なり、免許状の授与権者を地方長官とし、「仮免許状は〔中略〕教員に採用する者に当日之を授与する」という方針に改められた。これは、当時における教員採用の実情に即した任用措置であった。\n このような法制の改革にともない、免許法成立までは暫定措置が継続することとなる。一九四七年六月に至ると、文部省は、国民学校本科準教員免許状を有する者、中等学校を卒業した者については、当分の間中学校助教諭仮免許状を有する者とみなし、また国民学校初等科教員免許状を有する者は、当分の間中学校教諭仮免許状を有する者とみなすことを指定し、告示している(文部省告示第九三号および第九四号)。\n 教員水準のレベルダウンについては、すでに教育刷新委員会の中でも予想され、それに対する施策が求められていたのであるが、教員需給の実際の状況の中で、当面の文部省の暫定措置は、現実的な教員供給策をとらざるを得なかったとみることができる。\n 以上のような趨勢からみれば、小野は旧制の専門学校を卒業しており、本人の知らぬところから招聘があっても何ら不思議ではない。\n それでは、その後について、「日記」に沿ってみていきたい。\n 一九四七年五月一五日、教員検定願を学校に提出、帰宅の後、教頭が来訪し、辞令は五月一〇日附で出ている旨を聞く。次いで五月一八日には、午前中、履歴書を書き、身体検査に行く。午後は適格審査の書類を用意する。そして、翌一九日には教壇に立っている。\n 「日記」には「生徒に教へて見て、如何に教へると言ふ事が六ヶ敷(むつかし)いか。亦、自分の力の足い事を感ずると共に、教へる前は教へる事の十倍位い勉強してゐないと教へる事が出来ないと思つた」と記されている。招聘を承諾してから僅か数日であり、無理からぬところであろう。\n 「日記」一九四七年六月一六日には「他のクラスに負けないクラスにしなければならない。お互に和かな気持を持たせる必要がある」とあり、クラス担任も任されていたようである。また、六月一七日には、谷津海岸の潮干狩り(遠足)にも同行している。\n 夏季休暇に入ると、教員認定講習が待っていた。「日記」一九四七年七月一五日には「夏期講習が二十一日からある。それに合格しなければ教員の資格がないそうである。これには恐威を感じる」と記されている。\n 実際のところ、新しい免許制度は、一九四九(昭和二四)年五月三一日公布の「教育職員免許法」(法律第一四七号)によって漸く定まる。さすれば、それまでは暫定期間であるゆえ、免許状も全て「仮免許状」ということになる。\n 新しい免許制度の発足にともなう困難な問題は、旧令によって免許状を有する者、或いは従前の規定による学校卒業者の資格をどのように新制度に移行させるかということであった。そして、旧令による免許状を有する者の切替えについては、「教育職員免許法施行法」(法律第一四八号)第一条でこれを定め、切替えの期限、細目については、「施行法施行規則」で規定した。また、従前の規定による学校の卒業者等に対しては、「教育職員免許法」の規定による教育職員検定によって、それぞれ担当の新免許状を授与することとした。なお、「教育職員免許法施行法」第七条によれば、新免許状を授与された者について、それぞれ在職年数と相当の講習修了を条件として、上級の免許状を授与するとしている。\n こうした経緯を鑑みると、この時期行われていた教員認定講習は、後の免許状申請に活かされたと考えられる。他方、「日記」からは、教員組合草創期の様子もうかがうことができる。\n 戦後、民主化の中で組織された団体の一つに教員組合がある。教員組合は、二.一ゼネスト闘争後の一九四七年六月八日、全日本教員組合協議会(全教協)と教員組合全国連盟(教全連)などの教育労働運動の戦線統一をはかって、都道府県単位の教職員組合の全国連合体として、約五〇万人を結集して組織された。\n 「日記」昭和二二年六月二四日には、「今日教員組合準備委員会に出席したが、連中喋るには喋るが、実力、実行は口程もなさそうに感じた」とあり、あまり良い印象ではなかったようである。それでも同月一八日の荒川区立中学校による総会(於荒川区役所)や翌七月五日の教員組合結成大会などには出席している。\n 当時は、民主主義による権利獲得が声高に叫ばれていた時であったが、国のため死を覚悟していた者たち(小野もその一人)からすれば、却って聞けば聞くほど冷めていったようである。