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楓厡』第二号、二〇一〇年三月)において取り上げたので、ここでは戦災によって校舎のほとんどを失った国士舘の再建に大きな支援を与えた緒方を取り上げてみたい。\n緒方は、朝日新聞社の記者・主筆を経て政治家となり、一九五五年一一月に自由民主党結党を成し遂げた後、次期の自民党総裁・首相と目されながら急死した人物として知られている。緒方の生涯をたどるための最も基本的な文献は、緒方竹虎傳記刊行會編著『緒方竹虎』(朝日新聞社、一九六三年)であり、渡邊行男『緒方竹虎 リベラルを貫く』(弦書房、二〇〇六年)などもこの伝記に多くを負っている。また、緒方の死の直後、彼と所縁が深い人物が寄稿した、桜井清編『回想の緒方竹虎』(東京と福岡社、一九五六年)には、緒方にまつわる様々なエピソードが記されている。学術研究の分野では、栗田直樹の詳細な研究がある。栗田は、戦前・戦後を通じて緒方が一貫した自由主義者であった点を強調する伝記などとは異なり、新聞社時代に培った情報管理の手法と人脈を武器にして戦時・戦後の政治の主宰者となっていく点に注目している(『緒方竹虎―情報組織の主宰者―』吉川弘文館、一九九六年、日本歴史学会編『緒方竹虎』吉川弘文館、二〇〇一年)。\n緒方に関する基本的な情報については以上を参照しながら、以下では緒方と国士舘との関わりを探ることを通じて、国士舘創立一〇〇周年に至る歩みの一端を振り返ってみたい。\n一 緒方の略歴\n緒方竹虎は、一八八八(明治二一)年一月三〇日、山形県書記官を務める父・道平と母・久重の三男として山形市旅籠町に生まれた。緒方が四歳になった一八九二年、父親の福岡県書記官への異動に伴い、福岡市へ移住する。福岡師範学校附属小学校、福岡県立中学修猷館に学んだ後、中国相手の商売を行う志を抱いて、一九〇六年、東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、一九〇八年七月に退学。この後、竹馬の友であった中野正剛のすすめにより、一九〇九年九月、早稲田大学専門部政治経済科第二学年に編入学した。卒業後の一九一一年一一月、朝日新聞社に勤務していた中野の紹介により大阪朝日新聞社に入社。イギリスへの留学期間を挟んで朝日新聞社での地歩を固めてゆき、一九二五年二月、三八歳の若さで東京朝日新聞の編集局長となり、一九三四年四月東京朝日新聞の主筆、一九三六年五月には一本化された大阪朝日新聞、東京朝日新聞の主筆に就任し、一九四三年一二月までその地位にあった。\n一九四四年七月、朝日新聞社取締役・副社長を辞任した後に政界へ転じ、小磯国昭内閣の国務大臣兼情報局総裁、鈴木貫太郎内閣の内閣顧問となり、情報政策の強化や本土決戦に備えた国民義勇隊の組織化に尽力する。一九四五年八月、敗戦処理にあたった東久邇宮内閣では国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任し、内閣全体の運営に手腕をふるった。この後、一九四六年八月に公職追放の指名を受け、一九五一年八月、追放を解除された。\n一九五二年一〇月、すでに死去していた中野の地盤であった福岡第一区から衆議院議員選挙に出馬し、初当選を果たした。以後、第四次吉田茂内閣の国務大臣兼内閣官房長官(のち副総理専任)、第五次吉田内閣の国務大臣(副総理)となり、吉田の退陣後は自由党総裁に就任。内閣と政局の運営に手腕を発揮し、大物政治家としてその存在感を増していった。緒方の宿願であった保守政党の合同が紆余曲折を経て成り、自民党が結党されて同党総裁代行委員に就任した直後、一九五六年一月二八日、急性心臓衰弱により六八歳で急死した。\n二 戦前の国士舘との関わり\n緒方と国士舘との関わりは、国士舘の創立者である柴田德次郎の学生時代に遡るようである。一九六六(昭和四一)年、国士舘創立四五周年の記念講演における柴田の発言によれば、一九一二年九月、早稲田大学専門部政治経済科に入学後、学内団体である「筑前学生会」の会合において朝日新聞の若手記者であった緒方と出会ったようだが、当時の史料によって確認することはできない。ただし、一九四二年時点の緒方の回想でも「今から三十年程前」、すなわち一九一二年頃に出会ったと述べていることから、柴田が早大生であった時分に出会ったことは間違いないようである。なお、両者の邂逅に福岡県出身者のネットワークが作用したことは推測できる。\n緒方は、早稲田大学専門部在学時から同郷の頭山満の厚い信頼を受けており、柴田も在学時より頭山の知遇を得ていた。