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調査日程等\n⑴ 日程\n現地調査:二〇一六年七月七日~同月八日\n資料調査:二〇一六年七月二八日\n⑵ 調査員\n田中昭之、木川正也、牧野徹、伊藤香織、川原聡史、片山かな子(以上、株式会社建文)\n三 現状からみる建築的特性\n1 立地・配置\n大講堂の建つ国士舘大学世田谷キャンパスは、世田谷区世田谷四丁目に位置する。周辺には北側に小田急線梅ヶ丘駅、東側に吉田松陰を祀る松陰神社がある。南側は世田谷区役所と接し、その先には東急世田谷線が走る。西側は勝国寺に接し、しばらく行くと井伊家の菩提寺で井伊直弼の墓所が所在する豪徳寺がある。\n大講堂は、南側正門より北進した真正面、世田谷キャンパスのほぼ中央に南面して配される。その東には五号館(一九五八年竣工)、北には一〇号館(一九六六年竣工)、西には七号館( 一九六三年竣工) と八号館(一九六四年竣工)があり、周り三方を校舎に囲まれる。\n講堂の南前には、植栽サークルに囲まれた創立者・柴田德次郎の銅像が建つ。キャンパス内の通路は、この銅像と大講堂を中心起点として東西南北に通っており、大講堂の周りは学生達が行き交う場となっている。これは、国士舘が移転した当初計画(一九一九年一一月に建てられた大講堂、本部棟、寄宿舎、道場の四棟)の軸線が基本となり、その後も唯一残ってきた大講堂を核として世田谷キャンパスが整備されてきたためである。\n2 用途・間取り・意匠等\n大講堂は、建設当初教室として使用されるほか、様々な式典や講演会場として利用されていた。関東大震災の際は被災者を広く受け入れたという記録も残っている。\n現在は、大学のオープンキャンパス等の行事やサークル活動に使用されている。\n大講堂は基壇上に建つ木造平屋建ての真壁造りで、梁間八間、桁行一〇間、南正面に間口三間の向拝がつき、切目板張りの濡縁が正面に付く。屋根は妻入りの反りのある入母屋造りとし、向拝部分を葺き下ろす。現在の屋根葺き材は銅板平葺きで、向拝の軒先に銅製の軒樋を渡す。外壁は腰下を洗い出しモルタル、腰上を漆喰仕上げとし、側柱の柱頭部に舟肘木を据える。上屋筋の丸柱は九寸(直径二七二㎜ )とし、側柱は五・五寸(一六五㎜ )角、向拝柱は九・七寸(二九三㎜ )角とする。間取りは、中央を一〇八畳(五四坪)敷きの広間とし、その南東西三方に幅一間(一八一八㎜ )の畳敷き廊下を廻す。廊下は天井高さ一一・八尺(三五六九㎜ )の竿縁天井とする。広間は天井高さ一六・二尺(四九一三㎜ )の折上格天井として広間の格式を高めている。広間正面奥には幅三間、奥行一間、高さ一・五尺(四五五㎜ )の畳敷きの講壇を設ける。その奥には、さらに五・七寸(一七三㎜ )上げた幅二間、奥行四尺(一二一二㎜ )の床の間を設える。両脇廊下の北奥は、左右とも物置とする。\n外観は一見すると入母屋造り、妻入り、流れ向拝付きの神社仏閣の様相を呈しており、「国士舘上棟式記事」(『大民』第四巻第八号、青年大民団、一九一九年八月)の「軽薄なるペンキ塗、西洋館の競って建造せらるゝ現代を超越し、[中略]鎌倉時代の講学所に観る如く、或は僧院の堂宇に似て、[中略]純乎たる日本式を発揮せるは、日本魂の為め大気焰を吐けるの概あり」の記述通り、国士舘の教育理念を日本の伝統的建築によって象徴的に表現している。\n3 構法\n⑴ 計画寸法\n平面計画寸法は、各柱間寸法を実測した結果、一間(六尺)は一八一八㎜ 、二間(一二尺)は三六三六㎜ の近似値を示した。一尺が三〇三㎜ の尺貫法により計画されたことが分かる。\n断面計画寸法は、正面出入口内法七・九六尺(二四一三㎜ )、広間、廊下境内法八・五三尺(二五八六㎜ )、土台上端から敷桁上端までが一九・九尺(六〇五三㎜ )、敷桁上端から棟木上端までが一六・〇六尺(四八六八㎜ )であった。\n枝割り(垂木割り)についてみると、一枝寸法(垂木)が配される間隔)の実測値は一・五尺(四五五㎜ )である。正面の向拝および出入口の柱間は一二枝(一・五尺/枝×一二枝=一八尺)、その他柱間は五枝で正面出入口両脇がそれぞれ二間であることから、梁間合計三二枝が割り付けられる【写真1】。背面および側面の柱間は四枝で、背面は八間で合計三二枝、側面一〇間で四〇枝が割り付けられている【写真2 -1・2】。垂木は、実測値巾二・一四寸(六五㎜ )×成二・六四寸(八〇㎜ )で、その巾は一枝(一・五尺)の七分の一割(一・五尺×一/七=二・一四寸)であった。側柱は五・三五寸(約一六二㎜ )角で、垂木巾で除するとその二・五本分(二・一四寸×二・五=五・三五寸)、向拝柱は九・六三寸(約二九二㎜ )角で垂木巾の四・五本分(二・一四寸×四・五=九・六三寸)となる。なお、内部の丸柱は、九寸(直径約二七五㎜ )で垂木巾の四・二本分となっている。柱頭につく舟肘木は、高所のためその寸法を実測できなかったが、目視によるとその巾(長さ)は側廻りのものは二枝と垂木巾一本分、向拝のものは三枝と垂木巾一本分で、それぞれ垂木巾で除すると、その一五本分と二二\n本分となる。\n以上より、外部廻りの主要部材の寸法は、垂木巾を基準にその比例関係によって部材寸法を決めていた可能性が高いと推定される。\n⑵ 工法および技法\n①基壇\n大講堂は、周辺地盤(校内通路)面より一段上げた基壇上に建つ。基壇は、現状の地盤面より八・五寸(二六〇㎜ )程度上がり、基壇側面は割肌の石張りで、基壇上面の犬走りはモルタル櫛引き仕上げ(目地有)とする。正面向拝部分は切石を二段敷き並べた階段を設ける【写真3】。\n基壇外周の現状地盤(校内通路)との境は大講堂の屋根軒先付近となり、砂利石を敷き詰めた雨落ちとしている【写真4】。\n②基礎\n外周および広間、廊下境の上屋部分の柱下は切石の独立基礎( 礎石) を設置する。側柱下の礎石は一尺(三〇〇㎜ )角程度、内部柱下の礎石は一・五尺(四五五㎜ )角程度である。礎石下のコンクリート製の基礎の有無については現状、目視では確認できない。外周から布基礎状にみえる柱下礎石間の切石は、厚さ五寸(一五〇㎜ )、長さ二・五尺(七六〇㎜ )の薄い切石を、意匠上、礎石外面に合わせて敷き並べたもので、構造上の布基礎として土台を受けているわけではない【写真5・6】。\nいずれの石も外周部の上面は面取りを施して水切れに配慮している。正面向拝柱下と濡れ縁の束下は、テーパーのついた切石礎石とし、内部の円柱下は割肌の礎石を用いる。