七月五日の「日記」には、\n一、開会に当り、婦人の演説者に対する感想。\n 喋る前に先づ脚下を固め、実行が第一である。「私達がやらずして唯れがやる」等、各人の自負(自惚)が団体の推進力になるのであらうが、併し、大局からこれを見ると可笑くて仕方がない。亦、「命を投げ出してやらうではありませんか」と言ふ語を簡単に喋べるが、そう簡単に命が投げ出せるか。経験のないものは憐である。\nとあり、その場の雰囲気やそれに対する小野の気持ちもよく伝わってくる。\n また、仕事の合間をぬって国士舘へも時折顔を出している。「日記」一九四七年一二月一四日には、「本日初の国士舘同人会を行ふ。参集者十五名。会の名前を永友会と名附く。重に卒業生の力に依つて、学校を維持、発展さす準備打合の下工作」とあり、さらに、同月二一日には、「国士舘に行き、学校の将来と永友会の趣旨を話す。柴田梵天先生大いに喜ぶ」とある。すなわち、同窓会を発足すべく動いている。\n ところで、小野が何の教科を担当していたかについては、二学期の終業式が行われた一九四七年一二月二四日の記事の中に「国語の点が大部分可であつた事は生徒に申訳がない」とあり、国語を担当していたようである。\n 年も明け、教師としての最初の年度も終わりに近づいていく。一九四八年三月三日には、雛祭と卒業生の送別会が開かれた。そして、同月一〇日には、「母にお金を持つて行く為に、十二時半頃三楽に行つた。その足で直ぐ山崎中学校の谷野校長に面接し、転任就職を受諾した」とあり、転任が決定した。すなわち、翌年度も教師を続ける運びとなった。\n 一九四八年三月二〇日には卒業式、翌二一日には三学期の終業式が行われている。終業式では「生徒に最後の決別を兼ねて、将来進むべき方向を示して、今後困る事があつたら何時でも手紙を出す様に、その時は相談に乗つてやる旨を約す。亦、玉置と柳瀬二嬢に対しては、更に「読書」「体験」「反省」の必要を説く」として、自らが国士舘で学んだ「読書」「体験」「反省」の三綱領を教育の場で活かしている。翌二四日には「二年C組の女生徒十三名が私の謝恩会を開いて呉れた」とあり、終わり良き教員一年目であった。\n\n五 CIE (民間情報教育局) 局長ニューゼントとの出会い\n 国士舘では、一九四五年一二月二〇日、法人名改称と寄附行為改正を申請し、校名を至徳学園に改称した。\n そして、同日には、CIE局長代理ニューゼント、青年部長ダーキンなどの立会のもと、大講堂内に学生・生徒を集めて国士舘専門学校校長交代式(柴田德次郎から鮎澤巌へ)が執り行われたと言われてきた。\n しかしながら、実のところ、ニューゼントらが国士舘を訪れた件については、はっきりしないところがあった。それが今回、「日記」で確認がとれたのである。まずは、「日記」一九四六年二月一〇日に、ニューゼントが登場する。\n自由の陰に責任あり、責任なくしては真の自由にあらず、亦自由とは本を読んでも得られるものではない各々の生活及び行動に取り入れ体得して始めて得られるものである、我々が調度自転車の本を読んでも実際に体得しなければ乗る事が出来ないのと同じである、私は如何にしたら日本の実情に沿つた様に行はれるか苦辛してゐる、ニュゼント等三名の外人のポーズは自然で落着いてゐた。\n 一九四六年二月一〇日は、至徳学園開学にあたり、その理念やカリキュラム等を学園全ての関係者に宣言した日である。「日記」冒頭の「自由の陰に責任あり…」は、同席したニューゼントの挨拶とみるのが自然であろう。また、これが小野とニューゼントの最初の出会いであり、「ニュゼント等三名の外人のポーズは自然で落着いてゐた」とある如く、好印象であったことが解る。\n 次いで、一九四七年三月二一日の卒業式で再会を果たしている。やや長文となるがこの日の日記を挙げてみる。\n一、午前十時より卒業式挙行さる。商業の生徒の答辞は真を穿(うが)って実に立派なものであった。猶卒業後も絶ず「読書」「体験」「反省」に依り止むなき努力の必要である事の御趣意の演説誠に結構であった。\n〔中略〕\n一、鮎澤先生の御陰でニューゼント中佐殿と面会が出来亦中佐殿の抱負を拝聴して欣快(きんかい)置くあたはざるものがあつた。