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津軽海峡\nはるかな昔から津軽海峡は、ひとたび怒ればすべてを呑み込み、人々の往来を阻む魔の潮流海域と呼ばれていた。津軽半島では天に巻き上がる飛沫の姿を、龍飛崎と名付けて怖れた。また北海道側では、白波蹴立てて荒れ狂う姿に神を見いだし、白神岬と呼んで畏れてきた。\nいまここに、津軽海峡にかかわる二つの数字が並んでいる。「一〇分」と「一〇時間」という似て非なるこの数字に共通するキーワードは、海峡通過の所要時間である。\n「一〇分」とは、青函トンネル津軽海峡部分の距離二三・三キロメートルを、最新鋭の新幹線が通過する時間である。ただ、トンネル区間の全長五三・八五キロメートルが一般路線との共用区間であるため、通過する列車の速度は約一四〇キロメートル/時に抑えられている。したがって海峡部分を通過する所要時間は、約一〇分ということになっている。\n一方の「一〇時間」というのは、一九六七(昭和四二)年八月二七日に海洋冒険者・中島正一が国士舘大学三年のときに、北海道の白神岬から青森県龍飛崎間の津軽海峡を泳いで横断した記録である。魔の海峡に真正面から立ち向かい、世界で初めて遠泳横断を成し遂げたこの所要時間こそが、中島の栄光の刻印だったのである。そしてそこには、幼いころから海峡横断を夢見ていた中島の、壮絶なドラマが刻み込まれていたのだった。\n子供のころの中島にとって、唯一の遊び相手は海だった。北海道松前郡福島町の海は、いつも優しく少年を包んでくれていた。はるか沖に目をやると、海峡をはさんで望む青森県龍飛崎の陸影は、横臥する母龍のように優しく静かに中島少年を招き寄せていた。\nその町(福島町―引用者)からは、津軽海峡をへだてて青森の連山が見える。風がヤマセに変わる直前には、向こう岸の龍飛崎に家並みがはっきりと見えた。北海道の少年にとって、そこは憧れの「内地」である。\nそんな津軽半島に思いを馳せ、泳いでこの海峡を渡ることを、中島は子供のころから夢見ていたのである。\nだが、福島町では油を敷いたように穏やかな海が、一皮むけば獰猛な牙を覆い隠していることも、少年は地元の漁師たちから言い聞かされていた。「ベタ凪で海面は穏やかそうだが、ここには一皮捲れば海流が暴れまわっているんだ。だから沖合に見える縞模様の筋までいっちゃならねえ。とくにあの黒い縞の筋には、恐ろしい龍が潜んでいる」と。\n確かに、わずか一〇数キロの距離にある白神岬は、慣れ親しんだ海とはまるで異なる性格を見せていた。日本海から吹いてくる猛々しい北西の風に煽られた海面は、白い牙を剝き出しにして周囲を威嚇している。特に、この海の怖さを総身に擦り込まれてきたのは、江戸時代の松前藩の人々だった。\n二〇一六年三月二六日、北海道福島町と青森県外ヶ浜町で津軽海峡を渡す「烽火上げ」が、北海道新幹線の開業を記念して行われた。このイベントは江戸時代、松前藩の殿様が参勤交代の際に津軽海峡を渡る時の合図として烽火が使われたことに由来する。殿様を乗せた船が無事に津軽へ渡ると、烽火を焚いて松前側に報せ、海峡を挟んだ双方で君主の無事を祝ったのである。\n当時の日本人にとって、津軽海峡を帆船で渡るのは非常に困難なことであった。日本海側から猛烈に吹き込む偏東風を順風としたために、渡航が可能な日は年に数えるほどしかなかったからだ。渡航とは言っても、対岸の港を目指して航海するのでなく、帆船であることから行き先は文字どおりの風まかせ。複雑な潮の流れによって本土への渡航に失敗した船が、江差や亀田半島に逆戻りすることもあったようだ。津軽半島側も同様で、北海道側の何処かへ「漂着」できれば幸運な方で、渡航に失敗した船が東北地方に逆戻りしたり、運が悪ければ太平洋側に漂着したということもあったようである。したがって半島最北端の三厩港は、順風の日を待つ「風待ち」の旅人で賑わっていた。\n結局、何の支障もなく順調な時でも、松前~江戸間の藩の参勤交代に要する日数は三〇日弱。海が時化ていたり、春の降雨の多い時期ともなると、四〇日以上もかかったという。