床組の束石はコンクリート製のものへ更新されており、旧材は残っていない。\n③軸組\n軸組は土台、足固め、柱、貫、桁、梁にて構成する伝統軸組工法である。\nア 土台\n土台は建物外周にのみ廻り、内部の柱は礎石へ石場建てとする【写真7・8】。土台(広葉樹)は、一七五×一五〇㎜ 程度で、アンカーボルトによる緊結が確認される【写真9】。しかし、アンカーボルトと基礎との緊結方法は現状、目視では確認できない。また、カスガイ状のコの字型の鉄板金物を土台と柱に打ち込み、さらに釘留めしてその二材を緊結する。この金物は柱が土台から抜けることを防ぐものである【写真10】。\n現代の木造建築の構造の考え方と同じく、基礎と土台の緊結、土台と柱の抜け防止に配慮していたことが窺えるが、これらの構造的配慮が建築時のものか、関東大震災(一九二三年)後のものか現時点において確定はできない。\nイ 床組\n床組は足固め、大引、根太掛け、根太で構成される。\n足固めは廊下と広間境の内部丸柱間に設置される。大引は、広間は桁行方向に三尺(九〇九㎜ )間隔で、廊下内は中央の長手方向に渡され、側柱、丸柱に桁行方向にとり付けられた根太掛けとともに根太を受ける【写真11】。広間、廊下ともに根太は一・五尺(四五五㎜ )間隔で配される。大引、足固めは三尺(九〇九㎜ )間隔で立つ床束に支えられる【写真12】。床組は大きく改修されており、当初のものと思われる部材は、五寸(一五〇㎜ )角の足固めと、三・三寸(一〇〇㎜ )角の面皮付きの大引と直径三寸(九〇㎜ )の丸太束である。大引上に渡される一〇八× 三〇㎜ の根太とその上の合板荒床畳下の床板・厚さ一五㎜ )は、全て後補材へ更新されたものである。また、当初の大引の間には、三・三寸(一〇〇㎜ )角に製材された後補大引とそれを支える後補床束が補強のために設けられている【写真13】。\nウ 軸部\n軸部は大きく広間の身舎空間と廊下の廂空間に分けられ、さらに南正面に向拝が付く。身舎空間を支える内部丸柱(入側柱、杉)は直径約九寸(二七二㎜ )で、切石礎石(独立基礎)上に石場建てで立つ。柱頭については、梁間方向は陸梁、桁行方向は敷桁を受けるが、柱長さが足りないため、柱頭と桁の間に調整用飼木を挟んで桁を受ける。陸梁は敷桁に掛かるため、下面で六寸(一八〇㎜ )の高低差が生じる。そのため飼木は桁行、梁間でそれぞれ成九・六寸、三・六寸×巾六・六寸×長さ二尺(二九〇、一一〇×二〇〇×六〇〇㎜ )と高さが異なるものが用いられている。飼木は敷桁と二本のボルトで固定される。なぜ、柱の長さが足りなかったのか現時点では不明であるが、柱の全長が一九尺(約五・七m )もあることから、当時の規格材料長さや運搬上の制限による可能性も考えられる【写真14】。\n廂空間の外部に立つ側柱(杉)は五・三五寸( 約一六二㎜ )角で、面取り巾は柱巾の約一六分の一(約一〇㎜ )である。土台上に立ち、柱頭に舟肘木を据えて丸桁を受ける。正面出入口の間口三間には差鴨居が掛り、その上に中備えとして舟肘木とそれを受ける束を二本備える。側柱と土台の仕口は目視で確認できないが、土台に込み栓が打たれていることから、土台へは平枘差し込み栓打ちと推定される。\n向拝柱(杉)は九寸七分(二九三㎜ )角で、面取り巾は側柱と同じく柱巾の約一六分の一(約一八㎜ )である。向拝柱は切石礎石(独立基礎)上に石場建てで立ち、側柱同様柱頭に舟肘木を据えて丸桁を受ける。丸桁下には虹梁が掛かり、その中央に中備えとして舟肘木とそれを受ける束を備える。側柱と向拝柱を繋ぐ虹梁はない。向拝の虹梁は一・三尺×五・六寸(三九四×一七〇㎜ )の角材である。向拝柱の柱脚には銅板金物が巻かれ、その上部は鯖の尾とする。\n柱は背割りが施される。丸柱(入側柱)、側柱ともに建具が建て込まれる面を背割りし、埋木施す。向拝柱および丸柱の正面出入口の二本は主出入口の反対面、その他は北面(講壇側)とし、埋木はない。いずれの柱も正面から背割りが見えないよう配慮していることが窺える。なお、側柱の窓下、および丸柱の開口部上の下がり壁には、四・五寸×〇・一五寸(一三五×四八㎜ )の片筋違かい(杉)が確認される。\n貫(杉)については、広間外周の丸柱に通る三・六寸×〇・五寸(一一〇×一五㎜ )の飛貫が、小屋裏の敷桁下で確認できる。その他は壁内のため、現状、目視では確認できない。なお、古写真を見ると側柱の飛貫は、元々は化粧材として外部に見えていたことが分かる。軸部の部材は修理された跡がなく、ほぼ全てが建築時のものと判断できる。\n④小屋組\n小屋組の構成は、広間(身舎空間)に掛かる一層目(下層)と二層目(上層)、廊下(廂空間)に掛かる軒先といった三層へ大きく分けられる。一層目は広間上の桁行方向丸柱上の敷桁に掛かる陸梁、対束、方杖等で構成\nされるクイーンポストトラス(対束トラス)状の洋小屋組、二層目は洋小屋組の上にのる束、母屋、挟み棟木で構成される棟廻りの和小屋組、軒先は桔木ぎ、束、母屋で構成される和小屋組である【図3・写真15】。\n一層目は陸梁を梁間方向に渡し、その上に登り梁、対束、方杖、二重梁を組み、鼻母屋、母屋を受ける。通常のトラスの場合は、鼻母屋、敷桁は陸梁を挟み込む形で上下に配されるが、大講堂は陸梁を敷桁より張り出し(キャンティレバー)、鼻母屋を敷桁より外側へ二・五寸(七五七㎜ )持ち出している。登り梁、二重梁と陸梁は直径〇・六六寸(二〇㎜ )のボルトで吊り、登り梁と陸梁の仕口はボルトで緊結する【写真16・17】。また、対束と陸梁仕口は箱金物(コの字型に曲げ加工した鉄帯金物)、登り梁と二重梁は対束を介して短冊金物(鉄帯金物)で繋ぐ【写真18】。陸梁は、中央付近に継手を設けており、継手部分は陸梁を両側から六寸×三寸(一八〇×九〇㎜ )の板で挟み、直径〇・四寸(一二㎜ )のボルト(上下各四カ所、計八本)で締める【写真19】。継手位置は通りごとに棟通りを境に交互に配する。桁行方向は、対束下部の陸梁仕口付近に設置した五寸×〇・一五寸(一〇五×四五㎜ )の振れ止めと、各トラス間の対束に斜めに渡す四・五寸×〇・一五寸(一三五×四五㎜ )の小屋筋違いで繋ぐ。振れ止め、小屋筋違いは対束とボルトで締め、その挿入位置は各トラス間で対束の内側、外側と交互に配する【写真20】。なお、母屋には一般的なトラス構造同様、転び留めが設けられる。二層目は、クイーンポストトラス上の二重梁上に束を立て母屋を受けるが、棟木はトラス構造で用いられる挟み棟木とする【写真21】。