亦一年後ニューゼント中佐殿と御面接の約束及び日記を附けて報告をする約束、この約束をした以上死んでも約束を果すのが真の日本人であり、武士道である。今日の感激を新にする為此処に改めて今日から日記を附ける事にした。一、ニューゼント中佐殿お話の大要左の通り自由の裏には責任があり、言論報道の自由であるが嘘を言ってはならない。真理に基いて始めて自由であり得るのである。亦報道は真実を伝へると同時に社会の指導的でなければならない。お話の中で嬉しく思った事は、日本の善い所を忘すれてはならない。それは勤勉な国民であると言ふ事で、実に我々を好く理解されてゐる事が嬉しかった。亦秩序の必要性を話され、今、日本は困難な時で我々がその前途に迷ってゐる事を中佐殿が知ってをられる事は不思議に思った。\n実に立派な温厚な紳士で巷に横行してゐる米国人と雲泥の差がある。\n最後に理想を持って現実にぶつかると言ふ事は自分の日頃から考へる所で更に意を強くした次第である。\n一、言葉の通ぜざる為世界に知己を失ふ事を恐る。一日も早く世界が相互に理解しあって、共に愉快に生活出来る様になる事を祈ると共にニューゼント中佐殿の多幸を祈る。\n まず、最初の一つ書きでは、鮎澤校長のお陰でニューゼントとの再会が果たせたこと。「亦一年後ニューゼント中佐殿と御面接の約束及び日記を附けて報告をする約束」をしたことが記されている。\n 二つ目の一つ書きには、ニューゼントの挨拶とそれを聞いた小野の心情が綴られている。すなわち、日本人は勤勉な国民であり、そうした良いところを忘れてはならないこと。そして、それを実によく理解されていること。また、秩序が混乱して日本国民が前途に迷っていることを承知していたことに驚いたとしている。\n ところで、そのニューゼントとは如何なる人物なのであろうか。彼がCIEで果たした役割はどのようなものであったのであろうか。本稿の主旨とは、ずれるようでもあるが、ここで紹介することにしたい。\n 第二代CIE局長、ニューゼント陸軍中佐 (Lt. colonel, Donold Ross Nugent, USMC) は、スタンフォード大学卒業、カリフォルニアの地区教育長、中等学校教師を経て、一九三七 (昭和一二) 年から一九四一 (昭和一六) 年まで、大阪商大、和歌山高商講師を歴任、一九四一年、海兵隊に召集、真珠湾から硫黄島まで従軍した。一九四五年一一月来日、一二月一〇日、ヘンダーソン (Harold Gould Henderson) の跡を継いで、CIE教育課長となり、五月下旬、ダイク (Ken ReadDyke) 代将のあと、CIE局長となり、占領終了時まで在任した。\n 鈴木英一氏によれば、「長期間在任したのは、本国に重要な教育職を確保できなかったためであると言われている。彼は、日本語について会話・読み書きともにできたが、占領期は、日本人の前で英語しか話さなかったダイク局長の後継者として教育改革を実施に移したが、その態度は、堅実で慎重であった。」という。\n ニューゼントがCIE教育課長に任命された当時、CIE内では日本語の言語改革に関する新案が持ち上がっていた。すなわち、「公用語の片仮名統一」と「ローマ字による言語改革」がそれである。両案ともホール (Robert King Hall) による提案である。結果的には両案とも廃案となる訳だが、その最終段階において決着をつけたのがニューゼントであった。\n ホールは占領初期のCIE部内において傑出した人物と言われ、精力的に教育改革に取り組んだ。ただし反面では、日本語の徹底的簡素化論者であり、日本語を片仮名かローマ字で表記する改革案を来日前から準備していた。そして、一九四五年六月二三日「公用語の片仮名統一」と題する覚書を、陸軍省民事部長ヒルドリング (Maj. Gen. John H. Hilldring) 少将に送付している。それによれば、日本における軍事占領下では片仮名文字だけを認める必要があることを述べている。その主な理由は、戦前における軍国主義、国家神道、超国家主義教材の検閲が容易になるほか、学校における日本語の学習が容易になり、教育効果があげられるなどの利点が列挙されている。\n ヒルドリングは、国務省の見解を聞くため、国務省極東課日本担当のドーマン (E. H. Dooman) にホールの覚書を送付した。