同じく柴田が在学時に知遇を得、一九一七年一一月四日、国士舘の開校式において訓話を行うことになる中野と緒方とは竹馬の友であった。緒方と柴田との出会いは、同郷の頭山や中野を介したものであったと思われる。\n国士舘に対する緒方の関与が史料的に確認できる最初は、学外者に対して教育の門戸を開いた国士舘夏季講習会の第一回・第二回の講師である。朝日新聞の政治部長であった緒方は、第一回目は「欧米の思想に就て」(一九二二年八月)、第二回目は「協調的国民主義」(一九二三年八月。当初予定は「露西亜我観」)と題する講習を行った。これらの内容については、残念ながら知ることができない。ただし、「協調的国民主義」については、『東京朝日新聞』における緒方の連載記事「華\nワシントン府会議を顧みて」(一)・(五)(一九二二年四月一一日・同月一九日)において、各国の「国民的自主」に基づく「国際協調」を「協調的国民主義」と捉え、「争覇的国民主義」から「協調的国民主義」へという世界の世論の「新思潮」が国際協調を謳ったワシントン会議成立の背景にあることを述べており、国士舘の講習会における「協調的国民主義」はこれと同趣旨の内容であったと考えられる。なお、第一回講習会の際に実施された朝日新聞社の見学は、緒方の協力によるものだろう。この時、国士舘の創立に貢献した徳富蘇峰が主宰する国民新聞社の見学も行われている。緒方は、東京朝日新聞社編集局長となった後、国士舘の教員による剣道・柔道の理論・実科と各界の名士などによる講演を組み合わせ、一九三一年七月に国士舘専門学校において開催するとした「第二回文武夏季大講習会」の講師にもなっており、国士舘が実施する教育の一端を担っていた。また、緒方は一九二五年四月に創設した国士舘中学校の校舎の新築に対する寄付を行っており、資金面でも国士舘に便宜を図っていた。\nこの後も、緒方の国士舘への関与は様々な機会においてみられた。例えば、一九二七年三月二二日に開催された、国士舘創立前からの支援者であった野田卯太郎の追悼会の発起人の一人になっている。また、一九三三年から一九四一年にかけて、国士舘では学生、教職員や財団法人理事が、柴田の理事辞職を求める行動を起こした。\nこの最中、一九三七年一月に蘇峰が起草した「国士舘憲則」は、柴田を「主盟」として国士舘の同志的結束を図るとしたものであり、署名には頭山などとともに緒方も名を連ねている。さらに、一九四二年一一月四日、世田谷で開催された国士舘二五周年記念式典には衆議院議員であった中野とともに出席し、祝辞を述べている。そこでは柴田を「率先垂範」の教育者であると称揚している。\nなお、中野は、一九四三年一〇月、東条英機内閣打倒を試みたことから警視庁に検束された後に憲兵隊の取り調べを受け、帰宅後に割腹自殺した。中野の葬儀委員長を務めた緒方は、柴田を介して、また書簡によって、蘇峰との間で中野の顕彰碑建立について相談をしている。\n緒方は、翌年一〇月二七日に行われた中野の一周忌法要において、蘇峰が寄せた追悼文を柴田が代読したこと、さらに翌日には蘇峰が撰文し、頭山の筆になる「魂」を冠した顕彰碑の除幕式が行われたことを書簡にて蘇峰に報告した。\n以上のような緒方の国士舘への関与や葬儀に際しての行動は、同郷者の人的ネットワークの中で行われたものであったといえる。ただし、その根底には、同郷者に対する親近感だけではなく、以下に述べるように反共産主義があった。\n緒方は、日独防共協定に対する一般の認識を高めることを目的とした民間有志の集まりである「日独防共協定強化同志」の一人であった。反共主義の立場が鮮明であるこの団体の「宣言」(一九三七年九月三日、可決)を起草したのは蘇峰であり、頭山、中野、柴田なども名を連ねた。緒方、柴田などが参加した実行委員会は、協定締結一周年の祝賀会や記念講演会などを企画・開催した。イタリアが防共協定に加わった翌年の一九三八年二月には「日独伊防共協定強化同志」と改称し、同年一一月二四日には有田八郎外相のほか、駐日イタリア・ドイツ両大使、満州国大使、貴族院議員、陸・海軍人、官僚など三五〇余名参加のもと、防共協定締結の記念祝賀会を開催しており、緒方、柴田も出席している。日独伊三国同盟が締結された翌月、一九四〇年一〇月二一日に日比谷公会堂で開催された「大詔奉戴三国同盟推進大会」には、柴田、花田半助といった国士舘関係者らとともに緒方も参加し、緒方の発声によって「日独伊三国同盟の万歳」が三唱された。