\n軒先は、側柱上の丸桁に束を立てて桔木を掛け、さらに桔木上に束立てして母屋を受ける。桔木先端は軒廻りの化粧垂木を化粧ボルトで吊る。茅負と桔木の仕口は、現状では確認できない。桔木の他端(上端)は、一層目クイーンポストトラスの登り梁下に通した丸太で押さえる。つまり、丸桁上の束を支点、軒先先端を作用点、丸太で押さえた上端を力点とするテコの原理で軒先を吊り上げる。洋小屋組は、一般的に間口三〇尺(九m )以上の場合に用いられた小屋組構造で、大講堂では内部に柱を立てない広間の大空間(間口六間=三六尺=一〇・九m )を確保するために用いたと考えられる。軒先と棟廻りを和小屋組とした理由は、日本建築の外観意匠の特徴である深い軒の出と屋根反りをもたせるためと推定される。また、鼻母屋を敷桁より外側へ持ち出した理由は、軒の深さおよび棟の高さを確保し、かつ和風外観意匠として必要な屋根勾配を確保するためと推定される。例えば、鼻母屋を敷桁と同位置にすると軒先の屋根勾配が緩くなり、かつ屋根反りが大きくなりすぎてしまうなどの問題が生じ、それを解消するためには軒の深さを浅くするか、棟の高さを下げる必要がある。\n以上より、大講堂の小屋組は、必要に応じて適材適所で和洋の両技法を巧みに折衷させ、必要とされた機能(空間)、意匠を具現化させたことが分かる。なお、小屋組材は改変の手が加えられておらず、ほぼ全ての部材は建築時のものと推定される。\n⑤屋根\n軒廻りを化粧軒納まりとする入母屋造り、流れ向拝付き銅板葺き屋根とし、反りと軒反りが付く。\nア 軒廻り\n軒廻りは、三寸勾配の木小舞付き化粧垂木天井とする。側柱上の舟肘木に丸桁が渡り、その上に一軒の化粧垂木が掛かる。丸桁および舟肘木の出隅は井桁に組む。\n化粧垂木は〇・二七寸×〇・二二寸(八〇×六五㎜ )、一枝(垂木設置間隔)一・五尺(四五五㎜ )で垂木巾七割(四五五/六五㎜ )の疎ら割とする。化粧垂木は小屋裏の桔木から化粧ボルトで吊られ、小口銅板を巻く。\n軒先は茅負の上に二重裏甲とする。木小舞は〇・八寸×〇・九寸(二四×二七㎜ )で、六・五寸(一九七㎜ )間隔で割り付ける。化粧野の地板は流れ方向に張り、見え掛り巾は約八寸(二四〇㎜ )である。隅木は小口銅板巻きとする。なお、本調査では高所のため、隅木部材寸法、軒反り(一軒の割り出し)寸法は確認できなかった。\nイ 屋根\n屋根は、引渡し七寸勾配の入母屋造り反り屋根とし、向拝の流れ屋根は引渡し四・五寸勾配とする。大屋根と流れ屋根の取り合う箇所は縋る破風で見切る。野垂木(杉)は〇・九寸×〇・一五寸(二七×四五㎜ )で、約一・五尺(四五五㎜ )間隔で配する。野地板は現状二重に張られており、下層は厚さ〇・四寸(一二㎜ )×巾七・六寸(二三〇㎜ )の杉板を横張りとし、その上に新たな野地板を張る。上層野地板の仕様は目視では確認できない。現状の銅板葺きは、一九八一~一九八二(昭和五六~五七)年頃に葺き替えられたことが分かっており(四・1・⑶参照)、上層の新しい野地板はその際に葺かれたものと推定される。\n入母屋妻壁は狐格子とする。懸魚、破風、前包は、現状では銅板巻きとしているが、これは屋根葺き替え時に巻かれたものと推定される(四・1・⑶参照)。\n⑥仕上げ\nア 外部\n外壁は腰上を白漆喰仕上げ、腰下をモルタル仕上げとする。正面腰下の濡れ縁上は額縁付き竪板張りとし、濡れ縁下は板子格子とする。土台上には木製水切りを廻すが、正面濡れ縁下には廻さない。腰上の漆喰壁には、古写真より飛貫表しとしていたことが分かっている。柱と壁のチリがほとんどなく、壁チリ際より現在の漆喰仕上げの下に新建材のボード下地が見えることから、土壁の上に後補で施工したと推定される。腰下は古写真より正面同様の額縁付き竪板張りであったことが分かっており、モルタル仕上げは後補のものである【写真22・23】。\n正面の額縁付き竪板と濡れ縁下の板子格子の一部は、周囲の柱、長押し等の部材とその経年劣化状況が異なることから、以前の形式を踏襲して後補材で補修したと推定される。\nイ 床\n広間は緑色縁付きの畳敷きで、講壇を含め一〇八畳敷きである。講壇は高麗紋縁付きの六畳敷きで、広間より床を一・四六尺(四四五㎜ )上げる。さらにその奥は、床を五・七寸(一七三㎜ )上げて、奥行き四尺(一二一二㎜ )、巾二間(三六三六㎜ )の薄縁床の床の間を設える。講壇は下部に地覆を廻して畳と見切り、束立てして三方框を廻して一段上げる。その小壁は竪板張りで、床框は黒漆塗りである【写真24】。\n廊下は緑色縁付きの畳敷きとし、出隅と北東物置前は寄木フローリング張りとする。その仕上げ境は木製見切り材を入れる。\n広間と廊下は段差がなく、丸柱(入側柱)の通りに無目敷\n居を入れて見切る。広間側は畳が敷き込めるよう無目敷居を丸柱面に合わせるが、廊下側は丸柱面より無目敷居が内側(面内)に入るため、畳を丸柱に合わせて円形に欠き込む。廊下側のこのような納まりより、元々の仕上げは畳敷きではなく板敷きであった可能性が高い。また、正面出入口および北東の常用出入口の敷居は、廊下より畳の厚さ(約五五㎜ )だけ下がっており、それぞれの引き込み戸、引き違い戸の開閉時に畳と擦れないよう木製見切り材を入れて調整している。\n北東物置は、縁甲板張り(松)で、廊下床高さとほぼ同じ高さで床を張る。床には東寄り二尺の位置で木製見切り材を入れて\n見切る。部材の経年劣化状況をみると、その東側二尺巾に張られる縁甲板は後補のもので、西四尺の縁甲板、および見切り材は古いものであるが、建築時のものか不明である。北西物置は後補合板張りで、廊下床高さより畳厚さ分(約五五㎜ )下がる。\nウ 壁\n広間は白漆喰仕上げ、廊下および物置は窓腰下を竪板張り、腰上および内法上を白漆喰仕上げとする。内法上の白漆喰仕上げには天井廻り縁下と柱際の三方に額縁が廻り、額縁には松煙を塗る【写真25】。腰下の竪板は杉板、巾木および笠木は松である。なお、白漆喰仕上げ下地は、小屋裏から確認したところ小舞下地の土壁である。\n北東物置は腰下を竪板張り、腰上を白漆喰仕上げとする。東西面の白漆喰壁には広間と廊下同様、松煙塗りの額縁が廻るが北面にはない。東面(窓側)と西面の広間開口側との内法の高さが異なるが、腰笠木上から内法(鴨居)下面は四方額縁で、長押上は広間と廊下同様、長押上の横額縁がない三方額縁である。なお、経年劣化状況から腰竪板張りの笠木、竪板、巾木、漆喰壁額縁は古いものと推定される。