ドーマンは軍事占領下で漢字を廃止することは適当でなく、しかも知的・文化的な研究を極端に制約するなどの理由をあげて、ホール案を却下した。\n しかし、来日してみると、日本でも言語改革の動きが顕著であり、また、それはローマ字による言語改革の動きであった。すると、ホールはこれに乗ずるかのように、今度は一転して、教科書のローマ字化を提唱しはじめる。その理由は「ローマ字は外国人にとって日本語を読むことを容易にするからである。それは、日本の一般大衆にとっても法律や新聞を読むことを容易にするだろうし、したがって事実上の読み書きができる人になるであろう。日本人は文語体でなく、言語にローマ字を使用すべきである」というのである。\n しかし、CIE教育課長ヘンダーソンは、前田多門文相との事前協議にもとづいて、ローマ字化の指令を発する考えがないことを明確にする。その結果、ホールは計画課に左遷、文部省との遂行任務および連絡から解任された。\n その後、一九四五年一二月一〇日、ヘンダーソンに変わって、ニューゼントが教育課長に任命され、同月一四日付、教科書をローマ字化する必要がないことを正式に通達した。\n ところが、ローマ字化に執着していたホールは、ローマ字による言語改革を一九四六年三月初旬に来日する米国教育使節団に勧告してもらうために、密かに準備を開始する。同年三月四日には、「暫定的研究・言語改革の研究」を作成している。ここでホールは、「ポツダム宣言」の一節、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」の条項を引用し、言語改革を民主化の遂行に役立てようとしている総司令部の目的に巧みに合致させようとしたのである。\n しかし、ニューゼントは、ホールの担当者研究に対して、教育使節団に対してローマ字問題を示唆することは構わないが、結論は使節団に任せるよう指示するきびしい内容の覚書を出した。さらに、ニューゼントは教育使節団へのオリエンテーション講義においてはいかなる結論を出すことも、また提案することもきびしく禁止したのである。かくして、一連の改革の動きに終止符が打たれたのである。\n その後、一九四六年三月五日・七日に米国教育使節団が来日する。この使節団は、占領下の教育改革について勧告するためGHQ (連合国軍最高司令官総司令部) に招かれて来日した教育家の使節団である。七日には、早速、教育使節団の第一回総会が開かれた。そこにおいて、帰国中のダイクCIE局長に代わり、局長代理としてニューゼントが挨拶している。そこに次のような一節がある。我々は日本にでき合いの外国の教育制度を強制することは出来ない。我々が導入するいかなる制度も日本の生活様式に適合したものでなければならないのである。\n我々はその生活様式が民主的なものに修正されることを望んでいる。〔中略〕いかなる場合もそれが単なる実験の場と考えてはならないのである。なぜなら、我々がいま着手している改革は数年後の日本の教育にそのまま反映されるからである。\n すなわち、日本の生活様式に適合したものを長期的に、慎重に推し進めんとしていることがわかる。また、日本に合った民主化政策を採らんとしていることも伝わってくる。これは先にみた「日記」の記事からも知れるように、知日派であり、親日的な人物であったといえよう。\n しかし残念ながら、ニューゼントは教育改革を遂行するにはきわめて弱い立場であった。その理由について、土持ゲーリー法一氏は、「マッカーサーとの個人的な「人間関係」から、ニューゼントの教育改革がことごとく妨害され、そのほとんどが挫折させられた結果となった。マッカーサーは、海軍士官を「毛嫌い」した。マッカーサーにとって彼の部下は陸軍人でなければならず、海兵隊員のニューゼントは軽蔑された。このように、ニューゼントは教育改革を遂行するにはきわめて弱いかつ困難な立場に立たされた。マッカーサーの部下は将官であったが、ニューゼントだけは中佐であった。ニューゼントに対するマッカーサーの評価も当然のことながら低かった」と分析している。\n さて、「日記」に戻ろう。一九四七年三月二一日にある「亦一年後ニューゼント中佐殿と御面接の約束」はどうなったのであろうか。