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さて、この能〈盛久〉をめぐる研究史は多く、その成立の背景となった豊饒な世界をかなり明らかにしてきたと言えよう。〈盛久〉が長門本『平家物語』巻二十「主馬八郎左衛門尉盛久事」に取材していることは、『謡曲拾葉抄』をはじめとして、これまで多くの先学が指摘したところである。一方、島原松平文庫蔵『平家物語秘伝書』所収の「盛久之事十二巻」を紹介した竹本幹夫氏は、長門本の盛久説話のみを〈盛久〉の直接の典拠とすることを問題視している。伊藤正義氏もまた、『平家物語』巻十二の六代御前の話、『沙石集』巻二の右馬允明長の話、延慶本『平家物語』巻三十五の肥後守貞能の話などを挙げ、能〈盛久〉と同様の『観音経』刀尋段段壊の利生譚の類型が多く存在したことを指摘した。これらを受けて、田口和夫氏は、清水観音効験譚を含め、室町期から近世にかけて見える「盛久譚の拡がり」を考察し、各盛久譚の諸要素を検討しつつ、〈盛久〉の成立、位置づけを行った。ほか、外村南都子氏により、早歌「海道」を基盤とする独立の謡い物「海道下」(「東国下」ともいう)における盛久の心情を、能という形式で表現する点に、能「『盛久』のねらい」が見出されてもいる。\n こうした先学の作品成立論をふまえつつ、改めて考えてみたいのは、能〈盛久〉は、数々の盛久説話や清水寺縁起、刀尋段段壊の説話、「海道下」などを下敷きとして利用しながら、どのような物語を新たに表現したかったのか、ということである。結論を先取りするならば、能〈盛久〉は盛久の霊験譚を利用しつつも、斬首を控えた極限状況下に自らの「命」を見つめる人間の心情、という独自の主題を新たに打ち出そうとしていると考える。すでに三宅晶子氏によって、「〈盛久〉では、観音による奇跡を描いた曲であるにもかかわらず、一曲を貫く主題は盛久の心情描写」にあるとの指摘もされており、本論文では、その主題を「命」を見つめる心情の機微として、より明確にしてみたい。本稿がテキストとする世阿弥自筆能本〈盛久〉では、「命」の用例が現行曲中で最も多く、八例(諸本・五流では六例)を数えることも重視しておきたい。\n 松岡心平氏によれば、観世元雅の作品には、すでに父世阿弥によって多く表現されていた、シテとなる死者の「情念が全面的に解放されてカタルシスに至る」というような「幻想の共同体」への否定が認められるという。元雅の「精神的地平」は、「死さえも限りなく個人化させてしまう」、「幻想が共同体へとは開かれず、個人の意識の中に閉じ込められてしまう」ところに開かれている。また松岡氏は、元雅作と考えられる他作品〈傘卒塔婆(重衡)〉〈朝長〉〈隅田川〉と同様に、〈盛久〉もまた極限状態に置かれた人間の心情に興味を示していることを指摘している。こうした元雅の作風に鑑みると、能〈盛久〉はもはや当時の常識となっていた平盛久の観音霊験譚をなぞるのではなく、むしろ霊験譚がその枠組みを確立する上で削ぎ落としてきた人間の内実、つまり極限状態にある一人の生身の人間の内側から滲み出てくるリアルな心情を詳細に描出する目論見で制作されたのではないか。以下、考察を試みる。\n\n 二 能〈盛久〉と盛久説話の「夢」をめぐって\n 本節では、簡単ながら、他の盛久説話との比較を行うことで、能〈盛久〉が清水観音霊験譚に拠りつつ、それを一囚人の「命」を見つめる物語として描き直したものであることを確認したい。多様な広がりを持つ盛久説話のうち、盛久の「命」の行方とそれに伴う心情について語るのは、能〈盛久〉だけなのではないだろうか。\n 一例として、盛久説話につきものとなっている、観音がもたらす「夢」のあり方に注目してみたい。能〈盛久〉では、観音経の冥護によって刀が折れて処刑を免れ、頼朝の前に召しだされた盛久が、前日に見た夢告の内容を語る。