\n北西物置は、東西面は腰下を竪板張り、腰上を後補合板張とするが、北面は腰竪板張りがなく、全面後補合板張とする。北東物置同様、廊下窓側と広間側の内法の高さが異なり、北面にも鴨居、長押が付くがさらに低い高さにある。後補合板壁には、東面は内法下に上横額縁のない三方額縁、西面は鴨居下横額縁と天井廻り縁下横額縁が残る。経年劣化状況から、竪板張り、額縁は古いものと推定される。\nエ 天井\n広間は一重折上げ格天井で、講壇側の一間は化粧目透し板張り天井とし、いずれも二重廻り縁とする。格天\n井平部の格間は梁間五間、桁行七間とし、中央の間はさらに一段上げて側面を換気用の格子とする。格天井板は後補合板張りの白色塗装であるが、折上げの支輪板は木摺り下地、白漆喰仕上げである。折上げの支輪(亀の尾)と格縁の大きさと面取りが異なり、格縁は改修したものと推定される(四・3・⑴参照)。格天井板ならびに格縁以外は建築時のものと推定される。講壇上の化粧目透し板張りは桧柾目の突板\nいた(化粧合板)で、こちらも後補の改修によるものである。講壇奥の床の間天井は講壇と同じである。\n廊下は二重廻り縁、竿縁天井で、竿縁二本を長手方向に渡し、廊下隅は隅竿を入れて矩折れに廻す。廻り縁、竿縁ともに杉材である。天井板は杉板を羽重ねで張る。\n経年劣化状況から天井板は後補のもので、その他は建築\n時のものと推定される。\n北東物置は二重廻り縁、後補合板張りである。廊下境の天袋の無目鴨居(二重廻り縁兼用)は経年劣化状況から後補のものと推定され、廊下の二重廻り縁に突き付けで取り付けている。廊下の二重廻り縁は天袋内部まで伸びており、もともと物置奥の壁まで廊下と一連の竿縁天井であったことが分かる。\n北西物置は、内法下は根太天井、天袋上は二重廻り縁竿縁天井である。根太天井は外壁側の長押を利用して、他面は後補根太掛けを設けて、根太、合板を張る。この根太天井の部材は廊下境の中敷居、長押を含め、全て後補のものである。竿縁天井は廊下境に二重廻り縁はなく、天袋の無目鴨居を当り欠きをして廊下の竿縁が伸びていることから、もともと物置奥の壁までが廊下と一連のものであったことが分かる。この範囲の竿縁天井は、天井板も含め建築時のものと推定される。\n⑦柱間装置\nア 建具(全て木製)\n正面出入口の引き分け格子ガラス付き框戸は、四枚建てで外側両脇の二枚が嵌め殺し、内側中央の二枚を引き分けて開口する。差鴨居は、外側両脇は嵌め殺し用に建具巾だけ溝を\n彫り、内側の一溝は両端まで通っていることから、もともとこの開閉形式であったことが分かる【写真26】。なお、本建具は戸車付きで、敷居一溝に建具滑り用の帯鉄が設置される。\n廊下の北東隅にある常用出入口は、引き違い腰付き格子ガラス戸で、このガラス戸は廊下の引き違い格子ガラス窓と意匠、高さを合わせて腰を設ける。廊下の引き違い格子ガラス窓は二本溝で、網戸を片側外部にケンドン形式で建て込むため、内側のみが片引きで開く。網戸はサラン網で後補に設置したものである【写真27】。\n物置の両開き木連れ格子戸は、内法下と天袋に建て込むが、経年劣化状況から全て後補の改修によるものと推定される【写真28】。\nイ 敷居・鴨居\n建具廻りの敷居・鴨居のほか、広間廊下境に無目敷居と無目鴨居(松)、講壇上の下がり壁に無目鴨居、床の間に床框と落し掛けが設置される。北東物置の天袋の無目鴨居(天井二重廻り縁兼用)、北西物置の廊下境の無目敷居、中鴨居、天袋の鴨居は部材劣化状況から明らかに後補のものである。その他の部材は古いものであると推定される。なお、広間廊下境の無目敷居は丸柱型に当たり欠きをして、突き付けで洋釘留めする。無目鴨居に未使用の釘穴跡が確認されることから、一度取り外して再度付け直したことが分かる。\nウ 長押\n外部は、濡れ縁の付く南正面は地長押し、腰長押し、内法長押しが付く。東面および西面は腰長押、内法長押、北面は内法長押が付くが、講壇奥にある床の間の張り出しには廻らない。松材で、継ぎ手は柱芯で目違い継ぎとするが、北面北西寄り(物置裏)のものは明らかに新しい部材で、さらに斜め継ぎとしている。\n内部は、広間は内法長押が廻り、講壇、床の間で枕捌き留めとする。廊下は広間と廊下で内法高さが異なるため、段違いで内法長押が廻る。正面出入口はその両脇の柱の面内で長押が留まり、雛留めではなく切り放しのままとする。外部同様、松材で、継ぎ手は柱芯で目違い継ぎとする。\n内外部ともに釘隠しはない。\n⑧木階・濡れ縁\n南正面の向拝を潜った先に木階、濡れ縁が付く。木階は四段で、ささら桁に段板をのせ、蹴込板が付く。段板はささら桁へ釘留めの上、化粧丸埋木で釘を隠す。部材は全て松材を用いているが、周囲部材との経年劣化状況と比較すると後補補修のものと推定される。\n濡れ縁は、正面間口全体に付く。切石礎石に石場立てで束を立て、各束に上楔打ちの繋ぎ貫を通し、束上部には縁葛、側柱側は板掛けを渡して切目縁板を受ける。縁板は縁葛、板掛けへ上面から洋釘打ちで留める。\n束、貫は杉、縁葛、切目縁板は松材を用いる。西端の縁葛、繋ぎ貫は、経年劣化状況より後補補修材で更新されていることが分かる。また、繋ぎ貫は下楔打ちとする。この箇所の上の地長押も後補補修材で取り換えられ、西端隅の柱は濡れ縁下で矧木、さらにその下の土台は六〇〇㎜ 程度の長さで継ぎ補修している。その劣化原因は不明であるが、この範囲の破損が著しかったことが窺える。その他の濡れ縁部材は、部材の経年劣化状況より建築時のものと思われる。\n四 改修・改変の痕跡\n1\n 屋根\n⑴ 天然スレート葺き屋根\n「国士舘講堂設計図」(『大民』第四巻第五号、青年大民団、一九一九年五月)の立面図【図5】に描かれる屋根は、下り棟、隅棟と縦線が描かれており、これは瓦葺き屋根を表現したものと解釈できる。しかし、「財団法人国士館設立許可申請書」(一九一九年一〇月六日申請)、「登記簿謄本」(一九四七年一月三日受付)には「木造スレート葺平屋 講堂壱棟 建坪九拾七勺\n坪」とあり、大講堂はスレート葺きであるとの記載がある。野地板が葺かれた状態で行われた大講堂の上棟式(一九一九年七月二七日)の写真【写真29・30】を見ると、入母屋妻面狐格子下の前包と野地板の隙間は薄く瓦を差し込む余地はないため、この時点ですでに瓦葺きではなくスレート葺きを想定していたことが分かる。\n一九一九(大正八)年一一月九日の落成式および開舘式の写真【写真31】には、竣工後の大講堂、本部棟、道場が写る。