津軽海峡を渡るために順風を二週間も待ち、やっと出帆した記録もある。この難所を乗り越えるべく、長い歳月をかけて、多くの「人間」と「自然」の戦いが見られたのである。\n二 少年の夢\n中島の生まれ育った地は、北海道松前郡福島町である。そう聞いて「あれっ」と思われた方は、かなりの相撲通に違いない。というのもこの町の出身として、第四一代横綱・千代の山雅信、第五八代横綱・千代の富士貢といった昭和の大横綱の名が連なっているのだ。\n中島は、「私が小学生の頃、千代の山の全盛期であり、遊びも、楽しみも少なかった北海道の田舎町の少年にとって、千代の山は偉大で憧れの存在でした」と回想している。\n中島も中学・高校では相撲部に在籍し、相撲取りになろうと真剣に考えたひとりである。しかし彼の場合、相撲取りになるにはあまりにも体が小さく、角界の道を断念。同級生の岡部茂夫(千代の海)が出羽海部屋に入門するのを、指をくわえて見ているしかなかったという。一方、中学生時代から運動神経が抜群だった千代の富士貢は、走り高跳び・三段跳びの陸上競技で、「オリンピック選手もいける」といわれるほどの活躍だった。中島は以下のように回想している。\n大学に入った夏休み、先輩顔をして、中学校の相撲部に稽古に行ったら、今の千代の富士の秋元がいました。中学生と大学生である自分とでは、体力も技術も違いすぎ、文字通りち切っては投げでした。しかし、その中で千代の富士は少し違っていました。\nすぐに転ばずに足腰が柔かく、粘り強かったのです。\n体格が及ばずに相撲取りをあきらめた中島とは対照的に、素質にも、体格的にも恵まれていながら相撲が大嫌いだった千代の富士が、皮肉にも同郷の横綱・千代の山の九重部屋に入門することとなったのだ。\n数年ぶりに二人が出会ったのは、浅草にある九重部屋に中島が同級生を訪ねた時のことだった。そこで稽古をしていた千代の富士の姿に、中島は驚いた。「お前来ていたのか」「はあ」\nこれがこの時、二人が交わした唯一の言葉だったという。\nこうして改めて見ると、同じ町から親方と弟子の二代にわたって不世出の大横綱を輩出し、加えて中島という稀代の海の冒険家を誕生させた福島町(二〇一七年八月現在で人口四二二七人)という土地柄には、尋常ならざるものを感じる。やはり。この町には独特の気質があり、風土が備わっているように思えてならないのである。福島中学校の記念誌『確かな足あと』で、中島は次のような一文を寄せていた。\n単に「忍耐」などで物事は前進せず、それを超えよう、越えようとする撓まざる挑戦の精神こそが、大事を成し遂げるという“福中魂”の伝統をわれわれは体得していったのである。\nこのような地域に繋がる精神性を感じさせるような言葉を発し、福島人気質、福島の風土の伝承を仄めかしていた。\nこうして、幼き頃からの夢を抱きつつ、中島は上京して国士舘大学へ通うこととなる。当初大学では水泳部に所属せず、レスリング部に籍を置いた。同じ北海道出身で、一時は千代の山に弟子入りした縁をもつ、三歳年長のプロレスラー・グレート小鹿の影響も多分にあったように思われる。ただ、幼き頃の夢を抱いていたことから、中島はすぐに水泳に方向転換をする。\n私がこの海峡にチャレンジすることを決心したのは、国士舘大学にはいった一年生のときでした。今振り返ってみるならば、国士舘大学の建学精神と一週一度の館長先生の訓話が、私の心の奥深く響いていったのは言うまでもありません。\nそしてその時から、津軽海峡の調査を始めました。恩師から青函トンネル工事の調査資料をもらったりして、潮流の最強時が八~九ノットあることが判明した。細々と三年かかって集めた資料は、決して充分ではなかったが、いよいよ大学三年の一九六七年八月に決行しようと決心した。\n中島にとって、夢が目標に変わった瞬間である。\n三 挑戦\n一九六七(昭和四二)年八月二七日、ついに津軽海峡横断を決行した。\n北海道の南端、松前郡福島町白神岬灯台から約一キロ西の岩場の海岸を、午前七時にスタートする。南東二メートルの風、気温二四度、水温二一度とまずまずのコンディションであった。