盛久の夢に現れた、清水観音が変化した「老僧」は、盛久に対して「われ汝が命に、代るべし」と約束する。長門本『平家物語』の盛久譚では、頼朝の「室家」の夢に同じく「老僧」が現れるが、「盛久、斬首の罪にあてられ候が、まげて宥免候べき」と伝えるのみである。語り手によって「此事、清水寺の観音の、盛久が身にかはらせ給たりけるにや」とは語られるものの、「命」という言葉は見えない。刀尋段段壊の霊験譚である『平家物語』肥後守貞能の話でも、鎌倉殿の夢の中に「老僧」が現れるが、「貞能ヲバ今ハユルシ給へ。我カワラム」「我已ニカハリヌルナリ」と伝えるのみで、やはり「命」という言葉はどこにも見えない。時代はやや下るが、永正十七(一五一八)年の『実隆公記』にはすでに成立していたことが判明している「清水寺縁起」の霊験譚では、処刑を明日に控えた盛久の夢中に「老僧」が現れるが、盛久の身について「安く急災を退くべし」とあるのみで、ここでも「命」という言葉はない。\n 参考として、世阿弥の音曲論『五音』下所収の「六代ノ歌」を見ておこう。処刑を控えた六代を救いたい一心の母によって、初瀬観音に向けて刀尋段段壊の観音経が読誦されるが、母の祈りには「我が子を助け給へや」とあり、助命を知らせた斉藤五の言葉にも「喜びの御教書にて、助からせ給ふ」とあるのみで、「命」という言葉は見えない。あくまで能〈盛久〉のみが、盛久の「身」や「急災」ではなく、「命」という言葉を持ち出す点に注意したい。\n 同じ元雅の作品とされる〈笠卒塔婆(重衡)〉では、南都を焼き討ちした罪により奈良坂で処刑されたシテ平重衡の亡霊が、その「最期」を迎えた瞬間について「けふも命は知らねども飛鳥の寺の夜の鐘…」と回想している。刑の執行を今日か明日かと待つ、追い詰められた極限状態の心境である。なお、この「けふも命は知らねども」は、実は世阿弥作〈卒塔婆小町〉にも見えるものであった。\n 頸にかけたる袋には、いかなる物を容れたるぞ、シテ「けふも命は知らねども、あすの飢ゑを助けんと、粟豆の\n 餉(かれいい)を、袋に入れて持ちたるよ、……\n「百年の姥」であるシテ小町は、今日も明日をも知れぬ命であるが、明日の飢えを凌ぐために「粟豆の餉」を備えているという。井阿弥作の詞章に世阿弥が手を加えたという〈通盛〉でも、漁翁(前シテ)と姥(前ツレ)が「なにを頼みに老いの身の、命のために使ふべき」と老い先短い命のために漁労にあえぐ身を嘆いている。世阿弥の用いる「命」は、いつまで続くか自分でもわからないものの、それが絶たれることを自らの力で何とか食い止めようと抗う対象である。一方、元雅は、世阿弥の「けふも命は知らねども」を転用しつつ、刑死という極めて絶望的な状況に置かれた人物の、もはや自らの意志では決して抗いようもない「命」の終焉に向かう一瞬一瞬に、興味を示すのである。\n 三 鎌倉に至るまでの心境をめぐって\n\n 〈盛久〉の第二段〔サシ〕からは、清水観音と惜別し、京都から鎌倉までの死出の旅路を籠輿で行く盛久の、重苦しい鬱情が語られている。本節では、その語り方に注目したい。\n 京から鎌倉までの道中における盛久の心情について、長門本『平家物語』には次のようにあった。\n 盛久、まだしらぬ東路に、千行の涙をのごひ、暁月に袂をうるほして、われ、清水寺の霊場に、千日参詣の心ざしを運、多年本尊に祈奉、信心のまことをこらしつるに、日詣空しくなりぬ、あはれ、西国の戦場に、軍破て人々海に入たまひし時、おなじく底のみくづともなりたりせば、今日かかる憂めに〔は〕あはじものを、とおもはぬ事もなく、おもひつづけてなげき暮し、朝の露に命をかけ、日数もやうやくかさなれば、鎌倉にも下着しぬ。\nここでは、「朝の露に命をかけ」とあり、盛久が日々儚い「命」を紡いでいるといわれる。ただし、盛久が特に己の「命」を深々と見つめる瞬間は描かれない。