本部棟および道場の屋根は縦横線が写り瓦葺きと推定されるが、大講堂は下り棟、隅棟がなく、軒先がシャープで、かつ屋根面が平滑なため明らかに瓦葺きではない。スレート葺きであったことは、今回の調査で大講堂の小屋裏へ入った際、小屋梁上に天然スレートおよび防水紙の破片が数点落ちていたことからも窺い知ることができる【写真32】。\n以上より、大講堂は設計時、瓦葺き屋根で計画されたが、工事に当たって計画変更され、天然スレート葺き屋根で竣工したと推定される。\n⑵ 金属板葺き屋根\n一九五七(昭和三二)年の写真【写真33】には、まだ天然スレート葺き屋根の大講堂が写る。\n一九五九年に撮影された世田谷校地全景の航空写真【写真34】には、白色の屋根が写る。天然素材の場合、日光が直射した場合でも屋根の全面が輝く白色で写らないことから、金属板葺き屋根と推定される。\n⑶ 銅板葺き屋根\n一九八一(昭和五六)年頃の写真には銀色の金属板葺き屋根が写るが、一九八二年頃の写真には銅色に輝く銅板葺き屋根が写る【写真35・36】。二つの写真は、大講堂前の桜が開花し、梅の木に新緑の葉が芽吹いていることから春先に撮影されたものと推定される。また、一九八一年一二月二四日撮影の写真には大講堂の周りに工事用の足場が設置されており、この時点において銅板への葺き替え工事が竣工間近であったことが分かる【写真37・38】。また、工事内容についての詳細な記載はないが、大学で保管する一九八一年度の出納帳の三月三一日付の箇所に「大講堂屋根ふき替え修繕」との記載がある。\n以上から、現在の銅板葺き屋根への改修工事は、一九八一~一九八二年にかけて実施されたことが分かる。なお、大講堂が写るその他写真を比較すると、屋根廻りの工事に関連して下記の改修、修理工事が実施されたと推定できる。\n・破風、懸魚は、以前は木地表しであったが、銅板が新たに巻かれた。\n・垂木、隅木、縋る破風の木口に銅板が巻かれた。\n※垂木には以前、木口銅板はなく、樋を受ける鶴首金物が木口差しであった。現状の樋受け金物は茅負に設置している。\n・樋は銅製の新補材へ取り替えられた。\n・向拝柱の柱脚に、銅板金物が新たに巻かれた。\n2\n 外装\n建築されて間もない頃【写真39・40】の外装は、前述の「国士舘講堂設計図」にも描かれている通り、腰下は竪板張り、腰上は飛貫を表した漆喰仕上げである。\n一九七七(昭和五二)年の写真【写真41・42】では、まだ内法上の飛貫を表した漆喰仕上げと腰下の竪板張りを見ることができる。\n一九八二年の銅板屋根改修工事竣工後には、内法上の飛貫はなくなり、全面白漆喰仕上げへ改変される【写真43・44】。なお、その壁下地は土壁の上へボード下地を張り、仕上げている。また、正面(南面)窓下の腰竪板張りは、以前の意匠を踏襲して新材へ取り替えているが、その他の面はモルタル塗りに改変される。東面腰貫、および入母屋妻面の狐格子と軒先の茅負、裏甲、縋る破風は、周辺部材との経年劣化状況が異なり、改修後、木地色になっていることから、新補材へ取り替えたか、旧材に洗いをかけた可能性が高いと推定される。その他、正面濡れ縁の繋ぎ貫が新材へ取り替えられている。\n3\n 天井\n⑴ 折上げ格天井\n広間の折上げ格天井の支輪と格縁について、仕様(規格、面取り等)と部材の経年劣化状況が異なることから、天井は改修されたと推定される。また、折上げ支輪の天井漆喰は木摺り下地で、格天井は合板ボード下地の上に白塗装仕上げとしていることから、支輪は旧材、格縁は後補材と推定される。\n一九六〇(昭和三五)年頃の古写真【写真45】をみると、平部格天井の不陸が激しい。翌一九六一年頃の写真【写真46】をみると、不陸が是正され、格縁が一回り細くなっていることが分かる。以上より、広間格天井は一九六〇~一九六一年頃の間に改変したと推定される。\n⑵ 化粧合板目透かし天井\n広間講壇上、および床の間の化粧合板目透かし天井は、現況、桧の突板を用いており、後補改変と判断される。その時期は不明である。なお、二重廻り縁は、部材の経年劣化状況より建築時のものと推定される。\n⑶ 竿縁天井\n廊下竿縁天井は、部材の経年劣化状況より、二重廻り縁と竿縁は建築時のもので、天井板は後補改修と推定される。\n現状、北東、北西の物置には天袋が付き、廊下と間仕切っているが、東西物置ともに廊下の二重廻り縁が物置内部まで伸びていることから、建築時は廊下と一連の竿縁天井であったことが分かる【写真47・48】。なお、建築当時と推定される部材は、北東物置は二重廻り縁のみで、北西物置は二重廻り縁、竿縁、天井板全てである。\n広間の講壇側を臨む一九四二(昭和一七)年頃の古写真をみると、その両脇廊下の先が写っている【写真49・50・51】。北東物置は、内法下に建具を建て込むが上の天袋部分に建具はなく解放されており、奥北東隅の柱が見える。改修年代は不明であるが、一九六三年五月の古写真【写真52】にも同様のものが確認される。北西物置は現状位置に建具はなく、側柱側の長押とともに、さらに奥一間の位置の一段低い高さで、鴨居、建具が建て込まれる。これは現存しない外便所入口と推定され、建築当時は廊下がそこまで伸びていたことが分かる。改修時期は不明であるが、外便所の解体以降の可能性が高い。後述するが、外便所の解体時期は一九六四~一九六六年頃と推定される。\n4\n 床\n⑴ 広間・廊下広間と廊下は、現在、常時同一の畳を敷いているが、古写真を見ると、講演場、武道場、茶道場など、その用途に合わせて縁付き、縁なし畳を使い分けていたことが分かる。\n現状の畳を剥がすと、入側丸柱、および無目敷居の広間側の畳と接する部材面は経年劣化が進行していないため、建築当時より畳敷きであったと推定される【写真53】。同部材の廊下側を見ると、経年劣化状況が畳に接する面と畳上の丸柱表面と同じである【写真54】。廊下の巾木(現状は畳寄)も同様の経年劣化の状況であることから、廊下側は畳下まで露出していたと推定される【写真55】。なお、外部出入口の敷居は、現状、廊下畳床から畳の厚さ分低い位置に付いている。\n一九二八(昭和三)年頃、一九三六年頃の古写真【写真56・57】より、廊下に縁甲板が張られていることが分かる。足元をよく見ると縁甲板の出隅は角張り(隅を斜めに留める)とし、広間境の無目敷居は縁甲板より畳厚さ分、一段上がる。廊下の巾木は現状と同様の高さである。