「日記」一九四八年三月二三日によれば、約束が果たされていることがわかる。\n中央労働会館に行き、鮎澤先生を訪問す。其処で小出及び余川氏と他本年度卒業生二名とニューゼント大佐に面接す。これで一年前の約束を果した事になる。ニューゼント大佐も教育の必要を述べ、今後の日本は教育の普及にある事を述べ、私達の前途に非常に感心と興味を持つておられた。亦、余川君には一年後の成果を手紙に依り報告して呉れとの事であつた。亦、話をしたい事があつたら何時でもいらつしやいと云はれ、此処に来る時は何も持つて来なくてもよい旨を述べられた。而して、亦、一年後にお会ひしたい様子であつた。それはニューゼント大佐が日本に居る間は。\n ニューゼントは、今後の日本再生のためには教育が重要であることを、それを担うであろう若者に対して伝えている。エールとも思える。ここでも知日派であり、親日の姿が顕れている。\n\nおわりに\n 最後に、本稿で論じ得たことを整理してみたい。\n 学生生活については、戦争末期でもあり、授業は、ほとんど体を成してはいなかったようであるが、全く学校に行かなくなったわけではなく、教員による講話等は日常的に行われており、また、勤労動員については学校の方から、日々指示が出ていたことが確認できた。\n 小野が中学校教員となった経緯ついては、小野自身、自分の知らぬところから話が舞い込んだように記しているが、当時の教員需給が極めて困難であり、教員水準のレベルダウンも懸念されていた状況からすれば、旧制の専門学校卒の小野が懇請されたことは必然であった。\n また、夏季休暇中には「教員認定講習」が義務付けられていた。これは当時が教員免許法成立以前であり、全てが「仮免許」の時代であるゆえの措置であった。一方、戦後民主化の象徴の一つである組合活動について、小野が勤務していた中学校では、日本教職員組合の立ち上げ直後から加わっていた。これは学校が都区内にあったこともあろうが、戦後における社会の急変が地域社会にもいち早く影響を及ぼしていったことを示している。\n CIE局長ニューゼントについては、今まで伝聞でしかなかった国士舘来訪の件について、「日記」から知ることができた。「日記」には三回登場する。\n 最初の出会いは、至徳学園開学にあたり、その理念やカリキュラム等を学園全ての関係者に宣言した日である一九四六年二月一〇日。次いで、一九四七年三月二一日の卒業式で再会を果たした。その折に再び会うことを誓い合う。そして、翌年の卒業式当日、一九四八年三月二三日に約束は果たされている。小野は、会う度ごとにニューゼントの紳士的な人柄と、日本への理解に尊敬の念を深めていったことを記している。そうした印象は、ニューゼントの日本での履歴、すなわちCIEでの活動や発言をみての結果とも一致するものであった。\n 具体的にみてきたように、占領期、CIE内では日本語の言語改革に関する文明破壊とも思える新案、「公用語の片仮名統一」と「ローマ字による言語改革」が浮上した。結果的には両案とも廃案となる訳だが、その最終段階において決着をつけたのがニューゼントであった。\n これは先に示したニューゼントの米国教育使節団を前にしての演説でも解るように、日本の置かれた状況をよく理解し、占領軍の都合ではなく、時間はかかっても「いかなる制度も日本の生活様式に適合したものでなければならない」とする深謀遠慮の改革を提唱したのである。\n ところで、ニューゼントが国士舘と縁を結んだきっかけについてであるが、残念ながら不明である。ただし、「日記」一九四七年三月二一日に、「鮎澤先生の御陰でニューゼント中佐殿と面会が出来」とある如く、おそらくは、当時、至徳学園校長を務めていた鮎澤巌との関係からと思われる。鮎澤は、すでに戦前からILO (国際労働機関) に勤務するなど先駆的国際人として活躍しており、既知の間柄であったとも考えられる。しかし、憶測の域は出ない。これについては今後の課題としたい。\n 註\n(1) 宮原誠一ほか編『資料日本現代教育史』4、三省堂、一九七四年、三三八~三三九頁。\n(2) 『終戦教育事務処理提要』第一輯、文部大臣官房文書課、一九四五年、七〇頁。\n(3) 拙稿「終戦直後の国士舘について」『国士舘史研究年報―楓厡―』第四号、学校法人国士舘、二〇一二年。