長門本における盛久は清水寺への千日参詣の最中に捕らえられてしまったことになっており、参詣が途絶してしまったことへの無念さを悲嘆していたり、西国戦場における平家敗戦の折に共に入水しなかったことを振り返って後悔したりしている様子が窺える。「おもはぬ事もなく、おもひつづけてなげき暮し」とあるように、京から鎌倉への旅の途次、盛久の胸中には、様々な思いが飛び交ったとされている。\n 一方、能〈盛久〉で語られるシテ盛久の心境はどのようなものであったろうか。少々長いが、以下に全文を引用する。\n 〔一セイ〕(シテ)いつかまた、清水寺の花盛り、帰る春なき名残かな。(シテ)音に立てぬも音羽山、滾つ心を人知らじ。\n 〔サシ〕見渡せば柳桜をこき交ぜて、錦と見ゆる故郷の空、またいつかはと思ひ出の、限りなるべき東路に、思ひ立つこそ名残なれ。(シテ)われなまじひに弓馬の道に生まれ、世上に隠れなき身とて、思はざるほかの旅行の道、関の東に赴けば、あと白川を行く波の、いつ帰るべき旅ならん。\n 〔下ゲ哥〕ここはたれをか松坂や、四の宮河原四つの辻。\n 〔上ゲ哥〕これやこの、行くも帰るも別かれては、知るも知らぬも、逢坂の関守りも、今のわれをばよも留めじ。勢多の長橋うち渡り、立ち寄る影は鏡山、さのみ年経ぬ身なれども、衰へは老蘇の、森を過ぐるや美濃尾張。\n 〔下ゲ哥〕熱田の浦の夕潮の、道をば波に隠されて、回れば野べに鳴海潟、また八つ橋や高師山、また八つ橋や高師山。\n 〔ロンギ〕潮見坂橋本の、濱名の橋もうち渡る、旅衣、かく来て見んと思ひきや、かく来て見んと思ひきや、いのちなりけり、小夜の中山はこれかとよ、変はる淵瀬の大井川、過ぎ行く波も宇津の山、越えても関に清見潟、三保の入り海田子の浦、打ち出でて見れば真白なる、雪の富士の嶺箱根山、なほ明け行くや星月夜、はや鎌倉に着きにけり、はや鎌倉に着きにけり。\n この道行は、『五音』下所収「海道下」を下敷きにしたものである。「海道下」は、〈盛久〉の前身とも言える作品で、「平家譜代(ノ)侍、武略の達者」である盛久が関東に送られていく道中の心情を、やはり名所・歌枕を詠み込みつつ語る、長大な謡い物である。「海道下」では、「白河」「今はたれをか松坂や、四の宮河原四つの辻」「知るも知らぬも逢坂の」「勢田の唐橋」「鏡山」「熱田」「けいりくに近き我身」「八橋」「山は高師」「潮見坂」「橋本」「小夜の中山」「命の内」「宇都の山」「清見が関」「三保が崎」「田子の浦」「富士の嶺」など、能〈盛久〉の道行と共通する地名を含んだ言葉が多く見える。\n 三宅晶子氏は、〈盛久〉の道行は、聴衆が既知の「海道下」を想起しながら聞くことを当て込んだ作品と考えられるものの、「海道下」と〈盛久〉道行(〔一セイ〕〔サシ〕〔下ゲ哥〕〔ロンギ〕)には「性格上に大きな相違」があることを指摘している。「海道下」では、盛久の正確な心情に焦点を当てるというよりも、「文飾や古典の引用」に興味が傾いており、一方の〈盛久〉は「刑場へ赴く心情を訴える前半」と〔下ゲ哥〕以降の「名所尽しの後半」によって成り立ち、「海道下」から「不必要な古典の引用と文飾を除いて、心情表現のみに圧縮」したものであるという。たしかに、三宅氏の指摘のとおり、「海道下」では、「けいりくに近き我身の、不死の薬やなかるらむ」とあるように刑死に対する慄きが語られる一方、全体は京から鎌倉にいたるまでの名所・歌枕を網羅するかのような文飾が目立っており、「都の方ぞ恋しき」という望京の念や、「在原の中将の、はるゞゝ来ぬと詠ぜしも、わが身の上に知られたり」といった業平の東国下りにその身を重ねる点など、「刑戮」を控えた旅の途次としてはやや不的確な心情が見えることは確かである。\n しかし、筆者は、〈盛久〉の道行は、それらの「文飾」を取り除き、圧縮させたというよりも、「刑戮」に向かう人間の心情を内的機軸として「海道下」を構成し直したものと見做したほうがよいと考える。