一九六七年頃の古写真【写真58】を見ると、廊下に見切り材が付いているが、床の縁甲板張りは残っている。現状の床への改修時期は、一九六八年以降と推定される。\n⑵ 北東物置\n床は縁甲板張りで、廊下畳と同じ高さである。経年劣化状況を勘案すると、床板は比較的古いものである。内部の三方に廻る腰竪板張りは経年劣化状況から建築時のものと推定されるが、床からの巾木の出が少ない【写真59】。建築当時は廊下の縁甲板張り床と同じ高さで床板が張られていた可能性もある。現状の縁甲板張りが建築時のものであるかどうかは定かでない。\n⑶ 北西物置\n床は後補合板張で、床の高さは廊下畳床より畳厚さ分低い。内部両脇の腰竪板張り壁は経年劣化状況から建築時のものと推定され、床からの巾木の出も古写真と同様であることから、床の高さは建築当時から変わっていないと推定される【写真60】。この箇所は現存しない外便所へ繋がる廊下であり、建築時は廊下の縁甲板床張りが伸びていたと推定される。\n5\n 内壁\n⑴ 広間\n広間の内壁は大きく改修している痕跡等はないが、壁際に周る松煙塗りの額縁が講壇脇の内法の壁下等で現存しない。一九四二(昭和一七)年頃の古写真【写真61】を見るとその範囲および講壇段際に周る額縁が確認される。その額縁が写る古写真は一九六三年頃のもの【写真62】が最後であり、その後は写真が不鮮明であることから確認できない。改修時期の確定はできないが、一九六四年以降と推定される。\n講壇奥の床の間は、現状折れ戸形式のパネル壁が建て込まれ、その奥は後補クロス貼り壁となっている。奥の壁の手前にパネル壁を設置しており、明らかに後補のものであるが、改修時期は不明である【写真63・64】。\n⑵ 廊下・物置\n廊下と物置は、腰下は竪板張り、腰上は白漆喰仕上げの上、壁際に松煙塗りの額縁を廻す。漆喰壁および額縁は建築当時のものが残っている。腰壁は、部材の経年劣化状況から物置内部の一式は建築当時のもの、また廊下の板壁は後補材と推定される。北西の物置の腰壁は廊下から延びているものであり、ここに建具枠が後付けされている。このため北西の物置は、建築当時は廊下であったと推定される。\n6\n 建具(柱間装置)\n⑴ 外部建具\n外部建具は、一九八一(昭和五六)~一九八二年にかけての銅板屋根への改修の際、正面の主出入口、北東の常用出入口のものが建築当時の建具意匠を踏襲して新規製作され、取り替えられたことが古写真より分かる(写真43、参照)。\n窓は、古写真、部材の経年劣化状況から建築当時のものと推定される。現在、窓に付いている網戸は、部材経年劣化の状況から明らかに後補材と分かる。建築当初から網戸が設置されていたかは不明である。\n柱間装置(敷居、鴨居等)は、部材の経年劣化状況から建築当時のものと推定される。\n⑵ 物置建具\n物置建具は部材の経年劣化状況から明らかに後補材である。一九四二( 昭和一七) 年頃、一九六一年、一九六三年の古写真【写真50・52・65】に、北東物置に折れ戸形式の板戸が写る。内法下の柱間装置(無目鴨居、敷居)は、部材の経年劣化状況から建築当時のものと推定されるが、入側丸柱東面に埋木が施されることから、以前はここに建具枠が取り付いていた可能性がある。また、無目敷居、鴨居に痕跡がないことから、三連折れ板戸の可能性も考えられる。なお、天袋の柱間装置\nは全て後補のものである。\n北西物置は、建築当初は外便所へ繋がる廊下であった。このため物置開口部の設えは全て後補改修であり、建築当時はその箇所に柱間装置はない。その北奥壁については、他の内法より低い位置に鴨居、長押が残っている。一九四二年頃の古写真【写真51】に板戸もしくは板壁が写っており、その開閉形式は不明であるが、外便所の出入口と推定される。\n7\n 外便所\n⑴ 資料調査\n「国士舘講堂設計図」(一九一九年)の平面図【図6】では、西側廊下の北端に繋ぎ廊下(奥行き一間)が付き、さらにその先に外便所(図面からの概略寸法で一・五×二・五間程度)が描かれている。一九二五年頃の「国士舘全図」【図7】にも設計図と同様の位置に突き出した建物が見られる。しかし、繋ぎ廊下から先の建物が設計図では大講堂側に矩折れており、「国士舘全図」では大講堂と反対側に突き出る形で矩折れるという違いが見られる。\n一九三二年頃撮影の外便所の古写真【写真66】を見ると、「国士舘全図」と同様、大講堂と反対側に突き出ている。写真より寸法を推測すると、繋ぎ廊下の長さは一・五間、外便所梁間一・二五間程度で桁行は不明である。外壁は繋ぎ廊下、外便所ともに全面下見板壁張りである。屋根は反射しているため分かりにくいが、勾配は緩く、軒先が薄いことから天然スレート葺き、あるいは金属葺きの屋根の可能性が高い。外便所は寄棟造りで、繋ぎ廊下の屋根は外便所の屋根より一段低くした切妻造りと推定される。また便所西面上部には換気口を開け、その下に板庇の出窓を張り出す。出窓には竪格子が付き、さらに床付近には竪格子付きの地窓を設ける。\n繋ぎ廊下には、三本引違いガラス窓の出窓が付く。\n一九三二年頃の古写真【写真66】をよく見ると繋ぎ廊下の床下は壁がなく、開放しているように見える。また内部は、一九四二年頃の古写真【写真51】を見ると、西廊下突き当りに木製建具(板戸)か板壁が写り、外便所の出入口境の間仕切りと推定される。\n「財団法人国士舘設立許可申請書」(一九一九年一〇月六日、東京都立公文書館所蔵)、「登記簿謄本」(一九四七年\n一月三日受付) に「木造スレート葺平屋 講堂壱棟 建坪九拾七勺坪」との記載がある。現存する大講堂の面積は八六・三一坪(本調査実測面積、向拝含む)、「国士舘講堂設計図」に描かれた外便所の推定面積は四・七五坪であり、総面積は九一・〇六坪程度となることから、申請書や謄本に記載された面積とほぼ一致する。\n⑵ 痕跡調査\n北西物置の北奥の突き当り壁は腰下竪板壁がなく、経年劣化状況より古い時代のものと推定される鴨居、長押が残ることから、出入口があったことが分かる【写真68】。その外部をみると、多数の痕跡が確認できる。土台は柱が建つ通りに埋木されていることから、北側へ伸びていたと推定される。その土台上の柱は、内法下全面に当板が打ち付けられる。当板は、通\n常、部材の痕跡を隠すために打たれることから、北へ延びていた壁の痕跡を隠すためのものと推定される。上部を見ると、この範囲の長押が継がれており、その継手仕口は他と異なっている。