海峡の中央部までは、むしろハイピッチで進んでいたのだが、五時間も経つと海は想像していた以上の手荒い歓迎を用意していたのである。\n私は海峡中央部を流れる千島海流にゆく手をはばまれ、流され始めたのだ。地元の漁師が「大潮」と呼んでいる時速一〇キロの強い北東流だ。話には聞いていたが、まるで激流だ。\n縞模様の潮目に入ったとき、中島はみるみる湾の中心部に流されていったのだった。二〇年間も遊び育った親戚みたいな海だったが、このときは頑固な親父のように厳しく突き放してきたのである。なお、引用した中島の文章にある「千島海流」は、「津軽海流」の誤記である。\n日本海を北上してきた対馬海流は、津軽海峡の西口付近で流れを二分する。一方はそのまま北へ進んでいくのだが、大半は津軽海流となって東へと向きを変えて津軽海峡へ入り込んでいくのである。この流れが海峡の入口に殺到するので、日本海側の方が海面の高さが太平洋側より若干高くなる。それにより海水は太平洋側へ流れる傾向になっていく。これは傾斜流といって、海面に傾斜ができるとその高低差を均一にするために流れが生じるのである。通常の流速は一~三ノットで、冬季よりも夏季のほうが比較的強い流れとなっている(一ノットは、時速約一・八キロメートル)。ただこの流れは、時刻によって大きく変化してくる。潮の干満の影響である。津軽海峡をはさんで、潮位差の大きい太平洋の潮汐と、潮位差の少ない日本海の潮汐が大きく影響している。\n特に津軽海峡が四つの半島に囲まれていることによって、潮の流れはより複雑になっていく。東の太平洋側には本州側の下北半島と北海道側の亀田半島、一方の西の日本海側では津軽半島と松前半島が向かい合っている。\nこの内海型の地形状況が、潮の干満や気象条件によって海流を西へと反転させるのである。それが東進してきた対馬海流と激しくぶつかった時、潮は大きく渦を巻きはじめる。こうした複雑な動きが、古くから船舶の航行を妨げ、難航や遭難を引き起こしてきたのである。\nさらに今、津軽海峡が横断者の中島を遮る要因の一つに、日本海を南下する寒流であるリマン海流の存在があった。日本海を北上してなだれ込む暖流の対馬海流と、ユーラシア大陸沿いに日本海を南下するリマン海流の温度差である。通常、水は四度で最大密度となる。したがって暖流と寒流がぶつかった場合、水温の低い海流が下へ潜っていく。ところが津軽海峡の場合、かつて陸続きだった頃の名残が、思わぬ悪戯を冒険者に仕掛けてきたのだった。津軽海峡の海底図を見ると、津軽半島から松前半島にかけて馬の背のような小高い尾根状の地形となっている。これが氷河期の当時陸地であった場所で、海峡中央部の海底には水が一気に堰を切って流れた「海釜」も見ることができる。つまり寒暖の二つの海流は、この尾根にぶつかって撹拌されながら、海峡になだれ込んできていたのだった。\nその小高い尾根状の所を、現代人は青函トンネルで結んだのである。青函トンネルは津軽半島と松前半島の間を、約一万三〇〇〇年振りに陸続きにしたのだった。\n津軽海峡ではいくつもの潮目が確認できるが、多くは暖流と寒流の境であり、またそれぞれの潮の速度によるものである。寒流は海面で縞模様を描きながら、泳者に襲いかかる。潮の速度が作る激流との葛藤のほかに、この潮目は中島の体温も容赦なく奪っていった。中島によれば、「夏とは言いながらも、北の海は冷く、水温は低く、二時間もしたら体が冷えてきた。泳ぎ始めて三時間ぐらいで疲労が襲ってきた」という。また、中島は次のようにも語っている。\n泳いでも泳いでも前に進むどころか、流されていく。何としてもこの潮流を泳ぎ切らなければならない。だが、到達予定点はどんどん遠のいていく。このままでは横断は不可能になっていく。\nとうとう、伴走船のスタッフが心配して、流された地点まで船で引っ張り戻すことになった。\n三度ほど大きく流され、漁船に引上げられて予定のコースに戻してもらったことについて、中島は次のように語った。\n潮の流れがあまりに速すぎてこれに対応する泳ぎ方の研究が不足であったこと、ケイレンを起したこと、遠泳時間とエネルギーの関係の調査についてはやはり勉強が足らなかったことなど、いろいろ大きく反省させられることがあります。