また、単なる「名所尽し」であるかのように見える後半部分からも、刑場へと迫るシテ盛久の、切なる叫びを読み取ることができると考える。\n まず、〈盛久〉の道行において選び取られた地名・言葉に改めて注目すると、「白川」「波」「河原」「熱田の浦の夕潮」「波」「鳴海潟」「潮見坂」「淵瀬の大井川」「過ぎ行く波」「清見潟」「三保の入り海」「田子の浦」など、水にまつわるものが多い。これは、「音に立てぬも音羽山滾つ心を人知らじ」、また自筆本における改訂前の本文(以下、〈原・盛久〉\n\n\nとする)に「洩りても余る涙かな」(改訂後は「森を過ぐるや美濃尾張」)とあるように、盛久の道中が一貫して涙に暮れるものであったことと緊密に関係しているのであろう。\n また、「勢多の長橋うち渡り」「八つ橋」「橋本」「濱名の橋もうち渡る」とあるように、「橋」という、現実と異郷を結ぶ水辺の境界を渡る場面の多いことも注目される。畳み掛けられる「橋」によって、刑地鎌倉に近付いていく盛久の、生死の境にある不安定な境涯が強調されているのではないだろうか。\n さらに、最も注目されるのは「いのちなりけり、小夜の中山はこれかとよ」である。これは既にテキストとした日本古典文学大系本の頭注によって指摘されるように、『新古今和歌集』羇旅歌、西行の、\n 東の方へまかりけるに、よみ侍りける\n 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山\nを踏まえている。この歌は、「海道下」中にも「岸辺に波を掛河、小夜の中山中くに、命の内は、しらくもの、又越ゆべしと思ひきや」と引かれ、小夜の中山を再び越えることが命のある内にできると思うだろうか、との盛久の感慨が表されている。\n なお、世阿弥の廃曲〈逢坂物狂〉も、囚人として刑地に赴く盛久の心情とは別の文脈で「海道下」を引いている。松岡心平氏によれば、〈逢坂物狂〉は、元雅が解体して〈弱法師〉〈盛久〉〈歌占〉〈蝉丸〉を生み出す基盤となった曲であるという。〈逢坂物狂〉では、蝉丸の化身である盲目乞食と、父と生き別れになった子が共に「海道下」を舞い謡う。この「海道下」は、曲のはじめに父が子を尋ね求めて東国にはるばる下ってきたことを語る場面に重ねられている。また、子の父恋しさを募らせ、同時に盲目乞食(実は関の明神の変化)による子への憐憫を深まらせるという、重要な機能を負っている。盲目ゆえに父である醍醐天皇に棄てられた蝉丸の化身である関の明神は、「海道下」を経て、子に「あはれ」と「共感」し、親子再会という奇跡をもたらすのである。ただし、〈逢坂物狂〉では、物語と「海道下」の引く西行の「命」の歌との間に、強い連関は見えない。古典文庫〈逢坂物狂〉によれば、〈逢坂物狂〉中の「東国下」は、五百番本では全文を引くものの、諸本によっては、そもそも「夕汐のぼる橋本の」以下は省略されており、「命」の本文まで引用されない場合が多いとのことである。\n それでは、能〈盛久〉における「かく来て見んと思ひきや、かく来て見んと思ひきや、いのちなりけり、小夜の中山はこれかとよ」は、いかがであろうか。これは、西行歌の「越ゆ」を「来て見」という動作に変え、しかも上の句の一部を二度繰り返すことでその驚きを強調しつつ、西行歌の「命なりけり」に焦点を当てた引き歌表現である。ここでは、まさかおのれの「命」をこのように来て「見る」ことになると予想しただろうか、あの「命」が詠まれた小夜の中山とはこの地だったのか、と死を前に自らの「命」を見つめざるを得なくなったことを歎ずる意味へと変わっている。この「命」は、新潮日本古典集成本〈盛久〉の頭注が指摘するように、一曲中に散見する他の「命」と呼応しあうものと捉えるべきであろう。