\n(4) 海後宗臣編『教員養成』(戦後日本の教育改革 第八巻)東京大学出版会、一九七一年、二六三~二六五頁。\n(5) 同前、二九六頁。\n(6) 塩田庄兵衛「日本教職員組合」『国史大辞典』第一一巻、吉川弘文館、一九九〇年。\n(7) 鈴木英一『日本占領と教育改革』勁草書房、一九八三年、五四頁。\n(8) 同前、五一~五二頁。\n(9) 土持ゲーリー法一『米国教育使節団の研究』玉川大学出版部、一九九一年、一四八~一五〇頁。\n(10) 同前、九九頁。\n(11) 土持ゲーリー法一『戦後日本の高等教育改革政策』玉川大学出版部、二〇〇六年、一一九頁。"}]}, "item_10004_version_type_20": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "浪江, 健雄"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "18053", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", "dateValue": "2016-11-17"}], "displaytype": "detail", "download_preview_message": "", "file_order": 0, "filename": "1884_9334_007_01.pdf", "filesize": [{"value": "1.1 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本文 (1.1 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2016-11-17 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 「小野寅生日記」にみる戦中・戦後と国士舘 | |||||
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言語 | jpn | |||||
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資源タイプ | article | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文と資料紹介 | |||||
小見出し | 研究ノート | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
浪江, 健雄
× 浪江, 健雄 |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | 9000318159908 | |||||
関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘百年史編纂委員会専門委員会 | |||||
関係者 | ||||||
姓名 | 国士舘史資料室 | |||||
書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 7, p. 11-27, 発行日 2016-03-15 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12479001 | |||||
論文ID(NAID) | ||||||
関連タイプ | isIdenticalTo | |||||
識別子タイプ | NAID | |||||
関連識別子 | 40020765620 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.2136 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol7.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第7号(2015) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
小野寅生 |