\nまた、水温との戦いも熾烈を極めた。体温の低下と疲労で極度に弱り、途中、幾度も挫折しそうになったが、中島は決して音を上げなかった。子供のころから培ってきた、福島魂の本領発揮である。中島は、歯を食いしばって堪えぬいた。その彼の精神的支柱となっていたのが、「泳道」という言葉だった。中島は自らを「泳士」と名乗っていた。「武士道に通じる」が中島の好きな言葉だった。\n「泳道」\n花に華道、茶に茶道、泳ぎにも泳道があっていいと思う。続けてこそ道である。続けることの苦しさや辛さを乗り越えていく過程で、多くのことを学ぶ。それが泳ぎの「道」である。\n「泳道一如」\n泳ぎの道をきわめるには 水と話し合い水の心を知らなければならないそこに人水一体の境地が生ずる 泳道一如とは そ\nんな境地ではないだろうか\n今、そんな中島の目指す「道」が、眼前の津軽海峡にこそあった。もとの地点まで戻ると、再び大潮との戦いが始まった。何時間たったかわからない。私はふっと体が軽くなるのを感じた。大潮を泳ぎ切ったのだ。悲愴感が希望に変わった。私は最後の気力を振りしぼって、夕闇せまる竜飛岬の三厩港にゴールインした。\n結局、伴走船の助けを借りて三回ほどコースをリセットしたものの、中島は泳ぎ始めてから一〇時間二〇分後の同日午後五時二〇分、対岸の青森県東津軽郡外ヶ浜町(旧三厩村)龍飛崎に泳ぎ着いたのだった。日本初の偉業を成し遂げたのである。なお、表1(一二七頁参照)にあるように、中島は津軽海峡横断の所要時間を七時間と記しているが、これはコースのリセットに関わる時間を含めていないためと思われる。また、回想に「三厩港」とあるが正確には「龍飛漁港」である。中島は、「港では地元の人びとが大勢出迎えてくれ、『北海道の白神岬から泳いで来たど偉い奴だ』と称えてくれ、もみくちゃにされた」と語っている。\n四 海洋冒険者\nその後、日本人初の海洋冒険者となった中島は、海の泳ぎの普及と組織化という社会体育の分野に進む第一歩として、一九七一(昭和四六)年五月六日にスポーツクラブ「ユウェナリス・スポーツ・クラブ」を設立。第一回水泳教室を文京区総合体育館室内プールで開催した。参加者はわずかに女性五人と、取材の日刊スポーツ新聞社の加藤哲氏というささやかなスタートだった。\nしかし、五月一一日の日刊スポーツ紙に紹介されるや、一気に一〇〇人を超す会員に膨れあがる。さらに日が経つにつれて小学生も入会がはじまり、会は次第に盛り上がりはじめていったのである。ちなみにクラブ名の「ユウェナリス」とは、ローマの詩人ユウェナリスの『風刺詩集』をもとにした「健全な精神は健全なる肉体に宿る」をモチーフにしている。ユウェナリスは、スポーツを通して心身の調和ある人間育成を提唱した人であり、いわゆる近代スポーツの根本理念を唱えた人名を日本的にアレンジしてスポーツクラブの名前にしたと中島は語っている。\nこうしてスタートしたユウェナリスは、「泳ぎを覚えて雄大な海に出よう」をスローガンにスタートした。無論、中島個人としてもさらに自身の可能性を探るべく、次々と単独遠泳に挑戦していった。世界の海峡を泳ぎ終えて、中島は言う。\n海峡横断。それはたかだか海で泳ぐこと、単純な動作のくりかえし、――こういってしまえばそれまでだが、そこにはじつに多くの知識と経験と技術が必要とされる。人生は体験が豊かであればあるほどその人は幸せであるといえると思う。私が良かったと思うのは、たんに海峡横断を経験したというだけでなく、泳ぎを通して多くの人との出会いを体験したことである。言語や風俗は違っても共通の目的に向かって助けあい、励ましあい、感動を分かちあう喜びはなにものにも代えがたい。その喜びがあるかぎり、私の新たな挑戦へのエネルギーも尽きることはないと思っている。\nかくして中島は一九七六年七月一一日、次の考えを基に「日本遠泳連盟」を設立した。\n海は人間の生活に不可欠なものとして、重要な役割を果してきた。反面、毎年のように数千人にもおよぶ痛ましい海難事故を起こし、貴重な生命を奪ってきた。