思いがけず再度中山を越えることになり、老いてなお「命」のあること、いわば生への感動を詠んだ西行歌と、思いがけず死を目前におのれの「命」の終局を見つめざるを得ない状況に追い詰められた〈盛久〉とでは、その詠歌の状況は全く異なっている。\n なお、「あと白川を行く波の、いつ帰るべき旅ならん」が、〈原・盛久〉では、「あと白川を波は行き 我は帰らぬ旅ぞ憂き」となっていた。落合博志氏によれば、この改訂は「表現・用語に関わる」ものに分類されるという。落合氏は、改訂後は「余情」が重視された本文となっており、内容としては不正確であると指摘する。〈原・盛久〉の表現は、「やや舌足らずで直叙的」ながらも、既に「帰る春なき名残かな」「またいつかはと思ひ出の、限りなるべき東路に、思ひ立つこそ名残なれ」とされており、帰還の可能性はないもの、と理解していた盛久の覚悟に沿うものとなっていた。また、先述したように、「衰へは老蘇の、森を過ぐるや美濃尾張(身の終わり)」は、〈原・盛久〉では「衰へは老蘇の洩りても余る涙かな」とされていた。先の三宅氏の論文が指摘するように、改訂後の本文では「技巧の勝った表現」「元雅の原作でのぎこちなさが円熟した表現」へと変化した反面、「元雅の直接的な心情の訴え」が曖昧になっている。このように、〈原・盛久〉からは、改訂された世阿弥自筆本の〈盛久〉以上に、盛久が自らの「命」と向き合う心情を直截的に表現する傾向が認められる。この点については、次節の後半で触れたい。\n\n 四 世阿弥自筆能本と諸本(五流)、また改訂前本文〈原・盛久〉における態度の相違\n 世阿弥自筆能本〈盛久〉と、諸本(車屋本・光悦謡本・黒雪本・五流)の〈盛久〉本文とを比較すると、かなり多くの異同が認められる。まず本節では、世阿弥自筆能本において、シテ盛久がより自らの「命」の有無を強く意識するような本文が見られることを確認したい。第四段〔問答〕中、ワキ土屋三郎が盛久に処刑の時刻を告げる場面において、自筆本〈盛久〉のみが、諸本と異なり、次の二つの「命」について言及していることが注目される。\n 第一に、自筆本では、鎌倉に下着したシテ盛久が、これまで自分を大切に扱ってくれたワキ土屋に対して「この間のご芳心申すもおろかなり、命も候はばこのご恩をなどかは報じ申さざるさりながら」との本文が含まれる。一方、諸本では、土屋に対して「この程の土屋殿のご芳志、申すもなかなかおろかなり」とあるものの、「命」という言葉は見えない。\n 第二に、観音経を唱えようとする盛久の言葉についても違いが見える。自筆本では「われ毎日毎夜に観音経を読誦す、ことさら今夜命の限りにて候へば読誦し申し候はん」とある。処刑を明日と知った盛久の、「命の限り」である特別な夜の観音経読誦に向かう意気込みが語られていることになる。一方、諸本では「われこの年月清水の観世音ノ信じ、毎日かのおん経を怠ることなし、さりながらけふはいまだ読誦申さず候ふほどに、おん暇を賜はり候へ、かのおん経を読誦申したく候」とある。諸本では、観音経読誦に込められた思いが「命」の尽きる前夜ならではの特別なものであることが強調されることなく、日常的習慣を果たそうとする盛久の信心深さ、という程度に終わってしまう。\n 先に見たように、鎌倉への道中では、「命なりけり」と、籠輿の中で一人「命」を見つめる盛久の叫びが刻まれていた。また、まさに由比ガ浜にて処刑されようとする盛久の心情「命は今を限りなれば、これぞこの世の門出の道に、足弱弱と立ち出づる」と描かれている。自筆本は、「命も候はば」という明日には消失するであろう「命」のありよう、「今夜命の限りにて候へば」という処刑前夜と知らされた「命」の不安、観音経に救済を求める心境などについても言及することで、盛久が死に近づいていく一瞬一瞬の心情や態度を、より丁寧にとらえようとしているのではないだろうか。