他の長押の継目は縦であるが、この箇所は斜めであり、また、他の出隅は留めとするが、ここは木口を切り放して仕口がないことから、明らかに後補のものと判断できる。推測の域を出ないが、長押の斜めの継ぎ目は、かつての繋ぎ廊下屋根の勾配跡の可能性も考えられる。さらに、柱下部には埋木が二段あり、これは床板、階段の跡と推定される【写真69・70・71・72・73】。\n五 復原考察\n大講堂は、内・外装仕上げの改修が数度行われ、北西に突き出していた外便所が解体されたほかは大きな間取りの改変がほとんどなく、主要構造材は建築当時のままである。\n表2は、各部位の改修並びに変遷を整理したものである。大講堂の変遷は、大きく四期に分けることができる。\nⅠ期:建築時(天然スレート葺き屋根)一九一九(大正八)年以降\nⅡ期:金属板葺き屋根への改修 一九五八(昭和三三)年頃以降\nⅢ 期: 外便所解体 一九六四( 昭和三九)~一九六六(昭和四一)年以降\nⅣ 期:銅板葺き屋根等の改修 一九八二(昭和五七)年頃以降\n1\n Ⅰ期:建築時(天然スレート葺き屋根) 一九一九(大正八)年以降\n建物は基壇上に建つ木造平屋建ての真壁造りで、主規模は現状同様、梁間八間、桁行一〇間、南正面に間口三間の向拝が付く。屋根は妻入りの反りのある入母屋造り屋根で、向拝部分を葺き下ろす。屋根葺き材は天然スレート葺きで、軒先に銅製の軒樋を廻す。外装は腰下を竪板張り、腰上を飛貫表しの漆喰仕上げとし、側柱の柱頭部に舟肘木を据える。\n入口は正面向拝と北東の常用口の二カ所である。正面向拝へは、基壇まで石段三段、さらに木階四段を上り、建物梁間の間口巾一杯に付く切れ目板張りの濡れ縁へ上がり大講堂内の廊下へ入る。常用口は木階四段を上がり、内部の廊下へ入る。\n間取りは、中央を一〇八畳(五四坪)敷きの広間とし、その南東西三方に幅一間の縁甲板張りの廊下を廻す。廊下は腰下を竪板張り、腰上は松煙塗装を施した額縁が廻る漆喰仕上げとする。広間は、廊下の腰上同様、松煙塗装を施した額縁が廻る漆喰仕上げである。天井は、廊下は竿縁天井、広間は折上格天井として天井を廊下より上げ、広間としての格式を高める。広間正面奥には幅三間、奥行一間、高さ一・五尺の畳敷きの講壇を設け、その奥にはさらに五・七寸上げて幅二間、奥行四尺の床の間を設える。講壇上の天井は無目落し掛けを梁間に渡して広間の折り上げ天井を受け、一段下がった位置で鏡板天井目透かし張りとする。床の間の天井も鏡板天井目透かし張りである。\n廊下の北東奥は、内法上の天袋部分が開放され、内法下は折れ戸を建て込んだ物置である。上の開放部は廊下の竿縁天井がそのまま伸びる。物置内部は、廊下同様腰下を竪板張り、腰上を松煙塗装額縁が廻る漆喰仕上げとし、内部に作り付けの木製棚を設ける。\n反対側の北西には、外便所(現存せず)が繋ぎ廊下を介して西側へ突き出した形で取り付く。その規模は確定できないが、図面、古写真等の資料より、繋ぎ廊下は巾一間、長さ一・五間、外便所は梁間一・二五間、桁行二間程度と推測される。現在物置となっている箇所は、建築当初は縁甲板張りの廊下で、突き当たりの繋ぎ廊下境に建具を建て込み便所と間仕切る。繋ぎ廊下、便所の内部仕様は不明であるが、古写真から外便所は主屋より屋根が低いこと、既存柱の床付近に残る痕跡から、繋ぎ廊下から先は木階等で数段下がっていると推定される。屋根は、外便所は寄棟造り、繋ぎ廊下は外便所屋根より一段低くした切妻造りで、天然スレート葺き、あるいは金属葺き屋根と推定される。外装は下見板張りで、繋ぎ廊下、外便所ともに西面に出窓が付き、外便所の出窓が付いた部分は手洗いと推定される【図8】。\n大講堂は建築当初、教室として使用されるほか、様々な式典や講演会場として利用された。一九二三年九月一日の関東大震災の際は、大講堂を含む国士舘の構内は大きな被害を受けなかったため、施設を開放して都心からの避難民を広く受け入れた。また、一九四五年五月二五日、国士舘周辺はB二九爆撃機の空襲を受け、校舎のほとんどを焼失したが、大講堂ほか四棟(柔道場、剣道場、正気寮、時習寮)が戦災を免れた。大講堂は、関東大震災、第二次世界大戦、そして激動の戦後を経た一九五八年頃まで、築後三九年の間、建築時の姿が維持された。\nなお、戦中・戦後の古写真を比較してみると銅製の屋根樋が取り外された様子が見受けられ、戦時中に供出した可能性が考えられる。\n2\n Ⅱ期:金属板葺き屋根への改修 一九五八(昭和三三)年頃以降\nⅠ期と間取りや規模は大きく変わらないが、屋根が銀色の金属葺きに改修された。一九五八年は国士舘大学が創設され、体育学部が設置された年であり、国士舘にとって節目の年であった。構内の整備に合わせ、屋根の改修も行われたと推定される。なお、同年、大講堂の東に五号館、一九六三年には大講堂の西に七号館が完成する。この頃の古写真には、まだ外便所が写っている。\n古写真を見ると、この頃の広間折り上げ格天井は築後四〇年を経て不陸が著しかったことが分かる。このため、一九六一年頃に改修されて現在に至っていると推定される。大講堂はこの頃、柔道などの道場としても利用されており、このため元々の廊下縁甲板張り床の上に畳が敷かれた。\n3\n Ⅲ 期: 外便所解体 一九六四( 昭和三九)~一九六六(昭和四一)年以降\n一九六四年三月、大講堂南東の八号館が完成し、一九六六年一月には大講堂北の一〇号館が完成する。この一〇号館の建設に際し、外便所が解体されたと推定される。解体に伴い、廊下北西端の繋ぎ廊下境が物置へ改修された可能性が考えられる。\n4\n Ⅳ 期:銅板葺き屋根等の改修 一九八二(昭和五七)年頃以降\n一九八一~一九八二年にかけて、銅板葺き屋根への改修を含む比較的大掛かりな改修が実施された。現在、我々が目にする大講堂の姿は、この改修後のものである。\n屋根は銀色の金属板葺きから銅板葺きへと改修し、その際、野地板、軒先廻りの茅負いや裏甲、破風、縋る破風等が取り替えられた可能性が高い。また、垂木軒先、破風、懸魚、向拝柱柱脚に銅板が巻かれた。銅製屋根樋も同時に刷新されている。\n外装は、正面の濡れ縁上の腰竪板張りが後補材へ取り替えられ、東西面の腰竪板張りは、モルタル塗り仕上げへ改修された。内法上の飛貫表し漆喰仕上げは、その上にボード下地を張って漆喰仕上げとし、これまでの飛貫表しの意匠ではなくなる。\n建具については、正面の主出入口と常用口の建具の意匠は以前のものを踏襲し、後補材へ取り替えられた。\n床については、断定はできないが後補部材の経年劣化の状況から、同時期に改修された可能性が高い。