尊い生命保持を第一の目標に、自然の正しい知識や、生きた海での正しい泳ぎの普及をスローガンに、「だれもが参加でき、だれにも愛される」組織を作るために、一〇数年の準備期間を経て、「日本遠泳連盟」として発足した。\n会長には参議院議員・植木光教氏、副会長に財団法人修養団理事長・赤坂繁太氏が就任。そして理事長にユウェナリス・スポーツ・クラブを主宰する中島が就いた。連盟の主題である「自然の正しい知識」や「生きた海での正しい泳ぎ」の実践として、中島は小中学生や女性がリレー方式で行う遠泳の企画を立て、この指導と遠泳を引率する「引率リレー」を通して後進の育成にも尽力していった。\nこうして海洋冒険家として順風満帆、まさに中島の活躍は子供や婦人層にも広く支持されていった。だがそんな中島の内部で、泳ぐことの興味の持ち方が少しずつ変化していった。そのきっかけとなったのが、一九八〇年一月に挑戦したマゼラン海峡の潜水横断であった。中島は、「海面の泳ぎに飽きたわけで\nはないが、水面下の世界がどうなっているのかと言う興味が頭から離れなくなっていたということもあって、ボンベを背負っての潜水横断を選んだ」と語っている。一時間三五分の苦闘の末、横断に成功した中島だった。その後も二三時間二〇分の太平洋マラソン遠泳などを行うが、やはり年齢と体力からくる限界のせいだろうか、遠泳への挑戦が激減していったのである。中島は次のように語る。\nそれにしても遠泳は苦しいスポーツだ。世の中にこれほど条件の悪いスポーツがほかにあるだろうか。おおむね陸上のマラソンよりはるかに長い時間を必要とするわけだが、陸の上のようにまわりの景色が変わることはほとんどない。船上のスタッフ以外観衆がいるわけでもない。その中で同じ動作をひたすらくりかえすのだ。それはまさに自分との闘いである。\nそんな心境の変化が頭をもたげたころ出会ったのがセールボード、いわゆるウィンド・サーフィンだった。もとより人並みはずれた運動神経の持ち主。わずかなキッカケでコツをつかむと、たちまちセールを風にはらませてボードを疾走させたのである。\nこうして中島は遠泳だけではなく、サイクリングやボードセーリングにも挑戦を開始した。だが、その新たな挑戦が、彼の思いすべてをも、文字通り「風とともに去りぬ」の結果を招いてしまうのだった。\n五 次世代への伝承\n一九九一(平成三)年二月一九日、思いもよらぬ一報が我々の耳に届いた。同日付けの『読売新聞』社会面の記事が、二月一八日午後一時一〇分ごろ、沖縄県・久米島北東岸の仲里村比屋定の海岸において、中島と木田嘉氏が乗り込み、沖縄~台湾間約七〇〇キロを伴走船なし・一〇日間で航海する予定で沖縄県・宜野湾マリーナを出港したボードセーリング用の「メントス号」が発見されたこと、また二人の姿はその近くに見当たらなかったことを報じたのである。その後も今日に至るまで、中島に関する朗報はついぞ聞かれることはなかった。しかし、風とともに去ったはずの中島の意思は、彼の後継者によってしっかりとキャッチされ、今に繋がっている。\n中島がドーバー海峡横断に挑んでから一〇年後の一九八二年七月三一日、大貫映子氏がドーバー海峡横断に挑戦。イギリスのフォークストンを出発し、フランスのカレー南西のグリネ岬に到着。日本人として初の九時間三二分の公認記録を刻んだ。\n一九九四年八月六日、女性初の津軽海峡の遠泳横断に成功した尾迫千恵子氏は、そもそもがピアノ教師だった。彼女の場合、二七歳からスイミングスクールで習いはじめ、水泳に関しては「超」のつく遅咲き。しかし三〇歳で日本水泳連盟公認の第二種水泳指導員、三四歳で同第一種水泳指導員、四〇歳で日本体育協会B級水泳指導員、そして四九歳で同A級水泳指導員を取得。さらに日本体育協会上級水泳指導員(マスター称号)となり、東京都水泳協会指導者委員会に属している。現在も国分寺市など四市のプールで水泳の指導を行っている。\nなお、一九九四年の尾迫氏の津軽海峡横断のサポートを務めたのが筆者であった。この時、私は海峡横断の事前準備や先導をしてくれる漁船の船長との信頼関係の構築など、地元との連携の重要性を痛感した。