\n 同様の自筆本の態度は、一曲の最後で、救命された盛久が、頼朝の御前から退出した際の心境にも窺えよう。自筆本では、次のようにある。\n 長居は恐れあり、長居は恐れありと、罷り申し仕り、退出しける盛久が、心のうちぞ嬉しき、心のうちぞ嬉しき。盛久の最後の「心のうち」は「嬉しき」とあるが、その他の本では、すべて「ゆゆしき」となっている。観音の冥護の後も己の「命」の行方を握っていた頼朝の御前を退出したとき、盛久は、己の「命」を脅かされる不安から、真実、解放され、これまで誰かに委ねられていた「命」を自らの手に取り戻すことができた。そのとき、盛久の心中は、ただひたすら「嬉しき」という安堵の思いに満たされたはずである。この「命」の安全を得た時点での内面までを余すところなく語ることで、一曲を通じて追跡されてきた、盛久の「命」に向き合う心情表現は全円になるのではないか。助命を受けて「嬉しき」という心境になるようでは、およそ武士らしくない、という理由から、伝統的に「ゆゆしき」の本文が取られてきたのであろう。しかし、「ゆゆしき」という第三者による曖昧な讃美では、自由の身となった盛久の最後の心情が有耶無耶にされてしまい、一曲のテーマ性も弱まってしまうのではないだろうか。\n さて、改訂後の自筆本よりさらに遡って、〈原・盛久〉では、「命」に向き合う人間の心情や態度がより生々しく表現されていた点にも触れておきたい。盛久が、鎌倉殿によって「命は千秋、萬歳の春を祝ふぞ」と祝福の盃を受け、乱舞を所望される場面に注目しよう。 \n 〔問答〕では、シテ盛久は「平家譜代の侍武略の達者」で、昨年は「小松殿」(平重盛)の北山における茸狩の酒宴で舞い謡った、乱舞の名手であることが明らかにされる。盛久は長門本に「主馬判官盛国末子、主馬八郎左衛門盛久」とあり、『吾妻鏡』には「左兵衛尉盛久」であった折の姿が記される、平家譜代の検非違使尉である。暦応三(一三四〇)\n年成立『職原抄』下巻には、検非違使補任の条件について、「譜代・器量・才幹・有職・近習・容儀・富有ト云々」と定められている。能〈盛久〉の盛久像は、まさにこれに当て嵌まるであろう。「平家譜代の武略の達者」(譜代・器量・才幹)であり、「富貴」(富有)を謳歌した平氏一門であり、重盛近習の身と言われている。なお、『山槐記』第三・承安四(一一七四)年正月二十一日の「除目部類」には、「右兵衛尉平盛久、東寺灌頂堂修理功」との記事も見出せる。これは、盛久が「富有」の人であった傍証になるであろう。さらには、盛久が「乱舞の堪能聞こしめし及ばれたり」といわれる点にも注意したい。盛久が「乱舞」の名手であったということについては、『謡曲拾葉抄』に、\n 主馬判官左衛門盛久ハ……又号櫛笥盛久トモ。琵琶法師平家物語云、小松殿熊野参詣に、櫛笥盛久御供して今様など舞かなで、興を催しける\nと似たような話が載っている。この典拠は不明であるが、「乱舞」の名手としての盛久像は、後白河院時代の検非違使のあり方をよく反映していると見てよいだろう。『平家物語』には、後白河院の近臣で検非違使左衛門尉の平知康が鼓の名手で「鼓判官」と呼ばれていたことや、『平治物語』には、やはり後白河院の近習で検非違使左衛門大尉の平康頼が大変な美声の持ち主で、今様の名手であったことが記されている。後白河院代の検非違使は、概して芸能に秀でているというイメージが、能〈盛久〉の盛久像にも投影されているのではないだろうか。\n このような、いかにも検非違使らしい検非違使として知られる盛久が、立場が一転して「囚人」となり、助命されたいま、頼朝の御前で今様「一天四海の内のみか、人の国まで日の本に、唐土が原もこの所」、「曇らぬ日影のどかにて、君を祝ふ千秋の、鶴が岡の松の葉の、散り失せずして、まさきのかづら」と助命の喜びに重ねて頼朝の代の讃美を言祝いでいる。己の「命」を握る頼朝の御前で、盛久は「平家譜代の侍」の自尊心も消失させ、舞わざるをえない状態に陥っている。