床組は補強のため、旧材を活かして劣化部を補修、取り替えた上で、補助的に後補材が挿入されている。床束石も同時期にコンクリート製のものへ取り替えられた。廊下の縁甲板並びに広間の捨て板(荒床)は構造用合板へ張替えられ、畳が敷かれた。この改修の際、工事に絡む廊下の腰竪板張り壁と、広間の内法下の松煙塗り額縁が廻る漆喰仕上げは後補材へ刷新され、内法下の松煙塗り額縁は撤去されている。\nまた、廊下竿縁天井の天井板、講壇および床の間上の化粧合板目透かし張り天井の後補材への改修についても、部材経年劣化状況から、この時期の可能性が高い。\n\nおわりに\n大講堂は、一九一九(大正八)年、国士舘が現在の港区南青山から世田谷に移転してきた直後に建築された、国士舘の教育理念を象徴する「純乎たる日本式」(「国士舘上棟式記事」『大民』第四巻第八号、青年大民団、一九一九年八月)の外観をもつ建物である。一〇八畳の無柱の広間という大空間と日本風の寺院建築(本堂風)の意匠(建築様式)を具現化するため、小屋組構造の一部に洋風技術のクイーンポストトラス構造を採用している。また、屋根は天然スレート葺きを用いており、当時の最先端技術、材料を取り入れ、和洋の両技法を巧みに折衷させて新たな日本近代建築へと昇華したものであるといえよう。\nその用途は、建築時より教室として使用されるほか、様々な式典や講演会場として利用され、関東大震災の際は、被災者を広く受け入れたという記録も残っている。戦時中の空襲の際には、当時の教職員の必死の消火活動により焼失を免れた。その際、大怪我を負った教職員や生徒がいたとの記録も残っている。\n大講堂は、その後も国士舘大学世田谷キャンパスの中心的、象徴的な存在で、武道場、茶道場として、また大学のオープンキャンパス等の行事やサークル活動に使用されてきた。その内部はシンプルな大空間を保有しているため、様々な用途で使用することが可能であり、その懐の深さを表している。\n当初付属していた外便所が解体され、また屋根、内・外装など数度、改変の手が加えられているが、主屋の間取り、規模、構造、意匠形式は往時の姿をよく留めている。二〇一七年一〇月二七日には、国登録有形文化財(建造物)に登録された。講堂という分類における登録文化財としては都内で最古となり、また、和風意匠の講堂は全国的に類例が少なく貴重である。今後も、国士舘の建学の精神を象徴する建造物として、保存と活用を両立した「生きた文化財」であり続けることを願う。\n補足となるが、現地調査の際、どうしても理解できない痕跡が見られた。濡れ縁の束側面と貫上面が削れているのである【写真74・75】。昼休み時間に昼食をとり、大講堂へ戻ってきたところ、国士舘の学生が数人、濡れ縁に腰掛け、談笑している姿が見られた。腰掛けた状態で、ちょうど束と貫の位置に足が当たっていたのである。ここから、この痕跡は改修等によるものではなく、学生たちが次の授業の合間などに濡れ縁へ腰掛け、授業について、あるいは人生を語らう際に足が当たり、削れたことによる経年痕跡であると判明した。各時代の若者が大講堂に集い、語らい、ここを中心に学内外の活動をしていたことを思うと、感慨深いものがあった。\n謝辞\n調査並びに本稿の執筆について、世田谷区文化財保護審議会委員・堀内正昭氏(昭和女子大学教授・工学博士)、同・重枝豊氏(日本大学教授・工学博士)、世田谷区文化財係の多大なご協力を得ることができました。ここに感謝申し上げます。また、国士舘史資料室・熊本好宏氏には、全面的なご協力ご助力のほか、当社牧野徹氏ほか所員の調査・整理・図版製作等の協力があり、投稿できたことを感謝の意とともにここに記します。"}]}, 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (5.8 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2018-11-20 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 建築調査からみえる国士舘大講堂の建築的特性 | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | article | |||||
関連タイトル | ||||||
国士舘創立100周年記念 | ||||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文と資料紹介 | |||||
小見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
田中, 昭之
× 田中, 昭之× 木川, 正也 |
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著作関係者詳細 | ||||||
田中 昭之 : 株式会社 建文 木川 正也 : 株式会社 建文 |
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関係する日付情報 | ||||||
時間的範囲 | 2016年7月 | |||||
書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 9, p. 23-73, 発行日 2018-03-13 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12479001 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 521.6 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.28 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.2136 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol9.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第9号(2017) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
国士舘大講堂 国登録有形文化財 |