\n緒方は、一九四〇年八月に開催された朝日新聞の方針を決定する編集会議において、国際政治におけるドイツ、イタリアの比重が重くなってきていることに加え、防共協定の関係から日独伊三国同盟に反対できない旨の発言をしている。緒方のこの発言の背景には、上述したように反共産主義を掲げる団体における具体的な行動があり、そこでの人脈は同郷者や国士舘のそれと重なっていた。\n三 戦後の国士舘との関わり\n第二次世界大戦後の一九五二(昭和二七)年五月一日、緒方は交詢社において国士舘再建のために開催された会議に出席した。略歴で確認したように、緒方の公職追放が解除されたのは一九五一年八月であり、解除によって学校法人(一九四六年一月、財団法人の名称を国士舘から至徳学園に改称、五一年三月に学校法人至徳学園となる)への関与が表だってできるようになったことが、会議へ出席した理由と思われる。この会議には、緒方や柴田のほか、元外相で緒方や柴田らとともに防共協定強化同志として活動した経験をもつ有田八郎など計八名が出席している。会議と同日の日付が記され、緒方の起草とされている「国士舘再建趣意書」には、敗戦後の占領政策によって至徳学園と改称したが、国士舘の名称を復するとした宣言に続いて、以下の文章がある。\n然らば、本当の人間とは何であるか。今の世においては何等特別の徳操ではない。常識である。平衡を得た人格である。狂人が走つても共に駆け出さない平常心の持主である。事は極めて平凡の様であるが、如何なる威武の下にも、如何なる誘惑の前にも能く平常心を失はず、判断を誤らないことは容易の如くにして決して容易でない。而してそれを能くすると否とは、殆ど繋つて常識を具足するか否かにあるのである。\nイギリスに空前の総罷業が行はれ、そしてそれが腰砕けに終つた時、ボルドウィン首相は「これは英国民の常識の勝利だ」と叫んだ。正にそれは政府権力の勝利でなく、国民常識の勝利だつたのである。\n例をイギリスに求めるまでもない。古来国を危くするものは平衡の喪はれた心であり、国の根幹が常識によつて固められるならば、動乱の中に立つても国は危くない。国士舘の養成せんとするものは、この常識であり、如何なる誘惑の前にも平常心を喪はない人格である。\n今日の教育について種々の批判を聞くなかに、最も大なる欠陥は、その教育の方針が国の常識と懸け離れて居ることである。学問の自由を叫ぶうちに教育の目的を忘れたところにある。役に立つ人を作る代りに役に立たない人を作りつゝあることである。\n国士舘は深く日本の将来を考へ、国の常識に基いて役に立つ人間を作りたい、それが念願である。[後略]\n緒方の起草とされているのは、新聞記者として、また東久邇宮内閣では首相の演説や放送などの原稿を、吉田内閣では首相の演説草稿の作成を行うなど健筆をふるった実績によるためだろう。また、イギリス政府・経営者が石炭産業の合理化を要求したことに対して、労働組合会議(労働組合のナショナルセンター)が一九二六年五月四日から一二日にかけて実施したゼネラル・ストライキを例示して述べている「国民常識」については、同様の表現が緒方の他の文章にみられる。一九五五年一一月の自民党結党直後、日本における二大政党制の今後のあり方を論じた「私の政治理念」において、緒方は「国民の常識」に規定された国策の「共通な広場」があるイギリスの二大政党制では円滑な政権移動が行われているが、日本では自民党と社会党との間に「国民の常識」に規定された「共通の広場」は無く、このため当分は「保守勢力が祖国再建に当るほかないと考えている」と述べている。ここには「再建趣意書」の文章と通底するものがあり、趣意書に緒方の考えが反映されていることが窺われる。緒方による二大政党制の基礎としても主張されることになる「国民の常識」、「再建趣意書」の表現では「如何なる誘惑の前にも平常心を喪はない人格」の「養成」に加えて、「国の常識に基いて役に立つ人間を作」ることなどが、対日平和条約が発効し日本が独立した直後の時期に、国士舘の教育方針として示されたのである。後にこの「再建趣意書」は政治家・財界人・文化人など二八五名の署名を得て、国士舘の募金活動に活用された。\n一九五二年八月五日には、国士舘の発展を支え続けることになる「国士舘大学維持員会」が発足した。顧問総代の緒方や会長に就任した小坂順造(信越化学工業社長であり、戦前、防共協定強化同志として、緒方や柴田とともに活動)ら政界・財界などから五二名が会員となった。緒方ら維持員などからは寄付金が寄せられた。また、緒方は幅広い人脈によって国士舘を支えた。