\n この場面について、自筆本では「いかに盛久暫しとて、御簾を上げて召さるれば、せんかたもなき盛久が」とあるが、〈原・盛久〉では、「しばしと召され祝言の御盃の出でければ〔盛久〕時の面目余りにて せんかたもなく盛久が」とあった。〈原・盛久〉では、頼朝の絶大な権勢を前に、従わざるをえない盛久の無力さが浮き彫りにされていよう。また、〈原・盛久〉では、〔一セイ〕「花を受けたる袂かな」の前に、「ありがたしく」と頼朝に対するお礼の言葉が挿入されていた。さらに、自筆本における今様「一天四海の内のみか、人の国まで日の本に、唐土が原もこの所」は、もともと『吾妻鏡』に見え、『中古雑唱集』にも引用されているものである。それを、〈原・盛久〉ではわざわざ「人の国まで名を聞けば みな日の本の鎌倉山」と改変させていたことがわかる。〈原・盛久〉において、鎌倉殿(頼朝)の前で「海彼までみな日本の鎌倉山」と称賛する盛久の姿は、改訂後の本文に比べ、「鎌倉殿」頼朝の御前でわかりやすく媚びているかのような印象さえ受ける。\n 〈原・盛久〉では、盛久の頼朝に対する感謝や怯えからくる阿りの態度が、改訂後よりも強く表れていたと言えるのではないか。盛久が生身の人間として「命」と向き合い、それを失うことに対する恐れや、救われたことへの安堵をより生々しく、ドラマチックに描くのが〈原・盛久〉の立場ではないだろうか。\n 五 おわりに\n 能〈盛久〉は、平盛久が清水観音の霊験によって劇的に救済されるという、観音霊験譚を踏まえて成り立つ作品である。唐突に「いかに土屋殿に申すべきことの候」ではじまる自筆本〈盛久〉は、当時の能の享受者たちにとって、盛久説話がいかに親しまれていたかを示すものであろう。しかし、能〈盛久〉は、その霊験譚をなぞりながらも、単なる奇跡劇を見せるのではない。死刑に臨む者がおのれの「命」を奪われる不安に慄き、「命」にしがみつき、「命」を取り戻した安堵感を得るまで、その一瞬一瞬の生々しい心境を切り取り、暴いてみせるという、まったく新しいドラマを展開させたといえよう。\n\n (注)\n(1)『五音』に「盛久 元雅曲 【ナムヤ大慈大悲ノ】」とあり、作曲者が元雅であることは確実であるが、作詞者も元雅と考えて差し支えない。なお、本論文における世阿弥伝書の引用は、すべて『世阿弥・禅竹』(日本古典思想大系)による。\n(2)落合博志「所見曲に関するいくつかの問題」『能と狂言』創刊号(二〇〇三年四月)\n(3)『平家物語』諸本のうち、平盛久について言及するのは、長門本のみである。\n(4)竹本幹夫「盛久の周辺」(『銕仙』二三七・二三八号、一九七五年十一・十二月)\n(5)伊藤正義校注:新潮日本古典集成『謡曲集』下〈盛久〉解題(新潮社、一九八八年)\n(6)田口和夫「盛久説話の系譜――能〈盛久〉の視点から――」『長門本平家物語の総合研究』第三巻論究篇(勉誠出版、二〇〇〇年)\n(7)外村南都子「研究十二月往来『海道』『東国下』『盛久』」(『銕仙』三六〇号、一九八八年六月)\n(8)三宅晶子「元雅の作詞法――「隅田川」と「盛久」に見られる心情表現――」『国語国文』(一九八〇年四月)\n(9)野々村戒三編、大谷篤蔵補訂『謡曲二百五十番集 索引篇』(赤尾照文堂、一九七八年)による。\n(10)松岡心平「共同幻想を否定する元雅」週刊朝日百科『世界の文学』二八(二〇〇〇年一月)\n(11)松岡心平「重衡または心の修羅劇」『橋の会第十二回後公演パンフレット』(一九八八年十二月六日・十二日)\n(12)長門本『平家物語』の本文は、麻原美子氏ほか『平家物語 長門本延慶本対照本文』(勉誠出版、二〇一一年)による。\n(13)『平家物語』延慶本の本文は、北原保雄ほか『延慶本平家物語 本文篇』(勉誠社、一九九〇年)による。