尾迫氏と私が横断後、北海道福島町の海岸に上陸した瞬間を撮影し、疲労困憊の極みにあった私達の介抱までしてくれた森征人氏と結ばれた深い縁は、現在も続いている。また、上陸後に飲み物とパンを差し入れてくれた前田勝広氏とは、本稿の取材のために福島町役場を訪れた時、二三年ぶりの再会を果たした。教育長である前田氏と私はお互いに手を取り合ったまま、しばらく言葉が出せなかった。さらに、後日、尾迫氏が北海道側から青森県側への津軽海峡横断といった、以前とは逆コースからの横断に挑戦した時、伴走船の船長を務めてくれた水嶋光弘氏からは、本稿で記した津軽海峡の潮目の解析について助言を受けるなど時を越えた友情が続いている。\nさらに中島の意思を継ぐ人物として、石井晴幸氏の名は欠かすことはできない。彼自身も中島の思想・哲学に影響を受けたひとりで、一九九一年八月、ドーバー海峡の遠泳横断に挑戦。その後に、トラジオンスイミングクラブおよび海峡横断泳実行委員会を設立。自ら会長となって後進の道を開く活動を行っている。\n魚の泳ぎはそれ自体に大きな意味はなく、きわめて当り前のことです。しかし、人間の泳ぎは泳ぐことによって多方面にわたって良い影響が生まれなければなりません。ここに、人間と魚の泳ぎの違いがあるものと思います。[中略]\n生命を守る手段としての泳ぎ、泳ぎを通して身心の調和のとれた健康な人間形成の手段としての泳ぎ、この目的のためにユウェナリスS・Cのポリシーが受け継がれ、指導者の存在価値があるものと信じております。\n郷里の海峡を泳いで渡ることから始まった中島の夢は、やがて海を包括する哲学を求めて世界を駆け巡っていった。それはいまや多くの人々の心に、コバルトブルーの彩りとなって深く染み渡りはじめている。中島は私たちに、海の優しさと、夢と、可能性を教えてくれた偉大な開拓者であった。\n郷土の偉大な英雄として、身近に中島を見てきた地元の後輩である福島町議会元事務局長・谷藤悟氏は、胸を張って言い切った。\n「中島正一は、いまでも私たちのヒーローです」"}]}, 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「泳道」 : 初めて津軽海峡を泳いで渡った男・中島正一譚
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タイトル | 「泳道」 : 初めて津軽海峡を泳いで渡った男・中島正一譚 | |||||
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関連タイトル | ||||||
国士舘創立100周年記念 | ||||||
見出し | ||||||
大見出し | 評伝 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
宇田, 快
× 宇田, 快 |
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著作関係者詳細 | ||||||
宇田 快 : 遠泳監督 | ||||||
書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 9, p. 117-132, 発行日 2018-03-13 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12479001 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 289.1 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol9.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第9号(2017) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
中島正一 海峡横断 津軽海峡 遠泳 |