緒方や柴田と同じ福岡県出身で文部官僚であった剱木亨弘の回想によれば、柴田は日曜・祭日を除く早朝、緒方家に日参し、緒方からの紹介状を持って有力者を訪ね、学園再建への協力を懇請したという。また、緒方は剱木を自邸に招き、柴田と引き合わせている。この後、柴田は緒方家訪問の帰りに剱木家を訪問するようになり、短期大学設立に関して相談をするなどしたとされる(剱木亨弘『戦後文教風雲録―続牛の歩み』小学館、一九七七年、一七七~一七九頁)。国士舘短期大学は一九五三年四月に創設され、同月二六日に開催された入学式および開学式には、蘇峰や緒方など維持員が臨席した。\n緒方ら維持員など二一名が出席して、一九五五年五月一九日に開催された「国士舘再建感謝報告会」において、柴田が体育武道の教員養成を軸とする大学の創設に向けて支援を訴えたことが契機となり、翌年四月、短期大学に体育科が増設された。自民党結党の後、党総裁代行委員となった緒方は多忙を極めていたが、一九五五年一一月二五日、体育科の増設に伴って建設されることになった新体育館(後の「第一体育館」)の上棟式に訪れている。一九五六年一月二八日、緒方が急死したため、一九五七年一月二九日に行われた新体育館の落成式では「緒方竹虎先生一週(周)年祭」を合わせて行い、緒方の遺徳を偲ぶ機会とした。緒方の妻、息子などが来賓として招待され、また体育館正面には記念として上棟式に訪れた際の緒方の写真が拡大して掲げられた。緒方などの支援によって創設された短期大学体育科は、一九五八年四月に創設される国士舘大学体育学部へと受け継がれることになる。\nおわりに\nこれまで見てきたように、緒方と国士舘との関係は戦前からのものであり、広い人脈をもち、また政治家としての存在感が増した戦後の緒方は、政界・財界・官界の様々な人物の国士舘に対する支援を取り付ける上で重要な存在であった。\n緒方は、一九五五(昭和三〇)年五月二七日、多忙な国会の合間を縫って母校である修猷館高校の創立七〇周年記念式に出席し、若者たちに対して日本の再建に必要不可欠であるのは「国民の独立の気魄」を取り戻すことであると訴えた。「気魄」は、柴田が掲げ、現在まで受け継がれている国士舘の教育理念を示す四徳目「誠意・勤労・見識・気魄」にも含まれている。緒方と柴田の二人の交流が継続された理由のひとつとして、「気魄」という言葉で象徴される価値観を共有していたことがあったのかも知れない。"}]}, 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緒方 竹虎
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.7 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2018-11-20 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 緒方 竹虎 | |||||
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関連タイトル | ||||||
国士舘創立100周年記念 | ||||||
見出し | ||||||
大見出し | 国士舘を支えた人々 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
菊池, 義輝
× 菊池, 義輝 |
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書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 9, p. 133-140, 発行日 2018-03-13 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12479001 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 289.1 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol9.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第9号(2017) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
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キーワード | ||||||
緒方竹虎 |