\n(14)「清水寺縁起」の本文は、続々日本絵巻大成『清水寺縁起・真如堂縁起』(中央公論社、一九九四年)による。\n(15)〈笠卒塔婆(重衡)〉の本文は、横道萬里雄、表章校注・訳:日本古典文学大系『謡曲集』下(岩波書店、一九六三年)\nによる。\n(16)〈卒塔婆小町〉の本文は、日本古典文学大系『謡曲集』上による。\n(17)〈通盛〉の本文は、日本古典文学大系『謡曲集』上による。\n(18)注8\n(19)世阿弥自筆能本〈盛久〉には、夥しい修正・補筆の跡が見える。改訂前の本文については、世阿弥著・表章監修・月曜会編「モリヒサ」『世阿弥自筆能本集』影印篇・校訂篇(岩波書店、一九九七年)を参照した。\n\n\n(20)平林章仁氏『橋と遊びの文化史』(白水社、一九九五年)、また原岡文子氏「境界の女君――浮舟――」『源氏物語の人物と表現 その両義的展開』(翰林書房、 二〇〇三年、初出一九九八年五月)を参考にした。\n(21)『新古今和歌集』の本文は、峯村文人校注・訳:新編日本古典文学全集『新古今和歌集』(小学館、一九九五年)\nによる。\n(22)松岡心平「その後の逢坂物狂」『橋の会第五〇回公演パンフレット』(一九九六年十二月)\n(23)松岡心平「逢坂物狂――苦労人の神はやさしかった」『橋の会第四九回公演パンフレット』(一九九六年六月・七月)\n(24)落合博志「世阿弥の本文改訂――世阿弥筆能本の改訂箇所を読む――」『文学』(十一‐五、二〇一〇年九月・十月号)\n(25)『吾妻鏡』の本文は、岩波文庫による。\n(26)『職原抄』の本文は、群書類従による。\n(27)『山槐記』の本文は、増補史料大成による。\n(28)『謡曲拾葉抄』の本文は、室松岩雄編:国文註釈全書第六冊『謡曲拾葉抄』(國學院大學出版部、一九〇九年)による。\n\n〔キーワード〕観世元雅 能 盛久 霊験譚\n"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (484.6 kB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2023-04-28 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | ja | |||||
タイトル | 能〈盛久〉論 : 「命」を見つめる物語 | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
倉持, 長子
× 倉持, 長子 |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 201801015511124048 | |||||
元資料の情報 | ||||||
『謡曲集』上 (日本古典文學大系 40) 横道萬里雄 表章校注 岩波書店, 1960 | ||||||
書誌情報 |
國文學論輯 en : Kokubungakuronshu 巻 44, p. 19-34, 発行日 2023-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学国文学会 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | PISSN | |||||
収録物識別子 | 0286-7494 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN00090339 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 773 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
主題 | 観世元雅, 能, 盛久, 霊験譚 |